色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

著者 :
  • 文藝春秋 (2013年4月12日発売)
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本棚登録 : 14131
レビュー : 2273
  • Amazon.co.jp ・本 (376ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163821108

感想・レビュー・書評

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  • 物語中のあらゆる事象の繋がりがわからなかったりわかったり(わかった気になったり)…。その「謎」の感覚を楽しめるかどうかで評価が分かれると思った。その長いタイトルのすべての単語に意味があり、そこを考えると分かり易い。ただ、私にとってはそれはどうでもよくて、直感的に楽しめるか否かで言えば、単純に楽しめたし、過去の村上氏の著作はすべて読んだが、その中でも気に入った部類に入ると思う。

  • 元々春樹作品はあまり好きではないが、にしても今作は言葉が上滑りしていて率直に言ってとても残念な出来だと感じた。持ち味であったはずの独特の現実感のなさが空回りしていて着地点すら覚束ないように思える。概要や登場人物はこれまでの作品の焼き直しのようだし、作品に引き込まれないだけに気取った言い回しにはウンザリするばかり。あまり丁寧に仕上げた作品ではない印象を受けた。

  • 個人的には1Q84より落ち着きがあり
    ノルウェイの森ほど重すぎずに
    ねじまき鳥より分かりやすい
    でいて、ぐいぐい読んでしまう。
    かなりツボ!

    村上春樹の小説ってその時の自分の状況や気持ちによって共感する部分がちがったり解釈の仕方が変わったりするのが面白い。

    数年後にまた読んでみよう。

  • 本作品を読んでまず新鮮に感じたのは、5人組という設定だ。かつての村上春樹の作品の主人公は、大抵一人で(もしくは妻などのパートナーと)いることを好み、何かしらの集団に属しているという設定は、私が知る限りではなかった。
    5人組という設定は目新しかったが、根底にあるテーマは変わっていないのではないだろうか。自分自身をどのように捉え、他者とどのように向き合っていくのか。本作品では、時間をともにした人数が多かった分、それを失ったときの辛さ、悲しさも大きかったのではないかと推察する。

    主人公の多崎つくるは、駅を好み、駅を作ることを生業としていることを作品中から窺うことができたが、これは物語全体の比喩、象徴であると感じた。つくるが駅の役割、つくると関わりのある(あった)4人、灰田、沙羅たちは、駅に到着し、程なくして発車し、次の目的地へ向かう電車の役割。つくると親しくはなっても、いずれはつくるのもとを離れていってしまう人たち。つくるは駅を好むと同時に、駅としての自分の役割を、本人も気づかぬうちに受け入れてしまっていたのではないだろうか。かつて4人から縁を切られたとき、つくるは死ぬことしか考えなくなる暗黒の時期を過ごす。やがてはそれを無意識の奥底にしまいこみ、人とは一定以上の距離をとるようになってしまう。来る者拒まず去る者追わない駅。36歳のつくるの人間性を、駅という事物を通じて表現しているのではないだろうか。
    20歳のころ、死ぬことしか考えなくなる時期から脱却し、新しい一歩を踏み出したつくる。しかしそれは4人から棄てられたことを乗り越えたのではなく、意識の外に追いやってふたをしてしまっただけだった。それ36歳になっても消えず、久しぶりに本気で関わってみたいと思える人、沙羅に出会ったときに、その存在を無視することができなくなった。そしてつくるは自らの歴史と向き合うため、4人のもとを訪れる。
    自分の暗い過去のことは振り返らず、ふたをしてなかったかのようにしてしまいたいという心理は誰しも抱えていると思う。しかしいくらふたをしようとも、個人に刻まれた歴史というのは、一生消えることなくその人の人間性に影を落としているのだということを、本作品を読んで強く感じた。怯えずに向き合うことでやっと、そのトラウマを「乗り越える」ことができるのではないだろうか。これは人間共通のテーマであると思う。

    4人と違い、自分だけ色彩を持たない、無個性な、面白味のない人間だと自分を評価してきたつくる。しかしアカ、アオ、クロと会って過去を振り返っていくなかで、誰もが決してつくるのことをそのようには捉えていなかったことがわかる。クロは好意さえ抱いていた。自信を持って人生を生きろ、とはあまりにも月並みな言葉だが、誰にでもその人なりの色彩がある。つくるはそのことを胸に刻んで、沙羅を手放さないよう行動しなければならない。つくるは駅としての役割を終えなければいけないのだ。

