勉強の哲学 来たるべきバカのために

著者 :
  • 文藝春秋
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レビュー : 146
  • Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163905365

作品紹介・あらすじ

勉強ができるようになるためには、変身が必要だ。勉強とは、かつての自分を失うことである。深い勉強とは、恐るべき変身に身を投じることであり、それは恐るべき快楽に身を浸すことである。そして何か新しい生き方を求めるときが、勉強に取り組む最高のチャンスとなる。なぜ人は勉強するのか?勉強嫌いな人が勉強に取り組むにはどうすべきなのか?思想界をリードする気鋭の哲学者が、「有限化」「切断」「中断」の技法とともに、独学で勉強するための方法論を追究した本格的勉強論。

感想・レビュー・書評

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  • http://sanova.site/?eid=160

    >こういう本に感動する人がいることは仕方ないと思いますが、
    たいした学説を著したわけでもない若手研究者をスター扱いするノリに対して、
    まったくアイロニカルになれないのに、本書の内容を理解したことになるのでしょうか。
    そのあたりをしっかり考えたほうがいいと思います。

  • 処女作『動きすぎてはいけない――ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』も、一定の評価を受けて一定の層に受容されている。その題名からも分かるように著者の専門はフランス現代思想。大学二年生のときに東浩紀の『存在論的、郵便的』に出会い、哲学を志したという。その著者が、『勉強の哲学』というタイトルで書いた本が、東大と京大の生協書店で売上No.1だという。今の学生もフランス現代思想を前提とした「勉強の哲学」なるものを興味を持って読むのかと思うと大変な驚きである。前著『動きすぎてはいけない』も読んでいないのだけれど、参加する読書会で取り上げるということなので読んでみた。

    「勉強」という一連の作業の中で、情報を探すということに関しては、著者がいうように現代はかつてないほど恵まれた環境となっている。90年代末に学生であった著者からしても「勉強のユートピア」と呼んでもいい時代になったという。それは逆に、今までにない程、情報と勉強に関するリテラシーを身に付けることが必要な時代でもある。だからこそ、少し意識の高い学生にこの本は受けるのかもしれない。

    著者は勉強をすることは、「ノリが悪くなることである」と告げる。勉強することによって、それまでの「ノリ」から自由になり、別の「ノリ」に移るということになる。それは著者自身の経験でもあったのだろうか。「勉強とは喪失すること」という。つまり、「勉強とは自己破壊である」ということである。そのことを著者はキモくなるとも表現する。東大・京大で売れているのは「キモく」なることへの自己正当化にもなっているのだろうか。

    そもそも人間は「他者によって構築されたもの」である。もう少しいうと「自分に言語がインストールされている」という事実が、他者によって構築されたものでことを示している。なぜなら「言語は他者」であるからである。そして、人間は「言語的なヴァーチャル・リアリティ」を生きているといえるのである。フランス現代思想においては、「言語」への拘りと同時にそこからの自由を求めることが哲学というものなのかもしれない。フランス現代思想とは、言語の他者性について考えることとだとすると、この本はそこから自由になるための勉強論であるのかもしれない。

    そして、ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアを、既存のコードから自由になるための思考スキルだという著者のフレームワークは知的な刺激ではある。著者はアイロニーを過剰化せずにユーモアへと折り返すことを推奨する。柄谷行人に『ヒューモアとしての唯物論』という著作がある。柄谷は、ここではアイロニーに対して、ユーモアを上に置いている。いずれにせよ、アイロニーとユーモアを対置するフレームは決して新しいものではない。

    著者は具体的な「勉強」のツールとして、フリーライティングを薦める。自分もEvernoteを利用して読書ノートを付けて、少し形をまとめてブクログに上げるようにしている。勉強を継続するためにノートアプリを利用して書くことを薦めるが、まったくその通りだと思う。

    そして、比較を続けること、絶対的な結論を出さないこと、最終的な決断をしないことこそが大切なのだという。その思考スキームは現実の世界においては、実際のところちっとも役に立たない。その意味で「勉強」とはすでに役に立つものでもなくなっているのだ。それでもなお「信頼に値する他者は、粘り強く比較を続けている人である」という言葉には強く共感するのである。

    この本を読んで、ポスト構造主義(ドゥルーズ・ガタリやデリダ、ラカン、バルト)が残したものは何であろうかと考えた。「深く勉強することは、言語偏重の人になることである」と著者はいう。それは、彼らを結果として裏切りはしなかったか。
    壮麗な装丁の『アンチ・オイディプス』を買ったとき、『差異と反復』も『千のプラトー』もまだ邦訳が出ていなかった。その『アンチ・オイディプス』も結局読むことなく書棚に鎮座している。『差異と反復』も『千のプラトー』は邦訳が出たけれども結局まだ買っていない。ラカンはそれ以上に受け付けられなかった。それでも、デリダは頑張って読んだと思う。その頃の自分は、彼らの言語に対してバーチャルであってもリアリティを得ることができなかった。言語偏重が過ぎて言語遊びになっているように感じた。どうしても深くその中に入り込むことができなかったのだ。違う「ノリ」に行けなかったのだ。


