abさんご

  • 文藝春秋 (2013年1月22日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (128ページ) / ISBN・EAN: 9784163820002

作品紹介・あらすじ

史上最高齢・75歳で芥川賞を受賞した「新人女性作家」のデビュー作。蓮實重彦・東大元総長の絶賛を浴び、「早稲田文学新人賞」を受賞した表題作「abさんご」。全文横書き、かつ固有名詞を一切使わないという日本語の限界に挑んだ超実験小説ながら、その文章には、「昭和」の知的な家庭に生まれたひとりの幼な子が成長し、両親を見送るまでの美しくしなやかな物語が隠されています。ひらがなのやまと言葉を多用した文体には、著者の重ねてきた年輪と、深い国文学への造詣が詰まっています。

著者は、昭和34年に早稲田大学教育学部を卒業後、教員・校正者などとして働きながら、半世紀以上ひたむきに「文学」と向き合ってきました。昭和38年には丹羽文雄が選考委員を務める「読売短編小説賞」に入選します。本書には丹羽から「この作者には素質があるようだ」との選評を引き出した〝幻のデビュー作〟ほか2編も併録します。

しかもその部分は縦書きなので、前からも後ろからも読める「誰も見たことがない」装丁でお送りします。

はたして、著者の「50年かけた小説修行」とはどのようなものだったのでしょうか。その答えは、本書を読んだ読者にしかわかりません。文学の限りない可能性を示す、若々しく成熟した作品をお楽しみください。

みんなの感想まとめ

独特な装丁と文体が魅力的なこの作品は、家族の成長と別れを描いた美しい物語です。表題作は、左からの横書きで進行し、他の作品は右からの縦書きという新しい形態が印象的で、読者に新鮮な体験を提供します。ひらが...

感想・レビュー・書評

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  • 思いがけない本の形。表題の一篇は左からの横書き、他三篇は右からの縦書き、そしてあとがきならぬ「なかがき」ふしぎな心地

  • 横書き縦書きが共存した装丁にびっくり。
    横書き「abさんご」は、かながきが続き日本語トレーニングを受けた気分。幼少期から親の見送りまでの家族を描く美しい物語。

  • #3349ー44ー172

  • 横、ピリオド、コンマ、ひらがなだらけ。変。
    掴みきれない雰囲気に、スタンディングオベーションです。

  • 雑誌で出たときに読んでたけど、単行本買って再読。早稲田文学7での対談読んでからの再読だから、前よりも多くの言葉に良い意味でのひっかかりを感じることができた。あの時間の遠近感が、自分が子供だったころの懐かしい諸々(もちろん負の感情も)を思い出させてくれる要因かも。人が嫌いで興味が薄く、物ばかり書いているという黒田さん。言われてみればその通りだ。なんせ片親がどちらの親かすら書かれてはいないのだから。物や景色、見えたもの見えなかったもの、使われなかったもの、「言えなかった」という事実だけが残る言葉たち。過ごさなかったもうひとつの時間。自分の来し方をこんなふうに綴ることができたら素敵だ。

  • みるく色のそらと,みるく色のうみのあわいで,はい色をしたにほんごが,きまぐれにたゆたっていました.
    このそらはきおくで,このうみはゆめなのかもしれませんでした.だから彼女が,彼女だけが,みるく色にゆびをひたし,まどろむにほんごをすくい出すことができました.すくい出したにほんごを,(彼女にとって)ふさわしい頁へ,(彼女にとって)ふさわしいにほんごのとなりへそっとよこたえ,いみを,けしきを,もの語りを,めざめさせることができたのでした.