    村上春樹の作品に登場する人物は、大抵サンドウィッチやサラダ、オムレツなど洋風の料理を食べるが、本作品では、味噌汁が登場していて、驚いた。これからどのような作品が生まれるのか楽しみだ。

  • 青春時代の傷、誰にでもあるってわけじゃないと思うけど、なんかしらあるものではないかな。
    自分の過去の傷も思い起こしてしまった。自分はちゃんと向き合ってきてないけど・・・

    ところで、主人公と彼女はその後うまく行くんだろうか?

    私はうまく行くんだろうな~って思えた。

  •  何故、村上春樹の新作発表の度、書店に行列ができるのだろうか? ぼくは行列のできるラーメン屋の存在価値がなかなかわからない人間であるけれど、同様に、村上春樹の新作に行列ができる理由もよくわからない。作者は『1Q84』が売れた時だったと思うけれど、誰も書かないことを書いていることが人に読まれる理由ではないのかと、彼自身は、純然と思ったのだそうだ。

     なるほど。しかし実を言うと、ぼくは決してそうは思わない。誰も書かないことではなく、彼は、誰もが書いていることを書いてるのだと思う。人生と死と恋愛の謎を解く。そういったテーマに固執する当たり前の一般の人間の、すごく自然な好奇心が、彼の小説の主人公を決定し、小説世界で動かしているのだと思う。逆に言えば、それ以上の原動力や、それ以外の個性を、彼の作品の登場人物から感じることは滅多にない。そう言う意味では、物事に対し受身で慎重な姿勢を取る主人公が多く、自ら何かの課題を超えてやろうとか、ある事件を主体にしてその問題を解決しステップアップしよう、というような、果敢で前向きな主人公はあまり見たことがない。

     むしろ、問題を起こさないために日常生活に徹底した規律を持ち込み、清潔感たっぷりな独身男性で、あたかも純粋培養されたみたいな日常生活を営む人の方が、よほど村上春樹の好む人物像らしい。性格にとりわけ瑕疵はなく、弱さもない代わりに、特に目だって優位なところもない。逆に言えば、とてもとても強く、他人に影響を受けず、マイペースを貫くことのできる主人公が、彼の作品には多いように思う。この小説でも、多崎つくるは、人との関わりに受動的で、自分の日常を守ってこつこつと生きる。炊事・洗濯・掃除・ベッドメイク、果てはシーツにアイロンをかけたり、ということまで規則正しく行うような人である。人と異なる点といえば、駅を作りたいという理想を実現し、駅を設計するという実にニッチな職業に見事に着いたということだ。ある種、夢の実現者なのである。サラリーマンになることを嫌い、学校を出るとすぐに喫茶店の経営という道を選んだ、ジョギング好きの村上春樹が、いかにも考え出しそうな少し世間離れした主人公だ。

     どの主人公も、実はすべからくその種族であるところに、彼の主人公が、具象ではなく、もはやそんなものには因われず、抽象に生きる、即ち、人生と死と恋愛の謎を解くことに終始することができる環境、という共通項が見えてくる。この作品もそうだけれど、彼の作品には、人生の謎に対する疑問、死、そして恋愛が必須だ。死んでいった者への謎、今、空白として残されてしまう、心に開いた何もない穴への意識の執着である。初期三部作である『羊をめぐる冒険』での主人公の親友・ネズミの役割は、死と不在であった。また、『ノルウェイの森』は、死で糾われたポルノグラフィと言ってもいいくらいだった。そう、その意味では、恋愛あるいはセックスは、死の対極にあるもの、生きる意欲の側の抽象を具現化した行為である。それらを散文に落とし込むときにも、直感的に人が死という虚空に背を向けたくなるときにも必要な、セックスは具象であり、揺らぎなき絶対性を持った行為なのである。

