知性は死なない 平成の鬱をこえて

  • 文藝春秋 (2018年4月6日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (296ページ) / ISBN・EAN: 9784163908236

作品紹介・あらすじ

世界史の視野から、精緻に日本を解析した『中国化する日本』で

大きな反響を呼んだ筆者。一躍、これからを期待される論客と

なりましたが、その矢先に休職、ついには大学を離職するに至ります。

原因は、躁うつ病(双極性障害)の発症でした。

本書では、自身の体験に即して、「うつ」の正しい理解を求めるべく、

病気を解析し、いかに回復していった過程がつづられています。

とともに、そもそも、なぜこんなことになってしまったのか、と

筆者は、苦しみのなかで、自分に問いかけます。

ーー自分を培ってきた「平成」、その30年の思潮とは何だったのか。

いま大学は、「知性」を育む場となりえているのか。

喧伝される「反知性主義」は、どこから始まったのか。

なぜ知識人は敗北し、リベラルは衰退したのだろうーー

一度、知性を抹消された筆者だからこそ、語れることがあるのです。

病を治すのも、また「知」なのだ、と。

これから「知」に向かおうとするすべての人に読んでほしい、必読の一冊です。

感想・レビュー・書評

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  • うつ病を発症して大学を退職したことを契機に、反知性主義が力を増した時代を重ねて論評する。後半はがぜん読みごたえがあり、天皇制を言葉と身体の関係において説明するくだりは見事だった。能力のコミュニズムの考え方も興味深いが、その具体的な実現方法については読者に委ねられている。

    反知性主義の起源をたどると宗教改革に至る。司祭が典礼を執行し、信徒の身体に働きかけるカトリックに対して、プロテスタントは自ら聖書を読んで理解する言語能力が求められる。

    「プロレタリア革命によって建国された」というロシア革命の神話は嘘で、当時労働者はほとんどいなかった。プラハの春を弾圧するために軍事介入した際にソ連が表明したブレジネフ・ドクトリンは、社会主義の実現という正義は国際法に優先するというエゴイズムだった。9.11を受けてアメリカが表明したブッシュ・ドクトリンも、自由世界を脅かすテロの脅威を取り除くためなら一方的な先制攻撃が容認されるというものだった。ソ連はアフガン侵攻の戦費に堪えられずに崩壊し、アメリカは自国第一主義を唱えるトランプが当選した。帝国の維持や拡張に向けられていたエゴイスティックな信仰は、人々の身体的な自己像を超えると帝国は崩壊する。

    漢民族と呼ばれているのは、官僚の選抜試験にエントリーするために、儒教的な思考法や風習を身につけた人々というのが実態で、中国は歴史が長いため、帝国にほぼ等しい民族の身体を作り出した(内藤湖南)。

    集団的自衛権とは同盟締結権と同じ。集団的自衛権なしの日米同盟が生まれたのは、それが朝鮮戦争のさなかで緊急に生まれたため。後に、重光葵や岸信介が安保条約の対等同盟化を求め、岸政権の下で新安全保障条約が締結された。

    ムハンマド誕生時のメッカは、ビザンツ帝国とササン朝ペルシアの対立によって、地中海とアジアをつなぐ交易ルートが一時的に南に移った時期に栄えた。莫大な富を手にした人々が出現したことによって、その公正な分配を求めて力を得たのがイスラームだった。コーランは、公正な取引のルールを示して、部族や民族の違いを超えてフェアの交易を広めた。ウラマーはコーランを解釈する法学者であり、モスクは礼拝所で、聖職者はいない。10世紀頃にコーランの新たな解釈が禁じられたため、独自の礼拝や衣食住の習慣を持つ身体的な側面が強くなった。

    君主を一人に決めて、その人に英才教育をほどこす啓蒙専制は、教育コストの観点では効率的であり、ポピュリズムの防止になる。エリートを絞り込んでいく点では、旧ソ連や中国の党を経由して幹部候補だけに知識を与えるのも、難関大学でふるいにかける方法も大差ない。

    日本の天皇制は、民族的な意味での共同体という観念を具象性のあるひとつの身体として与える意義がある。政治的な実権と離れたところに民族の身体を持っているのは、トランプやプーチンのような独善的政治家が民族の身体を簒奪するポピュリズムには陥らないで済んでいる側面がある。

    能力には格差があるが、社会に与えることによって認められるものである。財産のコミュニズムではなく、能力のコミュニズムとして共存主義に読みかえる可能性があるのではないか。

  • 読後感の著者の印象は、真摯な方だなと。
    こういう人が、まだインテリの中にいるんだな、少し驚きました。
    非常に自分の能力を客観的に見ているというか、
    その見方は、やはり、学問で培ったものかもしれません。

    非常に、著者の人柄に、好感を持つことができました。
    新進気鋭の学者だったので、著者の論文というよりも、
    一般書に目が行っていましたが、
    機会があれば、著者の論文にも目を通したいと思いました。

    大学は、著者曰く、また、多くの人が思っているように「斜陽産業」です。
    恐らくは、これから、淘汰と合併を繰り返して、あと20年もしないうちに数割は、
    無くなるでしょう。

    また、昨今発表された科学技術白書を見れば、
    一目瞭然、日本の研究・学問の凋落は明白です。
    一部の良心ある方は、指摘をしていますが、日本の教育機関は、
    学問や教育を行う場所ではなくなっているかもしれません。
    この著作の中にも、えっ、これが、大学人の話すこと、考えていることなのと、
    思われる個所が多数あります(著者の発言内容ではありません、著者が見た、
    教授会だったり、大学運営側の姿勢です)。

    現在、あの手をこの手を使って、
    国内、国外関わらず、学生を集めていますが、
    この本を読む限り、学校運営している職員側や、教授陣のレベルが、垣間見ることができて、
    これからも、日本の大学教育は、ますます下がっていくだろうなと思います。

