勉強の哲学 来たるべきバカのために

著者 :
  • 文藝春秋
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レビュー : 129
  • Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163905365

作品紹介・あらすじ

勉強ができるようになるためには、変身が必要だ。勉強とは、かつての自分を失うことである。深い勉強とは、恐るべき変身に身を投じることであり、それは恐るべき快楽に身を浸すことである。そして何か新しい生き方を求めるときが、勉強に取り組む最高のチャンスとなる。なぜ人は勉強するのか?勉強嫌いな人が勉強に取り組むにはどうすべきなのか?思想界をリードする気鋭の哲学者が、「有限化」「切断」「中断」の技法とともに、独学で勉強するための方法論を追究した本格的勉強論。

感想・レビュー・書評

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  • 処女作『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』も、一定の評価を受けて一定の層に受容されている。その題名からも分かるように著者の専門はフランス現代思想。大学二年生のときに東浩紀の『存在論的、郵便的』に出会い、哲学を志したという。その著者が、『勉強の哲学』というタイトルで書いた本が、東大と京大の生協書店で売上No.1だという。今の学生もフランス現代思想を前提とした「勉強の哲学」なるものを興味を持って読むのかと思うと大変な驚きである。前著『動きすぎてはいけない』も読んでいないのだけれど、参加する読書会で取り上げるということなので読んでみた。

    「勉強」という一連の作業の中で、情報を探すということに関しては、著者がいうように現代はかつてないほど恵まれた環境となっている。90年代末に学生であった著者からしても「勉強のユートピア」と呼んでもいい時代になったという。それは逆に、今までにない程、情報と勉強に関するリテラシーを身に付けることが必要な時代でもある。だからこそ、少し意識の高い学生にこの本は受けるのかもしれない。

    著者は勉強をすることは、「ノリが悪くなることである」と告げる。勉強することによって、それまでの「ノリ」から自由になり、別の「ノリ」に移るということになる。それは著者自身の経験でもあったのだろうか。「勉強とは喪失すること」という。つまり、「勉強とは自己破壊である」ということである。そのことを著者はキモくなるとも表現する。東大・京大で売れているのは「キモく」なることへの自己正当化にもなっているのだろうか。

    そもそも人間は「他者によって構築されたもの」である。もう少しいうと「自分に言語がインストールされている」という事実が、他者によって構築されたものでことを示している。なぜなら「言語は他者」であるからである。そして、人間は「言語的なヴァーチャル・リアリティ」を生きているといえるのである。フランス現代思想においては、「言語」への拘りと同時にそこからの自由を求めることが哲学というものなのかもしれない。フランス現代思想とは、言語の他者性について考えることとだとすると、この本はそこから自由になるための勉強論であるのかもしれない。

    そして、ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアを、既存のコードから自由になるための思考スキルだという著者のフレームワークは知的な刺激ではある。著者はアイロニーを過剰化せずにユーモアへと折り返すことを推奨する。柄谷行人に『ヒューモアとしての唯物論』という著作がある。柄谷は、ここではアイロニーに対して、ユーモアを上に置いている。いずれにせよ、アイロニーとユーモアを対置するフレームは決して新しいものではない。

    著者は具体的な「勉強」のツールとして、フリーライティングを薦める。自分もEvernoteを利用して読書ノートを付けて、少し形をまとめてブクログに上げるようにしている。勉強を継続するためにノートアプリを利用して書くことを薦めるが、まったくその通りだと思う。

    そして、比較を続けること、絶対的な結論を出さないこと、最終的な決断をしないことこそが大切なのだという。その思考スキームは現実の世界においては、実際のところちっとも役に立たない。その意味で「勉強」とはすでに役に立つものでもなくなっているのだ。それでもなお「信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である」という言葉には強く共感するのである。

