猫を棄てる 父親について語るとき

著者 :
  • 文藝春秋
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本棚登録 : 1827
レビュー : 200
  • Amazon.co.jp ・本 (104ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163911939

作品紹介・あらすじ

時が忘れさせるものがあり、そして時が呼び起こすものがあるある夏の日、僕は父親と一緒に猫を海岸に棄てに行った。歴史は過去のものではない。このことはいつか書かなくてはと、長いあいだ思っていた―――村上文学のあるルーツ

感想・レビュー・書評

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  • 父親についてのエッセイ。
    とても個人的な内容だと思った。消えてしまう前に残さねばならない父との記憶を綴った…というふうに受け止めた。
    最新の短編集「一人称単数」を読んだ時にも感じたのだが、切実感がある。村上さんが自らの「老い」と闘っているようにも感じる。

    棄てられた猫の話は二匹分。
    一匹目は能動的に棄てようとしたが、戻ってきてしまった。二匹目は結果として棄てたようなかたちになったが戻っては来なかった。(おそらくそのまま死んで干からびてしまった)

    村上さんの小説に登場する、喪失感や虚無感を抱えた何か(ピンボールマシン、羊、ガールフレンド、妻……)を探している主人公の原型は「棄てられた猫」なのかもしれない。


    そして、村上さんの父親は第二次大戦時、中国へ出征している。そして、戦後は毎日、当時の仲間の兵隊や中国の人たちのためにお経を唱えた。

    中国との間の不幸な戦争。その中で自分の属する部隊が捕虜にした中国兵を処刑したこと。処刑された中国兵が、騒ぎもせず静かに斬首されたこと。その態度に敬意を深く抱いたこと。
    父親は自らが体験したこのエピソード(とトラウマ)を、村上さんに引き継いでいる。

    ノモンハン事件や満洲国が登場する「ねじまき鳥クロニクル」は父親の影響を強く受けているのではないか、と思った。
    本書を読み終えた今、もう一度読んだら、解釈が少し変わってくるかもしれない。

  • 読者に読んで欲しくて書いたものではなく、村上さんが自身のために書いて残した作品だと思います。

    101ページ中、84ページまでは父親の人生が淡々と語られています。
    84ページ以降ラストまでに、この作品の全てが詰まっていると思います。

    大切な人(ペットも)を亡くすと、心にすっぽりと穴が空き、その人の存在が大きくなって、その人の人生のこと、あの時一体どういう気持ちだったんだろう、きっとこう思っていたんだろうなどと思い巡らせます。
    その方が自分にとって大切であればあるほど、そして心が優しく繊細な人ほど、自分の関わり方について、後悔し自責の念にかられてしまうのではないでしょうか。

    そしてその人の人生の軌跡を辿り、過去に戻って考える作業はとても尊いものだと思います。

    『父の死後、自分の血筋をたどるようなかっこうで、僕は父親に関係するいろんな人に会い、彼についての話を少しずつ聞くようになった。』

    『僕らは似たもの同士だったのかもしれない。良くも悪くも。』

    そしてこの世に生を受けて全うすることとは、きっとこういったことなのではないか、という著者なりの人生観は深く心に染みます。

    父や母の人生があのとき違っていたら・・自分はこの世に存在しなかった。
    もし若いときに、他を優先せず父親との接点を持つことに取り組んでいたなら・・。

    たまたまの偶然で人生は形成されているに過ぎません、
    言い換えれば膨大な数の雨粒のうちの名もなき一滴に過ぎません。しかし一滴なりの思いや歴史があり、それを受け継いでいくという責務があります。

    『いずれにせよ、僕がこの個人的な文章においていちばん語りたかったのは、ただひとつのことでしかない。ただひとつの当たり前の事実だ。
    それは、この僕はひとりの平凡な人間の、平凡な息子に過ぎないという事実だ。それはごく当たり前の事実だ。
    しかし腰を据えてその事実を掘り下げていけばいくほど、実はそれがひとつのたまたまの事実でしかなかったことがだんだん明確になってくる。
    我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実としてみなして生きているだけのことなのでなあるまいか。』

