すべては「好き嫌い」から始まる 仕事を自由にする思考法

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  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163909981

感想・レビュー・書評

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  •  先日、産経新聞の川柳欄に掲載されていた川柳を紹介します。
      「大好きは大嫌いより続かない」
     何となく納得 ?

  • とても面白かった。他の著作も読んでみたい

  • 一貫して楠木節must「良し悪し」→want「好き嫌い」
    幼く見える好き嫌いを前面に、人間の本性に向き合う
    文明より文化をより本質とする問題提起はルネサンス
    1.経営者①三角形②矢印 本質論!
    Position 位置エネルギー 地位 経歴 権威 管理
    Action  運動エネルギー 行為 実績 リード
    ⇒「顧客に対する価値提供」企業・組織の本質
    2.戦略の時間軸=ストーリー
     施策の「順列」が重要 
     因果関係≠相関関係 ストーリー≠シナジー
     一貫した論理
    ex エベレスト登頂 VISION 戦略アプローチ 達成感
      ウサギ跳び10周 思い付き 疲労感だけ
    3.言語化 思考に必須 具体⇔抽象往復運動
    4.ゲームよりストーリー プラスサム
    5.経験>想像 百聞は一見に如かず
    6.「入金があるかないか」決定的違い→ビジネス
    7.プライドが邪魔 失敗を回避
    8.破壊が先、創造は後 明治維新・敗戦
      蓄えがあるとこれができない
    9.統合→多様性 好き嫌いインクルージョン
    10.社会の統治原理 ①伝統②王様③民主主義
      資本主義→金融資本主義
      社会主義へ[理念]

  • 好き嫌いは自分の特質を知る優秀なセンサーだと最近思うようになった。
    良い悪いではなく、好き嫌いで判断する方が、意外とカドも立たたない。
    勿論いちいち言ったりはせず、心の中でそう思うだけだけど。
    仕事と趣味の違いは明快。
    単純にお金になるものが仕事。
    努力の娯楽化というのは確かに長続きの秘訣だと思う。
    資本主義と社会主義の捉え方が面白い。
    資本主義は出発点と行き着く所が今一つだけど、中間点がうまく行き、社会主義はその反対で、中間がなかなか難しいとか。
    資本主義の方が多少はみ出した人間でもやっていけるものらしい。理想的な社会ってなかなか難しい。
    競争原理は案外大事、セーフティネットも大事でうまく組み合わせると良いんだけど。


  • 2020年9月読了。

  • ご本人はリベラルより保守派だと言っていたがリベラルかつ保守派なんだと思う

  • はるさん推薦

  • 楠木さんの好き嫌い論がお気に入りで立て続けに読了。
    こんなに好きなようにできる人生って素敵だなーと思いつつ、自分も人生を楽しむっていう価値観があったことを思い出させてくれた。キャリア設計する上で、どうしてもできることから入ってしまうのだが、最終的にはやりたいことが最も重要ですね。

    なんでそれが好きなのか、嫌いなのかを整理して言語化するのってすごい難しいんだけど、価値観を整理する上でも大事なので、今後はやってみよう。
    本書は楠木さんが何がどうして好きなのかを言語化してあり、よい参考書となるので、これを真似て言語化してみよう。

    先日、テレビで林修が自分は他人からできると思われている(成果を出せると思われること)をやるのが苦ではないので、やりたい・やりたくないは考えていないといっていた。真逆の考えだが、どちらも説得力がある。

    努力しても結果が伴わないとやる気をが続かない。それであれば、好きなことにとことん凝ればよい。内因的なMotivationを大切にする。


    人はいろいろな物事に囲まれて生きている。その中で自分の価値観に照らして初めて、その人なりの意見や考えが生まれる。人が他社に強制されず、自分自身で獲得した固有の価値基準。自分の言葉で対象をつかみ、自分の言葉で考え、伝える力。もっと言えば「その人がその人である」ための基盤。これが教養。

    カネは人を自由にしない。
    肝心の選択や判断をするときに、その基準がお仕着せの他律的なものであれば、その人は自由であるとは言えない。その人に固有の好き嫌いこそが個人を自由にする。

    表層よりも基盤を優先する(表層より実質)
    服に凝るよりも、まずは姿勢を整えたほうがよい。姿勢を整える前に、まず体型を整えたほうがよい。
    プレゼンのテクニックを習得するよりもまずは言葉を豊かにした方がよい。言葉を豊かにするよりもまずは人に語り掛けるべき内容を豊かにした方がよい。

