漢字と日本人 (文春新書 198)

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (250ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784166601981

作品紹介・あらすじ

「カテーの問題」と言われたら、その「カテー」が家庭か假定かあるいは課程か、日本人は文脈から瞬時に判断する。無意識のうちに該当する漢字を思い浮かべながら…。あたりまえのようでいて、これはじつは奇妙なことなのだ。本来、言語の実体は音声である。しかるに日本語では文字が言語の実体であり、漢字に結びつけないと意味が確定しない。では、なぜこのような顛倒が生じたのか?漢字と日本語の歴史をたどりながら、その謎を解きあかす。

感想・レビュー・書評

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  • 「和製漢語」って何?と調べるために借りたつもりが、「漢字」の歴史や筆者の見解に驚き!
    時々辛口が入って面白かった。後半は難しくなって頭に入らずパラパラ読み。
    私はそもそもの目的である「和製漢語」について紹介する(ほぼ引用)。
    ※「漢字」とは、漢族の言語「漢語」を表記するための文字。我々は日本語とは無縁の文字を借り、多少手直しして用いているにすぎない。それは日本人にとっては不幸なこと、日本語の発達がとまってしまった、和語に漢字をあてるのはおろかなこと…という筆者の意見が前提で話が進む。
    ※漢語の発音を日本人の言いやすいように手直しし、その意味によって直接日本語で読むことにした。例えば…
     「山」(サンorセン)→「やま」
    ・音(オン)とはその字の発音、「訓」(クン)はその字の解釈や意味で本来の日本語。

    【和製漢語とは】
    ・漢字が入ってくると日本人はそれを日本語の中に混ぜて使ったが、やがて漢語まがいの言葉をつくるようになった。それが「和製漢語」。
    ・大きく分けて江戸時代までのものと明治時代以降のものとに分かれる。後者が多く、その大半が西洋語の訳語として作られたもの。

    【江戸時代末まで】
    ・日本人の生活の中から出てきている。
    ・①和語②漢語③和製漢語④和漢混淆漢語を用いていた。
    ・古いものは、日本語を漢字で書き、それを誤って(あるいは故意に)音読したものらしい。例えば…
     かへりごと≫「返事」→ヘンジ
     ではる≫「出張」→シュッチョー
     ひのこと≫「火事」→カジ
    ・漢語と和語が組み合わさったもの。例えば…
     造作なし→無造作 点を合わす→合点
    ・和語転換型和製漢語。例えば…
     すべりおちる≫「滑り落ちる」→「滑落」(カツラク)
    ・特徴①耳で聞いて分かる(奉公、与力、家老)
    ・特徴②漢字の意味からの言葉の意味が出てこない。中国人でも意味が分からない。例えば…
     世話…世の中の話ではなく人の面倒を見ること
     心中…心の中ではなくて複数自殺
     家老…家の老人ではなくて一国一城の宰相

    【明治維新以後】
    ・数千数万語にのぼる和製漢語が作られた。
    ・西洋のありとあらゆるものを取り入れるべく努めた。例えば…
     政治の仕組み、法律と裁判、産業、建築や交通機関、通信手段、学校と教育、学問芸術、軍隊警察、生活用品(衣服、食品など)、運動や遊び…それらを日本語に訳そうとした。
    ・上に述べた言葉(政治、法律、裁判…)も西洋語の翻訳で新しい和製漢語。
    ・新しくできた言葉でも、もともと日本にあった物や概念もあった。例えば債務や債権。借りとか貸しと言っていたのかも。
    ・無いものも入ってきた。鉄道、汽車、電信など。野球もそう。投手、捕手、打者、走者、一塁、二塁、盗塁、安打、本塁打。なげて、うけて、うちて、はしりて…でも良さそうなのにトウシュ、ホシュ、ダシャ、ソウシャのような字音語にしてしまった。
    ・訳語の多くが中国に輸出され今も用いられている。※中国でも西洋語を漢語に訳していた。
    ・特徴①耳で聞いても意味は分からない。
    ・特徴②字を見ると検討がつく。電燈、電線、電信、電話、電車、電流、電源、停電…「電」が付けば電気に関係のある言葉などと。
    ・音のことは考えずに作られ同音語が多くなる。でも気にする人は誰もいない。なぜか?字が違うから。字が違えば別の言葉だというのが日本人の考え方。
    ・聞いた言葉を脳内に出現させる神業をやっている。言い換えもできる。「ワタクシリツ(私立)の学校」「イチリツ(市立)の学校」