    『言い換えれば我々は、広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の、名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど、交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。』

    この世に生まれて色々な人と関わりながら生きて死んでいくということは、奇跡の塊だと思います。

    そして絶妙なタイミングや案配で、著者と猫との思い出が語られるところが、只者ではない彼の作品ならではだと感じました。  

  • もしかしたら村上春樹が思っている以上に、この、父親との関係について、読みたかった読者は多いのではないかと思う。

    私の印象に残ったのは「棄てられた体験」と「トラウマの引き継ぎ」だった。
    父親が幼少期、一時期別の家に預けられていて、恐らく何事もなければ帰って来なかったという体験を読んで、ふと漱石を思い出した。
    村上春樹が言うように、体験した者でなければ分からない深い思いがそこにはあるのだろう。

    そんな父親と村上春樹自身も、決して良好な関係ではなかったようだ。
    だけど、父親が負った戦争殺人にまつわる苦悩を、トラウマの引き継ぎとして村上春樹が負うていくことに、何だか考えさせられる。

    親と生い立ちと、私自身の生い立ちや生き方には、どんな繋がりがあるのだろう。
    少なくとも、私が生まれる以前の父や母に対する興味はそんなに大きくはなかった。
    だから、村上春樹の言う集合としての人間、みたいな大きな所まで思い至ることもなかった。

    けれど、いつからか、自分を一人の人間とした時に、同じ等身大の姿として父や母の存在を考えるようにはなったとも思う。
    ただ、生きているうちは、私も恐らく踏み込めないような気がする。たとえ戦争のように、生きていく上で関わらざるを得なかった、そんな酷い出来事が起きていなかったとしても。

  • 後輩ちゃんのお母さまから貸してほしいとのLINEが来て、では読みます、と読んだ本。短いので1時間かからなかったのだけど、1時間かけずに読んだとは思えないくらい質量のものを頂いた。
    タイトルの、猫を棄てる、というエピソードからはじまる村上さんのお父さんの歴史、そしてその父との関係から今の村上さんが生きてきた動かしようのない事実の不確かで、透明な流れが、落ち着いた文章で書かれていた。
    父の戦争の足跡、僧として生きることを強いられた瞬間、または親からの〝棄てられる“という経験(言葉としても、事実としても違うのかもしれないけれど、お父さんの中の心が受けた現実はこの言葉なんじゃないかと思う)、戦争というものに翻弄されながらも手放さなかったものが後に息子である村上さんが父を読み解く手がかりとして光を当てる不思議、それらがとても一定の距離をとって落とし込まれていて、読んで苦しいような描写も速度を落とさずに読み進められた。
    本当にこの人の文章は不思議な形をしてると思う。
    物語をつくる文章とはまた違う、でも同じ血を分けている。
    読むきっかけをくれた後輩ちゃんのお母さまに感謝、そしてこの本を書いてくれた村上さんにも感謝を感じた。
    何と分類が難しい本だけれど、これからの人生でふと考えなくてはいけないことを、先んじて見せてくれたような本だった。