    シナジーおじさんは信用できないが、「それでだ!おじさん」は良い。組み合わせの妙と順列でストーリーを組み立てることが心を揺さぶる。

  • 石橋を永遠叩いてなかなか渡れない人へ。
    思考によって「自分の好き嫌いについて意識的に」なれば行動するのが楽になる。

  •  あー、面白かった。


     伸び盛りの社会が顕示的で外在的な装飾を求めるのに対して、成熟した社会は内在化された実質を志向する。ユニクロのコンセプトである「ライフウェア」はその典型だ。ライフウェアはZARAやH&Mのような「ファストファッション」ではない。かといって、GAPのような従来の「カジュアルウェア」でもない。「部品としての服」という考えである。普通の人々の快適な生活のベースとなる部品。部品である以上、そこには機能や用途についての提案が込められている。ときどきの流行を追うわけではないが、時間とともに進化していく。そうした部品がヒートテックでありエアリズムでありウルトラライトダウンであり、先に触れたUniqlo Uのプレーンな無地Tシャツなのである。
     
     他のEコマースの経営者とベゾスでは、物事が起きる順番についての考え方が決定的に違っていた。多くの人々は、このような順番で考えていた。「インターネットで物理的な制約がない。だから、品ぞろえを思いっきり増やせる。で、顧客にとって便利になる。だから、お客が来る」。
    「そんなわけないだろ!」とベゾスは考えた。やたらと品ぞろえが充実していても、自動販売機を置くだけなら人々は魅力を感じない。従来の売り場との本質的な違いはない。
     ベゾスが考えたことの順番はこうだった。「購買意思決定のインフラをつくる。そうすると、これまでになかった利便性を提供できる。だから、お客が(その利便性を求めて)集まる。いきなりアマゾンでどんどん物を買ってくれないかもしれない。それでも日常的にアマゾンのサイトにある情報を見に来るようになる。そこに多くの人が集まっているので、アマゾンで売りたいという人々(メーカーやセラー)が出てくる。で、品ぞろえが充実する」。
     他社は「品ぞろえの充実」を差別化として意図した。そこに利便性の原因を求めた。しかし、そんなふわふわしたものでは話にならない、というのがベゾスの考えだった。利便性の正体は購買意思決定支援にある。それがまず顧客を惹きつけ、その上で次にセラーを惹きつける。アマゾンにとって「品ぞろえの充実」は原因ではなく、結果に過ぎない。

     変革をとくに難しくしているのは、創造よりも破壊の方にある。裏を返せば、変革の重点にして力点は破壊にこそ置かれるべきなのだ。
     しかし、これがなかなかできない。とりわけ過去において成果をもたらした内的一貫性を抱える企業にとって、破壊は想像の何倍もエネルギーのいる仕事となる。結婚よりも離婚のほうがはるかに大変なのと似ている。
     だから、多くの企業は破壊に手をつけず、既存の内的一貫性の上に「創造」を重ねようとする。これは家の土台をそのままに増改築を繰り返すのに等しい。家を全体として見たときには大して変わらない。これでは問題の先送りに等しい。
     
     ごく客観的に考えれば、「ナンバー1、ナンバー2」は意思決定の基準としてとうてい正しいとはいえない。事実、振り返ってみれば、ウェルチの「ナンバー1、ナンバー2戦略」には判断ミスもたくさんあった。通信事業からの撤退を懸念する声が内外に強かったことはすでに述べた。しかし、ウェルチは、例によって「ナンバー1、ナンバー2でないから」といういつもの基準であっさり撤退してしまう。これが後にGEがインターネットの波に乗り遅れる遠因となった。ウェルチ自身もこの「間違い」を後になって認めている。
     教科書的に言えば、選択と集中の基準は「ケースバイケース」であるべきだろう。だから普通の(優れた)CEOは「多角的・総合的に判断」しようとする。「正しさ」にこだわり、「ミス」を回避しようとする。だから、「残すべきものを残し、壊すべきものを壊す」というスタンスで創造的破壊に臨む。
     しかし、である。GEのような巨大かつ複雑、長い歴史を持つ内的一貫性の塊のような大企業が「正しい」ことをするだけで変わるだろうか。「正しさ」を追求すると、どうしても話が複雑でわかりにくくなる。判断に時間がかかる。コンセンサスをとるのが難しいので、実行する上でも遅れをとる。
     …
     だから「正しさ」を犠牲にしても、判断と実行の上での明快さを優先する。多少の「間違い」を含んでいたとしても、方針や判断基準は「過剰にシンプル」でちょうど良い―。この割り切りに変革を率いるリーダーの真骨頂がある。

