勉強の哲学 来たるべきバカのために

著者 :
  • 文藝春秋
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  • / ISBN・EAN: 9784163905365

作品紹介・あらすじ

勉強ができるようになるためには、変身が必要だ。勉強とは、かつての自分を失うことである。深い勉強とは、恐るべき変身に身を投じることであり、それは恐るべき快楽に身を浸すことである。そして何か新しい生き方を求めるときが、勉強に取り組む最高のチャンスとなる。なぜ人は勉強するのか?勉強嫌いな人が勉強に取り組むにはどうすべきなのか?思想界をリードする気鋭の哲学者が、「有限化」「切断」「中断」の技法とともに、独学で勉強するための方法論を追究した本格的勉強論。

感想・レビュー・書評

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  • http://sanova.site/?eid=160

    >こういう本に感動する人がいることは仕方ないと思いますが、
    たいした学説を著したわけでもない若手研究者をスター扱いするノリに対して、
    まったくアイロニカルになれないのに、本書の内容を理解したことになるのでしょうか。
    そのあたりをしっかり考えたほうがいいと思います。

    • やまさん
      夜型さん
      こんにちは。
      いいね!有難う御座います。
      「取次屋栄三」は、栄三郎の人柄が一番の読みどころです。
      取次屋栄三は、2010年...
      夜型さん
      こんにちは。
      いいね!有難う御座います。
      「取次屋栄三」は、栄三郎の人柄が一番の読みどころです。
      取次屋栄三は、2010年10月~2019年08月までで20冊書かれています。
      これだけ長く続くのは、それだけ売れているのだと思います。
      いい本を見つけたと思っています。
      しかし、貸出期限が迫っているので2作目を読むのは、少し先になると思います。
      やま
      2019/12/05
  • 自分は他者によって構築されたもの。言語を通して、私たちは、他者に乗っ取られている。言葉は人間のリモコンである。畳み掛けるような自己規定法の解説。他人に責められた事などを思い出せば、一瞬、なるほどとも思うが、無言の圧力のような事象を考えれば「言葉」というよりも「他者の存在」そのものが自己の規定を補強するものであり、言葉はそれをスムーズに運ぶ補助的ツールと言える。あくまで、他者や言葉は補助、補強のための因子であり、自我の反応により、自己は形成される。同じ本を読んで育っても、その影響は個々に異なり、自己決定は必ず自我次第。つまり、乗っ取られているのではなく、言語や他者を一成分にしている、という方が正しくはないか。

    本著で語られる言葉のコード、アイロニーやユーモアの論理も面白い。仲間内の言葉、専門用語のように言葉にはコードがあると。んー、外国語という存在からして、わざわざ再定義するまでもない自明な話では。日本語か英語か。で、複数言語領域の転換をユーモアと捉えるという主張を援用するなら、結句、あ、それはルー大柴の事よねと、早速、アイロニーが浮かぶ。

    千葉雅也。動画で見て面白そうな人だなと思ったが、ユーモアが過ぎて、アイロニーに沈む。ドレスコードならぬ、言葉のコードを纏い、賢さと共に勢いは衰える論。副題さえ、来たるべきバカ、なのか、向かうべきバカなのかと。

  • 【はじめに】
    著者の処女作『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』はすでに一定の評価を受け、売れ行きもそこそこらしい。その処女作のタイトルからも分かるように、著者の専門はフランス現代思想である。哲学を志したきっかけが、大学二年生のときに東浩紀の『存在論的、郵便的』に出会ったことだという。その著者が、『勉強の哲学』というタイトルで書いたのがこの本だが、何と東大と京大の生協書店で売上No.1だという。今の学生もフランス現代思想を前提とした「勉強の哲学」なるものを興味を持って読むのかと思うと大変な驚きである。前著でこれまた売れ行き好調な『動きすぎてはいけない』も読んでいないのだけれど、参加する読書会で取り上げるということなので読んでみた。