    本作の中にある著者の「欲望年表」から、著者は34歳まで東京大学の博士課程にいたことを示している。東京大学に入学したことを考えると例えば周りの親族はどう思っていたのかと勝手ながら想像するし、相応のプレッシャーや葛藤もあったであろうと思う。その中でもドゥルーズの研究を続けるということが強き意志の存在を示しているし、ドゥルーズやフランス現代思想の魅力についても示しているように思われる。そして、本書は著者自身の自己正当化のための本であるようにも感じたのである。それは、そうであっても全くかまわないのだけれど。


    最近、老いによるものであろうか言語能力の劣化(言葉が思い出せないなど)によって改めて言語の存在を意識する。言語なくして思考がないということもより実感するようになった。言語能力が年を重ねるごとに向上している間は意識に上らないようなものが、言語能力がピークを過ぎるにあたって、かつて得られたものとの差によって、これまでにないものが意識に上ってくる。それは他者としての言語そのものであるのかもしれない。それは悲しいことでもあるが、新しい体験として期待もするのである。そう思うべきであるのかもしれない。


    ---
    参考: 「超越的/超越論的」と「イロニー/ユーモア」
    http://yokato41.blogspot.jp/2014/06/blog-post_29.html?m=1

  • 勉強するとはどういうことかを書いた本。
    「勉強の哲学」という題名だが、「哲学の勉強」ともいえる哲学の入門書。

    本来、哲学の本は、難解な哲学用語で書かれているため、読んで理解するのは難しいが、この本は、若者たちにわかりやすい身近な例え話(芸能人の不倫の話題における会話のコードとは何か、など)を挙げ、説明することで、非常に読みやすくなっている。

    ただし、それは比喩として分かりやすいだけで、本来の意味を知ろうとすると、「なんでなのだろう?」とわからない事が多数。例えばこの本で面白い部分で、アイロニー=ツッコミ<>ユーモア=ボケという説明があり、真を知ろうと考えを深めていくアイロニーこそが、勉強の本質といいながら、真の答えには絶対に行きつかないから、途中でユーモアの方にいき、観点、切り口をたくさんもち、連想を見つけていく。その上で享楽的という部分にもたどり着く。という話があるが、なぜ「真の答えにいきつかないか」ということは、感覚的にはわかるが、厳密になぜそのように説明できるのかというと、私には読み取れなかった。

    ただ、筆者も本文で主張しているが、すみからすみまで書いてあることを理解する必要はない。という事なのかもしれない。
    とにかく、この本を読んで、哲学的に思想するとはどういことか、勉強するとはどういうことか、ということに興味を持ち、そこからどんどん哲学、勉強へのめり込んでいければ、この本を出す目的を達成しているのだろう。

    また、哲学的な考え方を身に着けることで、今までになかった視点から自分自身を客観的にみることができるようになるのではないだろうか。

    この本は、割と難しい哲学の本であり、そんなにとっつきやすい記載でもないと思うので、本が売れているということに、驚きを感じる。

    何か、この本を読んだら、薀蓄を語りたくなる部分はあり、ある意味ハウトゥー的に読めるのかもしれない。哲学的な語り方を。

    また、東大生、京大生が読んでいる。とのことだが、意欲のある学生が少し背伸びして読み始めていくうちにどんどん世界が広がっていく、そんな経験を影響しているのかも知れないと思った。

    副タイトルの、「来るべきバカのために」というのは、頭が超良い人が、わざと「バカ」という言葉を使っている感じがして、もしかして、筆者は賢すぎることをコンプレックスに感じて、「バカ」という言葉に憧れているのでは?と思ったけど、idiotの意味なんですね。

    ドストエフスキーの白痴のムイシュキン公爵をイメージすると、なんとなく筆者のいわんとすることが理解できる気がした。どちらかというと純粋さに近い、平衡感覚がないような感じか。

