ルポ 誰が国語力を殺すのか

  • 文藝春秋 (2022年7月27日発売)
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  • 本 ・本
  • / ISBN・EAN: 9784163915753

作品紹介・あらすじ

『ごんぎつね』の読めない小学生、反省文の書けない高校生……
子供たちの言葉を奪う社会の病理と
国語力再生の最前線を描く渾身のルポ!

〈バカの壁〉はここから始まっていたか。子供たちの国語力をめぐる実情から、日本社会の根底に横たわる問題まで掘り起こした必読の書。
ーー養老孟司

注意報ではなく警報レベルだ。子供たちの現状に絶句した。本書の処方箋を、必要なところに届けること。それがこの国の急務であり、希望の道筋となるだろう。
ーー俵万智

・オノマトペでしか自分の罪を説明できない少年たち
・交際相手に恐喝されても被害を認識できない女子生徒
・不登校児たちの〈言葉を取り戻す〉フリースクールの挑戦
・文庫まるごと一冊の精読で画期的な成果をあげる全人的な教育
・〈答えのない問い〉が他者への想像力を鍛える「哲学対話」……etc.

「文春オンライン」200万PV突破の衝撃ルポ「熊本県インスタいじめ自殺事件」を含む、現代のリアルと再生への道筋に迫った瞠目のノンフィクション!

今、子供たちを救えるか? 未来への試金石となる全日本人必読の書

感想・レビュー・書評

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  • この本で有名なのは、『ごんぎつね』における一場面を小学生に読解させ、それが全く不適当な内容だったという話の紹介だ。病気の母をもつ兵十にイタズラのお詫びをしにきた〝ごん“を、それと知らず撃ってしまうというのがこの話。そこに「葬儀で村の女性たちが正装をして力を合わせて大きな鍋で何かを煮ている」という場面がある。これは何をしているのだろうか、というのが問いだ。

    葬儀で参列者にふるまう食事を用意している場面である、というのが模範回答。対して、生徒たちは「兵十の母の死体を消毒している」「死体を煮て溶かしている」と回答したらしい。これが国語力低下の証左であり、由々しき事態だと。

    岡田斗司夫が、これは過激な物語世界に慣れてしまったが故の子供たちの先読み力、ホラーを創作した子供たちの想像力に作者がついていってないだけと言っていた。しかし、この解説もどうなのだろうか。

    そもそも葬儀でなくとも、大きな鍋で何かを煮る、炊き出しのようなシーンに日常出会わない。ごんぎつねの対象年齢は、葬儀を多く経験する年齢の子供たちでもない。葬儀でご飯を食べる、という発想もない。だから、経験則に照らして答えを見つけるのは難しい。葬式と言えば死体、せいぜい、それに鍋を組み合わせて精一杯考えた結果という事だろう。ホラー創作だとも思ってはいなくて、単に物を知らないだけだ。

    で、これが読解力の本源的な部分だが、解釈とは、意向や状況を理解する事。それには、この世界の常識を形成する歴史や文化といった文脈を知らなければならない。例えば、主人公が中指を立てた、この意味は何だろうと問われても、ジェスチャーに関する知識がなければ読解できず、自由な想像をするしか無いのだ。

    ー 「国語力」とは何なのだろう。文科省の定義によれば、国語力とは「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」の四つの中核からなる能力としている。まず、習得しなければならないのが、あらゆることの基盤となる語彙力である。一般的には十二歳くらいまでに約二万語を覚えるとされており…語彙を増やすのと同時に育てていくのが、「情緒力」や「想像力」だ。情緒力とは、他者や自然から美しさ、悲しみ、もののあわれを感じ取り、理解する能力。想像力は、未知のものをイメージしたり、他者の表情や動きから言外の感情を読み取ったりする能力だ。物事を細部まで感じ取るためには、豊富な言葉が必要だ。

    まあ半分そうだと思うが、語彙だけではなく、日常経験なのだ。外国人が日本の文化風習を見ても、これ何?となって読解はできない。国語力は、その国での人生経験に左右される。

    ー 子供は身の周りの世界を探索しながら、五感をつかって言葉によって感性や興味を磨き上げていくそうだ。そこから物事の因果関係を考えたり、抽象的な概念をイメージできるようになったりし、徐々に心の中に「辞書」を形成していく。これを心理学の用語で「心的辞書(メンタル・レキシコン)」という。そしてこの辞書を駆使することによって言葉を操れるようになっていくのだ。