  • 何とも美しい装丁に引き寄せられて、手に取ってみて初めてそれが村上春樹さんの新作であることに気付きました。そして、サラッとした紙の質感と本の軽さからは乖離がありそうな、彼にとっては重要な事柄が描かれていることが想像され、更に引き寄せられるように、持ち帰っていました。
    台湾のイラストレーターの方による挿絵が豊かに組み込まれて、これまでのどの作品とも異なる読書体験が出来ます。絵本のような感覚で、何度も戻れる、戻りたくなる、不思議な引力があります。
    あえてあらすじをまとめるならタイトルの通りであり、帯などに書かれている通りであり、父親の記憶、経験や言葉を引き継ぐ、ということについて、であり。そのある種の普遍性と個別性について、であり。レベッカ・ブラウンが母親を看取るまでを描いた「家庭の医学」が頭を過りました。どちらにもいえることは、似た話しは世の中に溢れていて、要約していくのは容易で、でも要約してしまうと本作の言葉を借りれば「透明」になり、その中の大切なことは見えなくなってしまいます。「家庭の医学」を読んだときにも突き付けられた、ぼやけたレンズで覗くと軽率に共感してしまうような「ありふれた物語」の姿がいかに個別の物語によって異なるか、ということ、そしてそれはどれだけ語られたとしても、当事者の間ですら形が捉えられきっていないもので、第三者には到底理解しうるものではないこと、を改めて感じました。行き着く先、物語とは誰のためのもの、何のために紡がれるもの、なんて問いにも。
    したがって、いわゆる「共感」という現象こそ起きないものの、自分の家族の物語の似たエピソードがちらちらと過ることも否定出来ません。自分の親・祖父母の世代が重なるせいか。地元が近いせいか。でも、細かい物語を抜きにしても、私は村上春樹さんには居ない、その子供の世代で、幼い頃に亡くなった祖父の話しを母から聞いて育った立場にあります。それでもなお、伝承の経験を受けて今を生きている感じ、それ以上でもそれ以下でも無い感じ、やはり言葉として形を取るのが難しい、そういう事柄について、形にしうる限り記されているように読めます。
    これ以上感想を書こうにも、あまりにも個人的な読み方になりすぎるし、それでは本作自体からはあまりに離れすぎるし、割愛します。作家、読者それぞれのため、として。

  • 村上春樹が父との関係を語った本。あまりにも短いが、「他の文章と組み合わせることがなかなかむずかしかった」ために、イラストレーションを付けて独立した小さな本として出版される運びとなったという。確かに、このテイストや個人的な事情にコミットした内容は、村上春樹らしくはないかもしれない。

    もし、村上春樹が息子をもうけ、自ら父になっていたとしたら、この本はこれとは違う形になったのではないだろうか。もしかしたら、書かれることさえなかったかもしれない。当の父が鬼籍に入り、母も高齢となって混濁によって意思の疎通も定かでなくなり、そして自分が父となることがおそらくないだろうという状況が揃った今、初めてこの小論が書かれる条件がそろったのかもしれない。それはあまりにも個人的ではあるが、それだけではなくいわば親族的でものであったのではないか。親族的な領界のものが、その共有すべき親族がいなくなることで、個人的な領界のものに質的に変化をし、そのためにようやく公に向けたものとしても書かれることができたともいえるのかもしれない。

    村上春樹の父との関係は、深いコミュニケーションとあるべき親密さを欠いたもののように感じられるが、それはある意味では親子一般のものとしてありふれたもののようにも思われる。一方で、村上春樹が本に書かなくてはならないと考えたであろう理由は、父との関係以上に父の中国従軍の経験であったとも言えるかもしれない。父からついに具体的なことを聞くことはできなかったが、おそらくは記憶のひとつとして引き継がれなくてはならない類のものだと感じたのだろうか。それは、父にとっては、自分が誰かの代わりに生き残ったという罪悪感と重荷の意識であるのかもしれない。村上春樹は、その子として、何か別の意味であるとしても重荷を背負うべきだと考えたのだろうか。「歴史は過去のものではない。それは意識の内側で、あるいはまた無意識の内側で、温もりを持つ生きた血となって流れ、次の世代へと否応なく持ち運ばれていくものなのだ」というとき、そういう意識が働いていてもおかしくはない。

    ---
    自分のことでいうと、父が亡くなったときの歳に自分はいよいよ近づいている。父はがんとの闘病の末に亡くなったのだが、今では信じられないことだが、その当時は本人にはそのことは伝えられずに母にだけがんの事実が告げられていた。しかし、父はおそらくは死を意識していただろうと思う。離れて住んでいたこともあり、ほとんど父の人生について聞くことはなかった。今、離れて住む息子との間の関係もまあ似たようなものではある。今はそうでないとしても、ある時期には父との会話はまったく必要なものだと感じるものなのだろうか。そういったものは時間と偶然を必要としているものなのかもしれない。

