アメリカ紀行

著者 :
  • 文藝春秋
3.84
  • (14)
  • (23)
  • (13)
  • (5)
  • (0)
本棚登録 : 271
感想 : 20
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (184ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163909516

作品紹介・あらすじ

哲学の中心はいま、アメリカにあるのか?ベストセラー『勉強の哲学』の直後、サバティカル(学外研究)で訪れたアメリカの地で、次なる哲学の萌芽は生まれるのか。聖なるもの、信頼、警報、無関係、分身、二人称──32のvariationsで奏でるアメリカ、新しい散文の形。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 千葉雅也(1978年~)は、フランス現代哲学及び表象文化論を専門とする、立命館大学大学院准教授で、2013年に発表したデビュー作『動きすぎてはいけない―ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』で表象文化論学会賞を受賞した、現在注目される現代思想家のひとり。
    本書は、2017年10月~2018年1月に、ハーバード大学ライシャワー日本研究所の客員研究員として米国に滞在した際の滞在記である。
    内容は、4ヶ月の滞在期間について、日々、何処へ行き、何をし、誰に逢い、何を話し、何を食べ、何を感じたかが、ほぼ時系列に書かれているのだが、思想家と呼ばれる人びとが、日常の自らの身辺の事象をどのように捉え、考えているのかが垣間見られ、興味をもって読み進めることができた。
    現代思想の専門的な切り口からの記述には残念ながら理解の及ばない部分もあったが、特に印象に残ったのは、アメリカ(西洋)と日本の発想・感覚の違いを語った以下のような点である。
    ひとつは、英語の会話では、「How are you?」、「Have a good day!」のような、まず相手を主語に立てるという感覚があり、一方、日本語の「どうも」、「すいません」、「お疲れ様」のような言葉は一人称と二人称の区別が曖昧、或いは非人称であり、アメリカに着いた当初、この違いになかなか慣れなかったということ。
    もうひとつは、日本に戻ってきて、店の店員がマニュアル的に異様なまでに丁寧なことに強い違和感を持ち、その日本の「おもてなし」と言われるものは他人への思いやりというものではなく、他人という、下手をすると荒れ狂う自然、畏れ多いものを鎮めるための儀式・地鎮祭としてのサービス過剰であり、それは西洋的な意味での人の尊厳を大事にするということとは全く違うのではないかということ。
    私は、著者と同じ宇都宮高校(本書の中にも、同校在学時にAssistant Language Teacherとして英語を教えていた大学教員とボストンで偶然再会した話が出てくる)のOBで、著者の活動には関心をもっているが、今後も、現代思想の専門外の人間との距離を縮めてくれる、本書のような作品も書き続けて欲しいと思う。
    (2019年9月了)

  • 2017年10月から2018年1月末までハーバード大学で日本の現代思想について議論するため、アメリカに滞在した(途中、ミュンヘンにも行った)千葉さんの記録。

    英語での挨拶が二人称(相手を主語にすること)を負担に感じて、一人称(I)と二人称(you)が曖昧な日本語表現についての考察は、なるほどなあと思った。哲学的な雰囲気を感じられて嬉しかった。
    しかし、哲学について全く素人の自分には理解できない考察や思考がいくつもあった。とても悔しい気持ちだ。

    バートルビー風に言うのなら、”難しい文章は読まずにすめばありがたいのですが(I would prefer not to)”という感じ。

  • 《僕は自己紹介として、「無関係」と書かれたカードをとりあえず出した。これをちょっといじって遊んでみませんか、という誘いのつもりで。だが、遊びに乗ってくれない。あなたに説明責任がある、というわけだ。俺を説得してみろ、俺からは理解してやらないぞ、というわけだ。ディベートである。》(p.101)

    《雪とは「可塑的」なものだ。可塑性が降ってきて、世界を覆いつくす。なぜ雪の日に人は興奮するのか。それは、すべてがリセットされ、いまならゼロから作り直せる、という幻想を目の当たりにするからだ。白銀の世界とは、可塑性が回復された世界である。雪遊びとは、もうひとつの世界の模型を作ることである。》(p.141)

    《クィアという響きの当初の挑発性はいまではほとんど残っていない。いまではその言葉は、性に関するマイノリティのただの総称のようになっている。否定性と戯れるという当初の複雑な意識は失われ、ポジティブな存在として生きるために法権利を主張するだけになった。クィア理論、クィア研究はアメリカでは大学制度に組み込まれ、クィアな者たちに正義を!というわかりやすい主張が、インテリの常識、というかドレスコードになっている。》(p.160)

    《パスポートとクレジットカード一枚とスマホという、資本主義的存在の研ぎ澄まされた状態になった。あとは帰国までこの状態でやり通すしかない。あの財布には会員証の類いもあったが、よく覚えていないのが気持ち悪い。何を失ったのかが正確にはわからない。だが、そのようにアイデンティティの手がかりを失うことこそが、そこで歴史が終わるユートピア的空間としての西海岸にふさわしい事態なのではないか、などと思うことにする。ということはつまり、やはり僕はアメリカ映画を演じ切らなければならないのだ。映画が、現実なのだ。》(p.170)

    《ある狭さがなければ欲望することは不可能だろう。狭さが欲望の原因だ。この街のアイスコーヒー。あの街のアイスコーヒー。移動とは狭さの喪失である。ゆえに欲望の喪失である。移動のたびに我々は、愛した狭さへの喪の儀式を執り行う。狭さへの喪。世界のなかで我々は、ある狭さを生きる。おお、狭さよ。》(p.174)

    《日本の「おもてなし」は、他人への思いやりというようなものじゃない。他人とは、下手をすると荒れ狂う自然であり、それを鎮めるために絶えず儀式が必要なのだ。地鎮祭。自然への畏れとしてのサービス過剰。これは西洋的な意味での人の尊厳を大事にすることとは違う。お客様、自然、天皇。》(p.180)

  • 紀行文は書き手の性格や人となりが現れるので面白い。お盆に読むには最適だ。

  • "Enjoy yourself" p.19

  • 詩集のような言葉運びのエッセイ。アメリカが肌から伝わってくるような感じ。

  • アメリカでの生活と哲学について淡々と書かれていて、日記ではないけど雰囲気が伝わってきて面白かった。

  • 良い。こんな感じの本をずっと読んでチューニングしたい。

  • この人の考え方は面白い。


  • 紀行文というのだろうか。このタイプの本を読んだことがない。小説のような、でも哲学書でもあるような不思議な読書体験だった。
    
    動きすぎてはいけないを専門書として極に位置づけ、デッドラインを小説として極に位置付けるとしたら、動きすぎてはいけない→勉強の哲学→アメリカ紀行→デッドライン、という位置づけかなと感じる。
    
    思考の裏側というか、体験の裏側というか、千葉雅也という存在を、その一部を、垣間見ているような感覚。メイキング映像(文章?)がそのまま商品になったような感覚。追体験とまではいかないけど、だからと言って、鑑賞でもない、その間の感覚。
    
    文春オンラインの千葉雅也インタビューによると、書くことのハードルを下げること、制作行為を伝染させること、等に本書の目論見があったらしい。上記の感覚はここら辺の目論見からもたらされていたのかなと思う。読了後にすぐ感想を書き上げてしまったことも、これと無関係ではないと思う。
    
    新年初めの読書で面白い体験をさせてもらった。
    

全20件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1978年生まれ。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授。
著書に『意味がない無意味』(河出書房新社、2018)、『思弁的実在論と現代について 千葉雅也対談集』(青土社、2018)他

「2019年 『談 no.115』 で使われていた紹介文から引用しています。」

千葉雅也の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×