    日本の風習や儀式は、実体験や祖父母からの話、童話や昔話で学ぶ。その体験機会が薄れれば、自ずとその分野が読み取れなくなる。野球嫌いが、選手の話をされてもついていけないのと同じ。これは、教育側が令和の時代の関心事やフォーマットからズレて来ただけの事だ。殺されている訳ではないし、死んでもいない。

  • 言葉が危ない。想像力が危ない。
    私もずっとそう思っていた。

    家庭環境が国語力に大きな関わりを持つ。
    今の教育現場の問題が拍車をかける。
    ゆとり教育、総合的な学習が理想の空回りで、国語力の低下をもたらす。
    アクティブラーニングを目指す現代。しかし現場ではプログラミング、外国語、ネットリテラシー、キャリア教育と次から次へとおりてきたものに対応するのにアップアップ。それ以前に教員が不足し、教務主任や教頭が担任したり授業をもったりする。国語力どころではない。すべての教科の基礎は国語なのに。
    現代の不登校はゲーム依存、スマホ依存と大いに関係している。麻薬、飲酒、ギャンブル依存同様ゲーム依存を問題視する。ゲーム依存治療のプログラムの大変さが心に残る。これは少年院の更生プログラムとも共通点がある。

    1 子どもを心理的安全性に置く。
    2 五感を刺激しながら言葉と思考のリハビリを行う。
    3 言葉による成功体験を積み重ね、自己肯定感を高める。
    4 実社会での希望や生きがいを見出させる。

    でも、光明がないわけではない。
    五感を働かせる体験から言葉とコミュニケーションを育てることを重視している学校の実践が紹介されている。読書郵便で友達同士で本を紹介し合い、本を読む環境つくりをしている学校。本物の自然、本物の芸術にふれさせることを目指す学校。
    五感を刺激されると子どもは言葉を発し、表現力がアップしていく。

    今、必要なものは
    実感をともなう言葉と想像力
    そんなことを考えるきっかけになるルポだった。

  • 【感想】
    「読解力の無い子供が急増している」
    SNSによる短文文化の広がりは、日本語を読む力を大幅に失わせたと言われている。日常的に長文を書く機会が失われ、代わりに感情と平易な感想のみから成るつぶやきが台頭してしまえば、文章力はおろか、他人の発言を読み解く力すら失われていくのは当然のことだろう。
    しかし今、事態はより悪化している。もはや「読解力が無い」というステージにすら立てない子供が出現しているのだ。どういうことかというと、文を読み解く能力の土台となる「常識」――道徳、社会規範が身についていない。「戦争を無くさなければならない」という文があれば、「戦争は悪いものだ」という認識が欠如しており、「なぜ筆者は戦争を無くしたがっているのか」という疑問に行きついてしまう。したがって、常識に照らし合わせればとんでもないような発想をしているのに気づかないまま生活を送ってしまっている子供が急増しているのである。

    本書『ルポ 誰が国語力を殺すのか』は、子供たちの情緒や思考力が悪化している原因を「国語力の低下」に見出し、家庭やネットといった環境が与える悪影響を分析していく。かつ、国語力を再生するための取組を行っている学校やフリースクールでの事例を取り上げながら、人間力の基礎となる「国語」が蔑ろにされる危険性について考察していく。

    国語力とは、文科省が定義した「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」の4つから成る能力だ。人が他者と社会生活を送るうえで特に強く求められる力である。本書では、数々の問題行動や非行、社会不適合を起こしている子供の事例が取り上げられるのだが、筆者はその原因を「国語力の低下」に見出す。