  • 「文体がとても美しい。静謐で、柔らかい。遠い記憶を辿るときの感覚に似ているかもしれない。輪郭がぼやけて、感情は上澄みだけが残っている」
    蛹はソファに寝転がり、ぽつぽつと、そんなことを言っていた。それを聞きながら、僕はその本をめくっている。はじめはひどく読みにくい文章だと思ったけれど、慣れれば彼の言う静謐さや柔らかさの方が、印象として強くなっていく。たしかに美しい、と思う。

    水族館に似ているかもしれない。
    暗い通路を進む、あの感覚だ。
    両側には様々な水槽が並んでいる。その中にはそれぞれ生き物がいる。彼らは、ただ幸せに泳ぎ回っているのかもしれず、何かしら複雑なドラマがあるのかもしれず、それは外からは分からない。彼らがいかなる感情を抱いていようとも、それはこちら側の僕には伝わらず、ただ「綺麗だ」と思う。記憶あるいは心象というものは、案外そういうものかもしれない。

    小さな水槽で慎ましく暮らす彼らを、おろかと思うこともできる。だがそれはそれとして、彼らは美しく、そこに完結して存在している。水槽に住まうのが、過去の己であったとしても。

    「ところでこれは結局のところ、どういう話なんだろう」
    僕は、目を閉じて眠りかけている蛹に問いかけた。
    「つまり、お前がどう捉えたのか、ということだけれど」
    「あのさ、先生」
    と、蛹は力なく批難めいた声を出す。
    「具合が悪いから呼んだのに、なんで患者をほっといて読書してるんだろう?」
    「僕の専門は精神科だし、専門外の僕から見ても、お前のそれは風邪だよ。とりあえずベッドで寝る習慣を付けて欲しいな」
    「……もっともなことを言うときの先生は、正直つまらないと思う」
    それは、なんというか、期待に沿えなくて申し訳ない。
    「で、こっちの問いかけには答えてもらえるのかな」
    「記憶の描写という表現が、結局は一番シンプルだろうね。幼い頃に母親が死んだときの記憶、父親と家事手伝いとの暮らし、家を出るときのこと、それから、長い時間を置いて、死んでいこうとする父と過ごした時間について。描かれているのはだいたいこんなところだろう」
    そんな具合に並べながら、蛹は胸の上で、弱々しく指を折った。考えながら見切り発車で喋っているのだろう。
    「戦前から戦後へと変わっていく世の中の様子が、幼い子供の印象として描かれているのも面白いと思う。子どもの成長という軸がそこに重なると、急に不思議な奥行きが生まれる」
    なるほど、と僕は頷く。
    もしかすると、後半になるにしたがって読みやすくなるのは、慣れもあるけれど、ただこの主人公の記憶が、近くなるに従い鮮明になるということかもしれない。ふと、そんなことを思った。そして、そんなことを思っているうちに、ソファの上の病人は、力尽きて眠ってしまっていた。

    とりあえず、病人をベッドに運ばないといけないなあ、と思う。できれば最初からベッドで眠ってほしいのだけれど、そこは個人の趣味趣向なので仕方ない。僕はわざとらしくため息をつくと、本にしおりを挟み、ソファから立ち上がった。

  • ◆aとbは、行くことのなかった分かれ道・「両親との生活」「他者の混じらない父子のみの蜜月の生活」という可能性や選択肢。選ぶこともかなわず・ものわかりよく諦めてしまってきた、母が死に父が死ぬまでの4歳から40年にわたる「父子で見ないふりをしてきた日々」の重なりを悔やむ手記。◆感受性を持ちながら表に出さず内にこめ、軽蔑を腹に抱きながら知らぬ顔でさわりなくふるまう主人公の在り方は読んでいて心地よいものではない。しかし独特な感受性を持つ筆者によって描き出されたその心の有様は、時に詩のようなきらめきを放ち、手放しがたい魅力を持つ。◆最初は横書き・ひらがな(表音文字)多用で、英文を意識している?と思いましたが、読んでいて、「これは古文だ!」と。古文の呼吸で読み始めたら、するする読み解ける。◆好きだったのは、「家事がかり」への恨み言色少なく幼少の自己を客観的に描いた〈窓の木〉と〈満月たち〉。
    ◆巻末同時収録のタミエ三部作(25・26歳の作品)は「じんじょう」で読みやすく、黒田さんの言語感覚をつかむためこちらから攻略。「毬」「タミエの花」は、ちいさい人の濃密な時間の流れが丁寧に描かれていてとても好み。特に「タミエの花」は、雑草好きな方にはぜひ読んでみてほしい。◆三部作最終の「虹」は、ちょっと強引な展開が残念。その必要はあるのかなぁ。タミエの性格を形作るのに必要だったとしても、その年齢である必要はわからなかった。でも、「abさんご」と続けて読んで、黒田さんにとって「虹」には特別な意味が付随しているのだなあと思った。【2013/06/21】

