自虐指向と破滅願望 不幸になりたがる人たち (文春新書 113)

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (193ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784166601134

作品紹介・あらすじ

虎に喰われたかったのに熊に喰われて昇天してしまった主婦、葬式代がないからとアパートの床下に妻の遺体を埋めた夫、電動式自動遙拝器を作ってただひたすら「供養」する男などなど-世の中にはときどき、不幸や悲惨さを自分から選びとっているとしか思えない人たちがいる。しかし彼らは、この過酷な人生を生きてゆくために、奇妙なロジックを考えだし、不幸を先取りしなければ生きてゆけなくなった人たちなのだ。あなたの隣の困った人たち、それはもしかしたら私たち自身の姿なのかもしれない…。

感想・レビュー・書評

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  • あぁ、そうか、不幸が自己の存在証明になってしまうのか。

  • ずっと、読んでみたかった人の本。いや別に読もうと思えばすぐに読めたんだけど、なんとなく避けてたかもしれない。でも、今回読んでみて思っていた以上に読みやすくて、分かりやすくていい本だった。精神科医の著書というのは沢山あると思うが、最近はこういう、あまり偉そうに語らない人が流行っているのだろーか、とか穿った見方をしてしまうあたしであるが、どうか。

    普段、何気なく行動している先々で、案外沢山変な人がいる。いろんな人が居て、ちょっと関心を持って観察してみると、本当に見ていて飽きない。人間を観察している、なんてちょっと嫌らしいというか、なんか感じ悪いような気もするが、しかし人間観察ほど興味深い事は無いと思っている。電車の中や道中で、変わった人を発見する事なんて、たやすい。でも、その変わった人当人は意外と自分が変わっている、ということに気付いていない場合が多く、同じようにその、「変わっている」ぶりを理解できない人も、驚くほどいる。というか、人ってあまりにも他人に感心がないのだなぁ、とつくづく思うのだ。本当に、全然見ていないのだ。

    この著者はそういった、「ちょっとなんか変」な空気を敏感に感じ取りやすい人のようで、それはもちろん、精神科医という特殊な職業をお持ちでいらっしゃるのが大きいかもしれないが、しかしそれがプライベートな生活の中にも随時感じているようである。その、「ちょっとなんか変」というウマく説明が出来ない、不自然な人、違和感を感じる行動、そういったことが、平然と行われている日常という世界を精神科医の視点で書き上げた一冊であるのだが、その視点がとても自分とリンクしていて面白かった。あたしもそういう不愉快な違和感を感じるような人に出会うと、最初は腹が立ったりイライラしたりさせられるのだが、落ち着いてその行動を考えてみると、不思議でちょっと笑ってしまうというか、馬鹿げているというか、本書で言うところの「人間臭さ」を垣間見てしまったんだ、と思ってくる。ただ、このエピソードは別に「不幸になりたがる人」の話ではないので、序章に過ぎないのだ。

    不幸になりたがる人のなかに、「心気症」という症状を起こす人が居て、それは自分は別に病気でも何でもないのに、勝手に自分は酷い病気である、と勘違いして、というか完全に思いこんで信じて疑わないような状態になる人のことである。そうなってしまうと、「あなたは大丈夫」といっても、本人は信じようとしないし、むしろ、病気を否定されたくないのでは、とさえ思える。ようするに、このように自分は病気である、と思いこもうとするという行為には、なにかもっと大きな不幸を避けようとする意識が働いている、と著者は考えたわけだ。彼らは「ほんのちょっとした不幸」という状態を続けさせることで、精神的に安定感を得ている。また、「事故傾性」という言葉があって、なぜか事故に巻き込まれやすいタイプの人というのが、いるというのだ。あたしは会ったことはないが、似たようなタイプに、リストカッターが挙げられるのではないかな、と勝手に思った。あと、気をつけようと緊張するあまりに失敗したりする人とかも、いる。そーいう人って言うのは、不幸の先取りをする人とか不幸を指向するする人、という風に表現されているが、それは確かにあるなと思う。不幸であるということが、もう、その人の個性というか、不幸でなければその人ではない、というくらいにまで幸の薄さが個性になってしまっている人。あと、そういう人間だと思いこんでいる人、もしくは思いこみたい人。いるいるいる〜〜・・・と、おもわず納得してしまった。