    今、子供たちの間で「国語力」に格差が生じており、その高さ/低さで上層と下層に分断されているという。
    下層の子供について、例えばこんなケースがある。
    高校3年の男子生徒が、同校の2年の女子生徒と交際していた。女子生徒は何事にも無気力なタイプで、めったに意見を言うことはなく、すぐに部活をやめてしまったり、学校も来たり来なかったりだった。私生活でも、友人との約束を平気ですっぽかす、デートの最中に黙って帰宅するなどした。
    男子生徒はこうした態度に怒り、「もしこれから俺の気に入らないことをしたら、罰金として1万円払えよ」と言った。女子生徒はその場しのぎに「うん」と答えたが、態度を改めるわけでもなく、同じような行動をくり返した。
    そのため、女子生徒は毎月のアルバイト代のほとんどを男子生徒に払うことになった。次第にバイト代だけでは足りなくなり、女子生徒は母親の財布から金を盗んで支払いに充てた。母親が事態に気がついた時、女子生徒は100万円を超す金額を男子生徒に渡していた。事態が明るみに出て、学校は双方の生徒と親を呼び出して話し合った。
    だが、女子学生男子学生とも、100万円もの金銭の受領について「2人で決めたルールだからいいじゃん」という気持ちであり、事件発覚後も何事もなかったかのように交際を継続していたという。しかも驚くべきことに、男子生徒の親も同じ感覚であり、「なんで2人で決めたルールを守っていただけなのに、親が弁償しなければならないんだ」と言ったそうだ。

    一見すると、全く理解ができない。半分お金を盗まれながら交際していたものだというのに、盗んだ側も盗まれた側もそれを悪いことだとは思っていない。これが冒頭に述べたような、国語力以前の「常識の欠如」なのである。

    こうした問題行動に走ってしまう少年少女は、虐待、差別、貧困といった理由で家庭や学校に居場所を見つけられなくなった子が多い。本人の能力の低さではなく、周囲の環境の劣悪さが原因で、認知に歪みが生じてしまうのだ。
    奈良少年刑務所で教育専門官を務めた乾井は語る。
    「少年たちが言葉を持てない原因の一つは、家庭環境の悪さにあると思います。家庭内暴力、育児放棄、過干渉などにさらされている子が多いのは統計で明らかになっています。実際に子供たちと接していると、統計以上ですね。
    こうした環境で育つと、子供は何を言っても聞いてもらえないとか、自分の意見を持っても意味がないとして思考そのものを諦めるようになります。少年刑務所に来たばかりの頃、彼らは口癖のように『意味ねえ』とか『くだらない』と言います。諦める以前に、しっかりと現実を見ようとしていない。家庭環境が、彼らをそういう思考にさせてしまっているんです。それでますます言葉で考える力を失っていくのです」

    現在、闇バイトの検挙数が増大している。家宅に侵入し金品を奪いながら、いざとなれば家主を殺す。常識的に考えれば、報酬に比べてあまりに割に合わない仕事だ。しかし、子供たちは明らかな不利益だとしても犯罪に加担してしまう。なぜなら彼らは、国語力が著しく低下して認知が歪んでいるため、それが「割に合わないこと」と感じていないからだ。このまま子供たちの国語力が低下してしまえば、被害は一部の下層の人間に留まらなくなってくるだろう。だからこそ今、国語力の再生が急務と叫ばれるのである。

    ――「国語力は、学問だけでなく、人間が生きていく上であらゆることの基礎となる力だと思っています。見知らぬ世界を我がこととして想像し、他者の心のひだまでを感じ取り、自分の考えを整理し、相手につたわるように適切な言葉で発信していく。それは人間が広い社会の中で独り立ちして生きていくために必要な全人的な能力なのです。この力をつけることは健全な社会を築くことであり、逆にそれが弱まってしまえば社会全体が不健全なものにもなりかねないのではないでしょうか」
    ――――――――――――――――――――――――――――

    【まとめ】
    0 まえがき
    今の教育現場で起きているのは、読解力低下の問題ではない。それ「以前」の問題だ。社会で戦争のことを学んでも、そこで生きる人たちの生活の苦しみを想像できない。理科で生態系を勉強しても、命の尊さに結びつけて考えられない。生活指導でクラスメイトに「死ね」と言ってはいけないと話しても、「なぜ?」と理解できない。
    危機に陥っているのは読解力以前の基礎的な能力だ。登場人物の気持ちを想像する力、別の事を結び付けて考える力、物語の背景を思い描くカ。それらの力が不足しているから、常識に照らし合わせればとんでもないような発想をしているのに気づかない。文章を字面のみで記号のように組み合わせるだけで、それを自分の言葉で考え想像することができないのだ。

    一体、誰が、何が、なぜ、国語力を殺したのか。


    1 格差と国語力
    文科省の定義によれば、国語力とは「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」の4つの中核からなる能力である。国語力を発達させるには、語彙力→情緒力・想像力→論理的思考力と多層的に能力を強化していく必要がある。

