本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
Amazon.co.jp ・本 (376ページ) / ISBN・EAN: 9784163736709
感想・レビュー・書評
-
この手の本では必ずといっていいほど引用されるゴリラバスケの実験で有名な2人によるもの。
1)目は向けてても見落とす「注意の錯覚」
2)体験は鮮明正確に記憶してるつもりが歪みありありの「記憶の錯覚」
3)自信たっぷりなのを豊富な知識能力の証と受け入れる「自信の錯覚」
4)自身の知識限界を自覚せず見慣れたものは理解しているとする「知識の錯覚」
5)偶発事象に因果を見出す「原因の錯覚」
6)自分の中に眠る才能を簡単に解き放てるとする「可能性の錯覚」
について語られます。
実験は勿論、誰でもYouTubeやネットで確認出来る実際の動画が残る事件やインタビューも数多く取り上げられていて私のようなバカでも楽しめるようになっている。
1)
運転中の携帯(音楽も)
これはそりゃそうだろなんですが「でも俺は出来んだよねぇ(ニチャニチャ)」というバカ反論者を封じるためにさらにもう一段の実験がなされている。携帯で話しながらでも決まったことは出来る。例えば道を走行するとか。ただ携帯での会話は予想外のことへの気づきを減らす。注意力に限界があるからであって「携帯で話すこと」が原因ではないとしている。だから「俺は大丈夫」とか言い出すのだ。でも実際は予想外のことへの対応能力は落ちているはず。但しそんな予想外のことは滅多に起きないから日常体験では学びにくい。
パーがパーのままたるゆえん。
有名バイオリニストを使った地下鉄演奏実験。
注意力の問題とはしてあるけどこれはさすがに注意力「と」芸術センスの両方の問題なのでは?
気づいた7人のうち1人は演奏者のコンサートに先週行ってきたばかり、あと2人は楽器を演奏する人。気付かなかった人達の中のコンサート経験者と演奏者割合が分からないのでこれだけでは何も言えないけれど、やっぱシンプル耳なのでは?
ゴリラ実験を他の方々が比喩として使うらしい。中には「人がなぜ身近な神の存在を見落とすのか」に使ってるらしいけど。。。錯覚の実験を神の存在不認知(非存在認知ではなく)に引用するってなんかすげぇな。
2)
冒頭単語を覚えろという。数ページ後に「4割の人は眠りって単語言うんだけど君は?」と聞いてくる。人は自分が予測したものを見るので、眠りに関連した単語から「眠り」を見たと思い込む。
「そこにあるべきもの」とと共に再現するからだ。
「車のキーをどこにやったかなど、日常的な記憶のミスは「まぁそんなもんよ」となるのに、なぜ記憶の強さや正確さについてはわからないのか。」
ですよねー。
目撃者も全くアテにならない。
ここで第二章で最も好きな「映画記録係」の話。
ハリウッド30年のベテラン、トータルリコール、ターミネーター2、氷の微笑、スパイダーマン3などを担当した方らしい。
彼女曰く「記録する。記憶出来るという錯覚を持たない。私が学んだのは自分の記憶がとても不確かでぞっとするほどあてにならないものだということ。命を賭けてもいいと思っていたものが間違っている。」
このエピソードいいですねー。凄くいい。
私は最近「20数年前の友人宅の食洗機」記憶違いで自分自身の脳の嘘つき具合に恐れ慄いたところですが、また先日「みずほ証券ログイン事件」なるものが発生しまして、ゴミだと思っていた自分の脳みそが実はゴキブリやネズミですら顔を顰めるゴミの中のゴミであることを体験したばかりなので彼女の言葉はよーーーーく分かる。
若い時からメモを細かく取る習慣がありますがこれからも続けよう。そのうちそのメモすらも大ウソになりさらにはメモの存在を忘れるんだろうけど。
ただこの記録係の方、特定の宗教とかあるんですかね?まさか複数の人達が何十年も後から書き始めてそれを写して写して写してきたものを「神の書物」とかいってないですよね?
「記憶は生演奏デジタル録音ではなく、聴き慣れた旋律を基にした即興演奏」
「自身が気球に乗った合成写真を何度も見せられ、乗ったことを想像しろと言われると記憶への取り込みを始める人が出てきて、写真の範囲を超えて想像を大幅に膨らます人もいる。」
虚言癖の人とか?何割かこれなんじゃないの?