     本来言葉とは人が口に発し耳で聞くもので言語の実体は「音声」。日本語においては「文字」が言語の実体であり、耳がとらえた音声をいずれの文字に結び付けないと意味が成立しない。
    明治以後の日本人の言語生活の中で漢字がどんなに重要な役割を果たしているかにも気づかず、政府や知識人が繰り返し漢字の削減ないし全廃を主張してきたのもそのゆえん。西洋化が「進歩」とみなし、「こんな古いものはなくしてしまえ」と。
    そしてひらがなやカタカナもしくはアルファベットを用いて音標文字にしようという動きもあった。しかし漢字を切除すれば日本語は幼稚になる……。
    (以上、詳細や歴史についてはパラパラ読みなので省略)

    【ちょっと感想】
    生まれた時から使っている日本語、そして漢字にこんな歴史があるとは面白い。この歴史を経て我々は言葉を発したり、字を書いている。また日本人の口は不器用で、口から出せるのはごく簡単な音だけでその種類も少ないと知り少しショック。
    もし漢字が入ってこなかったら、日本語という言語はどのように表記されただろうか。独自に文字を作り出せたか?作り出せず文字さえないままだったのかも!?また言語はどのように展開されただろうか。文化も変わってきただろうなぁ。
    言葉から文字に変換しているって無意識に頭の中ですごいことをやっているのかな。これも漢字と日本語の「腐れ縁」(←これも和語“くされ”と漢語“縁”で出来た一語であり“腐れ縁”なのだとか笑)で、「我々はやっていくしかないのだ」という筆者の意見に、今さらそんな事を言われても〜と思うが、大変面白かった。
    和製漢語の歴史についても少し分かった。

    • Manideさん
      なおなおさん、こんばんわ。

      私も興味深いな〜と感じてました。
      ただ、読むの大変そうだな〜とも感じたましたww

      最後の腐れ縁、面白い。
      そ...
      なおなおさん、こんばんわ。

      私も興味深いな〜と感じてました。
      ただ、読むの大変そうだな〜とも感じたましたww

      最後の腐れ縁、面白い。
      それなのに、国と国は仲良くできないというのが、また、悲しいですね。

      ほんと、知らないことばかりですね。
      2022/11/15
    • なおなおさん
      くまさん、こんばんは。
      コメントをありがとうこざいます。

      読んでいた別の本に、「和製漢語」なる言葉が出てきて、これを知らねば読み進められな...
      くまさん、こんばんは。
      コメントをありがとうこざいます。

      読んでいた別の本に、「和製漢語」なる言葉が出てきて、これを知らねば読み進められないと考え借りてみました。
      「漢字は日本語とは無縁」という筆者の見解が面白かったです。
      くまさんの土器絵画の話も興味深いです。
      文字を作るってすごい発明なんですね。
      そもそも文字を作ろうとした展開とか、もちろん漢字の発明にも興味が出てきました。
      今日は外を歩き、意識的に文字を追ってしまいました。「あ!アレは"和製漢語"よ!」とか「アレは本来の日本語かな?」とか笑。難しいのですがね。このレビューやコメントも和製漢語だらけなんでしょう…。
      2022/11/15
    • なおなおさん
      Manideさん、こんばんは。
      コメントをありがとうございます。

      普段お勉強系読書をしないので、難しく時間がかかりました(-_-;)疲れた...
      Manideさん、こんばんは。
      コメントをありがとうございます。

      普段お勉強系読書をしないので、難しく時間がかかりました(-_-;)疲れたわ……w
      「和製漢語」って何なの?を調べたつもりが、漢字と日本語の関係とか、日本語の音の少なさとか、日本人の発音とか……たくさんお話がありました。勉強になりました!
      「腐れ縁」、面白いですよね^^;
      2022/11/15
  • 本来日本語を表記するのに漢字はまったくあっていないというのが高島先生のご意見で、本書もそれが前提で書かれている。日本語と漢語(シナ語)は言語として共通点がほとんどなく、もし日本列島が無文字の時代に漢字とアルファベットが周辺国で使われていたら、日本では間違いなくアルファベットが入ってきたはずなのである。