  • 勉強=いままでのノリから抜け出すこと

    相対的に比較していくことで世界を認知するならば、比較対象を増やしていくことはより比較の精度を上げることになる。

    懐疑(アイロニー)と連想(ユーモア)を繰り返して思考を深めていくが、それは際限がないので享楽(自分のこだわり)によってある程度見切りをつける。

    自分の享楽について理解するためには欲望年表を作成すると良い。

    「ある程度勉強した状態」はあっても「勉強完了」の状態はないので享楽を繰り返しながら深めていけば良い。

    この知の有限化のプロが教師。教えられる者は何を教わっているかと同時に教師は何を切り捨てているのかも意識できた方が良い。

    学問も、それぞれの世界にノることと同義。入門書→教科書→基本書→専門書と深めていく中でその学問のノリに入っていく。そうした書物はプロ・モードで書かれているためにそうして慣れていかないと理解ができないから。

    本は修正が効かない分注意深く書かれていることが多い。でも間違っていることも往往にしてある。プロ・アマ両輪で読むことによって必要な分だけ自分のものにしていく。

    ノートは勉強のタイムラインになる。
    考えた結果を書くというより書きながら考える。箇条書き(アウトライン化)も有効。

  • かっこよく言いたいキーワードの説明のために寄り道が多くて、話の流れが分かりづらくなっている(のか、私が全然理解できていないか)。大陸哲学がつまみ食い嫌いなのはこういうところかもしれない。具体的な方法論を書いた第4章だけ読めばいいか、全部を読むにしても先にそちらを読んだほうが内容を捉えやすくなりそう。
    あと改行が多いweb媒体のような組版は読みづらいーはじめからそういう読者層を想定しているのかもしれないが。

  • 副題の「バカ」を誤解し、本書を早く手に取らなかったのを後悔する。

    自分のような、勉強に関して、限りなく横にも広がるし(本書で言うユーモア)、限りなく縦にも深める(本書で言うアイロニー)人間にとって、勉強の限界、効用、実践を言語化してくれた著書に感謝したい。勉強に関する不安が一掃された。

    テクスト内在的に読む、ということは、数学の専門書を読む場合にもあてはまる。また、いきなり専門書にあたってはいけないことも。

    決断主義の危うさへの指摘もごもっとも。

  • また改めて自主学習を始めるに当たって、なんで勉強したいって思うんだろ?ってメタ的に考えてたから読んだ。
    (今後はあんまメタ思考に逃げないように手は動かそう。。)

    自由に対する考え方が、スッと入ってきた。1章だけでも自分にとっては読む価値があった。完全な自由なんてそもそもない中で、環境の中にいる自分を相対化するためなんだな。だから勉強が好きなんだ。
    SNSで見て納得感あったように、「ヤンキーほど校則に詳しい」ってことなんだと思う。

    ・深く勉強するとはノリが悪くなることである
    ・勉強は獲得するものではなく、今までの自分を捨てること
    ・そもそも無限の選択肢を持てることはありえないという立場にたつと、自由とは有限との付き合い方を変えることである
    ・どうするかというと勉強することで言葉を意識し、その場にいる自分を相対化すること

    ・漫画のパターンがわかって面白く無くなったのは、ある。。
    ・環境における当たり前を察知する力が弱い人はズバッと正論(当たり前を取っ払った時の合目的的な発言)をしてしまうんだろうな。だから、「そんなんできたら苦労しないよ」って返しをしたくなる。

  • 勉強とは、現在の環境から別の環境の可能性を考えることである。

    勉強とは何か、根源的に哲学的に掘り下げられた一冊。他の『勉強本』とは異彩を放ち、他の一般書がいかに独断と偏見に満ち溢れているか分かる。前半は理解するまで時間がかかるが、後半はその分理解しやすい。欲望年表によって自分の享楽を振り返るのは気恥ずかしいが、勉強を継続する上で重要である。

  • 著者は,思考を展開するために」「ノリ」「ツッコミ」「ボケ」という親しみやすい言葉で表現しています。「深く」勉強することはノリが悪い。ノリのいい周りに合わせて動く生き方は深く勉強しないことなのだと。ノッていた自分をわざと破壊する、自己破壊に踏み込みたい人は手に取ってみてください。

  • すこしのぞかせていただいた、現代思想読書会の課題本。
    勉強の本という自己啓発本の皮を被った哲学本。

    多すぎる情報の洪水の中で何を有限化するのか。
    これまでの同調圧力を外して、わざとノリが悪い人になる。キモい人になる。

    勉強における自己破壊とは何か。
    自分自身の享楽的こだわり 欲望年表を洗い出す作業はこれから試みてみるとしよう。

    簡単にかみ砕いて書いてあるようで深い知識もさらっと必要になる本。

    素敵な本。
    再読したい。

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著者プロフィール

1978年生まれ。哲学/表象文化論。フランス現代哲学の研究と、美術・文学・ファッションなどの批評を連関させて行う。著書に『動きすぎてはいけない』『別のしかたで』『勉強の哲学』などがある。

「2017年 『動きすぎてはいけない』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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