衝撃的な出来事に対するフラッシュバルブ記憶についてもオモロい。
日常的な出来事について被験者は「時間経ったら段々忘れるよ」として記憶の錯覚があまりない。
ところが鮮烈なことは正確に覚えていると主張する。その実、平凡な出来事と同じように捻じ曲がり当初の記憶から遠ざかる。
ヒラリー、ブッシュ。
てかヒラリー、マジで同情する。
人間の記憶なんてその程度なのにね。
3)
「自分の実力ほど客観視出来ないものはない」
「自信はアテにならない」
4)
「おのれの無知ほど自覚出来ないものはない」
どの錯覚も過大評価によるものだとする。ウツ病の人達は自分を楽観視、過大評価せず、マイナス評価しがち。それゆえに自分と周囲との関係をより正確に捉えている可能性ありと。
ウツ病の例もわかりやすいですが、男女でもこれですよね。女性は現実的ですから自身の容姿レベルを正確に捉えている。男はね、まぁ楽観視するな、過大評価するな、現実みろ!っていう方が無理な気もしますけどね。なんせ楽天ホルモン、テストステロン浴びてますから。
さてまたここで好きな実験。頭にトランプカード付けて出来るだけ大きな数字とペアになるゲーム。最初エースやキングにトライするが断られる。がかなり早くペアリングが進むという。相手に断られた情報を素早く活かして受け入れてもらえる相手の範囲を調整したのだと。ここで著者は「同じ原則で、魅力度合いに大きな開きのある者同士は滅多にカップルにならない」としている。
まぁ「カップル」の定義によるんですがこれが不幸を呼ぶことがありますよねぇ。
実際は男は自分のレベルよりもかなり下の女性まで許容する。勿論それは自身の友達に紹介したり昼間の買い物デートに出掛けるようなカップルではない。真夜中に呼び出して1時間以内に家に来て2時間ほどで帰ってくれる女性だけれども。
このゲームの原則は我々の遺伝子に深く刻まれてるが故に、一度レベルの高い男に受け入れられた女性は「私のレベルはクィーン、もしくはジャックよ!」と勘違いしはじめるだろうし、また男も何かのまぐれでジャンピングヒットした場合「俺のレベルはクィーン以上だぜ!」としてクィーンにモテた俺として下品な行動に拍車をかける。
ね。
もうこの話はこの辺にしときますか。
5)
何でも顔に見えちゃうのは大事な脳の機能。そりゃそう。ジャングルですぐに見つけなきゃいけないし、日光の角度や人物の角度で顔の見え方は違う。それを全て「顔」と判断しないといけないしちょっと大きめに顔定義しといたほうが安全だし。
話飛びますが私がフェイクグリーンとか鏡とかレプリカの高級ソファが好きなのはこの辺。
人間の脳がざっくりしてんだからそれを利用したほうがよくね?(こないだもYouTubeで家具屋がビンテージコンランとレプリカの違いを「ここにタグ、あとここに刻印」とか言ってましたけど他に違いないならレプリカでいいじゃんよと思いました。)
スピ界隈が大好きな迷信、因果と相関(および偶然)のごちゃ混ぜについて。
人間ははっきりした理屈よりも論理の飛躍を好む。「語らずに仄めかせ」
これも話飛びますが私があらゆるヌード仕事に反対なのはこれ。裸に対して人々が金を払うってことはそこを確かめたいという欲求が高いのよ。じゃあそこは隠したままで向こうの好きに想像させたほうが得じゃん?現実が各人の想像を超えることはないんだから。ただあれはやってる人(被害者)よりプロモーターとか監督とか芸能事務所が悪いね。AV業界の人間は早くオールAIにしなさい。他人の人生破壊して金儲けしてんじゃねぇよクズ。
ワクチン錯覚では「人は統計より実話に弱い」とある。これ、私もよくやりますけど自分が知ってるたった2-3人の、さらにその中の数日の経験で「◯◯人は」「男は」「女性は」「高卒は」「喫煙者は」「ギャンブル中毒者は」とかやっちゃうんですよね。決めつけって楽だし気持ちいいから。
人間は原因について推理できる→サルにはできない→ということは比較的新しく得た機能→新しいなら不完全でも当たり前
「原因を推理することはたやすい、問題は原因を自分の都合よく推理することがうますぎること」
いやーその通りでございます。
6)
モーツァルト、サブリミナル、脳トレのウソなど。
最終章の山は最後の最後。
「毎週3回、有酸素運動として45分間のウォーキングをするだけで前頭葉の脊髄灰白質の減少止まる」
解説にも「一部の心理学者や脳科学者の錯覚を揶揄するようで実に愉快」とありますがまさに。