    【概要】
    ■ 「勉強」について
    「勉強」という一連の作業の中で、「情報を探す」ということに関して現代はかつてないほど恵まれた環境となっている。90年代末に学生であった著者から見てもその観点では「勉強のユートピア」と呼んでもいい時代になったという。それは逆に、今までにない程、情報と勉強に関するリテラシーを身に付けることが必要な時代になったということでもある。だからこそ、少し意識の高い学生にこの本は受けるのかもしれない。

    著者は勉強をすることは、「ノリが悪くなることである」と告げる。勉強することによって、それまでの「ノリ」から自由になり、別の「ノリ」に移るということになるからだと表現する。それは著者自身の経験でもあったのだろうか。「勉強とは喪失すること」であり、また「勉強とは自己破壊である」という。そのことを著者はキモくなるとも表現する。東大・京大で売れているのは、「キモく」なることへの自己正当化にもなっているのだろうか。

    そもそも人間は「他者によって構築されたもの」である。もう少しいうと「自分に言語がインストールされている」という事実が、他者によって構築されたものでことを示しているのである。なぜなら明らかに「言語は他者」であるからである。そして、そこから人間は「言語的なヴァーチャル・リアリティ」を生きていると言えうことができる。フランス現代思想には、「言語」への拘りと同時にそこからの自由を求めることがその思想の中心となっている。そして、フランス現代思想が言語の他者性について考えることとだとすると、この本はそのことに苦しんだ著者の、そこから自由になるための勉強論、というメッセージであるのかもしれない。

    ■ ツッコミとボケ (アイロニーとユーモア)
    ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアを、既存のコードから自由になるための思考スキルだという著者のフレームワークは知的で刺激な考え方ではある。著者はアイロニーを過剰化せずにユーモアへと折り返すことを推奨する。

    アイロニーとヒューモアという点で思い出すのは、柄谷行人に『ヒューモアとしての唯物論』という著作である。柄谷は、この本の中でアイロニーに対して、ユーモアを上に置いている。いずれにせよ、アイロニーとユーモアを対置するフレームは決して新しいものではない。しかし、その議論が繰り返されるというのは、そこには何か重要なことが含まれているということでもある。いかに「闘争」ではなく「逃走」するのかという現代思想の鍵と弱みがそこにあるような気がするのだ。

    ■ ツールとしてのフリーライティング
    著者は具体的な「勉強」のツールとして、フリーライティングを薦める。自分もEvernoteを利用して読書ノートを付けて、少し形をまとめてブクログに上げるようにしている。勉強を継続するためにノートアプリを利用して書くことを薦めているが、まったくその通りだと思う。

    ■ 限りない保留
    著者は、比較を続けること、絶対的な結論を出さないこと、最終的な決断をしないことこそが大切なのだという。その思考スキームは、現実の世界においては、実際のところちっとも役に立たない。その意味で「勉強」とはすでに役に立つものでもなくなっているのだ。それでもなお「信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である」という言葉には強く共感するのである。

    【所感】
    この本を読んで、ポスト構造主義(ドゥルーズ・ガタリやデリダ、ラカン、バルト)が残したものは何であろうかと考えた。「深く勉強することは、言語偏重の人になることである」と著者はいう。それは、彼らを結果として裏切りはしなかったか。
    壮麗な装丁の『アンチ・オイディプス』を買ったとき、『差異と反復』も『千のプラトー』もまだ邦訳が出ていなかった。その『アンチ・オイディプス』も結局読むことなく書棚に鎮座している。『差異と反復』も『千のプラトー』も、その後邦訳が出たけれども結局まだ買っていない。ラカンの『エクリ』はそれ以上に受け付けることができなかった。それでも、デリダは頑張って読んだ。
    その頃の自分は、彼らの言語がバーチャルなものであったからなのか、少なくともそれらの著作からリアリティを得ることができなかった。言語偏重が過ぎて、その結果として言語遊びになっているようにしか感じられなかった。どうしても深くその中に入り込むことができなかったのだ。違う「ノリ」に行けなかったのだ。