  • 表題の『abさんご』は、ひらがなの多い横書きの物語という点だけでは児童文学かのような印象であるけれど、実際には正反対に集中して読み進めないとすぐ迷子になるような難解な上級者向けのお話しでした。記憶が曖昧になりがちな昔の思い出話の感情の部分、印象的な情景を、滲ませたり、ぼかせたりしながら書いているような、絵にすれば水彩画のような世界観だなぁ、と思いました。縦書きの3部作『毬』『タミエの花』『虹』はタミエという少女が主人公。毬を上手くつけなくて不器用だったり学校をサボって草花と戯れることが好きだったり、大人受けはしない子供だけれど、読んでいると自分が子供だった時もこんな感覚だったかも、と思えるほどに親近感を感じました。大人には理解不能な子供の心理描写が細かいです。でも『虹』の最後の方で明らかになったタミエの過去が衝撃でした。セピア色の昔の写真を見ているような作品ばかりでした。

  • 表題作はなぜか横書きで左側から読む作り。ひらがな多めで漢字とのバランスの法則はわからないまま、大変読み辛いのだけど、これが不快ではない。基本的に正しく美しい日本語を使える人の「くずし」なので、つい読まされてしまう。ストーリーらしきものは一応あるけれど、追うのは無駄な気がする。文章のリズムと雰囲気、場面場面の細部の描写を味わったほうが楽しい本だと思う。わかるかわからないかではなく、好きか嫌いかで言うなら私は好き。

    他の3編は縦書きなので普通に右側から読める。表題作との間に50年の時間があるけれど、タミエという少女の連作短編。これはこれで嘘つきで劣等感まみれの少女の心理が手に取るようにリアルで面白かった。

    ※収録作品
    abさんご/毬/タミエの花/虹

  • 人生の記憶という終わらない迷路を、迷路のままで懐かしくそして感情豊かに書き出した。

    横文字でひらがなで対象を指し示す主語もはっきりしないその書き方は最初難しいけれども、一度なれてしまうと、それ含めて大きな世界の一部で、世界の構造として意識した芸術的な作品であることがよくわかるし、別に読みにくくない。

    『誰もが親しんでいる書き方とはいくぶん異なっているというだけの理由でこれを読まずにすごせば、人は生きていることの意味の大半を見失いかねない』と蓮實重彦大先生が論評しているけどまさにそのとおりで、新人賞とか芥川賞とか関係なく、純文学好きなら必ず読むべき。

  • 全文横書き、かつひらがなが多いというのが特徴ですが、
    その並びを実際に見てみて、小学生の作文みたいだなと思いました。
    まだ漢字を習っていない子どもはどうしてもひらがなばかりの文章になってしまう。
    失礼な表現ですが、それに近いものに見えてしまいました。
    けれど、読んでみると全くそれとは別ものなことがよくわかります。
    ここは漢字にしないと意味が取れなくなってしまう、
    ここはこの漢字を当てないと表現したいことが伝えきれなくなってしまう、
    そういう吟味がなされた上での漢字/ひらがなの表記の選択をされているので、
    とても知的な印象がありました。
    その上、カタカナは一切なし。
    カタカナになりそうな単語はきっと日本的な言葉に全て置き換えてしまったんでしょうね。
    たぶんこれでカタカナがどこかにあったら一気に世界がぶちこわしになるだろうと思います。
    確かに、読みにくい。
    漢字を中心にひらがな、カタカナが使われている文章ばかり読むことに慣れているから、
    どうしたってそれは否定できない部分だと思います。
    けれど、よく造り込まれた作品だな、と思うと引き込まれます。