    日本の大学生の質は、世界的に見て、かなり低いですが、
    その最大の指標が、1ヶ月に本を1冊も読まない学生は半数いて、
    学習時間は平均数十分という調査結果です。
    この結果を見ても、もう、日本の高等教育は、とっくに崩壊しています。
    これは、まぁ、大学だけじゃなくて、企業経営や多くの分野に及びますが。

    著者の自分の能力を失った時の絶望は、
    想像することができませんが、
    そこから、這い上がっていく著者の姿は、
    やはり、知性を感じさせるものでした。
    普通は、誰かのせいにしますが、
    あくまで、著者は、かなり客観的に自分の状況を把握しています。

    日本の自殺の理由の第一は、病気を苦にしてのものです。
    その病気が、自分の核となる能力を奪うものなら、本人のダメージは相当なものでしょう。
    準教授という肩書きが、何の意味もなさなくなるわけですから。
    多くの人は、肩書きを求めて努力をして、結果として、得ても、
    いつなくなるかわかりません。

    特に日本人は、自分の安定を、組織への所属におきます。
    組織への所属がなくなると、アイデンティティーや心の置き所がなくなり、
    精神疾患に陥る可能性の高い人が多数います。
    「この所属先では、そこそこだけど、もしなくなったら、何も誇れるものなんてないな」
    と思っている人は多数います。

    日本は、この20年、経済も全くだめ、教育も全くだめ、政治になると、絶望的にダメです。
    では、未来は?おそらく、多くの人が感じるているように、もっとダメでしょう。
    中高生の7割は、自分に自信もなく、つまり、自尊心が異常に低く、
    この国に希望もないという調査結果もあります。
    まさに、日本が、絶望の状態です。

    著者は絶望の中で、希望を見つけました。
    それは、この著作の中で、もっとも、良い箇所だと思います。
    人は、人生の中で、どこかで、絶望を感じることがありますが、
    それを共有する人がいるだけで、絶望を「絶望」と客観的に認識でき、
    共有性のおかげかわかりませんが、その状態から、這い上がるチャンスを与えてくれます。

    著者が、これから、どういう言論活動が可能なのかは、本人のみぞしりますが、
    その明晰な頭脳は、この絶望的な経験をして、より一層、役に立つと思います。
    是非、広範な活躍を期待しています。

  • 心を病んだらいけないの?、で紹介されていたので読みました。
    もっと闘病日記多めかなと思いましたが、その部分よりも病を経験した後に與那覇先生が気づいたり考え直した論点が整理されている本でした。

    私は歴史や政治、世界情勢などに疎いので、SNSで散見される断片的な主張をどう捉えるべきか迷うことが多いのですが、そういう論点に対しても歴史的背景や思考が色々載っていてとても参考になりました。

    大学運営に関する部分は、伝書鳩という表現が絶妙で笑ってしまいました。アカデミックに残った友人たちが次々辞めていったときも同じような問題を口にしていました。研究と教育のバランス、実学寄りでないと降りない研究費、働かない教授と空かないポスト、ハラスメント、学生の質の低下、、。ブラック要素山盛りです。

    アフォーダンスという考え方、とてもいいなと思いました。先生の文章を忘れないように引用しておきます。

    >能力差という、けっして解消されることのない格差と付き合いながら生きる上で、コミュニズムを共存主義として読み換えていくことは、すべての人のヒントになると私は感じています。

  • 少し構えて読み始めたのだが、とても読みやすい1冊だった。「心を病んだらいけないの」へと繋がる、病を経験したからこその思考の広がりが興味深い。

  • 今後求められる「知性」の在り方を、歴史と筆者の患った躁うつ病の観点から論じている本。私もうつ病になったことがあるので、筆者の病気の体験談が痛いほど分かった。第二章の「『うつ』に関する10の誤解」はうつ病に対して抱くステレオタイプが的確にまとまっているので、うつの当事者やサポートする家族、企業の人事はもちろん、それ以外の人にも読んでもらいたい。

  • 論拠に乏しい情報や内実を伴わない情報が蔓延している現代において蔑ろにされてきた「知性」について、大学教員時代に躁うつ病を患った著者が、これからの社会を変えていくためにそれをどのように活かすか、考察している。

    史実や現代社会論などの視座のほか、大学の現場で起きていた出来事や自身の疾病経験など多岐にわたる切り口から「知性」を見つめる展開が個人的に斬新であった。
    病気の症状として能力(≒知性)の減退を経験した著者だからこそ、その偏りや差異を前提とした社会づくりの提唱には説得力を感じた。

    これから求められる社会は万人の能力が高い社会ではなく、能力の高低を共有し、互いに心地よくいられる社会であり、その実現にこそ知性が必要となる、という考えには非常に共感し、また能力に自信のない私自身の肩の荷を少し軽くしてもらった感覚も持てた。

  • 東大教養学部、博士(学術)
    2007-2015公立大の准教授

    躁うつ病(双極性障害)を発症したのを契機に辞職

    大学の同僚「知識人」への幻滅


    ●院生時代
    文献メモなしで論文が書けた。
    後から振り返ると軽躁状態だったのかも、と。


    ●語り

    教員になるまで
    精神病理学について
    教授会について

  • 【北海道大学蔵書目録へのリンク先】
    https://opac.lib.hokudai.ac.jp/opac/opac_link/bibid/2001771262

  • 躁鬱がどういう状態かがとくわかる。また、鬱の経験から人間の能力をどのように分配するのかを考え、提案している。

  • コロナ禍で全く仕事が手につかなくなる鬱々とした気分になり,活字を読んでも理解した気にならない.そんな自分のうつな気分をどうにかするヒントを求めて読んだ.