    さらには、日本語を表記するのに漢字を採用したことで日本語が日本語として成熟する事ができなかったとする。無文字時代の日本語では抽象的な概念を表現するコトバはほとんど無かった。本来はコトバが熟成していく中で、日本語で抽象的概念をあらわすコトバが出来てきたはずが、漢字で表現することを先に覚えてしまい、日本語での語彙がでてくる事がなかったのである。かくして、漢字なしで日本語を表現できるすべがなくなったのである。日常的なできことの表現なら日本語だけで可能だが、抽象的な概念を使っての議論は漢字抜きでは成立しなくなったのである。

    「みる」という日本語にあてられる漢字、見・観・視・看・診・覧・海松・水松、ATOKで変換してもこれぐらいがでてくる。高島先生に言わせるとこんな使い分けは無意味で「みる」と書くべしとのこと。この場合では観るをつかうとか、視るが正しいというような蘊蓄を垂れるのはナンセンスというのである。日本人は「みる」ときいたときに文脈から無意識のうちに該当する漢字を思い浮かべながら意味を理解しているというのであう。言語学では言語の実態は音声であり、文字はその影にすぎないとするが、日本語では文字が言語の実態になっており、漢字に結びつけて理解しないと意味が確定しない状態になっているとする。
    「みる」は「みる」を書いて、一々漢字をあれはめる必要はないというのが先生の主張である。例えば英語で「take」はつかわれる文脈でいろんな意味を持つが、英語で「take」を書くときに意味に応じたかき分けがあるわけでは無く「take」はtakeとしか書かれない。

    最後の数章は日本での漢字廃止運動について書かれている。先生も、和語を書く際には、一部のものはのぞいて仮名で書くのがよく、和語を漢字で書くのはよろしくないとする。しかしながら『「山」「水」「人」「家」のごとく、字もやさしく、またその意によってあてているものは、ながく習慣にもなっていることだからやむを得ない。特に「手」「目」「戸」「田」「根」「木」など一音のものはかながきするとまぎれやすいのでしかたがない。』とし、音読熟語についても漢字を使わざるをえず、この場合は「ほ乳類」「は虫類」といった書き換えはせず「哺乳類」「爬虫類」と書くべしとする。常用漢字はあくまでも漢字使用の目安で一般の社会生活で使われる日本語が対象だが、新聞社等マスコミがこれ幸いと使う漢字を制限しているという。一々活字を拾ってきて製版していた時代に使う漢字を制限するのは出版業界としてメリットがあったろうが、電子製版の時代にそのような手間かからなくなったのにである。

    で、感想。高島先生の御説ごもっとも、であります。が、漢字が日本語をさらにゆたかにしてきたという事はありそうに思う。もともとの経緯はともかくとして漢文が日本文化にはたした役割とか見・観・視・看・診・覧といった使い分けが表記としての日本語をより豊にしているということもありそうである。いま「漢文の素養」加藤徹著をよんでいるが、漢字の果たした役割について高島先生とは違う観点からの考え方を知ることができそうである。

  •  日本人の漢字との出会い、そしてそれをどう取り入れていったか、その際にどういうことが起こったか。漢字を通して日本文化の根底にある意識を指摘した本。

     漢字、とくに訓読みって、よくよく考えるとかなり変なことをやっています。
     「川でおよぐ」と我々は普通に「川」を「かわ」と読んでますが、これ、漢字じゃなかったとしたらどうでしょうか。
     「riverでおよぐ」を「かわでおよぐ」と読むのってなんか変ですよね。でも、漢字に訓読みをつけて読むというのはこういうことなんです。

     ひらがな、かたかなと言いますが、漢字で書くと「仮名」つまり「仮の名(文字)」なんですね。では「真名」は…そうです、漢字です。
     こういう意識は、日本人が「正しいもの、進んだものは自分たちの外側(海の向こう)にあって、そこからもたらされる」という意識にも通じます。この辺の話は内田樹『日本辺境論』とも符合します。
     漢字で書いたら賢そうだけど、かなでかくとアホっぽい、という意識の根底にも、この手のスノビズムがあるからなんでしょうね。

     でも、書き言葉である漢字の、音読みの熟語ばかりで話されると、何言ってるのかわからないことがあります。
     これは、明治初期に、文明開化で西洋文化を積極的に取り入れたとき、西洋のことばや概念を片っ端から漢字に訳していったからです。そのとき、漢字の意味だけで熟語を作り、耳で聞いてわかるかという観点が欠落していました。結果、我々が用いている熟語の多くは同音異義語がいっぱいで、例えば「コウセイ」と言われたとき、それが構成なのか校正なのか更正なのか、文脈に即して頭の中で漢字変換してみないとわからなくなりました。
     なお、明治初期に西洋の言葉をどれだけ苦労しながら翻訳していったかについては、柳父章『翻訳語成立事情』をご参照下さい。