私としてはずーーーーーっとウォーキング is King説を唱えているんですがジョギング派やマラソン派は聞いてくれなかったんですよね。まぁ彼らの皮膚が弛み、膝が死んでも私は関係ないんですが。最近数多くのことでウォーキングこそが最高の運動とするものを見るのが楽しい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
大変興味深く読んだのだけど、どうしてもひっかかるのが「錯覚」という言葉の使い方。これって原書ではどんな言葉が使われているのだろうか。広辞苑では、「錯覚」は、「①(心)知覚が刺激の客観的性質と一致しない現象。②俗に、思いちがい。」となっている。①は心理学用語ではあるけれど、一般に使うときにもそういうニュアンスであることが多いような気がする。本書で取り上げられている事柄は、確かに①の意味のものもあるけれど(「見えないゴリラ」など)、「思いちがい」とか「思いこみ」とよぶ方がずっとしっくりくるもののほうが多い。とりわけ後半の内容を「錯覚」という語でまとめるのにはかなり違和感がある。
しかしまあ、それはそれとして、内容はとても面白かった。人はいとも簡単に事実と違うことを思い込むが、それは脳が情報処理を適切に行うことの副産物であり、人のそうした性質を知って対処すべきことが多くある、という著者たちの考え方が説得力を持って語られている。
有名だという(私は全然知らなかった)「見えないゴリラ」をはじめとして、まさかそんなあと思ってしまう「錯覚」の事例が、実験や実際の事件という形で提示されている。いろいろある中で、特におもしろいと思ったものをいくつか。
・記憶の捏造について。少し前に読んだ「脳はなぜ都合よく記憶するのか」を思い出した。記憶というものがいかに不確かか、考え込んでしまう内容だったが、本書でさらにその感を強くした。体験直後から記憶は不正確で、鮮明な記憶と思っているものも思いこみだとその証拠を示されてしまったら…、うーん、これはちょっとつらい。
・「人は統計より実話に弱い」。あ~、これは例に事欠かないなあ。CMなんかそのオンパレードだものね。情報が洪水の如くあふれる今の世の中だからこそ、身近な(と思える)体験談に耳を傾けたくなるのかも。
・「ふつうの人は、脳の潜在能力を10%しか使っていない」というのも思いこみ。え?そうなの?なんとなく本当らしく思っていた。これも「サブリミナル効果」とかと同じく似非科学的言辞らしい。
あと、まったくのシロートとして気になったのが、当然の前提として言明される「再現できることのみが科学的真実」という考え方だ。これが、実験心理学という分野では、言うまでもない自明なこととされるのはわかるが、臨床心理学などにおいては、どのように考えるのだろう。さらに、科学界一般(そういうものがあるとして)ではどうなんだろう。「真実」とはなんですか、とか突っ込まれたら困るけど。 -
去年あたりに読んだのを再読。
『錯覚』とはいうものの、視覚野を超えて脳の限界・誤解についても言及している。
具体例として挙げられるのが、どれも有名な事件で、人間の脳の錯覚とはどれほどのものなのか、非常に分かりやすく、示唆に富んでいる。
誰にでも勧められる良書。 -
冒頭で紹介しているゴリラのビデオを見てみた。パスの数を勘定してたら、ぼくは見落とすほうの50%入りだな。普通に見ていたら、見落しようはないけれど。
ぼくはもともと、自分の注意力や記憶力をぜんぜん信用していないので、ショックは受けなかった。でも自分は特殊なほうだと思っていたので、世間一般の人の注意力や認知もあてにならないんだと知って、逆にショックを受けた。怖いな。相手に悪気がないのが更に怖い。痴漢や暴漢と間違えられたらどうしよう。
事例は豊富で、研究が元になっているから論理的だし、説得力ある。たいへん面白かった。
ただ後半の主題になっている「俗説」のたぐいは錯覚とは別物だ。サブリミナル効果の嘘や、ワクチン接種が自閉症の引き金になるという「説」、モーツァルト効果などは、感覚や記憶の間違い=錯覚ではなく、論理的な研究や追跡調査の結果を説かれても信じようとしないというもっと根が深い問題だ。一緒にしちゃまずいと思う。 -
図書館で見つけて、ふらふらと借りてきました。サイエンスもの、あるいは似非科学ものが好きな僕にとって、この本は手に取らずにいられないタイプの本です。期待に違わず面白かった。僕も交通事故にあって、逃げていったクルマのナンバープレートを覚えようとして果たせなかったことがあるので、「錯覚」が意味するところはよくわかりました。本の中で紹介されているサイト(www.theinvisiblegorilla.com)も覗いてきました。もう一つ収穫は「運動すると認知機能が上がる」という話の元論文を引用していてくれたこと(Nature 400(1999):418-9)。いずれにしても、サイエンス本好きなら読んで損はない一冊です。
