感動中国!

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (264ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163721606

作品紹介・あらすじ

中国の暗部から隠された歴史まで、現地をたどり軽妙な文章と美しい写真でレポート。発展をとげる上海・揚子江の周辺から、世界遺産の安徽省の幽玄な自然、さらにはチベット・東南アジアとの国境周辺まで。

感想・レビュー・書評

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  • てなもんんや商社を書いた著者の中国国内旅行記。
    2008年、2009年の旅行時の体験を書いているとのこと。この数年後に始めて上海に行ったが、オリンピック、上海万博後の大都会上海ということなのか、ここまではちゃめちゃなものは感じなかったが、地方はまだまだてんやわんやだったのかもしれない。そのめちゃくちゃな推進力が秩序の少ない?中で爆発するとこうなるのかと思われるようなエピソードが満載だ。面白おかしく書いているところもあり、さくっと読める一方で、ところどころ口伝的に中国の知識が散りばめられている(マニアとしてはその辺りが気になる)

    あんまり美術品には興味がないが、岡倉天心が日本の美術品を海外に売りまくる手助けをしたり、中国の美術品にも手を出していたというあたり、なんか興味深いなぁ。

    P.10
    中国人は限りなく、今ココとメシに生きる人々である。予定などを立てていたら、続く戦乱の世に生き残れなかったのであろう。

    P.14(銭塘江の高潮)
    倭寇たちも潮にのってこの地域まできた。実態は密貿易の、中国側の不払いに怒った日中混合軍で、一説には日中比率三:七と言われる。この銭塘江河口の舟山諸島で、日本から運んできた荷と中国側の荷を交換していた。

    P.19
    中国人たちは上海に流れ込んだ。
    後に魔都などと言われても、中国人にとっては初めてみる清潔で、秩序立った世界だったそう。道、建物、銀行、電気ガス水道、何もかもが中国とは違う!
    満州もそうだが、当時の中国では植民地のほうが安全だし、何より喰えるからと人が殺到する。

    P.24
    日清戦争終了後、中国では日本留学が大ブームとなった。末期の清朝が科挙を廃止し、その代わりに日本留学を勧めたからで、最初は官僚中心だったが、そのうち民間に浸透し、金のある家の一種流行にもなった。だいたい二十年間で短期も入れれば十〜一五万人が日本留学をしている。
    差異も差別も含め、いろんなことを肌で感じただろう。中華民国創設の幹部の多くが日本留学帰りである。
    もっともご立派な人々だけではなく『清国留学生!(中略)覚える日本語は「オカミサン」や「ムスメサン」や「ベッピン」なんどの語のみ』(投稿「淫風早稲田を亡ぼんとす」一九〇九年 冒険世界)

    P.32
    豬仔-中国人海外出稼ぎ。豬仔は豚の子の意で辮髪を尻尾に模し、また人ひとりの売値が豚一頭だたことからこう呼ばれた。一九世紀中から二十世紀半ばにかけて中国の主に広東、福建から世界各地に渡り、その数、七百万とも一千万以上ともいわれる。

    P.40
    中国人出稼ぎは中国側の資料によれば、概ね一千万人以上に上る。(中略)広東と福建は当時も特に貧しい省ではなかったが、中国の農民はいつの時代だって、どこだって地獄にいるようなものである。
    関平でも人口が増え、一年の収穫を半年で食べつくす。政府はさらに重税をかける。
    「♪田んぼもなけりゃ、米も薪も切れた。ただ死をむなしく待つよりは〜」それよりも一かバチかで海外出稼ぎという歌が残っている。
    一方世界は、西欧諸国が植民地を作りまくっていた時期。資源開発に使っていた黒人奴隷が奴隷廃止で使えなくなり、その代わりが必要だった。
    アメリカやオーストラリアでは、金鉱が発見されゴールドラッシュが起こり、その後鉄道建設もさかんとなる。とにかく、人手がいる。どの仕事も危険だから、どんなに死んでもよくて、いくらでも補充の利く人手が。
    人手の空白に中国人がどんどん送り込まれた、もしくは活路を求めてみずから海を渡った。
    そして彼らはともかく死んだ。たぶんたくさん死んだ。