    「我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけのことなのではあるまいか」

    村上春樹らしくない、とても短い本。

  • 村上氏が父について語る長めのエッセイです。

    エルサレム受賞のスピーチで語られた、毎朝戦死したひとびとのために祈る父親の姿が印象に残っていたことと、これまで両親のことについてはほぼ触れられていなかったため、興味を持って手にとりました。

    長短を問わず初期から最近の小説、エッセイも含めて村上春樹の作品は興味深く読み続けていますが、今回は氏の作品のなかで過去にない特殊な部類に入るものだと思います。かなり個人的な家庭の事情を具体的な名前も挙げつつ語られているのですが、内容としては心を惹かれたとは言えず、散漫な印象が残りました。これを回想記としてではなくフィクションや私小説として提示されていればと残念に思っています。

    とくに村上春樹に馴染みがない読者に対しては、より訴えるところは少ないのではないでしょうか。

  • ▼個人的にずっーーと、この35年来、「司馬遼太郎と村上春樹が好き」なんですが、水と油に見えてこのふたつの作家性みたいなものが、実は地下水脈で繫がっているような気がしていました。村上春樹さんが年齢を重ねるごとにその気配は濃厚になりつつあります。(内田樹さんがそれについて言及しています)

    ▼「猫を棄てる 父親について語るとき」村上春樹。2020年、文藝春秋。2020年5月読了。104頁。すぐに読めます。

    ▼2020年現在71歳であるらしい村上春さんが、恐らく昨年に雑誌文藝春秋に発表した、自身の父親の思い出、特に父の戦争体験についてです。
     本文にあるとおり、

    "父の心に長い間重くのしかかっていたものを、ーーー現代の言葉で言えばトラウマをーーー息子である僕が部分的に継承したことになるだろう。人の心の繋がりとはそういうものだし、また歴史というものもそういうものなのだ"

    "僕がこの文章で書きたかったことのひとつは、戦争というものが一人の人間ーーーごく当たり前の名もなき市民だーーーの生き方や精神をどれほど大きく深く変えてしまえるかということだ"

    "歴史は過去のものではない。それは意識の内側で、温もりを持つ。生きた血となって流れ、次の世代へと否応なく持ち運ばれていくものなのだ"

    という本です。恐らく村上春樹さんの本の中ではショッキングなまでに、素直で分かりやすい。そういうことが相応しい本であり、内容だと言うことでしょう。

    ▼誤謬を恐れず簡単に言うと。村上さんの父上はお寺さんの次男坊で、頭が良くて京都帝大まで行きました(スゴいことです)。その前後、年代の不幸のせいか、計3度も徴兵され従軍(終戦時27歳。このくらいの年代は、特に特権やコネがないと、そうなりがち。僕の祖父も2度徴兵されました)。中国戦線で死線を彷徨い、なんとか生き残り終戦。その後は学校教師になり、結婚し、村上春樹さんを授かりました。

    ▼村上春樹さんは、父上から特段詳細に人生を聞いたわけではなく。むしろ絶縁に近いくらい仲違いしていたらしいです。ただ、父上が亡くなってから、従軍記録など含めて、調べた(相当に調べたようです)。そしてこういう本を上梓。父上の軍歴や経歴詳細は、それでもかなり不明なままです。ただ、

    ○父上は南京虐殺に立ち会った隊にいた、と、思っていたけど、時期がちょっとずれていた。

    ○父上は一歩間違えばインパールかレイテでほぼ確実に死んでいた。幸運だった。(そうなっていたら村上春樹さんは生まれていない)

    というようなことが分かります。
    そして、父上がそういう体験をしたことを、運良く生き残ったことを、仲間は運悪く死んだ、あるいは南京虐殺に手を染めたことを、そして父上ご自身も、いくつかの、あるいは多くの中国人を殺した、それも無抵抗の捕虜を殺すようなことをさせられたことについて、死ぬまで引きずっていたことを、改めて噛み締めます。