-
私たちが日常生活の中で起こる思い込みの正体を、過去の事象や実験によって明らかにした作品。実際に起きたことをもとに構成されているので、自分自身で振り返ってみて、非常に理解しやすく、納得度も高い。
これを知っているのとそうでないのでは、確かに今後の生活にいろいろ影響があると思う。決して著者の指摘はオーバーではないと思います。
これらの錯覚を完全に回避することは困難だとしても、頭の片隅にでも置いておくだけでもしておきたい。
<この本から得られた気づきとアクション>
・これらの錯覚の概要を理解し、それに陥らないよう努力する。
・宣伝文句に安易にとびつかない。
・関心がないとものは見えない。適切な内容に関心を持ち続けることを改めて認識。
日常的な6つの錯覚(日々の行動に影響を与える思い込み)
・注意の錯覚(目は向けていても見落としてしまう)
・記憶の錯覚(自分が体験したことを鮮明かつ性格に記憶できると思うが、その記憶が歪むことが多い)
・自信の錯覚(自信ありげな態度を相手の知識や能力のあらわれとして反射的に受け入れてしまう)
・知識の錯覚(自分の知識の限界を自覚せず、見慣れたものに十分知識を持っていると思い込む)
・原因の錯覚(偶然同時に起きた2つのことに因果関係があると思い込む)
・可能性の錯覚(自分の中に眠っている大きな能力を簡単な方法で解放できると思い込む)
これらの日常的錯覚には、自分の応力を過大評価するという共通点がある。
錯覚の影響を減らしてくれそうな方法
①日常的な錯覚について知ること
②自分の認知能力をトレーニングで鍛える。ただし、認知力トレーニングでは、日常的錯覚を追い払えるほどの力はつかない。
③テクノロジーへの期待 -
・視界に入っていても注意が他に向けられていれば驚くほど目立つようなものでも見落とすという「注意の錯覚」
・明確に思い出せて自信のあることでも覚え間違いをしていたり、知らず記憶が書き換わってしまう「記憶の錯覚」
・自信のある人は本来の実力と関係なく信頼があるように見えてしまうという「自信の錯覚」
・人は自分が分かってるはずと思っているよりも実は本当に理解っていることは少ないのだという「知識の錯覚」
・ある結果から遡れる時系列における前の出来事を直接的な原因であると決めつけ、間違った因果関係を見つけてしまう「原因の錯覚」
・人間の脳には使われていない部分が眠っていて僅かな刺激で覚醒するはずだという「可能性の錯覚」
人間には様々な錯覚があることを豊富な実験から引いてきている。参考文献のページがめちゃくちゃ分厚い。
人間は根拠もなく自分の脳内で見えている世界を信じてしまうが、それは大いなる誤りだということを山ほどの根拠でもって提示しているのが本書だ。客観的な事実とは隔たりがあるにも関わらず自信満々な人が多いのも手に負えない。
人間の脳が当てにならないことを踏まえて、音声や映像や画像に残したり、思い込みや思想に偏りのないAIに計算してもらったりするのが確かなのかな〜。
あと、「自信の錯覚」の項で、話し合えば話し合うほど正解からズレてしまうのは悲しいなと思った。能力よりも自信のある人の考えにその場の力学は左右される。話し合うよりも、その場にいる全員が持ち寄ったものを合計して割ったほうが正解に近くなるのだ。人間社会がより良い方向になるように、人間の脳も進化しないかなあ。 -
バスケでのゴリラの実験。人の意識はひとつのことしか向けられない。しかもそれを認めない。その割合が高いにも関わらず認められないのは、身近ではなくめったに起こらないことだから。
-
素人感覚でしかなかったけど、運転中のハンズフリーも同じように危険だとわかってスッキリした。どう考えたって注意が散漫になっているのに、なぜOKなのか未だに不思議だ。
-
-
本書では6つの錯覚について書かれている。
注意の錯覚、記憶の錯覚、自信の錯覚、知識の錯覚、原因の錯覚、可能性の錯覚。やはり興味深く読めたのは注意の錯覚だった。実際にゴリラの動画を見たが、事前情報なしでゴリラに気付けたかは自信がない。人はこれ程までに視野内に捉えていても認識出来ないものなのかと驚いた。どおりで事故が減らないわけである。
記憶の錯覚もハッとさせられた。自分では間違いと記憶している事も、他者から違うと指摘された事がある。恐らく都合の良い様にねじ曲がった記憶だったのだろう。
錯覚には気をつけたい。 -
原題は、The Invisible Gorilla and other ways our intuitions deceive us.
