猫を棄てる 父親について語るとき

著者 :
  • 文藝春秋
3.76
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本棚登録 : 1045
レビュー : 84
  • Amazon.co.jp ・本 (104ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163911939

作品紹介・あらすじ

時が忘れさせるものがあり、そして時が呼び起こすものがあるある夏の日、僕は父親と一緒に猫を海岸に棄てに行った。歴史は過去のものではない。このことはいつか書かなくてはと、長いあいだ思っていた―――村上文学のあるルーツ

感想・レビュー・書評

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  • 読者に読んで欲しくて書いたものではなく、村上さんが自身のために書いて残した作品だと思います。

    101ページ中、84ページまでは父親の人生が淡々と語られています。
    84ページ以降ラストまでに、この作品の全てが詰まっていると思います。

    大切な人(ペットも)を亡くすと、心にすっぽりと穴が空き、その人の存在が大きくなって、その人の人生のこと、あの時一体どういう気持ちだったんだろう、きっとこう思っていたんだろうなどと思い巡らせます。
    その方が自分にとって大切であればあるほど、そして心が優しく繊細な人ほど、自分の関わり方について、後悔し自責の念にかられてしまうのではないでしょうか。

    そしてその人の人生の軌跡を辿り、過去に戻って考える作業はとても尊いものだと思います。

    『父の死後、自分の血筋をたどるようなかっこうで、僕は父親に関係するいろんな人に会い、彼についての話を少しずつ聞くようになった。』

    『僕らは似たもの同士だったのかもしれない。良くも悪くも。』

    そしてこの世に生を受けて全うすることとは、きっとこういったことなのではないか、という著者なりの人生観は深く心に染みます。

    父や母の人生があのとき違っていたら・・自分はこの世に存在しなかった。
    もし若いときに、他を優先せず父親との接点を持つことに取り組んでいたなら・・。

    たまたまの偶然で人生は形成されているに過ぎません、
    言い換えれば膨大な数の雨粒のうちの名もなき一滴に過ぎません。しかし一滴なりの思いや歴史があり、それを受け継いでいくという責務があります。

    『いずれにせよ、僕がこの個人的な文章においていちばん語りたかったのは、ただひとつのことでしかない。ただひとつの当たり前の事実だ。
    それは、この僕はひとりの平凡な人間の、平凡な息子に過ぎないという事実だ。それはごく当たり前の事実だ。
    しかし腰を据えてその事実を掘り下げていけばいくほど、実はそれがひとつのたまたまの事実でしかなかったことがだんだん明確になってくる。
    我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実としてみなして生きているだけのことなのでなあるまいか。』

    『言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。』

    この世に生まれて色々な人と関わりながら生きて死んでいくということは、奇跡の塊だと思います。

    そして絶妙なタイミングや案配で、著者と猫との思い出が語られるところが、只者ではない彼の作品ならではだと感じました。  

  • もしかしたら村上春樹が思っている以上に、この、父親との関係について、読みたかった読者は多いのではないかと思う。

    私の印象に残ったのは「棄てられた体験」と「トラウマの引き継ぎ」だった。
    父親が幼少期、一時期別の家に預けられていて、恐らく何事もなければ帰って来なかったという体験を読んで、ふと漱石を思い出した。
    村上春樹が言うように、体験した者でなければ分からない深い思いがそこにはあるのだろう。

    そんな父親と村上春樹自身も、決して良好な関係ではなかったようだ。
    だけど、父親が負った戦争殺人にまつわる苦悩を、トラウマの引き継ぎとして村上春樹が負うていくことに、何だか考えさせられる。

    親と生い立ちと、私自身の生い立ちや生き方には、どんな繋がりがあるのだろう。
    少なくとも、私が生まれる以前の父や母に対する興味はそんなに大きくはなかった。
    だから、村上春樹の言う集合としての人間、みたいな大きな所まで思い至ることもなかった。

    けれど、いつからか、自分を一人の人間とした時に、同じ等身大の姿として父や母の存在を考えるようにはなったとも思う。
    ただ、生きているうちは、私も恐らく踏み込めないような気がする。たとえ戦争のように、生きていく上で関わらざるを得なかった、そんな酷い出来事が起きていなかったとしても。

  • 村上春樹が父との関係を語った本。あまりにも短いが、「他の文章と組み合わせることがなかなかむずかしかった」ために、イラストレーションを付けて独立した小さな本として出版される運びとなったという。確かに、そのテイストは村上春樹らしくはないかもしれない。