    身体的な理解だけでなく,ことばによる理解が足りてないという問題と向き合わないとこの沼からは出られないな.

  • 読んでいてこの著者は教養があるなと思った反面、この著者と同世代にも拘わらず自分が全然教養を身につけてないことにへこんだ。。。

    言語と身体を使った説明、能力の共有という共存主義、当たり前や当然の前提を疑い変えていくものとしての知性を今後の参考にしたいと思った。。。

  • ご自身の発病が、それまでのものの見方を改める端緒となった経験は、ともすれば二項対立のように見てしまいがちな世の中の出来事を、立ち止まって少し離れたところから、俯瞰的にではなく掘り下げて見直すことの大切さを説く。

  • ・もっとも印象にのこっているのは、中学生だった1994年のことです。前年に55年体制が崩壊し、この年に発足した自社さ連立政権(村山富市内閣)のもとで、日本社会党が戦後、掲げてきた政策の転換が劇的に進みました。いわく、彼らが憲法違反と主張してきた自衛隊は、合憲。廃止すべきとしてきた日米安全保障条約は、維持。戦前の軍国主義のシンボルとして、認めてはいけないもののはずの日の丸・君が代も、承認。いわば「ずっと与党だった自民党の言ってきたことが、正しかった。野党時代のわれわれはまちがっていた」と白旗を上げたのです。私の学校はいわゆる進歩的な先生が多かったので、彼らが目の前で進行している事態を非常に教えにくそうに、歯切れ悪くしかあつかえないでいる様子がよくわかりました。~違憲が合憲とか、「なし」なものが「あり」とか、180度反対じゃないか。この調子でいったら、文字どおり将来、日本がどうなっていくかも「なんでもあり」じゃないのか。現実にあわせて考え方を変えるのは、そこまで悪くないかもしれない。だけど「ここまでは変わるけど、これ以上は変わりません」として、どこかにきちんと線を引かないと、いつかこまるんじゃないか――特に政治的な生徒ではなかったと思いますが、つづく高校時代のあいだ、ずっとそんなことを考えていました。~反対に「弱者の正義」というべきものが、いかに危ういかを思い知らされたのが、私にとっての小泉改革だったと思います。2002年に小泉首相が北朝鮮を訪問し、当時の金正日総書記が拉致問題を認めて謝罪したときに、日本社会に広がった衝撃をおぼえているでしょうか。戦争が終わって以来長らく、アジアの諸国にたいして日本は「加害者」であり、相手は「被害者」だと教えられてきました。日中戦争を核とした大東亜戦争の主要部分については、私はそれがただしい歴史の見方だと、いまも思っています。しかしこのとき、戦後はじめて、誰の目にもアジアの側が「加害者」であり、日本が「被害者」である事態が出現したのです。~(議論の枠組)…「加害者と被害者とがいたら、加害者のほうが絶対的に悪いのです」・「被害者の人の悲しみや怒りは深いものなのだから、多少いきすぎがあろうと真摯に受けとめましょう」・「それが謝罪ということです・責任という事です」~今回はたまたまその構図の「被害者」の位置に、日本人が入ることになっただけじゃないか。自分たちの議論の枠組みを反省せずに、「無学な大衆が小泉や安倍にあやつられて、危険なナショナリズムにむかっている」だなんて、そんな無責任な態度ってないじゃないか……。~じっさいに小泉時代の後半はだれが「被害者」の椅子に座るかの椅子取りゲームのように進んでいきました。2004年にイラク日本人人質事件が発生すると、当初こそ自衛隊派遣の「被害者」と目されていた人質に同情が集まりましたが「彼らが勝手に渡航したのに、後始末をさせられる政府の役人こそ被害者だ」と政権側が反駁すると世論は一転し、人質やその家族へのバッシングが吹き荒れました。

    波紋が大きい流れになってしまうともう止められないように、なんだろう、時流っていうのは最初の人の手を離れた時点で別の生き物のようなものになってしまう。制御ができない。集団の特性でもある。距離を置くっていうのがいいのかなーと思う。各々それができるかはわからないけど自分なりの策としてはそんなもんだろうか。ブームを作る人ってのはそこまで考えてやってるもんなんだろうなーとも思うけど。

    ・「ごっこの世界」~どこどこ大学教授、という肩書で新聞に載っている寄稿やインタビューが、無難な発言ばかりでまったくおもしろくない、という経験はありませんか。掲載している朝日新聞なり読売新聞なりの社員が書いた「社説」や「コラム」と実質的な内容がほとんどおなじで、社外から有識者を呼んでくるほどの主張と思えない。~私の印象でいうと、新聞であたりさわりのないことをいっている先生がほんとうにつまらない人物であるということは、ほぼありません。知遇をえたのが一流の方ぞろいだったのもあるでしょうが、ほとんどの人はじっさいに話してみると、紙面に載る以上のことをいっぱい考えています。どうしてそちらの「もっとおもしろいこと」のほうが活字にならないのだろうとずっと思ってて、ああそうか、「ごっこの世界」だからかと気づきました。ごっこの世界とは、文藝評論家で保守の論客だった江藤淳が、1970年の論文で使った概念です。~新聞や雑誌の側にはとうぜん、文字にしてほしい自社の主張があって、それを大学教授や在野の批評家の口をかりることで、社内の記者が書くよりも権威と影響力のあるものにしたい。そういうゲームにつきあってあげることで。大学人なら象牙の塔、評論家なら自宅の書斎から外に出て通用する、社会的に承認された「知識人」という存在になれる。江藤のいう「ごっこ」には揶揄の響きがありますが、この後者の意味では江藤本人だって立派に「知識人ごっこ」をしていたのだと思います。問題は、ごっこをいつまでつづけられるのか、です。~「大学の先生なんて、ただの世間知らずだよね」とみんなが思ってしまえば「ごっこ」は終わり。「ごっこ」をけしかけているようにみえる新聞社や出版社、テレビ局だった「あんなもの、要は中の人の趣味でしょ。既得権に守られて、かたよった意見をたれ流してるだけでしょ」と国民に見放されたら、やはりおわるのです。