    教育現場では今、子供たちの国語力が低下しているという声が多数寄せられている。

    学校の教員によれば、教室内でつくられるグループは不思議と子供が持つ国語力によって決まることも多いという。言葉を持っていない子供たちは同じような者同士で集まって粗雑な言葉でやりとりする傾向が強く、一方で言葉を持っている子供たちは豊富な語彙をつみ重ねて複雑なコミュニケーションをとることができる。
    もしグループの中で人間関係が悪化した時、言葉を持っていない子供たちは自分がすべきことを導き出せない。乱暴な言葉で物事を曖昧にするか、口を閉ざし、余計にトラブルを大きくする。

    この「国語力の格差」の原因の一つは、家庭の格差だ。親が子供ときちんとコミュニケーションを取る、絵本を読み聞かせる、学びの機会を多く与える、適切な言葉で子供に接する、といった家庭環境の差によって、子供の国語力が上層と下層で二分化している。

    下層、つまり学力レベルの低い学校に来る生徒は、勉強嫌いな子供たちとみなされがちだが、実際は家庭に問題があるケースが多い。虐待、生活保護受給、一人親、親が外国籍で日本語がしゃべれない世帯など、家庭内に生きづらさを抱えており、そこで適切な人間関係が築けていない。こういう家庭で育った子供たちは物事を考えたり、表現したりする力を失ってしまっていることが多い。だから学校でもプライベートでも、いろんなところで壁にぶつかってうまくいかなくなる。


    2 教育崩壊
    2010年代前半以降、文科省が新しい学習指導要領をつくったことで、学校は「脱ゆとり」へと舵を切り、一度は失われた授業時間を回復させることにした。だが、ここに新たな課題が生まれることになる。
    それは国語の時間が減少していることだ。ゆとり教育前のものと比べると、算数はゆとり教育以前にもどっているが、国語力の根幹を担う国語や芸術関連の授業はゆとり教育時代のままか、微増に留まっている。つまり、脱ゆとり後も十分な時間数を確保されていないのだ。
    問題は、そこに新たな教育が追加されたことだ。今の小学校では「プログラミング教育」「主権者教育」「防災・安全教育」「消費者教育」などが加えられている。これらは独立した教科としてあるわけではなく、既存の教科の中に組み込まれる。つまり、国語、算数、社会などといった教科の中で行われているのだ。国語科が大きく影響を受けるものとしては、「伝統や文化に関する教育」や「外国語教育」の充実を担わされる点が挙げられる。
    発展的な教育カリキュラムが次々と上積みされていく中、基礎的な国語力をつける時間が足りなくなっているのだ。

    そんな中、教育現場は崩壊の危機に直面している。
    ・教員の労働環境の悪さ
    ・教員不足
    ・教員の質の低下
    いわば、先生方の労働環境の悪化である。これに加え、国が教育にかける予算の少なさも、学校の質の悪化につながっている。


    3 SNSによる悪影響
    国語力の弱い子供たちほど、ネットから悪影響を受けやすい。そう示唆したのは課題集中校に勤める男性教員だ。
    「ネットには荒れた言葉が氾濫し、未熟なコミュニケーションがまかり通ってしまっています。子供たちはそれに慣れて現実世界でつかうのでトラブルを続発させてしまうのです。これは、彼らのSNSのフォロワーの質とも関係があります。たとえば、不良は不良のフォロワーばかりになりますので、そこで飛び交う言葉だとか、考え方だとかが似通ってしまう。みんなで特定の生徒を寄ってたかって罵倒したり、酒や煙草をやるのが日常だったりすれば、本人は無自覚なまま危険な状況に流されていく。何か起きた時にはもう遅いんです」

    昔と比べて、リアルとネットは地続きになっている。学校でのいじめが、放課後もLINEやインスタに舞台を移して続行されているのだ。

    学校でのネットトラブル解消を担う専門事業「スクールガーディアン」事業部長の三角は語る。
    「SNSでトラブルとなる場合の短文テキストコミュニケーションは、対面のリアルのそれとはまったく違います。対面の場合は、人と人とがお互いに一歩引いて距離をつくり、相手の思いを想像したり、空気を読んだりして、言葉を選びながらしゃべりますよね。しかし、SNSでは、相手との距離感が存在しません。情報を発信する側は、相手の感情を考えず、その瞬間に頭に浮かんだことや思ったことを、ストレートに言葉で表現します。特定の誰かに話しかけるというよりは、独り言のようにつぶやくことの方が多い。テキストも文章ではなく、ぶつ切りの単語になりがちです。こうなると、コミュニケーションというより、感情を吐き出しているようなものになってしまいます」