    本作の中にある著者の「欲望年表」から、著者は34歳まで東京大学の博士課程にいたことがわかる。東京大学に入学して期待を担っていたであろう著者のことを、例えば周りの親族はどう思っていたのかと勝手ながら想像するし、相応のプレッシャーや葛藤もあったであろうと思う。その中でもドゥルーズの研究を続けるということが強き意志の存在を示しているし、ドゥルーズやフランス現代思想の魅力についても示しているように思われる。そして、本書は著者自身の自己正当化のための本であるようにも感じたのである。そうであっても全くかまわないのだけれど。

    最近、老いによるものであろうか言語能力の劣化(言葉が思い出せないなど)によって逆に改めて言語の存在を意識する。言語なくして思考がないということもより実感するようになった。言語能力が年を重ねるごとに向上している間は意識に上らないようなものが、言語能力がピークを過ぎるにあたって、かつて得られたものとの差によって、これまでにないものが意識に上ってくる。それは他者としての言語そのものであるのかもしれない。それは悲しいことでもあるが、新しい体験として期待もするのである。少なくとも、そう思うべきであるのだと。


    ---
    参考: 「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」
    http://yokato41.blogspot.jp/2014/06/blog-post_29.html?m=1

  • 勉強が気になっているすべての人に向けて書かれています。と最初にある。根本的に、「勉強とはどういうことか?」を考えてみませんか? と。

    深く勉強しないというのは、周りに合わせて動く生き方。それは状況にうまく「乗れる」、ノリのいい生き方。周りに対して共感的な生き方。

    逆に「深く」勉強することは、流れのなかで立ち止まること、「ノリが悪くなる」こと。・・そして時間をかけ勉強すると、その段階を通り越し「新しいノリ」に変身するという。そうするとこれまでのノリでできた「バカなこと」がいったんできなくなる。「昔はバカやったよなー」というような昔のノリが失われる。しかしその先には「来るべきバカ」に変身する可能性が開けていると。この本は、そこへの道のりをガイドするものだ、と。

    勉強の目的とは、これまでとは違うバカになることだ。

    う~む、最初から目からうろこだなあ。まさにノリのいい生き方をしてきた自分だ。研究者は勉強して勉強して、自説を生み出し、超越したノリの世界、俯瞰した世界にいるの人なのか。

    後半では勉強のやりかた。
    まずは、信頼できる著者による紙の書物を読む。

    まずは複数の入門書を読み比較する。「ざっと知っている」という範囲を把握し、最初の足場を仮固定する。一冊くらいでわかったと思われては困る。複数読んでいろんな角度から、分野の輪郭を眺める必要がある。

    次に「教科書」 これは読み通すのではなく、入門書の理解を深めるための事典として使う。「専門分野の名前 教科書」で検索すれば紹介している記事が見つかるでしょう、とある。「社会学」有斐閣2007 と学問の名そのものの書名が多い。

    次に「基本書」 これは教科書より上級のレベル。その分野の中心的なテーマについて詳しく書かれた重要文献。入門書や教科書に繰り返し出てくる文献がそれ。

    ああ、これを学生時代に読みたかったなあ。しかし学びは、いくつになっても発生する。

    また、中断によって、一応の勉強を成り立たせる。どんな段階にあっても、「それなりに勉強した」のです。完璧はないのです。とある。しかし中断の後に、また再開してほしい。

    ・・以上、つまみ食いしました。

    2017.4.10第1刷 2017.4.30第3刷 図書館.

  • 1.勉強することの意味を考えたくて読みました。

    2.勉強とは自己破壊であり、ノリが悪くなることです。これは、勉強してない今までの自分と比較し、深く勉強することで新しい環境へと変化していくことができると言っています。人はどうしても同調圧力にノッてしまう生き物ですが、勉強することは人とは違う道を歩むことになります。そのためには、自分の考えを常に言語化しておく必要があります。言語化するためには多様なジャンルの本を読むことやメモをしておくなどがあります。
    本書では勉強とは何かということを踏まえて、勉強の役立つ未来に向けて話しています。