    作品は女の子と父親の二人の生活を順番に見せていきます。
    家政婦さんが出てくるので、ある程度上流の家庭なんだろうと思います。
    いくつかの場面が描かれていて、その場面が連なることで作品として成り立っている感じ。
    長編小説でもなければ、短編小説でもない。
    そういう印象がありました。
    わかりにくいので、別のものにたとえるとするならば、
    印象派の画家モネの『睡蓮』に近いようなイメージ。
    あの作品もいくつか並べられて飾られていて、一枚のキャンバスでも絵としては完成している。
    けれど、並べられたことでようやく表現したい世界が見える、そういう作品だと思います。

  • 芥川賞受賞作の表題作を含む4作品の短編集。

    ・abさんご
    ・毬
    ・タミエの花
    ・虹.
    表題作の50年前に他の三作品が書かれていた方が驚きで、古さを感じさせなかった。
    表題作は、表現的には実験的作品だと思いますが、内容は夢の中の薄いベールに包まれている世界のようで、主題がよくわかりませんでした。
    戦後になっての上流から中流への没落と片親の死からもう片親の死までのつかみどころのない追幻想的表現は、摩訶不思議な感じだ。
    50年前の3作品はタミエの冒険ともいえる連作だと思われるが、せっかく少女のワクワク感に浸っていたのに、ラストのホラー的なオチは怖すぎる。

  • まず見た目から、ひらがなを多用した横書きの文章の独特さが目を引く。でも何より独特なのは、この文体。正直、内容の全ては把握できなかったが、この文章を読んでいる時の、幻の中をたゆたっている感覚はなかなか味わったことがなかった。匂いや感触、色や音、五感を言葉にしてつらねていったかのようで、物語がつかめなくとも、文章を追っていくだけで心地いい。著者が75歳だからそう思ってしまうのか、幼少期からのぼんやりとした過去を回想している夢のような感覚だった。
    同時に収録された、著者が若い頃の作品も面白い。幻想と追憶とかすかな恐れが表れる、また独特な世界だった。

  • これがまさに「文芸」というものなのだろうと思った。
    読んでいて誰かの夢の中をみているような感じ。
    それがきっと記憶の中を泳いでいる感じなんだと思う。
    ひとの記憶のでき方は、
    具象からひとが感じた時点で抽象化していき、
    それがどこかにとどまることで記憶となるが、
    それを取り出す際にそのときのバイアスによってもさらなる抽象化が起こり、
    そして記憶として残っていくことを繰り返しているように思う。
    おとなになってから幼いころの記憶に身を投じていく中で、
    この作品ではあるものの名称を用いずにいちいち抽象的な表現に抽象を重ねて表現していて、さらにひらがなという音のみの情報にすることで「ぼかし」続けているのだと思った。
    とにかく読みにくく感じるが、それ故に読み耽ることになる。
    おもしろいけど、疲れたというのが正直な感想。

  • 目次
    ・abさんご
    ・毬
    ・タミエの花
    ・虹

    ページをめくって、戸惑います。
    横書き、というのは知っていましたが、驚くほどひらがなの量が多いのです。
    だから最初、何が書いてあるのかを読み取ることに、苦労しました。

    ”ふりだしの家の二そう目のぜんぶは書物とその持ち主とが領していて、三そう目からおりていく者は、寒くない季節にならあけとめてあることも多い片とびらから、(後略)”
    「ふりだしの家の二そう目」とはこれ如何に?
    私は最初脳内で、「二艘目」と変換していて、なぜ突然船の話なんだろう?と思っていたのだが、かなり読んでから突然「二層目」である事に気付き、つまり家の二階の話だったと腑に落ちたのだ。

    章によって時系列は前後するが、要は、母を早くになくした主人公の少女と、父と、家政婦として家に入り込んでのちに父の後妻になる人との関係を、固有名詞を使わずに、時に一般名詞すら使わずに書いてある。