    この本を読んで、ポスト構造主義(ドゥルーズ・ガタリやデリダ、ラカン、バルト)が残したものは何であろうかと考えた。「深く勉強することは、言語偏重の人になることである」と著者はいう。それは、彼らを結果として裏切りはしなかったか。
    壮麗な装丁の『アンチ・オイディプス』を買ったとき、『差異と反復』も『千のプラトー』もまだ邦訳が出ていなかった。その『アンチ・オイディプス』も結局読むことなく書棚に鎮座している。『差異と反復』も『千のプラトー』は邦訳が出たけれども結局まだ買っていない。ラカンはそれ以上に受け付けられなかった。それでも、デリダは頑張って読んだと思う。その頃の自分は、彼らの言語に対してバーチャルであってもリアリティを得ることができなかった。言語偏重が過ぎて言語遊びになっているように感じた。どうしても深くその中に入り込むことができなかったのだ。違う「ノリ」に行けなかったのだ。


    本作の中にある著者の「欲望年表」から、著者は34歳まで東京大学の博士課程にいたことを示している。東京大学に入学したことを考えると例えば周りの親族はどう思っていたのかと勝手ながら想像するし、相応のプレッシャーや葛藤もあったであろうと思う。その中でもドゥルーズの研究を続けるということが強き意志の存在を示しているし、ドゥルーズやフランス現代思想の魅力についても示しているように思われる。そして、本書は著者自身の自己正当化のための本であるようにも感じたのである。それは、そうであっても全くかまわないのだけれど。


    最近、老いによるものであろうか言語能力の劣化(言葉が思い出せないなど)によって改めて言語の存在を意識する。言語なくして思考がないということもより実感するようになった。言語能力が年を重ねるごとに向上している間は意識に上らないようなものが、言語能力がピークを過ぎるにあたって、かつて得られたものとの差によって、これまでにないものが意識に上ってくる。それは他者としての言語そのものであるのかもしれない。それは悲しいことでもあるが、新しい体験として期待もするのである。そう思うべきであるのかもしれない。


    ---
    参考: 「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」
    http://yokato41.blogspot.jp/2014/06/blog-post_29.html?m=1

  • 勉強するとはどういうことかを書いた本。
    「勉強の哲学」という題名だが、「哲学の勉強」ともいえる哲学の入門書。

    本来、哲学の本は、難解な哲学用語で書かれているため、読んで理解するのは難しいが、この本は、若者たちにわかりやすい身近な例え話(芸能人の不倫の話題における会話のコードとは何か、など)を挙げ、説明することで、非常に読みやすくなっている。

    ただし、それは比喩として分かりやすいだけで、本来の意味を知ろうとすると、「なんでなのだろう?」とわからない事が多数。例えばこの本で面白い部分で、アイロニー=ツッコミ<>ユーモア=ボケという説明があり、真を知ろうと考えを深めていくアイロニーこそが、勉強の本質といいながら、真の答えには絶対に行きつかないから、途中でユーモアの方にいき、観点、切り口をたくさんもち、連想を見つけていく。その上で享楽的という部分にもたどり着く。という話があるが、なぜ「真の答えにいきつかないか」ということは、感覚的にはわかるが、厳密になぜそのように説明できるのかというと、私には読み取れなかった。

    ただ、筆者も本文で主張しているが、すみからすみまで書いてあることを理解する必要はない。という事なのかもしれない。
    とにかく、この本を読んで、哲学的に思想するとはどういことか、勉強するとはどういうことか、ということに興味を持ち、そこからどんどん哲学、勉強へのめり込んでいければ、この本を出す目的を達成しているのだろう。

    また、哲学的な考え方を身に着けることで、今までになかった視点から自分自身を客観的にみることができるようになるのではないだろうか。

    この本は、割と難しい哲学の本であり、そんなにとっつきやすい記載でもないと思うので、本が売れているということに、驚きを感じる。

    何か、この本を読んだら、薀蓄を語りたくなる部分はあり、ある意味ハウトゥー的に読めるのかもしれない。哲学的な語り方を。

    また、東大生、京大生が読んでいる。とのことだが、意欲のある学生が少し背伸びして読み始めていくうちにどんどん世界が広がっていく、そんな経験を影響しているのかも知れないと思った。