    3.言葉遣いが哲学っぽくて理解するのに苦労しました。勉強することで同調圧力を跳ね除ける、今までのノリと違くなるのは当然だと言っています。ただし、その勉強が本当にのめり込むくらい面白がっているかどうかが大切です。
    「勉強しなきゃ」という危機感を持つことは大切ですし、そう思う人が少なくなっているのも事実なのですが、それよりも面白がった方がより良くなるんじゃないのかと思いました。それによって僕の場合、「なんか楽しくてやってる」くらいの感覚でいた方が身につきやすいこともわかりました。

  • 勉強するということをノリが悪くなる、と説明する冒頭からけっこうわかりやすかったな。アイロニーとユーモア、ボケとツッコミ。勉強とか哲学なんて言ってしまうと、ちょっと引いてしまう分野を、日常のわかりやすい言葉に置き換えて、そして楽しく語ってくれたと思う。読んで楽しかった。

    エバーノートとか、ちらっと使ったことあるんだけど、もう少し活用してみようと思った。勉強するとは、そこで止まることではなく、あるいはどこかに行きつくことではなく、常に動き続けることなんだよね。万物は流転するとか、動的平衡とか、しばしば聞く概念に通じるものがあるな、なんて思った。

  • 勉強するとはどういうことかを書いた本。
    「勉強の哲学」という題名だが、「哲学の勉強」ともいえる哲学の入門書。

    本来、哲学の本は、難解な哲学用語で書かれているため、読んで理解するのは難しいが、この本は、若者たちにわかりやすい身近な例え話(芸能人の不倫の話題における会話のコードとは何か、など)を挙げ、説明することで、非常に読みやすくなっている。

    ただし、それは比喩として分かりやすいだけで、本来の意味を知ろうとすると、「なんでなのだろう?」とわからない事が多数。例えばこの本で面白い部分で、アイロニー=ツッコミ<>ユーモア=ボケという説明があり、真を知ろうと考えを深めていくアイロニーこそが、勉強の本質といいながら、真の答えには絶対に行きつかないから、途中でユーモアの方にいき、観点、切り口をたくさんもち、連想を見つけていく。その上で享楽的という部分にもたどり着く。という話があるが、なぜ「真の答えにいきつかないか」ということは、感覚的にはわかるが、厳密になぜそのように説明できるのかというと、私には読み取れなかった。

    ただ、筆者も本文で主張しているが、すみからすみまで書いてあることを理解する必要はない。という事なのかもしれない。
    とにかく、この本を読んで、哲学的に思想するとはどういことか、勉強するとはどういうことか、ということに興味を持ち、そこからどんどん哲学、勉強へのめり込んでいければ、この本を出す目的を達成しているのだろう。

    また、哲学的な考え方を身に着けることで、今までになかった視点から自分自身を客観的にみることができるようになるのではないだろうか。

    この本は、割と難しい哲学の本であり、そんなにとっつきやすい記載でもないと思うので、本が売れているということに、驚きを感じる。

    何か、この本を読んだら、薀蓄を語りたくなる部分はあり、ある意味ハウトゥー的に読めるのかもしれない。哲学的な語り方を。

    また、東大生、京大生が読んでいる。とのことだが、意欲のある学生が少し背伸びして読み始めていくうちにどんどん世界が広がっていく、そんな経験を影響しているのかも知れないと思った。

    副タイトルの、「来るべきバカのために」というのは、頭が超良い人が、わざと「バカ」という言葉を使っている感じがして、もしかして、筆者は賢すぎることをコンプレックスに感じて、「バカ」という言葉に憧れているのでは?と思ったけど、idiotの意味なんですね。

    ドストエフスキーの白痴のムイシュキン公爵をイメージすると、なんとなく筆者のいわんとすることが理解できる気がした。どちらかというと純粋さに近い、平衡感覚がないような感じか。

  • 勉強=いままでのノリから抜け出すこと

    相対的に比較していくことで世界を認知するならば、比較対象を増やしていくことはより比較の精度を上げることになる。

    懐疑(アイロニー)と連想(ユーモア)を繰り返して思考を深めていくが、それは際限がないので享楽(自分のこだわり)によってある程度見切りをつける。

    自分の享楽について理解するためには欲望年表を作成すると良い。

    「ある程度勉強した状態」はあっても「勉強完了」の状態はないので享楽を繰り返しながら深めていけば良い。

    この知の有限化のプロが教師。教えられる者は何を教わっているかと同時に教師は何を切り捨てているのかも意識できた方が良い。

    学問も、それぞれの世界にノることと同義。入門書→教科書→基本書→専門書と深めていく中でその学問のノリに入っていく。そうした書物はプロ・モードで書かれているためにそうして慣れていかないと理解ができないから。