    まあそれで、終わり。という短い本です。
    味わい深い、素敵な一冊、読書の快楽。

    ▼社会学者の小熊英二さんの本に「生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後」(2015岩波新書)というのがあり、これが小熊英二さんの父上の半生記。一市民の経歴を通して、戦時中と戦後という歴史を感じさせる名著でした。コレを、村上春樹さんが村上春樹さんらしくやると、こうなるんだな、というのが「猫を棄てる」。

    ▼村上春樹さんが旧日本軍の詳細を、まるで司馬遼太郎さんかの如く普通に言及する本書は、多分1986年以来のリアルタイムなファンとしては、何だか感慨がひとしお(村上春樹さんから10年くらい遠ざかった時期もありますが)。村上春樹さんの移り変わりは、僕は好きだし、上手く言えないけど支持したいです。それは変化の方向が好きだからではなくて、年齢や経験とともに変化していくことは当たり前だし、その当たり前のことを気負いなく表現していることを、支持したいです。それは見方によっては「変節」だったり「卑怯」、「日和見」、「転向」、「大人になりやがって」、「前のほうが良かった」エトセトラ、エトセトラと言われることもあるでしょう(村上春樹さんであろうが、無名のイチ市民であろうが)。でも、変わるほうが当たり前です。変わらないことを自慢するのは、変わったことを自慢するのと同じくらい、虚しいことです。

    ▼「猫を棄てる」は、ほとんど司馬遼太郎さんの名作、「ひとびとのあしおと」のよう。なんとなく個人的に嬉しいような。(当事者お二人にとって、または他のヒトにとって、かなりどうでもいいことでしょうが)
     司馬さんは歴史小説と呼ばれる、過去のことを主に書いていましたが、それはそこから現在と未来を探していた気がします。村上春樹さんは、非常に個人的な内容を書いてきたように見えて(私小説という意味ではなく)、実は強烈にズバ抜けて社会的な小説家だ、とある時期から思っていました。きっとそんな村上春樹さんが生きている中で、具体的に歴史というコトバを語りたくなったのでしょうし、そういう必要を感じる時代を、今、僕たちが生きているということなのかも知れません。

    ▼村上春樹さんは、父上の経歴、とくに中国での従軍体験、もっと踏み込んで言うとその中で無抵抗な中国人を殺さざるを得なかった罪悪感を感じていたこと、を、これまでも断片的には書いています。それこそ、「中国行きのスロウ・ボート」(1980)に既に書いています。村上さんにとって個人的に父と向き合うことは、中国と、戦争と、歴史と向き合うことに他ならなかったのでしょう。それは「ねじまき鳥クロニクル」(1994)以降、せり上がる地熱のように明確になってきています。

    ▼文革の70年代、天安門で終わる80年代、市場経済&香港返還の90年代、経済成長の00年代、グローバル経済大国の10年代、そしてコロナ危機の20年代…と、世に連れ日本と中国の感情的な変遷も相当にドラマチックですが、2019-2020、中国に対して「ヘイト」と呼ばれる感情もうねっている中で、村上さんがこの本を上梓したことは、イラストを96年生まれのガオ・イェンさんに任せたことを含めて、ヘイト感情への村上春樹さんなりの静かなプロテストを勝手に感じます。僕は好きです。

  • 「ねじまき鳥」にとくに顕著だが、一般に米国文学の影響が強いとされる村上春樹の小説に、ときに仏教的な世界観を感じることがある。
    他のレビューにも書いたが、毎日のルーティーン、掃除、ひたすら井戸の底で瞑想。禅の修行そのもののようにも思える。
    だから、何かのインタビューで、村上春樹の父が宗派は違えど僧侶だったと聞いてある意味合点がいくものはあった。