     さて、明治以降の日本語は、そういう漢字抜きには成立し得ない複雑な言語となっています。
     なのに、戦後のどさくさに紛れて国語改革ということがやられてしまいました。いみじくもシオランが「祖国とは国語である」と喝破していますが、その日本文化の中核的な要素の一つである漢字表記やかなづかいについて、ろくな議論も経ずに変えられてしまいました。
     その後の正かな論者の戦いは悲惨を窮めます。何せ、どれだけ正しいことを言ってようが、学校教育で新字・新かながどんどん生み出されていくと、多数決原理で押し切られてしまうからです。個人的には、小学校で漢字の点や跳ねについてゴチャゴチャ細かいことを言うのは噴飯物なんですが(何を以てその字が正しいと思ってんだ、と)、自分たちが先祖から受け継いできたと思っているモノが、実は誰かの手によって改竄されたものであると知ったときは、やるせない気持ちになりました。

     日本文化論として読んでも非常に面白い本です。麻生元首相の漢字の読み間違いを契機に、「読めないと恥をかく漢字」などという他人の無知とコンプレックスにつけ込むが如き、恥知らずなタイトルの本が雨後の竹の子のように出版されました。が、そういう俗流漢字本を読む暇があるなら、是非本書を読んで欲しいところです。

    (何だか今回はえらく説教臭い紹介文になっちゃいましたorz)

  • 私達が毎日使っている漢字。 これがないと 文章は読みづらいし 意味が通りにくくなる。
    話し言葉でも、日本人は文脈にそって 同音異義語を瞬時に判別しているわけだが、
    その時に無意識に漢字に変換している。

    本書はメインの筋も読んで面白く、
    さらに途中に、本筋と関連する(が流れが途切れる) 解説もたくさん書かれていて、
    今更ながら納得することが多い。

    著者は、古来の日本語に 中国伝来の漢字を当てはめて使ってきたことに無理があったという。
    漢字・ひらがな・カタカナ、更には 漢字の音読み・訓読みなど 日本語はある意味複雑だ。
    日本でも 明治の文明開化の頃から、漢字を廃止するなどの国語改革が持ち上がったことがあった。
    また 戦後には 当用漢字の採用もあったが、中途半端で終わったとのこと。

    で、これからどうすればいいのか。
    あとがきに書かれた著者の結論は、
     1) 漢字と日本語は性質が違うためしっくりしないが、これでやってきたのだからこれからもこれでやっていくほかないということ。
     2) 過去の日本との通路を絶つようなことをしてはいけないのだということ。
    意外と普通のことです。

    ★ 私は、漢字は素晴らしいと思う。だいじにしていきたい。
    といって 意味なく難しい漢字が書ける必要はない。
    PCなどでタイプした時に、適切な漢字に変換されているかのチェックだけは、怠らないこと。 (*^_^*)♪
    著者いわく、無理をしてなんでも漢字で書かず 「ひらがな」でいいそうだ。


    さて、外交問題が波乱含みの昨今の日中韓にも かつては漢字という共通文化があった。
    しかし 近年、中国では簡略化された文字に取って代わられた。あれはなかなか読めない・・・。
    韓国でもずっと使われてきた漢字は、ハングルになって、多くの歴史的な文献は学者だけのものになりそうです。
    日中韓では、漢字を書くことでなんとか意思が通じていた時代もあった! なんてことも、忘れられていくことだろう。


    語彙が豊富で (漢字の知識も多く)、なおかつそれをTPOに合わせて 平明にも表現できる人は素晴らしい!
    読んで面白く 納得できる本を書ける人は、つくづく羨ましく思います。 (*^_^*)♪


    2012/11/21 予約 11/27 借りる。12/1 読み始める。2013/1/5 読み終わる。

    内容と著者は

    内容 :
    本来漢字は日本語とは無縁。
    だから日本語を漢字で表すこと自体に無理があった。
    その結果生まれた、世界に希な日本語の不思議とは?