    本は修正が効かない分注意深く書かれていることが多い。でも間違っていることも往往にしてある。プロ・アマ両輪で読むことによって必要な分だけ自分のものにしていく。

    ノートは勉強のタイムラインになる。
    考えた結果を書くというより書きながら考える。箇条書き(アウトライン化)も有効。

  •  千葉雅也さん、かれこれ一年くらいずっと気になっていた!書店の本棚で名前を見かけるたび、読んでみようかな、でもしばらく前から取り組んでいる島田雅彦さんの「尾行」で今も継続的に忙しいし、たぶん千葉さんの本を一冊読んじゃったらどんどん他のも読みたくなって新たな「尾行」旅が始まっちゃうし、哲学の本ならハイデガーと木田元さんが好きでまだ読んでいない本たくさんあるし、ここから新しい哲学者さんに手を出すのはやめておいた方がいいかな、などと逡巡してなかなか踏み出せなかった。そんな折、息子の小学校の懇談会で、以前から息子がお世話になっていてわたしもとてもいい方だなと思っていた先生が、推薦図書としてこの本を挙げていた。時が来た!と思い、学校帰りに図書館に直行した。
     すごくよかった!蛍光ペンで何本も線を引きたい衝動に駆られまくるも、図書館の本なのでできなかったのが残念。たぶん返却したあと自分用に一冊買う。
     『勉強の哲学』というタイトルながら、誰彼構わず「勉強は素晴らしい!」「勉強するべき!」と押し付けてくるような内容ではなく、「勉強するとこういうことが起こるかもよ、興味があるなら読んでみたら?」という軽快なスタンス。勉強するもしないも本人次第、どちらが正しいとかはない。

     「いまの生き方で十分楽しくやれているなら、それ以上「深くは勉強しない」のは、それでいいと思うのです。
     生きていて楽しいのが一番だからです(P.11)」

     一般的に「哲学書」と聞いて思い浮かべるような難解な文章はないので、哲学という分野に馴染みがなくても読みやすいとは思うけれど、とはいえ、聞き慣れない語彙や概念(「勉強の有限化」、「環境の『コード』」など)が次々と登場したり、日常的に使われる単語(「他者」、「ノリ」、「決断」など)に独自の意味が付与されたりするので、何かしながら隙間時間にちょこちょこ、というような読み方は難しいかもしれない。わたしは読み進めていくにあたり、これらの独自の語彙やその新たな意味を脳内に定着させることが必要と感じたので、重要語句辞典のようなかたちでノートにメモを取りながら読んだ。
     何かを学び始めるにあたって手に取るべき本の種類と選び方、その本の読み方、信頼できる研究者や専門家の見つけ方といった、勉強に際しての読書論も展開されていてとても興味深かった。文中で千葉さんがでおすすめしていた、ピエール・バイヤール著『読んでいない本について堂々と語る方法(筑摩書房)』もおもしろそうだったので図書館で予約した。こうやって次から次へと読みたい本が伝染していく。伝染?なんか違う?まあいいか。楽しみ!

  • これはもう千葉雅也さんによる『独学大全』ではないか。双方の読者はかなり重なっているのではないでしょうか。それにつけても自分は「連想型」で行ったきり戻ってこないタイプだと実感しました。
    蛇足ながらも「両利き経営」で対応付けると、
     ツッコミ = アイロニー = 深化(exploitation)
     ボケ = ユーモア = 探索(exploration)
    であろうと感じました。

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著者プロフィール

1978年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。
著書に『意味がない無意味』(河出書房新社、2018)、『思弁的実在論と現代について 千葉雅也対談集』(青土社、2018)他

「2019年 『談 no.115』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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