    これは小学校の時に教えてもらったことなので早くからわかっててよかったー、と思う。しかしまあ社会的って人気ってことなんかね…。他者がいるからしょうがないね。出版されてる本も言いたい主張なんて1割くらいしか言えないんだろうなー。出版の「型」みたいなのに沿って出版されてるなら。でも嘘を楽しんでるっていう一面もあるからなあ。

    ・誤解4:うつの人には「リラックス」をすすめる~うつ病の特質のひとつは反応性の欠如といって、ほんらいならたのしいはずのことでもたのしく感じられなくなることにあります。これが進行すると無快感症(アンヘドニア)という文字通りいっさいの喜びを感じない、おいしい食事を口の中に入れても味がしない、パートナーの性的行為さえ苦痛にしか思えない状態になります。~その後は、類似の病気で苦しんでいる知人・友人とも食事をしていますが、以前の自分の経験から「気乗りがしなかったら無視してくれていいし、いつでもキャンセルしてくれていいよ」と添えるようにしています。

    仕事疲れてる時甘いペットボトル飲料飲んでも全く甘味を感じなくなる状態になることとか、忙しすぎると虚無になるのってこれか?と思い出したり。

    ・つつぬけ体験とは「自分の頭のなかの考えがすべて、周囲の人びとにつつぬけになっている」とうったえる、統合失調症の症状のひとつですが~これは必ずしも、ふつうの人とも無縁の現象ではないのです。職場の会議などへ「今日は絶対に反対してやるぞ」と意気込んで出席したのに、周囲の空気に飲まれて気がついたら賛成していた、といった経験はありませんか。ある人に嫌なことをされたので、友だちとの会食で相談するつもりだったのに他のメンバーがみなその人を持ち上げるのでつい調子をあわせてしまい。いつのまにか自分もその人の支持者のようになっていたことはありませんか。~多くの人は「自分が自分でないような感じ」をもつでしょう。外見上は、たしかに自分自身が議案に賛成したり、その人をほめる言葉を口にしたりしているのだけれど、それがいつもの「この自分」がおこなった行為だとは、とても思えない。むしろ自分と周囲の人びとの全体を包括した、なにか大きな集団の無意識のようなものがあって、それが一時的に自分の身体をジャックしてそういう行動をとらせたというほうが、本人の実感に近い。一時的にではなく、自分がなす行為のほぼすべてについて、このようにしか感じられなくなってしまった状態が、統合失調症だというのです。

    んー…これについては自分のなかで『まあ、建前だけど』みたいな補足が入るのでなんとも思わないかも。他人もそんなようなもんだろ、みたいな社会の暗黙ルールみたいなもんだと勝手に認識してる。ん?これ自体包括か。どうでもいいことにはどうでもいいように、大事なことは大事なようにやるのがいいのかなー。多数決の流れっていうのは自己防衛によって決まるのかも。自分への信頼の問題もちょっとはあるし、反対意見が少数の内に意見を出すっていうスピード感もいるんだろうな。

    ・ハイデガーと自己の輪郭~私というもの自体があいまいだ、というのは、一見わかりにくいかもしれませんが、そんなにむずかしいことではありません。たとえばいま私(=與那覇)は自分の身体を用いて、この原稿を書いています。だから私にとっての自分とは「こうしてキーボードを叩いている、ひとつの身体のことだ」と、簡単にいえそうです。しかし私が交通事故にあって入院し、昏睡状態のまま目をさまさなくなったとしましょう。すると物理的には先ほどとまったくおなじものである「私の名札がかかげられた病室に、ものいわず横たわっている人間の身体」があるわけですがはたしてそこに「私」は存在しているのでしょうか。むしろ「私」とは~精神活動のはたらきのことであり、それが失われてしまったら、たとえその「私」の容れ物だった身体のほうがのこっても、もはや私はそこにいない、という考え方もできそうです。私とはつねに「自分の思考や身体をあやつっているのはほかならぬこの私だ」と思いつづけることでのみ私でいられる、いわば自転車操業のようなかたちをしている。ハイデガーはそういう「私」のありかたを「現存在」とよびました。これにたいして物理的に存在しているところの私の身体や、いま私が座っている椅子、叩いているキーボードといったもろもろは「存在者」とよばれます。哲学者としてのハイデガーのすごみは、あるものが「存在する」ということは、たんに存在者としての物体があることとはちがう、と考えたことです。たとえばキーボードがキーボードとして存在するのは①ワイヤレスで接続されたPCの本体とディスプレイがあるからであり、②所有者である私に文章をタイプする意思と能力があるからです。①や②が欠けてしまえば「表面がでこぼこしている板」は存在しても、もはや「キーボード」は存在しないのです。木村氏の表現を借りると、この「表面がでこぼこしている板」は存在というもの(存在者)であり、その物体が「キーボード」としてあるという事態が存在すること(存在それ自体)です。その両者を媒介するかたちで存在しているのが「今文章をタイプしている私」という現存在(存在の現れる現場)になります。

    目的とか意思とかによって動きがあるか…意味づけができるかってことともいえる。意味づけが存在かなあ。高校の時倫理でやったのにハイデガーとか現存在ぼんやりとしか出てこないな…楽しかったなっていう感情のワクワク感はあるんだけど…