    副タイトルの、「来るべきバカのために」というのは、頭が超良い人が、わざと「バカ」という言葉を使っている感じがして、もしかして、筆者は賢すぎることをコンプレックスに感じて、「バカ」という言葉に憧れているのでは?と思ったけど、idiotの意味なんですね。

    ドストエフスキーの白痴のムイシュキン公爵をイメージすると、なんとなく筆者のいわんとすることが理解できる気がした。どちらかというと純粋さに近い、平衡感覚がないような感じか。

  • 勉強=いままでのノリから抜け出すこと

    相対的に比較していくことで世界を認知するならば、比較対象を増やしていくことはより比較の精度を上げることになる。

    懐疑(アイロニー)と連想(ユーモア)を繰り返して思考を深めていくが、それは際限がないので享楽(自分のこだわり)によってある程度見切りをつける。

    自分の享楽について理解するためには欲望年表を作成すると良い。

    「ある程度勉強した状態」はあっても「勉強完了」の状態はないので享楽を繰り返しながら深めていけば良い。

    この知の有限化のプロが教師。教えられる者は何を教わっているかと同時に教師は何を切り捨てているのかも意識できた方が良い。

    学問も、それぞれの世界にノることと同義。入門書→教科書→基本書→専門書と深めていく中でその学問のノリに入っていく。そうした書物はプロ・モードで書かれているためにそうして慣れていかないと理解ができないから。

    本は修正が効かない分注意深く書かれていることが多い。でも間違っていることも往往にしてある。プロ・アマ両輪で読むことによって必要な分だけ自分のものにしていく。

    ノートは勉強のタイムラインになる。
    考えた結果を書くというより書きながら考える。箇条書き(アウトライン化)も有効。

  • また改めて自主学習を始めるに当たって、なんで勉強したいって思うんだろ?ってメタ的に考えてたから読んだ。
    (今後はあんまメタ思考に逃げないように手は動かそう。。)

    自由に対する考え方が、スッと入ってきた。1章だけでも自分にとっては読む価値があった。完全な自由なんてそもそもない中で、環境の中にいる自分を相対化するためなんだな。だから勉強が好きなんだ。
    SNSで見て納得感あったように、「ヤンキーほど校則に詳しい」ってことなんだと思う。

    ・深く勉強するとはノリが悪くなることである
    ・勉強は獲得するものではなく、今までの自分を捨てること
    ・そもそも無限の選択肢を持てることはありえないという立場にたつと、自由とは有限との付き合い方を変えることである
    ・どうするかというと勉強することで言葉を意識し、その場にいる自分を相対化すること

    ・漫画のパターンがわかって面白く無くなったのは、ある。。
    ・環境における当たり前を察知する力が弱い人はズバッと正論(当たり前を取っ払った時の合目的的な発言)をしてしまうんだろうな。だから、「そんなんできたら苦労しないよ」って返しをしたくなる。

  • 勉強とは、現在の環境から別の環境の可能性を考えることである。

    勉強とは何か、根源的に哲学的に掘り下げられた一冊。他の『勉強本』とは異彩を放ち、他の一般書がいかに独断と偏見に満ち溢れているか分かる。前半は理解するまで時間がかかるが、後半はその分理解しやすい。欲望年表によって自分の享楽を振り返るのは気恥ずかしいが、勉強を継続する上で重要である。

  • 著者は,思考を展開するために」「ノリ」「ツッコミ」「ボケ」という親しみやすい言葉で表現しています。「深く」勉強することはノリが悪い。ノリのいい周りに合わせて動く生き方は深く勉強しないことなのだと。ノッていた自分をわざと破壊する、自己破壊に踏み込みたい人は手に取ってみてください。