    他にも、分かっているのに汚言を吐く、という症状が出る人がいる。発作的に「してはいけないこと」をしてしまう人がいる。ここで、人間というのは、常に自分にとって安全で得になるように振る舞うとは限らない、と書いている。魔が差す、という言葉に表れている通り、駄目だと知っているのにやってしまったり、止めようと思っているのにやってしまう、言ってしまう。そういうマイナスの方向に動こうとする欲求というのが、人間には備わっているのだという。

    しかし「不幸になりたがる」というベクトルの精神は、本当に不幸になってしまうために起こるのではなく、実はもっと大きな不幸を避けるために、小さな不幸で回避しようとしている現れである、と指摘してある。不幸中の幸い、とか、そういう事なんだと思う。また、自分が不幸であるという事を利用して、自己正当化させる、という方法がある。それをここでは「被害者意識依存症」と書いているが、まぁ、しかし、この言葉ほど適切なモノはないのではないかと思う。最近の「不幸自慢」っぷり「被害者意識」っぷりには、目に余るモノがあるとは思わないだろうか。犯罪というのは、この「被害者意識」が起こしていると言っても過言ではないのだから、最近急速に増えているのも、当然の流れなのかも知れない。

    被害者意識というのは、その状況に陥ることで、強引に自分が楽になる方法を手にする事が出来る、という。一つは「敵」であり、もうひとつは「特権」である。「敵」というのは、つまり、自己正当化させるための手っ取り早い手段として、「仮想敵」を作り出すことだ。当然のことながら、自分が被害者であるのだから、相手は加害者であり、敵である。無理にでも敵を作り出さないと、そもそも被害者意識なんてモノは思い込みや自分の不平不満の産物だったりするので、自分に跳ね返ってきてしまう。それを避けるために、とにかく都合の良い敵をでっち上げるしかないわけだ。
    それは近年急増中の「アダルトチルドレン」だとか「多重人格」なんかに見られるような、過去の記憶から敵を作りだして責任転嫁を試みる術だ。
    もう一つの「特権」だが、それはもう、自分が被害者で弱者であるということを利用して、守られ保護される立場になってしまう、という、いわば逃げ口実だ。しかも、被害者意識を持つというのは、なかなか恍惚な状況でもあるという。アルコールなんかと同じように依存しやすいのだ。つましい幸せなどを得るよりも、あえて被害者意識を堪能することを選ぶ人間が世の中にはいっぱいいるんだそうだ。

    たしかに、たしかに自ら不幸を指向しているな。ま、本書では他にもあっちゃこっちゃで、そういう病気もどきの変な人の話が出てきているいて、さすが現場の人、と感じる指摘が多々ある。例えば「むかつく」とか「キレる」といった言葉が流行ると、そうした言葉の連鎖が形作る方へ安易に流し込まれてしまう。目新しい言葉によって、今まで漠然としていた気持ちに形が与えられ、それどころか広く認知されたような錯覚すら生じる。
    本来なら、それを恥じるべき事であるにもかかわらず、言葉として形作られたがために、憚らなくなっていってしまうという。

    現状が不幸だと、不平不満を述べているにもかかわらず、それを自らの意志で行動で変化させようとしない人がいる。人は基本的に現状を大きく変化させることを望まない傾向にあり、不満を持ちつつも現状維持することを選んで不幸になっている人が沢山いるのだ。面白いなと思ったのは、そういう心理をここでは「面倒くさい」で、済ませているところだ。それは不幸であ状況を変化させるために何か行動する、というのがただただ、億劫なのだ。端から見たら、そんなことをするほうが変ではないのか、と思うことを呆気なく選んでしまう。それがある意味では病気でもある。

