誰をも少し好きになる日 眼めくり忘備録

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (205ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163902159

作品紹介・あらすじ

晴れの日はカメラを持って40年通い続けている浅草の街へ。雨の日は家で作業をしながら、記憶をさかのぼり、生まれ故郷や、異国の人々との出会いと別れに思いを馳せる……。市井の人々を撮ったポートレイトで世界的な評価を受ける写真家である著者が、その透徹した感性と文章で綴る珠玉のエッセイ集。

感想・レビュー・書評

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  • 日本にいても
    日本ではないところにいても

    春の桜の樹の下でも
    雨に振り込まれた日でも

    旅の空の下でも
    日常の暮らしの中でも

    しみじみとした情感が
    心おだやかな静謐さが
    じんわりと
    伝わってきます

    私たちの
    暮らしのすぐそばにある
    何気なく存在するものたちへの
    愛おしさが
    伝わってきます

  • 「低反発枕草子(平田俊子)」より。

  • 一番印象に残ったのは、たくさん衣装を持ったお姐さんこと「浅草のジェルソミーナ」、そして番外編として再び登場する「一番多く写真を撮らせてもらったひと」のさくらさんだ。
    浅草寺の境内にある歌碑の近くに一人佇む年老いた娼婦を、なんと20年以上も同じ構図、同じ場所、同じ光で撮りつづけ、短いセンテンスを繋げて淡々と書かれた文章には、侮蔑やいやらしさや好奇の目線が全く感じられず、むしろやさしさを感じる。
    最後に言葉を交わした(熱い缶コーヒーをカイロ代わりに2本差し入れした)冬の寒い日から、路上に誂えた小さな祭壇に手を合わせる数日までの動揺ぶりが、単に被写体としての存在以上の想いが滲み出ていて、鬼海さんが抱き続ける「人間とは何だろう」という問いかけがこちらにも伝わってくる。

  • 鬼海さんの写真に写っている人たちは、少しもおしゃれじゃない。 見た目にすぐだまされるわたしには不思議でならない。きれいでない人たちが、美化されたり面白がられたりせず、そのままフィルムにおさめられている。

  • もらいものだが、「エッセイ+写真かー、あんまり合わないな―、気が向いたら読むか」と思っていたのだがちょっと読み始めると止まらなくなってしまった。
    それほど、写真家がついでに文章書いてみた、というレベルではないほどの読み応えがある文章。
    写真自体も文章中では「写真なんて誰でも撮れる」的なことを書いているのだが、どうやったらこんなん撮れんのというものばかり。モノクロってやっぱり特別な力持ってるなぁ。
    この人の他の本や写真集も買ってみたい。

  • 写真家、鬼海弘雄の温かい眼差し。それは氏の写真からも、エッセイからも滲み出て来る。写真や文章には撮影者や書き手の心が滲み出るのだ。インドや日本の街のスナップ写真、浅草で出会った市井の人々のポートレート写真はどれもモノクロフィルムの傑作揃い。

  • 数ページのエッセイと著者の本業である写真がセットになって章を構成している。
    海外の撮影生活と、日本での生活と、スイッチしながら描かれる様が面白く、飽きさせない。
    文章が写真家の眼となり、自身の原風景的なものまで映しているか、表現にも個性と感性が息づいているようで味わい深い。

  • 「キカイ・ヒロオの写真には、抵抗しがたい強烈な詩情が溢れている。」と評したのはアンジェイ・ワイダだが、文章にも同様の詩情が濃霧のように漂い、そこから透かし見た景色に何度も咽び泣きたくなった。誰をも少し好きになる日。この眼差しで人びとを見れたなら、どんなに世界が膨らむことだろう。モノトーンの写真と呼応するモノトーンの文章、白と黒の間には無限の色彩に溢れている。私の狭い心にも、その淡い機微を感じ取る余地がまだあるのだと、教えてくれる。どれもが素晴らしく甲乙つけがたいが「サンドイッチと赤い星」はもう私の宝物だ。