     よって彼は、死とセックスの物語を紡ぐ。そして死の方からひたひたと暗い水路に寄せてくる、闇からの使者たちは、やはり村上ワールドお馴染みのものだ。それはあるときにヤミクロであったり、TVピープルであったりする。それらは、悪夢の中で見る、妙に現実性を帯びたファントムたちである。それらは、最初から自分の心の中に潜む、暗い、マイナスで、ネガティブな志向を、代表する者たちのようでさえある。それらは本書では、夢という形をとって現われる。金縛りの状態で、主人公に、強い心的障害を残すような形で。自分への疑念を植え付けるような形で。容赦なく。

     どの小説においても、そうした暗いものへの共通項らしき心象風景が見られる村上作品ではあるけれど、作者の経験、年齢が作品にわずかながら影響を落とし始めたのは、地下鉄サリン事件の頃だったのではないか、とぼくは思う。『ねじまき鳥クロニクル』を書く少し前、マイケル・ギルモアのノンフィクション『心臓を貫かれて』を訳した頃のことだ。

     抜き差しならぬ現実のバイオレンスや、それによって現実に生じる被害者たちの存在が、彼のヤミクロたちを、想像の産物から現実の悪霊、のようなものに引き上げていったのではないか。そのことを認識する年齢に到達するために、哲学者の表情をどこかで有して超然としてきた村上春樹という作家は、人一倍時間を要したのではないだろうか。地上の一人となって我々のもとに降りてくるために。

     どこか成長に時間のかかる純粋培養されたような主人公が多いのも、彼らがセックスや実業の世界や家族の問題であまり問題を抱えていないのも、恵まれた環境を自分で作るだけの器用さを具えた作家ならではの、彼らは分身であり、相似形ではなかったのか、というぼくにとっては羨望めいた類推。しかしどんな平常な人間でも魔の入口に遭遇することは有り得るのが現代であり世界だという認識。それらが村上ワールドを成長させ、普遍化してきたものだったのではないか。でも、だからと言って、なぜこの作家がこれほど驚異的に売れるのだろうか、という疑問への回答には全く辿り着けずにいるのだが。

     ぼくはこう思う。この作家の小説は、ストーリーにおいて極めて面白いわけではなく、展開が早いというわけでもなく、語り口のテンポが良く極めてスリリングであるというわけでもない。むしろストーリーテリングは、拘り始めると、実に鈍重で、ストーリーの足を止めてまで、抜けられなくなる抽象の部分がとても多いように思う。哲学書や、大学の裏門近くにある古書店の書棚に並ぶ小難しい芸術評論みたいな世界観を、無責任で個人的な感性と、たぐいまれな文章表現力という固有の才能によって、散文という芸術領域に落とし込んでいるだけではないか、と。

     そう、この作家はとても陳腐なこと、ではあるけれど、人間なら誰もが陥るであろう、人生と死と恋愛の謎について、即ち人間生活の軸になるベース的なものへの追求を決してやめることなく、普遍的にそうした疑問への回答らしきものを表現するために、己れの持つ様々なバリエーションを文章という技術で表現するというシンプルな様式の作家なのであろう。実は、そのブレのなさこそが、社会的信用を勝ち得、けれん味のない希少な作家としての立ち位置を確保した理由なのではないか。その文章技術の素晴らしさこそが、この作家の最大の能力であり才能であり、そこに書かれていることへの回答は人間のベースの謎であるからこそ与えられることなく、普遍であり続け、読者は、常に謎めいた部分をそのままに、どこか妥協した形で今日以降の人生、あるいは村上作品の新しい世界に向かい合う、という心境になって各作品毎の読了を都度迎えているような気がする。

     そう。普遍性と文章表現能力。それが村上春樹最大の武器である。謎は謎のまま次に持ち越されるのをわかっていながら、我らは次なる謎を求める以外に道はないということなのではなかろうか。

  • あっという間に読めました。
    皆様がおっしゃるとおり、確かに読みやすい。
    そして、なんといっても分かりやすい。

    でも、そんな単純なつくりではない。
    そこが村上春樹のすごさなのではないでしょうか。

    高校時代の親友たちに突然拒絶された主人公が、
    そこにあった真実を求めに友人たちのもとを
    巡礼するのが、この話のメイン部分です。
    その重い事実をするする受け止める主人公の冷静さ、
    他の作者だったら「そんなうまくいくわけねぇだろ」と
    思わず口汚く突っ込んでしまいそうですが、
    春樹さんが創り上げた世界に生きるこの主人公なら
    「そんなもんかな・・・」と思っちゃうから不思議です。
    そこに至るまでにすっかり春樹ワールドに引き込まれてるから、
    違和感なく受け入れてしまうのでしょうね。すごいわ。