    まぁ、分かっていても止められない、という事は誰にでもあるし、自己防衛のための被害者意識を持つというのも、別に間違っていないのかもしれない。しかし、なんというか、それはちょっと、情けないっつーか、恥ずかしくはないのか?と、問いつめたくはなる。

    もう一つ、精神科の先生として、良いことが書いてあった。多重人格や記憶喪失、憑依など、普通の人では起こりえない劇的な症状というのは周囲への自己アピールでしかない。派手であることに価値があり、とにかく関心を集めたいだけである。それはもう、子供、というか未熟な人格構造だからこそ表せる大胆な自己主張であり、心の深層に問いつめたりというような洞察はない。また、精神分裂病の症状として現れる幻覚や幻聴、妄想の類はどれも底が浅く月並みだという。ありきたりで面白くもないのだ。しかも大抵薬が効いて、症状は治まるのだという。なんか、いや、これが病気なんだ、といわれてしまったら、そうですか、としか言いようがないわけであるが、しかしなんか馬鹿みたいだ。まさに、人間臭い情けなさがある。「イタイ」としか言いようがない。なんとなく、それも可愛らしくすら感じてしまう。

  • 他の人も書いているように、この本は著者の主観を綴ったエッセイにすぎず、客観的な根拠は何もない。

    ただ、これは無意識下の傾向を実証的に検証、証明できないことが一つの要因であると思う。逆に言えば無意識に関するどんな仮説も絶対に反証することができない。オカルトが堂々と生存を許される領域でもある。だからあれこれ妄想を巡らせるのは面白い。

    自分や他人を顧みたときに、著者の主張通り不幸への志向でしか説明できない行動は存在するような気がしてならない。そもそも「おれは心の底で不幸を望んでいるのでは」と考えてこの本に辿り着いたのでそう結論づけたくなるのは当たり前といえば当たり前だけど。

  • 幸運が続くと不安になるからあえて不幸を呼んでつじつまあわせようとするの、分かる。

  • 思索

  •  驚いた。これは精神科医師による単なるエッセイでしかない。2000年の文春新書だが、この頃出版社が点数を増やすべく粗製乱造していたのではないか、と勘ぐりたくなる。

  • きわめて後味の悪い読後感。
    と、確かに、著者が”はじめに”で予言した通りだ。
    それでも書かずにはいられなかったとのこと。

    精神病を直視し、正常といわれるものの境界があいまいな部分に焦点をあてているところもあって、辛くなる。

    みんな自分ではコントロールできない何かを抱えているんだろうか?
    意味もなく、生産性もなく、破壊的・・・、正常の領域から見るとそう映る行動の背景にある心理は、みんなの中に埋め込まれているものなのか、それとも病理として特定の個に埋め込まれたものなのか・・・。
    グロテスク。