    静謐な文章。
    著者近作、たとえば「巡礼の年」あたりの、さすがに技巧的すぎるのではという文体に疲れ気味、という古くからの村上読者にとって、とても心地よいリズムが戻ってきた、と感じるのではないか。
    個人的には「ウイスキーであったなら」を思い出した(私にとっては、あれが至高の文章)。

    そして、やはり「ねじまき鳥」から顕著になった、幻想としての「中国での戦争」の影。

    初めて村上春樹の本を電子書籍で買った。
    厚さや残りページなど、「手触り」のないなかで物語はややあっけなく終わりを迎えた。紙の冊子だったらもう少し結末に向けて速度を落として読んだのに。

  • 家族についてほぼ語ることのなかった村上春樹氏が、初めて実父について綴る。

    私は現在40代で、両親は村上春樹氏と同じ団塊の世代の70代、祖父母は戦争を生きた100代。
    ほんの数十年かしか違わないのに、三世代が生きてきた世界は大きく違い、ギャップがある。

    私の祖父も徴兵で戦争に参加し、運良く生きながらえた身。
    私の祖母は養女に出され、実の両親に棄てられた身。

    このような経験は、次の世代の子供たちに何かしらの形で引き継がれていく。
    村上春樹氏のいうところの「トラウマの引継ぎ」にリンクする。

    そんな厳格な父親と、戦争を知らずに、学生結婚し、バーを営んだり、職業作家に転向したりと、自由奔放に好き勝手に生きる息子(村上春樹氏)とうまく折り合えるはずがなく。
    大人になってからは絶縁に近い状態で何十年も過ごしたとのこと。

    多くの人の人生を狂わせた戦争。
    また、その戦争があったからこそ生まれた命。
    何かの歯車が少しでも狂ったなら、「村上春樹」という唯一無二の命は存在しなかったし、この世に旋風を起こした数々の伝説の小説達も存在しなかった。

    村上春樹氏の小説に出逢わなかったら、私は永遠に救われなかったかもしれないし、もしかしたら今も暗闇の中をずっと彷徨い続けていたかもしれない。
    そう思うと感慨深い。

    棄てたはずの猫にまんまと出し抜かれた話は、父と重ねて。
    松の木から降りれなくなり見捨てた形になってしまった白い子猫の話は、いつか死ぬであろう自分と重ねて。

    「降りることは、上がることよりずっとむずかしい」

    結果は起因をあっさりと呑み込み、無力化していく。
    それはある場合には猫を殺し、ある場合には人をも殺す。

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著者プロフィール

村上春樹(むらかみ はるき)
1949年、京都府京都市伏見区生まれ、兵庫県西宮市芦屋市育ち。早稲田大学第一文学部映画演劇科卒。大学在学中にジャズ喫茶「ピーター・キャット」を国分寺・千駄ヶ谷に開店していた(1981年、店を人に譲渡)。1979年にデビュー作の「風の歌を聴け」で群像新人文学賞を受賞。谷崎潤一郎賞、読売文学賞、朝日賞など数々の受賞歴がある。2006年にフランツ・カフカ賞、2009年にイスラエルのエルサレム賞受賞。ノーベル文学賞に最も近い作家の一人と言われており、毎年発表時期に日本国内でニュースになる。事実、村上春樹作品は全世界で翻訳されており、アメリカ・アジアでの評価がとりわけ高い。フィッツジェラルドやレイモンド・カーヴァーなどの作品の翻訳も手がけ、翻訳家としての仕事も高い評価を受ける。翻訳と創作活動を交互に行うことで、作風を変化させ、作家としての成長を続けている。新作が発表されるたび大きな話題となるが、近年は特別番組「村上RADIO」にてラジオDJも務め(不定期放映)、数々の名言も注目を集める。代表作に『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ノルウェイの森』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』。2019年7月31日に『神の子どもたちはみな踊る』が舞台化。アメリカのサックス奏者スタン・ゲッツの伝記翻訳を2019年8月刊行。2019年9月10日発売の『文藝春秋』10月号で「至るところにある妄想 バイロイト日記」を寄稿。

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