  • 魚を突くモリのことを「ヤス」と呼び、家の陰辺りから突然出現してちょろちょろっとすぐ隠れてしまうトカゲやヤモリのことを「カナチョロ」と言う。
    著者の、数十年前の日本や現代のインド、昭和から今に至る下町や自宅の茶の間までという極めて広範囲な時間と空間に跨る回想と写真作品は、見過ごされがちな者たちや、愛されるべき者たちや、場合によっては蔑まれ虐げられている者たちへの慈愛に満ちた視線を感じさせるものばかりだ。
    『誰をも少し好きになる日』というタイトルは、本書を貫くテイストを絶妙に表していて実にいい。

    それに加えて、冒頭の「ヤス」と「カナチョロ」は、この本の書き手であり、写真の写し手である鬼海さんと私との共通の故郷である山形の、しかもかなり庶民的な地言葉で、それだけでも私個人としてはジンと来るものがある。
    本書最大の圧巻は、「一番多く写真を撮らせてもらったひと」と題した一編の文と一連の肖像写真である。
    本文によると、鬼海さんは実に22年に渡って浅草の同じ場所でほぼ同じポーズで、その「お姐さん」の無数の肖像写真を撮り続けた。その場所に行けばお姐さんに逢える、同じポーズで写真を撮らせてくれる。ズラリと並べられたお姐さんの写真を見た大抵の読み手は圧倒されるだろう。他の題材を撮った作品同様、写し手の濁りのない慈愛に満ちた眼差しを感じさせるのはこの一連のお姐さんの写真も同様である。
    ただ、お姐さんがいつも立っていたのは浅草六区の交差点の所で、彼女はいわゆる「たちんぼ」だった。それがどういう職業というか生業であるのかを理解できない向きも多かろう。だが、著者の偏見のない撮り方書き方と矛盾しないように詳しく説明するのは難しい。
    初めてのときにすでに50代か60代であったと思われるお姐さんが、その後も20年以上「立ち」続けていたというのは驚くべきことだ。

    檀一雄の代表作『火宅の人』の中に、戦後すぐぐらいのパリで、当時日本国内では「パンパン」と蔑称された生業のある女性が、貧しい絵描きや留学生達を同胞として「おばちゃんの世話にならなかった者はいない」と言われるほど面倒をみた話が出てくる。そのおばちゃんが亡くなった冬の日、世話になった連中が集まってペール・ラシェーズの墓地に葬るとき、貧しい者揃いの彼らは供える花さえ買えず、ほうれん草の葉っぱを花の代わりに棺にいっぱい入れた、という場面がある。

    浅草のお姐さんも、亡くなった後、道行く人たちの多くがお姐さんの「立って」いた場所に花を手向けた。下町の人々の如何なる存在にも共に生きる同胞として注ぐ慈愛は、インドの辺境や古の山形の片田舎にならかつてあったが、今はノスタルジーの対象でしかないのかもしれない。
    改めて圧巻の写真群を眺めてみると、20年に渡る「お姐さん」の表情は一貫して、乾いた実はどこか内に秘めたものは見せまいとする笑顔とも無表情とも、どちらともとり得る顔をしている。

    その一連の顔の陰に、写真の撮し手さえもついに名を知り得なかった「お姐さん」の、内面に秘めた荒野を見てしまうのは私だけであろうか。

  • 20150426朝日新聞、紹介

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著者プロフィール

1945年山形県生まれ。法政大学文学部哲学科卒業後、遠洋マグロ漁船乗組員、暗室マンなどのさまざまな職業を経て写真家に。1973年より浅草で撮り続けている肖像写真群は『王たちの肖像』『や・ちまた』『PERSONA』『Asakusa Portraits』などの写真集に集成されている。長年にわたりテーマを追い続ける厳格な表現行為で知られ、インドや東京各地を撮り重ねるシリーズも継続中。随筆の著書も『印度や月山』(白水社)『眼と風の記憶』(岩波書店)などがある。

「2019年 『PERSONA 最終章』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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