    実際のコミュニケーションは、相手の立場に立ち、言葉が凶器にならないように精査し、慎重を期して丁寧に発しなければならない。そうやってはじめて人間同士の信頼関係が築き上げられる。そのために欠かせないのが、国語力という基礎的な力なのである。
    SNSで飛び交う言葉は、従来のそれのように人間の関係性に基づいて取捨選択されたものではなく、二次元の世界から氾濫を起こしてなだれ込んできて、深い思慮を伴わないままどんどん暴力性を帯びていく傾向にある。にもかかわらず、親も教師もそれをどうつかいこなせばいいのか適切なアドバイスやコントロールの仕方を知らない。
    現在の子供たちの国語力は、SNSの短文テキストコミュニケーションによって根底から揺さぶりをかけられている。元来、言葉は自己肯定感を育み、世界のあらゆることを思いやりでつなぎ、未来を切り開いていくためのものだった。それが無思慮に感情を吐き捨てるだけのものに取って代わられた時、子供は、世界は、未来はどうなってしまうのか。


    4 不登校と「ことば」
    不登校の生徒たちに取材をすると、次のような声を頻繁に聞く。「なぜ不登校になったのか理由がわからない」
    なぜ、学校に行けない理由を答えられないのか。実はそこに国語力の問題が横たわっている。
    文科省が「不登校の要因」を調査したところ、不登校になった子供たちの半数近くが「無気力・不安」が原因だとしている。無気力・不安とは、明確な原因がないまま「だるい」「めんどう」という感じで学校を休みがちになり、そのうちにだんだんとゲームなど別のところへの関心を膨らまし、学校へ行かなくなることである。不登校になったきっかけは答えられても、根本的な原因を自分でも把握できていないケースが多い。

    不登校の子供たちが言葉を失っている原因としては、これまで見てきた国語力の問題に加えて、彼らが精神的に追いつめられていることもあるだろう。
    社会学者の石川は、次のように語る。「彼らは、『生きる』というところで精いっぱいなんです。その日、その時をなんとか生きているだけで、広い視点で物事を考える余裕がない。だから、周りが『これからどうするつもりなのか』とか『将来どうするのか』と訊いても、そこまで先のことを考えて答えることができないのです。あとは、周りがきちんと子供たちの言葉に耳を傾けてこなかったことも影響しているかもしれません。
    子供の発言や行為が取るに足らないことのようにされる。そういうつみ重ねの中で、彼らは語ろうとしなくなったり、語っても聞いてもらえないという意識が生まれたりしているのではないでしょうか」


    5 国語力の回復
    不登校、ゲーム依存、非行。社会の底辺から脱するために必要なプロセスと回復支援には、共通するものがある。
    ①劣悪な境遇で言葉を失う。
    ②子供を安全地帯(心理的安全性)に置く。
    ③そこで五感を刺激しながら言葉と思考のリハビリを行う。
    ④言葉による成功体験をつみ重ね、自己肯定感を高める。
    ⑤実社会での生きがいや希望を見いださせる。

    こうしたプロセスは、家庭格差の上層にいる子供たちであれば、親や友人と接する中で自然と経験するものだ。しかし、家庭格差によってその機会を奪われた子供たちは、人生の困難にぶつかった後、フリースクール、病院、少年院などである種の保護下に置かれ、それを回復プログラムとして行うことになる。いわば、育て直しのような形で国語力をつけていくのだ。
    国語力を取り戻した子供たちは、自分の人生を言葉によって物語化できるようになる。これまでの挫折つづきの人生を俯瞰して捉え、自分の弱点とそれを乗り越える術を掌中にする。だからこそ、目指す未来への道筋が可視化され、不用意に壁にぶつかることも、わき道にそれることもなくなる。それが生きやすさにつながるのだ。臨床心理学でいうところの「ナラティブ(物語)アプローチ」が自然に行われるのである。


    6 小学校での国語力回復の取り組み
    広島県佐伯区のなぎさ公園小学校では、国語力の基礎となる感性を伸ばす教育に力を入れている。常に五感を開いてあらゆることを知覚し、想像する力を養わなければ、物事を適切に表現することはできないという理念に基づく方針だ。