     経営者には大別して2つのタイプがある。「三角形の経営者」と「矢印の経営者」だ。
     あらゆる組織には階層的な権限配置の構造がある。どんなにフラットで自由闊達な組織であっても、そこには依然としてヒエラルキーがある。権限の階層性はいつの時代も変わらない組織の本質だ。
     世間に名の知れた―すなわち大きな位置エネルギーをもつ―一流企業に入る。で、まるで登山のように組織の階層を上へ上へと昇っていく。山頂にある社長のポストへの到達を最終目標として、キャリアを重ねていく。ついに社長になり、一件落着、めでたしめでたし―。これが三角形の経営者だ。
     三角形の経営者は本物ではない。商売の基を創り、戦略ストーリーを構想し、商売丸ごとを動かして成果を出す。商売が向かっていく先を切り拓き、外に向かって動きと流れを生み出す。矢印の経営者こそが本来のリーダーだ。
     三角形の経営者は一義的に位置エネルギーを求める。「代表取締役社長」とか「CEO」のポジションは、予算や人事の権限、社内外での権威など経営者に大きな位置エネルギーをもたらす。組織が大きいほど、経営者の位置エネルギーもまた大きくなる。
     一方、矢印の経営者の生命線は運動エネルギーにある。本来の経営という仕事は、いずれも「何をするのか」「何を達成したいのか」という行動を問うものであり、経営者の運動エネルギーにかかっている。三角形の経営者には代わりがいくらでもいる。しかし、矢印の経営者は、その人がいないと始まらない。昔も今もこれからも、経営者の運動エネルギーはビジネスの成果を最も大きく左右する要因の一つである。
     三角形の頂点をめざして偉くなりたい人はたくさんいる。三角形の経営者はいつの時代も供給過剰だ。だから限られたポストをめぐり組織の中で熾烈な競争が起こる。一方、矢印の経営者は希少な存在だ。ゼロから商売の基を創り、戦略ストーリーを構想し、実際に商売を動かして稼げるリーダーは実に少ない。供給が需要にまったく追いついていない。企業経営の停滞や迷走の背景には、いつも三角形の経営者の跳梁跋扈と矢印の経営者の不在がある。
     なぜそうなるのか。その理由は、多くの人が「エネルギー保存の法則」に嵌まることにある。学校の物理の時間に習った「エネルギー保存の法則」を覚えているだろう。ボールを空に向かって高く投げる。上に行くほどボールは位置エネルギーを得る。その分、運動エネルギーは喪失される。
     組織の頂点に立てば、大きな力が手に入る。力とは「動因できる資源の大きさ」である。自分が一声かければ1000人が動く。一つの判断で100億円が動く。より大きな資源動員力を求めるのは人間という動物に埋め込まれた基礎的本能の一つだ。
     三角形の経営者はエネルギー保存の法則の産物である。彼らも若い頃は運動エネルギーに溢れていたのかもしれない。しかし、それが次第に位置エネルギーに転化する。位置エネルギーが増えるほど、運動エネルギーは低下する。役員、社長に上り詰め、位置エネルギー満載となったときには、「こういう商売をしたい!」「これで稼いでいくぞ!」という運動エネルギーがすっからかんになる。せっかく手にした位置エネルギーの保持に汲々とするという成り行きだ。
     考えてみれば、経営者にとって位置エネルギーはあくまでも手段にすぎない。大きな位置エネルギーを再び矢印の運動エネルギーに転化できてこその経営者である。ところが、三角形の経営者にとっては、社長のポジションにあるという状態それ自体が一義的な目的になってしまう。手段の目的化だ。

     これだけ多くの人々が生きている世の中、ましてや「多様性の時代」である。一人ひとりの意見が合わないのは当たり前だ。「多様性が大切!」と声高に正論を振りかざす人ほど、自分と合わない意見を「間違っている!」と非難する。自分に局所的な良し悪し(つまりは自分の好き嫌い)を他者にも適用し、それがあたかも普遍的な価値観であるかのように思い込む。
     単に自分と好みや意見が合わないというだけの話なのに、無理やり良し悪しの物差しを振り回し、他者の意見を「悪いこと」「間違っている」と考え、不快に感じ、攻撃する。人と自分の優劣が気になり、些細なことについてもいちいち自分の優越を示す。これは実にストレスフルで、生き辛いと思う。
     そういう人たちには、この際、好き嫌い族への「転族」をお勧めしたい。生きるのがぐっと楽になるはずだ。多様性の時代とは、言い換えれば好き嫌いの時代である。人は人、自分は自分。自分と違っていても、いちいち気に留めず、放置しておけばよい。自分の意見と違っていても、「ほう、そう考える人もいるのか……」と面白がればいい。
     異なる価値観と出会うことによって、自己の価値観がより明確に意識され、たまには自分の考えが変わることもある。この繰り返しで自己の価値観が徐々に錬成されていく。ここが人間生活のコクのあるところだ。良し悪し族はこの美味しいところをみすみす見過ごしている。