    もし、村上春樹が息子をもうけ、自ら父になっていたとしたら、この本はこれとは違う形になったのではないだろうか。もしかしたら、書かれることさえなかったかもしれない。当の父が鬼籍に入り、母も高齢となって混濁によって意志の疎通が定かでなくなり、そして自分が父となることがおそらくないだろうという条件がそろい初めて書かれる条件がそろったのかもしれない。それはあまりにも個人的ではあるが、それだけではなく親族的でものであったのではないか。親族的な領界のものが個人的な領界のものに質的に変化をしたことでようやく公に向けたものとしても書くことができたともいえるのかもしれない。

    村上春樹と父との関係は、深いコミュニケーションと親愛さを欠いたもののように感じられるが、それはある意味ではありふれたもののようにも思われる。一方で、村上春樹が本に書かなくてはならないと考えたであろう理由は、父との関係以上に父の中国従軍の経験であったのだろうか。父からついに具体的なことを聞くことはできなかったが、おそらくは記憶のひとつとして引き継がれなくてはならないたぐいのものだと感じたのか。それは、父にとって自分が誰かの代わりに生き残ったという罪悪感と重荷の意識なのかもしれない。その子供として、何か別の意味であるとしても重荷を背負うべきだと考えたのだろうか。「歴史は過去のものではない。それは意識の内側で、あるいはまた無意識の内側で、温もりを持つ生きた血となって流れ、次の世代へと否応なく持ち運ばれていくものなのだ」というとき、そういう意識が働いていてもおかしくはない。

    自分のことでいうと、もうすぐ父が亡くなったときの年に近づいている。がんとの闘病の末に亡くなったのだが、その当時は今では信じられないが、本人にはそのことを伝えずに母にだけがんの事実が告げられていた。しかし、おそらくは死を意識していただろうと思う。それでも、離れて住んでいたこともあり、ほとんど父の人生について聞くことはなかった。今、息子との間の関係もまあ似たようなものではある。ある時期には父との会話はまったく必要だと感じるものなのだろう。そういったものは時間と偶然を必要としているものなのかもしれない。

    「我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか」

    村上春樹らしくない、とても短い本。

  • 「ねじまき鳥」にとくに顕著だが、一般に米国文学の影響が強いとされる村上春樹の小説に、ときに仏教的な世界観を感じることがある。
    他のレビューにも書いたが、毎日のルーティーン、掃除、ひたすら井戸の底で瞑想。禅の修行そのもののようにも思える。
    だから、何かのインタビューで、村上春樹の父が宗派は違えど僧侶だったと聞いてある意味合点がいくものはあった。

    静謐な文章。
    著者近作、たとえば「巡礼の年」あたりの、さすがに技巧的すぎるのではという文体に疲れ気味、という古くからの村上読者にとって、とても心地よいリズムが戻ってきた、と感じるのではないか。
    個人的には「ウイスキーであったなら」を思い出した(私にとっては、あれが至高の文章)。

    そして、やはり「ねじまき鳥」から顕著になった、幻想としての「中国での戦争」の影。

    初めて村上春樹の本を電子書籍で買った。
    厚さや残りページなど、「手触り」のないなかで物語はややあっけなく終わりを迎えた。紙の冊子だったらもう少し結末に向けて速度を落として読んだのに。

  • 父親と息子。そこにはきっと母親と娘の間にあるものとは違う何かがー多かれ少なかれーあるのだろう。
    例えばもしかすると、息子の方が経済的に、あるいは社会的に成功していたとしても、それでもなお息子は父親のことを自分ではまだ越えられない何かであると感じるのかもしれない。
    だからこそ、父親を亡くした後、父親の人生を、そして父親と自分の関係を、ようやく客観的に見つめられるのかも知れないし、見つめたいと思うのかもしれない。
    世界の村上春樹が父親について語るときがようやく来たということか。
    子どものときに父と一緒に棄てにいった猫。家の庭の松の木に登ったままいなくなったーあるいは死んだー猫。
    帰ってきた猫と、帰ってこなかった猫。戦争から帰ってきた父親と、病で亡くなった父親。自分の中にある、猫と父親の思い出。
    それは村上春樹の個人的思い出であり、世界中にある普遍的な思い出でもあり。

  • ‪これは村上さんが自分自身のために書いた個人的なメモワールなのだろうと思った。言いたいことはラスト3ページに全部書いてあった。彼には彼の歴史があり、彼の父親には彼の父親の歴史があり、そして僕には僕の歴史がある。それは深いところでつながっている。不思議な読後感。‬