    校長の渡邊は言う。「小学生という年齢を踏まえれば、ボキャブラリーを豊富にさせたり、読み書きのスキルを教え込んだりするのと同時に、子供たちにいろんな経験をさせて感覚を磨いていくことが不可欠です。感性はいくら机上で勉強をしても育ちません。たくさんの実体験をする中で養われていくものなのです。そのために本校では子供たちにいろんな体験の機会を提供していますが、大切にしているのは、本物に触れさせることです。本物の自然、本物の芸術、本物の遊びの中でこそ、豊かな人間性が育まれてくると思っています」
    なぎさ公園小学校は生徒たちの体験型学習に力を入れている。田植え、キャンプ体験、民泊体験、楽器演奏、日本舞踊、干潟観察、山での雪遊び、海外留学、サマーアドベンチャーなど学校の行事だけでも数え切れない。

    渡邊「面白いのは、児童は五感を刺激されると、自分から言葉を発するようになることです。図鑑を読んでいるだけでは図鑑にある言葉しか語りませんが、体験によって五感を刺激された子は感じたことを自分の言葉で語ろうとするのです。その言葉は、実体験に基づいているのでとても具体的です。また、自分の感覚をできるだけ正確につたえようとするため、自然と語彙も豊富になっていく。感じることが、表現への衝動を生み、言葉を豊かにしていくのです」

    学校は、こうした取り組みをバラバラに行っているわけではない。事前に何をするかを年間計画にまとめた上で、教員同士が教科の垣根を越えて連携を取りながら多角的に進めていくのだ。カエルを飼うにしても、どうやればそれを国語や社会といった別の教科に関連付けることができるのか、あるいは今回の体験を次の年にどう発展させていくのかを話し合って決めるのである。月に一回ずつの教科会や学年会で情報を共有し、その時々で微調整をする。


    7 中学校での国語力回復の取り組み
    神奈川県川崎市の日本女子大学附属中学校・高等学校。ここではすべての教科の中心に国語を据えて、中高の6年間を通して生徒に考える力、想像する力、表現する力を身に着けさせている。

    校長の椎野は言う。「今は社会が劇的な勢いで変わりつつあります。しかし、学ぶ上でも、他者とかかわる上でも、社会で働く上でも、国語力という基本なしには何事もうまくいきません。授業でいえば、それを育てる中心にあるのが国語科だと思っています。
    本校が国語科においてとりわけ文学作品を重視しているのは、人間にとって根源的な力を養うのに最適だと考えているからです。フィクションでもノンフィクションでも、優れた作品は、生徒の中にあるやさしさ、想像力、忍耐力といったものを育ててくれます。それが生徒の人としての力を総合的に成長させていくと考えています」
    文学作品を読むことが、勉強だけでなく社会で生きる上での基盤となる力を育むというのは、多くの研究者が指摘するところだ。この学校の取り組みは、それを重要視し、全教科の中心に据えて教育体制を構成するということなのだ。

    2つの学校が、未来の社会を見据え、授業を通して生徒に授けなければならないと考えている力とは何だろうか。
    それは、たくさんの言葉を持ち、豊かな感受性によって他者の意見を聞き入れ、自らの言葉で的確に気持ちを表現することによって、自分だけでなくみんなが生きやすい環境をつくっていく力だ。これこそが社会をより良いものにすることにつながっていく。
    ともすれば時代遅れで実利とは無縁に思われているような文学作品や哲学を用いて、愚直なまでに人間にとって根源的な力をつけさせていく。社会を知覚し、創造し、行動する力の根本にあるのが国語力なのである。

  • この作品のタイトルがまず目を引き、かねてから読んでみたいと思っていました!「国語力」を殺すってどういうこと??この作品はまず現在の小中高校生が直面している現状や問題点を指摘し、それに対して教育現場はどう対応しているかを取材した作品です。

    読んで衝撃を受けました…。「ごんぎつね」を正しく読めない子供達(時代背景もあるかもしれないけど…)、反省文を書くよう指導しても反省文とはほど遠い内容に…。正直、危機感を覚えました。ウチの子は大丈夫か…そう感じ思わずこの反省文のくだりを読ませたりして!そして、短い単語であらゆることを伝えようとすることについて注意を促しました。が、「それ、お母さんもだよ。いつも思うけど、お母さん主語がないから困ることがあるよ。」と言われてしまいました。はい、気をつけます(汗)。