    ・文化人類学の授業だったと思うのですが、人間に対するアプローチには「言語」と「身体」の両極がある、と教わったことがあります。~ことばで腑分けしていくことで「起こっていたことはこういう事態でした」とある程度まで近い可能にできる。~どれだけ委曲をつくしたことばで説明されてもどうにも「腑に落ちない」そういうときに「頭でわかっても身体が納得しない」といったりします。~左翼思想、典型的にはマルクス主義が戦後の初期にあれだけ流行したのは~「なぜ、われわれは無謀な戦争をしてしまったのか」を分析的に語ることに成功したとみなされたからでした。~これにたいして「いや、それは偽りの説明で、なにかだまされた気がする」と声をあげたのが、1章でも名前の出た江藤淳のような保守の知識人です。保守ないし右翼の思想家には言語より身体への志向、もうすこし正確にいうと「わかりやすく分析してしまううことばの作用よりも、そうやって分析しても語りつくせずにのこりつづける、違和感や情念の問題」に注目する傾向があります。たとえば左翼思想の全盛期~「社会主義リアリズム」の文学が流行しましたがこんにち読まれることはほぼありません。おもしろくないからです。「資本家とたたかう労働者はすばらしい」といいたいなら、そう一行書けばすむ話で、そういう分析的な図式にはまりきってしまう物語は、文学の名に値しない。むしろ文学とは「理屈としては正しくても、すなおに身体がのみこめない」状況における、人間の苦悩や葛藤を活写するためにあるのです。そういう感覚を土台に「いまの日本は、一見もっともらしい左翼のことばにふりまわされて、おかしなことになっていませんか」とよびかけたのが昭和の保守論壇の人びとでした。

    うーん。文学は創作としての楽しみもあるからそっち方面で見たらつまんないだろうけど実用なら使い道あることもあるんでは?それなら行動につながるんでは?

    ・当のハイデガー本人は「じつは人間のほうが、きちんとしたかたちで存在を把握することができず、存在の仮象としての『ことば』にあやつられているのではないか」といった思考にきりかわっていったとされています。~ものすごく単純化していうと、ハイデガーは最後まで「たんなる存在者にはとどまらない、ほんものの存在をまるごととらえうる『真の言語』とでもいうべきものがあるのだ」と言いたがっていったふしがあります。これにたいして「そんなものはない。たんに人間には、あるかのように思いこみたがるくせがあるだけだ」と言い切ったのがデリダでした。いまふり返るとデリダは「言語派」最後のスーパースターだったように思います。~彼の思想は「理性的な知識人が、ただしいことばで世の中を分析してあげれば、人びとは真理にめざめ立ちあがる」といったマルクス主義者がとったポーズとは無縁です。その正反対と言っていい。しかし~彼はことばというものが決定的に人間社会のコアにあると考えていたように思われます。真の言語などというものがない以上「どんなことばを使っているか」しだいで、人びとがおこなう議論のかたち自体が、いくらでも左右されてしまう。もともとデリダが提唱し~『脱構築』とは、すいう既存のことばの組みかえを求める知の技法でした。~なぜ退潮したかについては~ひとことでいえば「他人のあげあしとりばかりして、積極的な提案のない人たち」と彼らが思われてしまったからでしょう。~ことばを思考の軸にすえるはずの人たちが「どんなにことばで語ろうとも結局は脱構築というかたちで批判されてしまうので、ほんとうに大事なことは語りきれません」と逃げを打つならまさにことばや論理では解明不可能に感じられるものごとをあつかってきた「身体派」のほうに一日の長が生まれます。

    マルクス主義の言語派っていうのはたしかにわかりやすいなーと思った。資本主義がこうだからこうでこうしよう、ってっ言葉もスムーズでわかりやすいもん。自分ひとりでする思考なら言葉は大いに役立つ。他人が入ると信用ならないものになる、のかな。逆に身体はボディランゲージのように他人のことを洞察できる。けどそこまで研ぎ澄まされたものはよほど鋭くないとできないかなあ。あと自分もずっと言語に囚われてきたけどそれだけでもないよなって最近思い始めた。文章で書いたら自分が何を言っているか冷静に見れて発展するかなって思ってたけど、実際SNSとか文章打ってても荒れてるとかあるもんなーて思う。読み返したりしないんか…?言語も身体も両方使うよ。

    ・たとえば「言葉は理性に近く、感情は体に近い」という先の結論について、もういちど考えてみましょう。~しかし大学の教員をしてみてわかりましたが、ことばというのはじつにたやすく理性をうらぎります。たとえばあなたが学生で勉強しないと単位をくれない教師の悪口を言いたくてたまらないとしましょう。~若手の教員だあったら「あんな若造、どうせたいして業績もないだろう」「まだ学会でも認められてないくせにえらそうにしやがって」と言えばいいのです。~壮年の教授の場合は「20年も30年も前の自分が若かったころの知識を教えてるんだろう」「もう時代遅れなのに、いまも自分が最先端だとおもってやがる」と言えばいい。要するに、なんとなくあいつムカつく、という身体的な感情が先にあれば、それを正当化してくれることばなんて、いくらでも後からあふれてくるのです。誤解して欲しくないのですが、私はそういった学生が「そのままでいい。人間なんてそんなものだ」といっているのではありません。教員としてそういう人のありかたを目のあたりにして、非常によくないと思ったし、今もそう思っています。私がいいたいのは、言語が理性的で身体が感情的だとは、かならずしもきれいに二分できない状況があるということ。そしてそういう状況で「言語の方が高尚な営為なのだからその力で卑俗な身体を抑制しろ」などと命令しても、絶対にうまくいかないということです。~そのような事例を考えると問題はたんに「感情的な身体が、理性的な言語をしたがえてしまう」点にあるのでもないことがわかります。むしろ私たちにはしばしば「感情的な言語が暴走して身体をひきずっていってしまう」ことすら起きる。~だとすればどちらかを悪者にしても問題は解決しない。むしろ言語も身体もともに狂ってしまう可能性があることをみとめ、両者の関係が機能不全におちいるメカニズムを探求することでしか、私は私自身の病を理解できないのではないか。――~それが~もういちど思考のスイッチを入れてくれる鍵でした。