つまり、直感的な判断は、間違っていることが多いという内容。取り上げられているのは、
注意の錯覚 他のことをやりながらだと、よくある動作は問題なく行えるが、予期しない物事を認識することができない
記憶の錯覚 記憶を定着させる過程で、「あるべきこと」が本当にあったと記憶してしまうこと
自信の錯覚 自身は他人も自分自身も騙してしまう
知識の錯覚 高度の専門的知識を持ていると思われている人は、自分でも実際より真実を知っていると思い込んでしまう
原因の錯覚 偶然の一致や相関関係を因果関係と誤認する
可能性の錯覚 訓練することによって脳の能力は開発・向上できる。しかし。その効果は、訓練した分野の活動に限られ、脳の活動全般が向上するわけではない。たとえば、数字の記憶能力を訓練しても、英単語を覚える能力は向上しない。 -
-
見ているものを脳が見ていない。
自信が錯覚を起こさせる。
サブリミナル効果はない。実験のウソ。
脳トレは効果がない。 -
人間の認知能力、記憶力がいかにあてにならないかを痛感させられる書。脳を衰えさせたくなければ、所謂脳トレでなく、週に3回ほど30分以上のウォーキングがいいというのは目を引いた。相関関係と因果関係の取り違えなど、グラッドウェルの著書も取り上げながら問いかけているところなども興味深い。
-
クリストファー・チャブリス、ダニエル・シモンズ共著、木村博江訳の「錯覚の科学」を読みました。300ページほどありますが、興味深く読めました。
想定されないことは見えても見えない。自分の記憶は改ざんされる。自信ある態度にだまされる。相関関係があるとはいえ因果関係があるとは言えない。などなど、思い込みと錯覚の世界への招待。注意の錯覚、記憶の錯覚、自信の錯覚、知識の錯覚、原因の錯覚、可能性の錯覚を紹介する。 -
人が陥る錯誤について、様々なエピソードを交えて記述。注意、記憶、自身、可能性、直感等。知っているだけではどうしようもない部分もあるが、多少避けられるところも出てくるのかなと思った。
-
何かに注意を向けていると、目の前の異常事態すら見落としてしまう「注意の錯覚」、記憶を自分の記憶したいように記憶してしまう「記憶の錯覚」、自信のありそうな振る舞いや態度の持ち主をより信用してしまう「自信の錯覚」、偶然おきた前後の事柄に因果関係を見出してしまう「原因の錯覚」、未知なる才能がいつか覚醒すると思い込む「可能性の錯覚」の5種類の思い込みについての研究。人間の脳がいかに都合のいいものだけを抜き出し、要約し、処理する構造になっているのかがよくわかる。そのおかげで人間は高度なことをやれるようになったわけだ。その反面でこういう誤りを常時行っていることを忘れがちになる。そのことに自覚的であれば、よりよい生活を送れるようになるだろう。各々の記憶に関する豊富で興味深い事例の数々が興味をひくので、まったく堅苦しくなく楽しい読み物として読めるのがいい。
クリストファー・チャブリスの作品
本棚登録 :
感想 :