    あと印象的だったのは、国語力を育成するために、文庫本を使った授業をしている学校があるということです。『アンネの日記』『深夜特急』『野火』『風立ちぬ』『仮面の告白』『高野聖』『深い河』など…私もいつか読んでみたいと思いました。そして、「国語力」が身についた子供たちは、自分の意見を自分の言葉で表現できることにも驚かされました!いろいろ、考えさせられる一冊になりました。

  • ◆想像力喪失 ネットが拍車[評]大岡玲(作家・東京経済大教授)
    <書評>『ルポ 誰が国語力を殺すのか』石井光太 著:東京新聞 TOKYO Web
    https://www.tokyo-np.co.jp/article/201299?rct=book

    『ルポ 誰が国語力を殺すのか』石井光太 | 単行本 - 文藝春秋BOOKS
    https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163915753

  • 今の日本の社会には、格差の中で恵まれない立場にある子供が十分な教育を受けないまま若い年齢で社会に出る構造があります。こういった人たちは、高いコミュニケーション能力が必要な感情労働に従事することが多いように思われます。現在の状況を正確に把握し自分を抑制して、その場に応じた新しい行動をする仕事です。感情労働とは一般的にはサービス業と言われる仕事です。ヘルパー、コールセンター、飲食サービス業、美容師、ホテルスタッフ、美容師、観光案内、保育士。自分を抑制しながら働く力が必要な仕事である。

    すべての子供には、ヘレンケラーが言ったような羽の書いた言葉 を見つける権利がある。それは私たち大人が用意しなければならない。もっともらしい理屈をつけて子供からその機会を取り上げるのか、認識を改めて言葉にしていくのか。日本の未来を生かすか、殺すか、私たちは今その帰路に立っている。

  • 近年読んだルポルタージュのなかで、最も強い衝撃を受けたと言ってもよい一冊。
    単に「教育」というジャンルの本だと思っていると関係者にしか読まれないと危惧するが、一世を風靡したともいえる『ケーキの切れない非行少年たち』にも通じる話だ。
    人間は、よりよく生きていくために「言葉」が欠かせないということがよくわかる。
    それは、いま恵まれた環境にある人がより充実した生き方を手に入れるという意味ではなく、最底辺にいる人(虐待や犯罪に近いところにいる人)が、「ふつうの」生き方ができるようになるという意味だ。
    これを他人事だと考えている場合ではない。
    「ふつうの」人が「ふつうに」安全な社会で生きていくために、社会全体で考えなければならない喫緊の課題だ。

    日本の高等教育が、理系偏重、人文学軽視をしてきたツケがここにある。

  •  以前新聞で、この本が取り上げられていた。

     小学校での『ごんぎつね』の授業で…

    兵十の家で、母親の葬儀が行われる日、村人たちが集まり大きな鍋で料理をしている。この鍋で何を煮ているのか?の問いに、子供たちが大真面目で、お母さんの死体を煮ていると答えたというのだ。どうしてもふざけてるとしか思えなかったが、気になり、この本を手に取った。

     さすが石井光太さん。緻密な取材と、構成力で今の日本の国語教育が実際にどのような問題点があり、どのような方向にこれから進んででいけば良いのか、しっかりと述べられている。
     特に序章と第1.2.6.7.8章は必読だ。日頃本を買うとき、内容にしては値段が高いな、とよく思うのだが、この方に限っては、こんなに安くていいのだろうか?と思ったほどだ。

    序章 『ごんぎつね』を読めない小学生たち

    ○今の子供たちは大量の情報に取り囲まれ、それを取捨選択する必要性に迫られている。情報を整理したり処理したりする力はあるのかもしれない。しかし、そうした力と、一つの物事の前に立ってじっくりと向き合いそこから何かを感じたり感じ取ったり、背景を想像したりして自分の思考を磨き上げていく力は全く別のものだ。(ある校長の言葉)
    ○語彙を増やすのと同時に育てていきたいのが、情緒力や想像力。情緒力とは、他者や自然から美しさ、悲しみ、もののあわれを感じ取り、理解する能力。想像力は、未知のものをイメージしたり、他者の表情や動きから言外の感情を読み取ったりする能力。