    ただ、なぜ沙羅なのか? なぜそこまで沙羅なのか?
    そこのところを誰か解き明かしてくれないかしら。

  • 冒頭の「田崎つくるはほとんど死ぬことだけを考えて生きていた。」ってところから、あーやられた!とおもってぐいぐい読んでしまった。引き込まれるとはこのことか!と。そしてタイトルがこの作品の全てを物語っている。

    話題になったAmazonレビューは声を出して笑って、まあ、たしかにその通り!とおもったけど、村上春樹にリアリティはいらないよなあとおもう。
    伏線が回収されないと「よし、今回もちゃんと村上春樹だった。」と安心する

    沙羅の言葉のひとつひとつが素敵だなあとおもった。こんなひと、いねえわ!ってなるんだけど、本の中にあるってだけでものすごく素敵な言葉に思える。いくつか引用に登録した。
    ノルウエイの森が実写化したときに、「ああ村上春樹のセリフは声に出しちゃいけない日本語なんだ」と思ったのを思い出した。声に出すことでものすごく不自然になるかんじ。それがいいのかもしれないけど。

    なんというか、読み終わったあとに手応えを感じるとかそういうのではなくて、
    すこしやわらかくて(読みやすいからかな)、でも人間らしい部分が多く書かれている作品だなとおもった。人生!人生の小説!
    気づいたら重い荷物持ってるよ、それが人生だよ、みたいな。

    いちばん印象に残った言葉は、フィンランドで出会った運転手の言葉。
    「休暇と友だちは、人生においてもっとも素晴らしい二つのものだ」

    わたしはすきな作品だなあとおもいました。

  • 春樹ワールド全開。つくるくんがストレートに恋人を求める姿に少し感動した。つくるくんに幸あれ。

  • 『色彩を持たない…』隅から隅までつまらなかった。名前を伏せて読まされたって、「本物」の村上春樹の本であることはわかる。でももう彼は彼のやれることをすべてやりつくしてしまったのではないか? 実際の世の中では色んな出来事が起こるけれど、それらが抽象化された場合「色んな出来事」と同じ数だけバリエーションがあるわけではないと思う。新宿駅?の階段を下りて行く人々の写真についての話だって、エッセイですでに2度くらい読んだ。そう、エッセイでも彼はもうしばしば同じ話をするようになっているけれど、一人の人間がなし得ることというのには限度がある。とりわけ勘のいい人は、早くに成し遂げてしまうから。

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著者プロフィール

村上春樹(むらかみ はるき)
1949年、京都府京都市伏見区生まれ、兵庫県西宮市芦屋市育ち。早稲田大学第一文学部映画演劇科卒。大学在学中にジャズ喫茶「ピーター・キャット」を国分寺・千駄ヶ谷に開店していた(1981年、店を人に譲渡)。1979年にデビュー作の「風の歌を聴け」で群像新人文学賞を受賞。谷崎潤一郎賞、読売文学賞、朝日賞など数々の受賞歴がある。2006年にフランツ・カフカ賞、2009年にイスラエルのエルサレム賞受賞。ノーベル文学賞に最も近い作家の一人と言われており、毎年発表時期に日本国内でニュースになる。事実、村上春樹作品は全世界で翻訳されており、アメリカ・アジアでの評価がとりわけ高い。フィッツジェラルドやレイモンド・カーヴァーなどの作品の翻訳も手がけ、翻訳家としての仕事も高い評価を受ける。翻訳と創作活動を交互に行うことで、作風を変化させ、作家としての成長を続けている。新作が発表されるたび大きな話題となるが、近年は特別番組「村上RADIO」にてラジオDJも務め(不定期放映)、数々の名言も注目を集める。代表作に『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』。2019年7月31日に『神の子どもたちはみな踊る』が舞台化。アメリカのサックス奏者スタン・ゲッツの伝記翻訳を2019年8月刊行。2019年9月10日発売の『文藝春秋』10月号で「至るところにある妄想 バイロイト日記」を寄稿。

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