    後妻になる人も、ちょっと変だ。
    使用人としてこの家に来たくせに、最初から家族のように一緒に食卓に着く。
    家事をするために雇われたのに、週の半分は今までの仕事を続ける、家事は嫌い、等。

    しかし今まで父と娘の二人だけの世界で暮らしていたので、今更波風を立てるのも…という感じで妥協していくうちに、父はいつの間に彼女を後妻に迎えることになり、娘は家を出て苦しい生活をしていくことになる。
    家で同然で家を出たので、父の死の間際まで実家に戻ることはなかった。

    思春期の娘だから、家政婦の女性に嫌悪感をもったのか(父を取られるという危機感)、本当に女性が耐えられないくらい嫌な人間だったのか。
    腹を割って話さない父娘は、最後まで本音を語ることはなく、ただアイコンタクトで何かを伝えられたのか。
    私には娘の恨み節のような思いが残されたような気がするが。

    本の後ろから縦書きで書かれているのが『毬』『タミエの花』『虹』の連作。
    貧乏で、給食もろくに食べることができず、友だちとの遊びも不器用なタミエが、『虹』の最後の最後に語る衝撃の事実。
    どうしてそうなった?

    どちらにしろ、読者置いてきぼりで突っ走るタイプの作者なのだと思った。
    いい意味で。

  • これはわたしの目のゆりかご。言葉の群れは白い虹となって白昼に飛散し、夕闇とともに花咲いて、千万の日々を幽邃にする。読んでいるあいだ、この上なく幸福だった。
    望みなき生の諦めのうちに、陽を受けて透きとおった紙片が流れてはふりつもるのを幻視する。ほんのわずかの違い、あるいは偶然のきっかけでやむなく一つの選択をするのだが、選ばれなかった方の道に進んだわたしの幽霊が、なつかしくたどられてゆく言葉の中で、はぐれては呼びかえされ、いくつにも重なり、ゆらいでいた。過ぎ去りながら消え去らないそれは、光のようにとらえがたい。

  • わかるひとにはわかるのだろう
    そう書いている人じしんがよくわかっているのかは
    じしんにもなに一つかくしょうはないまでも、もしくはほぼそれはないと思われてもなお
    いつのまにかひきこまれ限りなくあたたかいきもちにさせられる作品

  •  芥川賞受賞作である「abさんご」と著者が二十六歳の時のデビュー作、他に二編の合計四編の短編が「リヴァーシブル形式」で掲載されている。
    「リヴァーシブル形式」がどういうものかは、本屋さんで手に取って確認してください。

     まずデビュー作である「毬」。
     そしてその「毬」と同じ少女が主人公である「タミエの花」と「虹」の三篇。
     少女の名前は「タミエ」。
     けっして良い子ではない……というよりも今だと「問題児」扱いされるのかな。
     読んでいるうちに僕なんかはこの「タミエ」にどうしようもなくシンパシーを感じてしまった。
     なんとなく「タミエ」のことが理解出来てしまうように感じられるし、特に「タミエの花」における、自分の世界を必死に守ろうとするタミエの姿には共感できた。
     そんな心理状態で「虹」を読んだから、けっこう衝撃は大きかった。
     タミエが思い出した幼少時の出来事。
     果してこの出来事を知ってからも、タミエに対してシンパシーを抱き続けることが出来るかどうか。
     三篇ともとても面白く読めた。