    第一章 誰が殺されているのか 格差と国語力について

    第二章 誰が殺したのか 教育崩壊について

    ○国語力の中核をなすのは「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」の4つの力だ。これらが一体となって成長することで、人は社会で生きていく上で必要となる全人的な力を得ることになる。
    ○学校司書ついての言及…司書教諭が十分な仕事をできる制度づくりができていない。
    ○元文部科学大臣の遠山敦子が語る、現代国語教育の問題点。ゆとり教育の完全なる失敗。

    第三章 ネットが悪いのか SNS言語の侵略
    第四章 19万人の不登校児を救え フリースクールでの再生
    第五章 ゲーム世界から子供を奪還する
    第六章 非行少年の心に色彩を与える

    ○悲しいと言う感情を切ないくらいのものだと理解できれば自殺する事は無いよね。むくれるくらいなら人を責めたり殴ったりしないと思う。感情を細かく分けると言うのは、それに合った行動を取れるようになるってことなんだ。それが感情をコントロールするということだと覚えて欲しい。感情を細かく捉えるだけで、生き方が随分楽になるものなんだよ。

    第七章 小学校はいかに子供を救うのか〜国語力育成の最前線1

    ○ガラス張りの教室の外には、教室と同じ位の広さの廊下スペースが広がっていて、展示パネル、生徒の絵画、書道、俳句、自由研究、手紙、将来の夢また、本棚、ピアノや木琴、図画工作などが並び、教室の外は美術室や音楽室になっているので、休み時間には好奇心を刺激された生徒たちがそれらで遊ぶ。

    第八章 中学校はいかに子供を救うのか〜国語力育成の最前線2

    文庫本を丸ごと一冊使った授業を紹介『アンネの日記』『深夜特急』。
    高校では…『野火』『風立ちぬ』『仮面の告白』『高野聖』『深い河』
    終章

    気持ちにフィットする言葉を見つけて、表現できた時、私は少し嬉しくなる。日本語は繊細で表現が多岐に渡り、微妙な心情の心情を表す言葉が多く存在する。なので、豊富で基盤がしっかりした国語力を養えば、その言語のように日本人も、自国を愛し、個々の意見をしっかり持ってグローバルに発信出来るようになるはずなのだ。学校の先生を始めとして、1人でも多くの人に読んでもらいたい1冊でした。

  •  自分の思うことを伝えようとするとき、途中で遮ったりすることなく、黙ってじっくりと聞いてくれる人の存在は重要だ。それによって自分の伝えたいことにぴったりくる言葉を探し、選ぶことができる。そのためには、同じようなことであっても、ちょっとしたニュアンスの違いのある言葉があることを知る等、多くの言葉に触れておくことが大切だ。
     置かれた環境、人間関係によるものは大きいなぁと思った。

    「言葉はコミュニケーションの手段である」と、よく言うけれど、それと同時に、言葉とは漠然とした自分の考えや感情に名前を与え、それを認識し深めるための道具なのだろう。
     
     国語力が低下していることを示す事例と、それに対する各所の取り組みのルポ。困難な状況を抱えていても「ヤバい」等の決まった言葉を発するだけか、黙り込んでしまったり、言われた言葉を正確に理解できずに事件を起こしてしまう子どもたち。自分の感情を表現するための言葉を考えさせる取り組みが紹介されていたが、また、もとの場所に戻った時にどうなるのか心配になった。「言葉」が現在危機的な状況にあること、個々の対応だけではとうてい足りずに、早急に対策を講じなければならないと思い知らされる。教科としての「国語」の位置や意味づけ、具体的な方策がもっと必要なのでは、と思った。
     

  • 最初は本の厚さに面食らいましたが、文章は読みやすいし何より面白いです。
    読む前は国語力がこれほど大切な力だとは思いませんでした。これからは積極的に甥や姪の国語力を育てる手助けをし、自分自身の国語力も伸ばしていきたいです。

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著者プロフィール

1977(昭和52)年、東京生れ。国内外の文化、歴史、医療などをテーマに取材、執筆活動を行っている。ノンフィクション作品に『物乞う仏陀』『神の棄てた裸体』『絶対貧困』『遺体』『浮浪児1945-』『「鬼畜」の家』『43回の殺意』『本当の貧困の話をしよう』『こどもホスピスの奇跡』など多数。また、小説や児童書も手掛けている。

「2022年 『ルポ 自助2020-』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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