    P.46
    シンガポールやベナン、またアモイや広州、香港などに「豬仔館」があり、人を調達してはそこに集め、送り出す。
    その「玉」である中国人たちを調達してくるのは、多くは当地の植民地政府と結託した秘密結社ー大陸に根をはった中国の帮ーマフィアである。(中略)西洋人と中国人がセットになって、あるいは中国人だけで、道を歩く大陸人を袋詰め!にしたり、酒場で酔わせて攫ったり、もしくは夢の国のように語って集めたり、バクチの借金の方に契約させたりと、方法はなかなか多彩。(中略)唯一の活路ということで、自分の身を自分で売り飛ばしたり、親戚縁者から船賃を駆り集めた船に乗ったものも多い。開平はアメリカ行きが多かったが、「アメリカには官(中国の政府、お上)はいないし、いい暮らしができる」という誘い言葉が使われた。農民にとって中国の官は、当時からマフィアより恐ろしいのである。
    帮だの秘密結社だのというと、おどろおどろしいが、中国人にとってはもっと身近で、合理的な地元組織であった。
    国は全然機能していない。明日の食うものはない。家族は泣いている。どの道、どこかへ行くしかなく、食えて家族に金が遅れればどこでもいいのである。
    帮は同郷を地盤に、職と異動を斡旋してくれる。船賃のローンや送金などの金融機能も請け負ってくれる。危険は知っているが、儲けて帰ってきた者だっている。

    P.52
    私は北京に長く住んで、欧米多国籍企業は華僑を使うのが非常に上手で、中国政府ともうまく手を結びどんどん中国市場に進出していくのに、日本企業がそれがdけいないのはなぜだろう、とずっと思っていた。
    が、このたび疑問が氷解した気がした。欧米は進出国と中間折衝として、利口な中国人を使う経験が長いのである。

    P.55
    開平の楼の半分以上は一九二〇年代に建てられている。
    文盲のまま出稼ぎに行った初代が故郷へ錦を飾るのはまれだったが、しかし何とか戻った時は、壁に出稼ぎ先のアメリカでの記憶をたどって杖で描いた絵や、持ち帰った絵葉書が設計図になった。
    戻れぬ人も多く、父や祖父の遺言で建てた出稼ぎ二代目か三代目建築も多い。初代がやっと生き延びても、子供に教育を与えるだけで手一杯である。二代目で社会的地位が多少上昇し、最初からいい位置にいる三代目で、やっと花が咲く。

    P.63
    孫文も客家である。

    P.232
    どこの国にも政権交代や戦争に乗じて大儲けする骨董商がいるが、彼らだけを責めるのも間違いかと思う。彼らは泥の被り役でもあったわけで、当時の大陸での中国美術品の収集は軍と財閥の支援なしではなしえなかったと推測される。

  • 第二章 茶馬古道を行く
    のみ読んだ。中国語ペラペラな著者の女ひとり中国旅行記。
    観光開発やぼったくり、詐欺バスの話を読むと茶馬古道旅行をやめようか迷ってくる・・・笑

    以下情報

    麗江 テーマパーク
    束河 手つかずとガイドブックにはあるが、既に開発されてる
    白沙 ひなびた村 工芸品は高い
    玉龍雪山 きれい
    プタツォ国家公園 緑きれい
    シャングリラ 古城広場で地元の人が踊ってる。麗江の雇われダンサーたちとは違う

  • 今度まさに中国旅行に行くので、読んでみました。

    ずっと前に、いずら美術館(←漢字わすれました)に行った時、もっのすごい岡倉天心が祭りあげられててその時は、ふぅ~ん日本にも先駆的な人がいたんだなー。とか関心してたんですが。別の意味でも先駆的だったんですね!確かに色々功績はあるけれど。光り輝く功績の裏には、必ず闇の部分があるっていうことでしょうか・・
    盗られたあとに気付いても、もう遅い~

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著者プロフィール

作家

「2016年 『国が崩壊しても平気な中国人・会社がヤバいだけで真っ青な日本人』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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