     さて受賞作の「abさんご」。
     ネットで検索してみると「難解」だの「読みづらい」だの「読者に不親切」だの「こんなのが芥川賞?」なんて書き込みが結構見受けられた。
     結論から先に言ってしまえば、少なくとも僕にとっては難解でも読みづらくもなかった。
     確かに「実験作」ではあると思う。
     かぎかっこや固有名詞を使用せず、漢字もかなり開いてひらがなを多用する。
     しかも縦書きではなく横書きで掲載する。
     そんなあたりは「実験作」だな、と思える。
     でも決して読みづらくはなかった。
     ひらがなをいちいち頭の中で漢字に変換して云々している方もいるみたいだけど、僕なんかは前後の文章から意味が解れば、いちいち漢字になんか変換することなどしなかった。
     横書きの文書にしたって、ネット上では殆どが横書きだし。
     問題は「固有名詞」を使用していない、ってことにあるのかな、なんてことを感じた。
     例えば単語で「蚊帳」と書けば一言で済むところを、文章で三行費やして表現していたり、「傘」と書けば一言で済むところを「天からふるものをしのぐどうぐ」と表現していたりする。
     このあたり、読む人によってはとてもうっとおしく感じるのかも知れない。
     あるいは回りくどく感じ、それが結果として「読者に対して不親切」あるいは「著者の独りよがり」という印象となるのかも知れないな、と推測してみたりする。
     僕なんかはこういう表現をされると、「はて、これは一体何を意味しているんだろ」と、ああだこうだと考えることが出来て非常に楽しい。
     あるいは「こういう言い回しも出来るんだ」と新しい文体を獲得できて得した気になったりもする。
    「読者に不親切」どころか「著者のサービス精神満載のプレゼント」みたいに思えてしまうのだ。
     この受け取り方の違いがこの作品の評価を大きく分けているのかも知れない
     もちろん、どちらの受け取り方が良い、悪いではない。
     ましてはどちらが正解でどちらが不正解なんてことではない。
     ただ、「ちょっとこの表現は強引に結びつけすぎなんじゃないかな」なんて思える箇所も正直あったりもした。

     きちんとしたストーリーも存在している。
     読み始めは少し曖昧模糊としているだろうが、読み進めるうちに明確なストーリーは浮き出てくる。
     ただ、浮き出てくる前に「読みづらい」ということで放棄されてしまう可能性もあるのかなと思う。
     それと時間軸が結構幅広くあっちいったりこっちいったりする。
     しかも視点はこの物語を語る人物の一人称なのだけれど、この人物の幼年期を回想したりする場面では、あえて俯瞰した三人称的な視線を使用したりしている。
     このあたりのブレ(いやいや、ブレじゃないんだけどね)も、読んでいて難解な印象を与えてしまうのかもしれない。

     そういえば「abさんご」ってどういう意味なんだろう・
     aとbがさんごのように分岐しているってことなのだろうか。
     そしてどちらを選ぶか。
     まるで人生の岐路を表しているのかもしれない。
     当作品の冒頭ではaもbも選択されない。
     当作品の最後ではaからもbからもさまざまな匂いがあふれよせてくる。
     ちなみにこの最後の箇所、泣きそうになってしまった。

     自分なりに色々と分析らしいこともしてみた(柄にもなく、ですね)。
     それだけ、色々なことを考えさせてくれた。
     いずれにしても、非常にクセのある作品だと思う。
     だから評価もかなり大きく分かれると思う。
     僕にとっては、これは非常に面白い作品だった。
     前にも書いたけど、決して難解な作品でも読みづらい作品でもなかった。
     少なくとも「実験作」ではあるが「前衛作品」だとは思えなかった。

  • 何言ってるかわからない。
    その原因の半分は主語の曖昧さからくるものではないかな?
    モザイクかけてわからせないようにする。年長者とか、先に死んだ両親とか、すべて漠然とした代名詞。
    それは、幼年期の視点、なのかもしれない。最後の方に書いてあるが、6歳なのかな。そこに至るまでの断片的記憶。
    われわれが推測する幼児の視点。実際のことなんて、そのまま覚えてる人はいないし、仮に覚えていたとそのイメージが真実なんて保証はない。
    その幼児期の人称不在や不透明に、意味の無限定性を文章と内容に織り込むと、これだけカオスになるのかもしれない。
    実験は実験だし、きれいな文章と言えなくもない。
    ただ、文学愛好家のための閉ざされた文学ではある。少なくとも、この実験は前衛ではないと思う。そして、本来の日本語の無限定性は、平易な文での意味の二重性に向かうべきではないか? と仮説。

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