     改めて考えてみると、ダイバーシティというのはわりとトリッキーな概念だ。良し悪し族はいくつかの重要な論点を見落としているように思う。ここでは3点を指摘しておきたい。
     第1に、ダイバーシティは本来的に一人ひとりの「個人」に対応した概念である。しかし、ともすると話が「性別」とか「世代」や「性的指向性」といったデモグラフィック(人口統計的)なカテゴリーにすり替わる傾向にある。
     もちろんこれには理由がある。そもそも個人は多種多様である。同じ日本人の男性の50代でも阪神ファンもいれば巨人ファンもいる。…組織の中でしっかりとした役割分担のもとで働くのが好きな人もいれば、自由勝手に動くほうが好きで成果の出る人もいる。
     こういうことを言い出すと個別的に過ぎて話がまとまらなくなる。だから性別や国籍という象徴的なカテゴリーに代表させて、個人の多様性を云々する。ところが、デモグラフィックな特徴は個人の多様性のごく一部にして表面的にすぎない。
     …
     見過ごされている点の第2は、「統合」の重要性である。
     多様性が高まれば高まるほど、一方で強力な統合装置が必要になる。世界共通語としての英語がその好例だ。さまざまな国から言語や文化が違う人々が集まって会議をする。…
     話を先のサイボウズの例に戻す。サイボウズはチームワークを支える「グループウェア」をクラウドベースで提供する会社である。ミッションは「最高のグループウェアを創る」。多様性の高い組織にあって、このミッションが統合装置として機能している。
     個人はできるだけ自分の好きなように仕事をすればいい。しかし、すべては「最高のグループウェア」のためにある。このミッションに合致しなければ、それが個人の「好き」であっても、会社として受け入れない。逆に言えば、「最高のグループウェア」に資することであれば、あとは自分のスタイルで好きなようにやってくれ、という話である。
     サイボウズでは「この一点では争わない」というミッションが全員に浸透している。だから個人レベルでのインクルージョンに踏み込める。強力な統合がなければ、本当に多様になるとマネジメントの手に負えなくなり、組織として崩壊してしまう。
     ここでのポイントは、一般的な良し悪しでは統合装置として不十分ということだ。「最高のグループウェア」はサイボウズが自由意思で打ち立てた旗印、すわなちこの会社に局所的な「好き嫌い」である。このミッションに共感できず、コミットできない人はサイボウズにいるよりも、どこか別のもっと好きになれる会社に行ったほうがいい。会社と個人は好き嫌いでつながっているのであって、誰にとっても「良い会社」というのは元から存在しない。
     組織なり経営の本質は多様性よりも統合のほうにある。そして統合装置はその組織に固有の好き嫌いを抜きにしてはあり得ない。良し悪しを叫ぶだけでは統合はできない。良し悪し族主導のダイバーシティが「性別」とか「国籍」とかのデモグラフィックな次元に留まり、その先にある本格的な好き嫌いがインクルージョンに至らない背景には、統合の不全がある。
     第3の論点として、ダイバーシティの議論は分析単位のとり方に大きく依存している。良し悪し族はこの点を見落としている。
     女性が活躍し、女性管理職の多い会社のほうが組織内の多様性が高く、「良い会社」である。その通りなのだが、その一つ上位のレイヤーである社会全体で見ればどうなるか。良し悪し族の主導の下にみんなが「良い」とされる方向に足並みをそろえて進んでいくと、結果として個別組織の個性が失われる。組織内部の多様性は増しても、社会レベルでの多様性はかえって低下する。
      …
     ダイバーシティは「良い」ことだが、それ自体は目的にならない。結果である。それぞれが自由意思で好きなことを追求する。その結果として多様性が生まれる。この順番が大切だ。好き嫌いこそ経営や組織の本領がある。


     理念がないと、資本主義の経営はややもすると金融資本主義的な方向に転がっていく。理念とは、その組織なり企業に固有の価値基準であり、ようするに好き嫌いである。理念のない会社は、もはや会社ではない。理念という名の好き嫌いを基盤とする企業は、資本主義の行き過ぎ、手段の目的化に対する対抗軸になる。

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著者プロフィール

経営学者。一橋ビジネススクール特任教授。専攻は競争戦略。主な著書に『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(東洋経済新報社)、『絶対悲観主義』(講談社)などがある。

「2023年 『すらすら読める新訳 フランクリン自伝』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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