    • よーえりさん
      たったいま読み終わり、同じ感想です。
      たったいま読み終わり、同じ感想です。
      2020/04/26
  • 1時間もあれば読み切れる春樹が父親について書いたエッセイ。
    なんとも味のある挿絵と、手の中に丁度よく収まる新書サイズの素敵な本。
    この本を読んで自分が今ここに生きている事は、様々な偶然が折り重なって奇跡的に生じているんだと感じた。
    自分には特に戦争を体験したおばあちゃんやおじいちゃんが生きている世代だからこそ、その奇跡的な偶然をふとした時に感じる事がある。
    でもこれから戦争を体験した事のない世代が増えていくと、自分が生まれたことの奇跡的偶然を感じる事が出来る機会が減っていくのでは?
    そうなると世の中はどうなって行くのだろう…
    また戦争をあからさまに繰り返して核戦争とかになってしまうのかな…とか、取り留めのない事を思ってしまった。
    春樹のエッセイはアホみたいに笑える時もあれば、
    なんだかこう言うふと、取り留めのない事を考えさせられる機会を得ることがあるから好きだ。

  • ずっと気になっていてやっと読めた、村上春樹の本

    当然なんだけど、村上春樹にも私と同じように供時代があるということに、不思議な気持ちになった。

    父との確執についてのはなしは、どこか親近感を覚えた。親と同じ年齢になってから、親の気持ちがわかるとはたびたび耳にするけど、この本はそれがすっと納得できる気がした。

  • ▼個人的にずっーーと、この35年来、「司馬遼太郎と村上春樹が好き」なんですが、水と油に見えてこのふたつの作家性みたいなものが、実は地下水脈で繫がっているような気がしていました。村上春樹さんが年齢を重ねるごとにその気配は濃厚になりつつあります。(内田樹さんがそれについて言及しています)

    ▼「猫を棄てる 父親について語るとき」村上春樹。2020年、文藝春秋。2020年5月読了。104頁。すぐに読めます。

    ▼2020年現在71歳であるらしい村上春さんが、恐らく昨年に雑誌文藝春秋に発表した、自身の父親の思い出、特に父の戦争体験についてです。
     本文にあるとおり、

    "父の心に長い間重くのしかかっていたものを、ーーー現代の言葉で言えばトラウマをーーー息子である僕が部分的に継承したことになるだろう。人の心の繋がりとはそういうものだし、また歴史というものもそういうものなのだ"

    "僕がこの文章で書きたかったことのひとつは、戦争というものが一人の人間ーーーごく当たり前の名もなき市民だーーーの生き方や精神をどれほど大きく深く変えてしまえるかということだ"

    "歴史は過去のものではない。それは意識の内側で、温もりを持つ。生きた血となって流れ、次の世代へと否応なく持ち運ばれていくものなのだ"

    という本です。恐らく村上春樹さんの本の中ではショッキングなまでに、素直で分かりやすい。そういうことが相応しい本であり、内容だと言うことでしょう。

    ▼誤謬を恐れず簡単に言うと。村上さんの父上はお寺さんの次男坊で、頭が良くて京都帝大まで行きました(スゴいことです)。その前後、年代の不幸のせいか、計3度も徴兵され従軍(終戦時27歳。このくらいの年代は、特に特権やコネがないと、そうなりがち。僕の祖父も2度徴兵されました)。中国戦線で死線を彷徨い、なんとか生き残り終戦。その後は学校教師になり、結婚し、村上春樹さんを授かりました。

    ▼村上春樹さんは、父上から特段詳細に人生を聞いたわけではなく。むしろ絶縁に近いくらい仲違いしていたらしいです。ただ、父上が亡くなってから、従軍記録など含めて、調べた(相当に調べたようです)。そしてこういう本を上梓。父上の軍歴や経歴詳細は、それでもかなり不明なままです。ただ、

    ○父上は南京虐殺に立ち会った隊にいた、と、思っていたけど、時期がちょっとずれていた。

    ○父上は一歩間違えばインパールかレイテでほぼ確実に死んでいた。幸運だった。(そうなっていたら村上春樹さんは生まれていない)

    というようなことが分かります。
    そして、父上がそういう体験をしたことを、運良く生き残ったことを、仲間は運悪く死んだ、あるいは南京虐殺に手を染めたことを、そして父上ご自身も、いくつかの、あるいは多くの中国人を殺した、それも無抵抗の捕虜を殺すようなことをさせられたことについて、死ぬまで引きずっていたことを、改めて噛み締めます。

    まあそれで、終わり。という短い本です。
    味わい深い、素敵な一冊、読書の快楽。

    ▼社会学者の小熊英二さんの本に「生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後」(2015岩波新書)というのがあり、これが小熊英二さんの父上の半生記。一市民の経歴を通して、戦時中と戦後という歴史を感じさせる名著でした。コレを、村上春樹さんが村上春樹さんらしくやると、こうなるんだな、というのが「猫を棄てる」。