    ↑と思ってたら言ってくれた。すべてのひとを納得させるのはできないから自分ひとりの納得のためにまあ好き勝手やるもんなあ。私はそうだ。悪性寄りですなあ。バランスを大事にしようと思う。でもこんなの当たり前じゃね?っていう感覚もある。そして言語で抑制できた記憶もある。うーん。状況、余裕、というものも加味して考えたい。脳が先、心臓が先、ってやつですかねえ。うまく活用したいもんですねえ。

    ・「絶対に殺すべきだと考える相手」の暗殺にむかった刺客がいざ当人を前にしてたじろいでしまうシーンを映画でみたことはないでしょうか。あれは~「こんなやつは殺してかまわない、殺されて当然だ」というのは頭の中で「言語」で組みあげた理論です。しかし、その当人が本人の身体を目の前にしてしまうと自分のほうぼ「身体」が反応して~フリーズがかかるのでしょう。

    トラブルに身体が自然に反応するかっていうのもあるからなあ。…私は「うおお殺せェ!」って観てしまうからなあ。エンタメと現実の区別処理も必要かなと思う。準備までするのもあるとも思うし。

    ・ジャック・デリダとSNS社会~言語というものを自分の頭の中だけで使っていると往々にしてこのように「自分」のありかたを硬直させていく副作用をもたらしますが~逆に自分というものの輪郭を解体していく作用もあります。先にふれたデリダが流行させた概念に「エクリチュール」があります。もともと「書かれたもの」という意味のフランス語で、なぜそんな平凡なことばを哲学の用語にもちいたかというと、「人間が主体的に言語をあやつるのではなく。むしろ『書かれたもの』のほうが先にあって、人間はそれを追いかけるだけの存在である」といったイメージを、わかりやすく伝えるためでした。~SNSを連想してもらえれば、すっと理解できるように思います。Twitterで有名な評論家やジャーナリストをフォローするとしましょう。彼らのつぶやきのうち「これいいな!自分も、そういうことが言いたかったんだ」と思えるものをリツイートするとそれがあなたをフォローしている友人たちにもあなた自身のつぶやきと同様に流れてゆきます。~くりかえしていくとほんらいはあなたの書いたものではないツイートが「あいつ内心はこんなこと考えていたんだ」というかたちで『あなたの』内面として定着していきます。なによりあなた自身がフォローしている著名人に感化されてそうなったのかもしれないのに「俺ってもともとこう考えてたんだ。この人はさすがいつも俺の好みにあう発言をしてくれる」と思い込むようになるかもしれません。お察しのとおり、このたとえ話でいう「有名人のツイート」がエクリチュールです。それではおおもとの有名人はエクリチュールに左右されずに自分の頭のなかだけで思考しているのか。そうではないでしょう。彼らだってほかの専門家の書いた書物や~海外メディアの報道といったなんわかのエクリチュールをいくばくかコピーしながら自分の思想を作っているはずです。~どれだけ書き手が注意してもなんらかの誤解は生じるもの~とくに学術書のような「細く長く売るジャンル」のばあいは遠い将来に自分と同じテーマを研究することになった「死後の読者」の目線まで想定します。こうなるともう、いまキーボードを叩いてる自分の身体などにこだわっていても、どうしようもありません。どうせこの身体の内側に閉じ込められている「ほんとうの自分」らしきものなんて誰にも理解されることはないだろう。他の人が理解する「自分」とは私が書いたエクリチュールをとおして、往々にして「あの人はこんな人間にちがいない」と思い込まれたイメージのほうだろう。「それでもいいや、かまわない!」と思いきらないと、書くという行為はできないのです。このように書かれたものをつうじて「自分」というものがひとつの像をむすぶというより、多様なイメージへとひき裂かれていく作用のことを、デリダは「差延」や「散種」といった用語で表現しました。~エクリチュールの力で~自己というものはひき裂かれ他人にとっての自己と交差していく…~これがエクリチュールという「言語」の極によってとらえたときの「自分」のありかたのモデルになります。そういう言語の作用が不安ではなく、むしろ快感をもたらす状態が躁ないし軽躁とよばれるのだと思います。じっさいに躁状態の診断にさいして最初に注目されるのは「多動多弁」です。とにかく頭に考えが湧きつづけて、それを周囲に発信しつづける。

    ん~?でも他人ありきの思考と自分の為の思考って違くないか?SNSは「ごっこの世界」じゃないの?出版と同じでさあ?あとSNSって自分の好みしか集めないんだから偏らないか??ってのは多分違う話。でも突っ込みたい。感化わかりやすい。利用もするだろうが。自分と他人っていう状況が下地にあるとは思うけども。でもそれが歴史っていうか過去から繋がってるものでもある。影響受けて面白いものができるってこともあるだろうし。エクリチュールは言語だけってもんでもない。似たようなものは映像とかからでもあると思う。