  • すこしのぞかせていただいた、現代思想読書会の課題本。
    勉強の本という自己啓発本の皮を被った哲学本。

    多すぎる情報の洪水の中で何を有限化するのか。
    これまでの同調圧力を外して、わざとノリが悪い人になる。キモい人になる。

    勉強における自己破壊とは何か。
    自分自身の享楽的こだわり 欲望年表を洗い出す作業はこれから試みてみるとしよう。

    簡単にかみ砕いて書いてあるようで深い知識もさらっと必要になる本。

    素敵な本。
    再読したい。

  • 【備忘録】


    勉強すると、第一段階としていったんノリが悪くなる。
    そしてバカが出来なくなるという第二段階を経て、最後に新たな意味でのノリを獲得する。


    人間にとって世界は二重になっている。
    物質の世界と言語の世界が重なっている。


    言葉は道具的な使用も出来るし、玩具的な使用も出来る。


    アイロニーとユーモアの思考スキルをマスターし、普通にしゃべれなくなった後は、いわば一周回って環境にまた戻り、たんにあわせるだけではない形でそこに参加し直すことが、できるようになる。


    コードを客観視する「最小限のツッコミ意識」が、勉強の大前提である。
    コードを客観視するとはどういうことか。
    自分だけその場にいながらにして、いないみたいになる状態。
    場にコミットせずにメタな立場に留まる。
    すなわち、この環境に限ってはこうするものなんだ、こういうコードなんだと、退いて眺めている状態。


    アイロニーとユーモアは、過剰になるとナンセンスな極限状態に転化する。
    そこで、大は小を兼ねるという意味で、ナンセンスという極限を知った上でそこまではいかないという意識をもつことが、アイロニーとユーモアの操作性を上げると考える。


    アイロニーとは。
    ケーキバイキングで「おいしいって答え以外許されてるの?」
    芸能人の不倫騒動について「でもそもそも不倫って悪いことなの?」

    アイロニーの過剰とは。
    そもそも不倫は悪なのか→悪とはそもそも何なのか→不倫とは
    どういうことか→人を愛するとは…
    高次のメタな根拠づけの問いが、連鎖的に引き起こされ、超コード化が繰り返された状態。
    無限に遠くにある究極の根拠に向かって、話を深めては壊し、深めては壊しと、際限が無くなる。
    コード不在な状態に近づいていく。
    超コード化を繰り返しても、コードからは逃れられない。すなわち、現実それ自体には到達できない。
    結局、ある環境の外には別の環境があるだけ。
    アイロニーの過剰はナンセンスと同義である。

    大切なのは、言語の環境依存性を認めた上で、様々な環境の間を、諸言語の間を行ったり来たりすることや、ある環境に縛られた保守的状態から脱し、一周回って環境依存性を認めることである。


    ユーモアとは。
    芸能人の不倫騒動について「それってさ、音楽なんじゃない?」コードが無理矢理音楽のウンチクの方にまで拡張されてしまう。
    ケンカについて、「サル学で言うと、ゴリラの研究で攻撃性について何々って言っていて…」というのも同様である。
    「不倫は悪だ」を疑って、非難できなくするのでは無く、非難することをそれはそうだとしつつ、別の見方へと話をひねってしまう。

    ユーモアの過剰とは。
    コードの不確定性を最大限にまで拡張してしまえば、どんな発言をつないでもつながる、つながっていると解釈すればいい。
    話の足場が多すぎて不在になる。


    決断ではなく、比較を中断する。
    すなわち比較を続ける中で、仮にベターな結論を出す。
    比較がちゃんと比較であるならば、その結論は仮固定でなければならない。
    比較はある結論が仮固定されても、水面下で続く。
    私たちは、ある仮固定の結論を、比較の継続の中で徐々に放棄し、また異なる仮固定の結論へと移っていく。
    ある結論を仮固定しても比較を続けよ。
    つまり具体的には、日々、調べ物を続けなければならない。
    別の可能性につながる多くの情報を検討し、蓄積し続ける。すなわち、これは勉強を継続することである。