    ▼村上春樹さんが旧日本軍の詳細を、まるで司馬遼太郎さんかの如く普通に言及する本書は、多分1986年以来のリアルタイムなファンとしては、何だか感慨がひとしお(村上春樹さんから10年くらい遠ざかった時期もありますが)。村上春樹さんの移り変わりは、僕は好きだし、上手く言えないけど支持したいです。それは変化の方向が好きだからではなくて、年齢や経験とともに変化していくことは当たり前だし、その当たり前のことを気負いなく表現していることを、支持したいです。それは見方によっては「変節」だったり「卑怯」、「日和見」、「転向」、「大人になりやがって」、「前のほうが良かった」エトセトラ、エトセトラと言われることもあるでしょう(村上春樹さんであろうが、無名のイチ市民であろうが)。でも、変わるほうが当たり前です。変わらないことを自慢するのは、変わったことを自慢するのと同じくらい、虚しいことです。

    ▼「猫を棄てる」は、ほとんど司馬遼太郎さんの名作、「ひとびとのあしおと」のよう。なんとなく個人的に嬉しいような。(当事者お二人にとって、または他のヒトにとって、かなりどうでもいいことでしょうが)
     司馬さんは歴史小説と呼ばれる、過去のことを主に書いていましたが、それはそこから現在と未来を探していた気がします。村上春樹さんは、非常に個人的な内容を書いてきたように見えて(私小説という意味ではなく)、実は強烈にズバ抜けて社会的な小説家だ、とある時期から思っていました。きっとそんな村上春樹さんが生きている中で、具体的に歴史というコトバを語りたくなったのでしょうし、そういう必要を感じる時代を、今、僕たちが生きているということなのかも知れません。

    ▼村上春樹さんは、父上の経歴、とくに中国での従軍体験、もっと踏み込んで言うとその中で無抵抗な中国人を殺さざるを得なかった罪悪感を感じていたこと、を、これまでも断片的には書いています。それこそ、「中国行きのスロウ・ボート」(1980)に既に書いています。村上さんにとって個人的に父と向き合うことは、中国と、戦争と、歴史と向き合うことに他ならなかったのでしょう。それは「ねじまき鳥クロニクル」(1994)以降、せり上がる地熱のように明確になってきています。

    ▼文革の70年代、天安門で終わる80年代、市場経済&香港返還の90年代、経済成長の00年代、グローバル経済大国の10年代、そしてコロナ危機の20年代…と、世に連れ日本と中国の感情的な変遷も相当にドラマチックですが、2019-2020、中国に対して「ヘイト」と呼ばれる感情もうねっている中で、村上さんがこの本を上梓したことは、イラストを96年生まれのガオ・イェンさんに任せたことを含めて、ヘイト感情への村上春樹さんなりの静かなプロテストを勝手に感じます。僕は好きです。

  • 父親と戦争
    そこからの一人の人生について
    とても考えさせられる内容だった

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著者プロフィール

村上春樹(むらかみ はるき)
1949年、京都府京都市伏見区生まれ、兵庫県西宮市芦屋市育ち。早稲田大学第一文学部映画演劇科卒。大学在学中にジャズ喫茶「ピーター・キャット」を国分寺・千駄ヶ谷に開店していた(1981年、店を人に譲渡)。1979年にデビュー作の「風の歌を聴け」で群像新人文学賞を受賞。谷崎潤一郎賞、読売文学賞、朝日賞など数々の受賞歴がある。2006年にフランツ・カフカ賞、2009年にイスラエルのエルサレム賞受賞。ノーベル文学賞に最も近い作家の一人と言われており、毎年発表時期に日本国内でニュースになる。事実、村上春樹作品は全世界で翻訳されており、アメリカ・アジアでの評価がとりわけ高い。フィッツジェラルドやレイモンド・カーヴァーなどの作品の翻訳も手がけ、翻訳家としての仕事も高い評価を受ける。翻訳と創作活動を交互に行うことで、作風を変化させ、作家としての成長を続けている。新作が発表されるたび大きな話題となるが、近年は特別番組「村上RADIO」にてラジオDJも務め(不定期放映)、数々の名言も注目を集める。代表作に『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』。2019年7月31日に『神の子どもたちはみな踊る』が舞台化。アメリカのサックス奏者スタン・ゲッツの伝記翻訳を2019年8月刊行。2019年9月10日発売の『文藝春秋』10月号で「至るところにある妄想 バイロイト日記」を寄稿。

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