    ・「反知性主義」の言語と身体~私は以下に述べる理由で「反正統主義」がもっともニュアンスに近いのではと思っています。反知性主義の起源をたどると~宗教改革にいきつきます。カトリックという儀礼を重んずる――信徒の「身体」にはたらきかける西欧キリスト教の主流派にたいして「言語」で書かれた聖書の読解を根拠に「そんなことはどこにも書いてないじゃないか。あれこれの宗教儀式なんてあなたたちが勝手に権威を捏造しているだけじゃないか」と批判するプロテスタントが戦いをいどんだものです。ちなみに東方キリスト教を代表するロシア正教のばあいはイコン(キリストの肖像などの宗教画)とのふれあいを重んじるなどカトリックよりもさらに身体への傾斜がつよいキリスト教になります。~カトリックの場合、司祭は基本的に典礼ができればいいので儀式の手順になじんでいればそこまで言語的な能力が高くなくてもかまいません。しかしプロテスタントの牧師は自分で聖書を一から読み、さらに信徒にも読ませて内容を理解されないといけないのできわめて高度な言語能力が必要です。こうして1639年につくられたのがアメリカ最初の大学であるハーバード大学です。~~巨大な宗教儀礼は、ツァーリ権力やローマ教皇庁といった集権的機構でなければそもそも実施できません。しかし言語による聖書の読解は、努力してことばを習得すれば、かなりの人ができます。まして「どうしてヘブライ語やギリシャ語でないとだめなんだ。英訳で読んだっていいじゃないか」と言いはるならほとんどだれでも聖書の解釈者になれます。こうなると、正統派のカトリックに対抗して新たな聖書解釈をつくりあげたプロテスタントのなかから、さらにその「プロテスタントの正統」に対してプロテスト(抗議)する人びとが出てきます。~身体ではなく言語を基盤とする社会をつくったことで生まれてしまった、永久革命のようにいつまでもつづく「現時点での正統派」にたいする無限の挑戦。これがもともとの意味での反知性主義の本質です。

    うん。知性って言葉を使うとわかりにくいから「反正統主義」のがいいと思う。あとは言語が違うと内容の理解も違くなると思うのでそこらへんはどうなるんだ?些事?

    ・そもそも20世紀には左翼と同義語だった社会主義とは本人たちの主観では最強の「経済政策」でした。産業を国有化することで資本家の労働者に対する搾取をなくれせば、これまで資本家の懐を肥やすだけだった部分が社会的な厚生にまわる。解放された勤労大衆もこれからは資本家ではなく自分たち自身のために働けるのだから生産力の爆発的な増加が起こり、貧困は消滅する。だいたいこういった理屈です。これは文字通り革命的な変化なのでとうぜん反発を招きます。社会秩序の安寧の為にはそういった変化をゆるしてはならないとするのが保守の立場です。たいして両者の中間でリベラル(自由主義者)が担った役割はふたつありました。ひとつは社会主義の経済政策に対してそれはむしろ「非効率」ではないかと指摘すること。実際、官僚により計画経済の運営は民間の市場経済と比べてうまく機能せず社会主義の国では物資の不足が常態化していきました。もうひとつは左翼が主張する社会主義の実現、ないし保守がとなえるその阻止に対して「それよりももっと大事なものがありませんか」という価値を示すこと。社会主義で政府の方針を批判したものは投獄・静粛され、~反共主義をとった国でもまたレッドパージのような思想弾圧や政治犯の虐殺が起きました。もちろん経済を発展させることも秩序を安定させることもたいせつだ。しかしそれらはほんらい人間が自由に生きるための手段であったはずだ。われわれの目的はあらゆる人が人権を尊重されて自由に活動できることなのだから優先順位を間違えてはいけない。これがリベラルの立場です。~しかしいま私たちが直面している課題はより深刻です。自由や人権といったリベラルが掲げてきた価値自体が「それってそんなに大事なものなのか」「政策の邪魔ならなくしたっていいんじゃないか」と広く思われはじめている。消えつつあるのはリベラル派とおう思想集団ではなくて、私たち自身の権利なのです。

    人間が管理する時点でそもそも公正になるかっても思う。そうすると能力主義っていっても誰が判断すんのかね?個人的にはハーモニーもシビュラも賛成派。「ただしい」の定義が可能になったらの話だけど。そもそも人間に定義できるかね。

    ・そもそも啓蒙専制のように政治の実権をゆだねているわけではないにもかかわらず、~天皇(君主)という制度は、なぜあるのでしょか。ひとことでいえば、民族的な意味での「われわれの共同体」という観念を、実感をもって私たちが把握し、かつ変事があったさいにコントロールしやすくするために、具象性のあるひとつの身体が存在する必要があるのです。ほとんどの地方自治体が「ゆるキャラ」を制定し様々な物体や観念を「擬人化」することに慣れた平成好奇のサブカルチャーを経た日本人なら、わかっているはずです。~象徴天皇というかたちで政治的な実権と離れたところに「民族の身体」を持っているのは目下の日本社会にとってはあきらかなメリットだと思います。少なくともトランプやプーチンのような独善的政治家が「民族の身体」を簒奪する完全なポピュリズムには陥らないですんでいる。

    仏像とか御神輿か…。免罪符のようにも使われてる。

    ・このとき私が思い出したのはアフォーダンス(affordance)という概念でした。~たとえば健常者の人間には走るという能力がある、とは考えない。「平らな道」
    というものが、走るという行為を健常者の人間にアフォードしている、つまり道と人間のあいだに走るというアフォーダンスが存在する、というふうにとらえます。エレベーターではほとんどすべての人にのぼるという行為を提供します。エスカレーターや階段では、車いすの人はアフォードしてもらえなさそうです。それでは、外壁はどうか。とび職人やロッククライマーなら「充分アフォードされている」と感じそうですが、健常者でもふつうは無理でしょう。この時「君たちは3階程度まで壁をのぼる『能力』もないのか」と言おうと思えばいえるでしょうが、はたして、そこになにか意味があるでしょうか。私がいいたいのは~「平等主義」ではありません。人によって「能力の差」がある事実を否定する気持ちはまったくなく「能力が最低なものに最大の配分をしろ」と主張しているのでもありません。そうではなく「どれだけ大きな能力の差をカバーできるかでそのものの価値をはかってみよう」と提案しているのです。~不慣れな人がまじっても「その人のチョンボをいかに防ぐか」までが込みで~そしてそれはまさに、はたらくということ、よりひろくいって社会的に生きるということのモデルでもあります。