    勉強成果のアウトプットをうまくコントロールできず、適当に流しておけばよい状態でアイロニカルな、また変にユーモラスな発言をやらかしてしまう。
    そんな風になりたくないと思うならば、それは勉強への大きな抵抗である。
    その抵抗を突破する為に、少なくともある時期は、アイロニカルな、ユーモラスな発言のやらかしを積極的にやろうとするくらいでいい。


    勉強を嫌にならず続けるには完璧主義を避ける必要がある。
    いつでも不完全な学びから、別様に不完全な学びへと移っていく。
    仮固定から仮固定へ。


    勉強の足場とすべきは専門書。
    もっと限定すれば、学問的な研究書。
    書物には、専門書とそれ以外がある。
    一般書と呼ばれるもの。
    一般書は大きく言えば、学問的な厳密さから離れているもの。
    専門書は大きな書店でなければ置いていないこともしばしば。
    ほとんどの本は一般書なので、本格的に勉強を始めるとなったら、意識的に専門書を探しに行くことが必要。

    難しい本を読むのが難しいのは、無理に納得しようと思って読むから。
    読書と言うのは知らない部屋にパッと入って、物の位置関係を把握するようなイメージ。
    その時には、なぜそこにそれが置いてあるのかと言う意味はすぐには理解できない。
    そうだとしても。例えば奥にはコピー機が、その手前にはテーブルがあり、テーブルの上にはマグカップが二つあって、と言うような把握は出来る。
    このたとえで言いたいのは納得よりも先に、使われている言葉の種類や、論理的なつながりなどを把握してほしいという事。
    テクストの骨組、構造を分析することが大切。

  • 2017年発刊の人文書中で話題になった一冊。千葉雅也はlifeとかゲンロンなどで、かすめる程度に知っていたが、なんとなく自己愛過剰なルックスなのでちょっと遠巻きに見ていた。たまたま電車での長距離移動があり、kindleで暇つぶしを探していたら出会い、ものの勢いで読み始めた。

    しかし面白かった。ただのポエミーなハウツー本だったら嫌だなと思っていたが、ちょっと先入観が強すぎたようで、準専門書と言ってもいいぐらいしっかり理論的で、かつ読みやすい内容。フランス現代思想の影響を色濃く反映しており、言語に対する視点と扱いから、勉強を考えるという感じ。理論はとてもうなずけるもので、非常にためになった。僕自身も勉強好きで、職場でも多少浮くところがあるので、こういう形で理論づけしてもらえると自身のことながら納得がいって、ありがたかった。

    実践編では「読む」ことと「書く」ことを教えてくれている。自身に不徹底なところがあるので、時に思い出しながら癖をつけていきたい。


    18.1.22

  • ものすごいわかりやすい文章を追っていくうち、なんだかよくわからない混乱がやってきますが、でも、一方で感覚はわかるわかるモードに入っている、そんな読書でした。本書の中でもピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』を引き合いに、読書は完璧にはできない、と言ってくれて、その布石を打ってくれていたりします。わかる感じ、というか沁みてくる感じなのはアイローニー=ツッコミ=深追い、ユーモア=ボケ=目移り、のあたりから。正解を求めようとする完璧主義が、決断主義を生み、それが他者との共存を許さない不寛容となり、無限に多様性を追い求めるコレクションが、先延ばしを生み、それが非当事者意識となる、なんか、いまの社会の気分の見取り図として、ものすごく腹落ちしました。そのための処方箋が「仮の有限化」。アイロニーからユーモアへ。ユーモア的な有限化へ。比較を続けながら比較を中断する、ということが考え続ける、ということ。それが勉強を続けるということ。答えのない時代(答えがある時代があったか、どうかわからないけど…)の生き方としてなんかグッと来ました。

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著者プロフィール

1978年生まれ。哲学/表象文化論。フランス現代哲学の研究と、美術・文学・ファッションなどの批評を連関させて行う。著書に『動きすぎてはいけない』『別のしかたで』『勉強の哲学』などがある。

「2017年 『動きすぎてはいけない』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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