    現代の新書なんだけども、読んでいてなんとなくレトロ感を感じた。
    夢野久作『ドグラ・マグラ』を思い出しながら読んだ。

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    【内容(「BOOK」データベースより)】
    虎に喰われたかったのに熊に喰われて昇天してしまった主婦、葬式代がないからとアパートの床下に妻の遺体を埋めた夫、電動式自動遙拝器を作ってただひたすら「供養」する男などなど―世の中にはときどき、不幸や悲惨さを自分から選びとっているとしか思えない人たちがいる。しかし彼らは、この過酷な人生を生きてゆくために、奇妙なロジックを考えだし、不幸を先取りしなければ生きてゆけなくなった人たちなのだ。あなたの隣の困った人たち、それはもしかしたら私たち自身の姿なのかもしれない…。
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    【著者略歴 (amazonより)】
    春日/武彦
    1951年京都府生まれ。日本医科大学卒業。医学博士。精神科医。都立中部総合精神保健福祉センター、都立松沢病院、都立墨東病院精神科部長などを経て、東京未来大学教授
    ————————
    【目次】
    第1章 理解しかねる隣人たち
    ・不自然な人たち
    ・ああ、そうですか
    ・大晦日の電車
     ほか
    第2章 奇妙な発想・奇矯な振る舞い
    ・幸運の法則
    ・運勢曲線
    ・不幸の先取りについて
     ほか
    第3章 悲惨の悦楽・不幸の安らぎ
    ・熊に喰われる
    ・虎と熊
    ・二十六時間の誘拐
     ほか
    第4章 グロテスクな人びと
    ・変人たち
    ・狂気予備軍
    ・供養する男
     ほか
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  • フォトリ20冊目。auブックパス。
    事故破滅的な人々の理解を試みる。許容範囲のプチ不幸や他者のには理解し難い儀式に頼ることで、死への欲動から自身を守りこの世に踏みとどまる。本格的狂気に駆り出される突き進まないように、わかりやすい神経症状を示す。狂気でさえ、生きるための本能的手段。
    シニカルな物言いの先生ですが、パーソナリティ障害や狂気の存在を認め、彼らの生きるための特異なロジックを理解しようという姿勢を感じます。

    ※極端な内気はコミュニケーション障害の可能性あり

  • 非常に面白い。松沢病院の医長を務める著者が長年の臨床経験から気付かされたもの、それは無意識に自らの不幸を臨んでいる自虐的な患者が一定数以上存在することだった。犯罪報道等を通じてそうした人々の内面に迫った一冊。

  • 前書きで著者が言うように、確かに「後味の悪い読後感」がある。不安感と言葉に変換しがたいおそろしさと…。それでも、その内容を読み取りにかかってしまうあたり、著者がこの本に記したことが一つの真実であると証明しているみたいだ。
    不幸になりたがる人は存在する。社会人になってはじめて、その色が濃すぎる人物に会った。その人物に対してずっとずっと嫌な感じがあったのだが、適当な表現が見つからずモヤモヤし続けていた。止まらない微妙な違和感、常識外の世界観、言葉が通じていない感覚、成立しない意思疏通、思考不足で怠惰な依存性。得体が知れないのだ。不可解で不快極まりないのだ。苦手だからあまり関わらないようにしようとか、嫌いだから考えないようにしようとか、迷惑だから接点を少なくしようとか、そういう自分の能動的な意志でコントロールできないのだ。これがノンフィクションであることが怖い。
    けれど、この本でかなり理解できた。つまり“そういう”性質が強い人なのだと。人間に潜在する性質であるからこそ、本人はその気はなくとも、「生・進歩・向上」とは真逆のそれを何も考えずに表に出し続けているのを見るのは、とても不快なのだと。受動的で言いなりで特に何か思ったり考えたり自ら行動することもなく人からのアクションをただ待ち続け漫然と生きている人のことは、私には理解できないのかもしれない。そして、できることならばもう関わりたくないのが本音である。
    不幸になりたがる人たちについて書き記されたもう終盤の184頁、「危うい芽が自分の内面にびっしりと植わっているような気がして、私は息苦しくなってくる。」という文を読んだ時、昆虫や爬虫類が枝や葉に隙間無く植え付ける大量の小さな卵のようなものが自分の皮下にびっしり広がっているグロテスクな想像が浮かび、まるで体の内側に鳥肌が立つような気色の悪い感覚を覚えた。本当に読後感はよくない。
    ただ、いかにも現実離れしたホラーやサイコサスペンスより、よほどおそろしいし興味深い、と思う。

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著者プロフィール

1951年生まれ。産婦人科医を経て精神科医に。現在も臨床に携わりながら執筆活動を続ける。

「2021年 『鬱屈精神科医、怪物人間とひきこもる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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