    読み手がいるから書き手がいるみたいなもんか…。その人のミスをカバーして報酬が貰えるシステムはあるのか?むしろさあ、これができません、代わりにこれでカバーします、っていう提案を先にするべきでは?それを言わずにおんぶにだっこみたいなのは違うと思う。仕事やらない人にイライラするけどやらないから確かにイライラしても無駄なんだよな。どう防ぐかまで込みでやってるんだからさあ。あとこの感想は私が今仕事でイライラしてるからでもあるな多分。余裕があれば違う感想出そう。

    ・「知性とは学ぶ方法のことであって学ぶ対象を指すものではない」~集団自衛権とか格差社会とか戦争責任とかまじめな話題について書かれているからと言ってその分洋画知的だとは限りません。逆にタレントや流行といった軽めのテーマのエッセイにも書き手の知性に溢れたものがあります。それは平常心ではだれもがわかっていることでしょう。しかし大学や学問といった制度は時としてそのことを見失わせる煙幕の役割をします。「哲学のゼミで原書を読んだから」「歴史学の演習で古文書にさわったから」「フィールドワークで現地に行ったから」自分は知的な人間だ、という気持ちになってしまうのです。ほんとうはどう読んだか/考えたかがたいせつなのに。だから、知性とは旅の仕方であって行き先ではありません。大学という行き先に行くだけでは知性には出会えません。~だめなら「海外のトップ大学」などと目的をつくりあげていったとしても結果はおなじでしょう。

    エリートだからってその言葉が通用するかっていうと違うしな。頭の使い方が違うっていうか、多数決とかもあるし、興味の差もあるし、望むものの差もある。そういうのあるからランク付けっつってもそれは何基準っていうか価値観って渦中でできてしまったものだから消えたりするんだろうなって思う。

    なにかのおすすめで出てきて読んでみたかった本。全体的に読みやすくてよかった。意外にメモが多くなってしまったので記入したとこだけメモ。

  • 卓ジェネ本繋がりで読んでみました。
    文体含め、鬱の回復過程が生々しく感じられる本でした。
    そして、解説が東畑先生。読む本のかなりの確率で東畑先生に出会ってしまう。

  • ふむ

  • 第47回アワヒニビブリオバトル「平成」で発表された本です。
    チャンプ本
    2019.01.08

  • 最近の著作に比べると、もしかすると回復途上の名残りがあるのかなとも。
    逆に言えば、平成史のような大作を読んだ限りはそういった異変の兆候は感じられなかったわけで。

  • 平成は「戦後日本の長い黄昏」
    大学准教授で躁鬱病になった作者

    「うつはこころの風邪」 は誤解
    気軽に医者に相談していいという意味では成功したコピーだが、風邪のように薬を飲んでもすぐに治らない

    ストレスを除去して軽減する場合はうつではなく適応障害

    ハイデガー「現存在」
    私とは、つねに自分の思考や身体をあやつっているのは、ほかならぬこの私だ、と想い続けることでのみ私でいられる
    「人間中心主義的」→サルトルの実存主義に帰結

    左翼思想、マルクス主義が流行した主因は「なぜ、われわれは無謀な戦争をしてしまったのか」を分析的に語ることに成功したから

    なんとなくあいつムカつく、という身体的な感情が先にあれば、それを正当化してくれることばなんて、いくらでも後からあふれてくる

    フルシチョフやチャーチルも躁うつだった

    エクリチュール=書かれたもの
    書かれたものに影響を受けたりしながら自分の思想を作っている

    身体的なのがカトリック、ロシア正教
    言語的なのがプロテスタント=アメリカ

    トランプの政治は身体的「私が民族だ」
    俺はアメリカ人。俺が感じることと同じように感じるのがアメリカ人。そうじゃない人はアメリカ人じゃないので言うこと聞かない。

    象徴天皇というかたちで、政治的な実権と離れたところに「民族の身体」を持っているのは、目下の日本社会にとってはあきらかなメリット
    でもそこにはやはり無理があったから「生前退位」につながったのでは?

    しあわせとは旅の仕方であって、行き先のことではない。

  • アカデミズムの世界の暗い側面から滑り出して、平成という時代を軸に次々と小話のように論を展開していく。鬱病患者として精神病棟で治療にあたった時の記述が興味深い方の意味で面白かった。

  • 出だしが良かった
    基本的に、僭越ではあるけど、考え方は似ているような気がした
    専門じゃないから仕方ないにしても、ただ病気のところで相反するような記述があって
    その後箇所でもちょくちょく不正確、というかそれは違うんじゃってのも割にあった気がした 中国こそ易姓革命の歴史があるだろうとか、アメリカの大学も大衆化してるだろう、とか.....
    ただ一歩下がって物事を、ちょっと立ち止まって考える視点とかは大事よねってところは当然共感できたし、右左共に感じる苦々しさは、まさにそれそれという感じで共感できた

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著者プロフィール

1979年生まれ。東京大学教養学部卒業。同大学院総合文化研究科博士課程修了、博士(学術)。専門は日本近現代史。2007年から15年にかけて地方公立大学准教授として教鞭をとり、重度のうつによる休職をへて17年離職。歴史学者としての業績に『翻訳の政治学』(岩波書店)、『帝国の残影』(NTT出版)。在職時の講義録に『中国化する日本』(文春文庫)、『日本人はなぜ存在するか』(集英社文庫)。共著多数。
2018年に病気の体験を踏まえて現代の反知性主義に新たな光をあてた『知性は死なない』(文藝春秋)を発表し、執筆活動を再開。本書の姉妹編として、学者時代の研究論文を集めた『荒れ野の六十年』(勉誠出版)が近刊予定。

「2019年 『歴史がおわるまえに』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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