    内容(「BOOK」データベースより)
    「カテーの問題」と言われたら、その「カテー」が家庭か假定かあるいは課程か、日本人は文脈から瞬時に判断する。
    無意識のうちに該当する漢字を思い浮かべながら…。
    あたりまえのようでいて、これはじつは奇妙なことなのだ。
    本来、言語の実体は音声である。
    しかるに日本語では文字が言語の実体であり、漢字に結びつけないと意味が確定しない。
    では、なぜこのような顛倒が生じたのか?
    漢字と日本語の歴史をたどりながら、その謎を解きあかす。

    著者 : 高島/俊男 著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
    1937年生れ、兵庫県相生出身。東京大学大学院修了。中国語学・中国文学専攻。
    著書に『李白と杜甫』、『水滸伝と日本人』(第5回大衆文学研究賞)、『三国志きらめく群像』、『本が好き、悪口言うのはもっと好き』(第11回講談社エッセイ賞)、『漱石の夏やすみ』(第52回読売文学賞)など多数


    面白いブログ見つけた。 URLはこちら https://twitter.com/moneslife 『moneslife Twitter』 :  
    URLはこちら http://blog.livedoor.jp/moneslife3/archives/51728982.html 『タカトシの時間ですよSP 10月17日──誤って伝わった漢字「笑う」と「咲く」について』 :  芸スポ萬金譚 (moneslife3)
     

  • どうも最近日本語に凝っている。これは、もともと文字のない日本語を表記するために、漢字を無理して(という意思は当初はなかっただろうが)導入し、なんとかかなとカナをつくりだし、いつの間にか音より文字優位の日本語をつくりあげていったということにまつわる話。日本語廃止論や全部カナ表記論、英字表記論など、明治の頃にはありましたが、それも現実的じゃないから、とりあえずかなカナ主体、漢字は補助ってことでなんとかやっていきましょう、という論も紹介されている。まあそりゃそうですよね。基本的に同感。ただ、原理主義ではないのですが、やっぱり文字以前の日本語、つまり純然たる和語のひびきってどうだったのかな?漢字が輸入されなかったらどんな文字が発明されてたのかな?なぞはとても気になるところ。『古事記伝』を読んだり、中国語を学んだりしてみたいなぁと感じました。

  • 漢字は中国語に根ざす文字なので、言語体型が全く異なる日本語に移植すれば、「ムリ」が生じる。明治以降の新漢語の登場の影響もあって、日本語は同じ読みの言葉が多く文字がないと成立しない言語になってしまった。
    今の新字体は戦中前後のドサクサに紛れて成立し、いずれは漢字の全廃を目指す取組の一環だった。

    筆者の思いはわかるがもう少し感情を抑えた方が良いと思った。

  • 日本語は音声だけでは意味が通じない。一つの読みに対して文字が沢山あるからだ。つまり、文脈からどの文字を当てるのか私達は瞬時に判断している。
    なんでそういうふうになったのかを書いた本。
    ホントその通りだわーと首肯しながら読みました。

  • 漢字がどのように取り入れられ、その後どのような役割を果たし変化したのかが説明されている。
    日本語や英語との関係も話されており非常に面白い。

  • 日本語の中に、中国から伝えられた漢字を取り入れた歴史的経緯と、そのために日本語が抱え込むことになった構造的問題を論じた本です。

    軽妙洒脱な文章ですが、現代における日本語をめぐる種々の混乱を小気味よく批判しており、たいへん興味深く読みました。著者の結論は、「漢字は、日本語にとってやっかいな重荷である」が、とはいえ「日本語は、これなしではやってゆけないこともたしかである」ということで、イデオロギー的な漢字廃止論にはとうてい及びもつかない、日本語についての深い洞察に裏打ちされていて、説得力があります。

  • 日本人が「漢字」という大陸の(というか外国の)文字をどのように受容していったかというその変遷、つまり日本人の漢字との千年以上に渡る"付き合い方"がよく分かる本。漢字をなんとかして日本語に適用させようとしたかと思えば今度は漢字を徹底的に排除し「かな」やローマ字にしようとする…どうも日本人は甚だ極端であるらしい。なるほど、日本人が漢字をいかに受容していったかという歴史を通して、日本人のメンタリティもよく分かる。

    また、それぞれの民族の言葉がその民族の思考様式と密接に結びついている、という指摘はまさにその通りだと思う。ある言葉がなければ、当然にその概念も存在しないのである。例えばこの部分はなんかも非常に面白い。

    ◼️p165 江戸時代までの日本には「進歩」ということばはなかった。つまりそういう概念がなかった。江戸時代だって、いくらか知識のある人なら、すこしはむかしのことを知っていた。〜しかし、われらの時代は鎌倉時代より進歩している、とか、おなじ江戸時代でも、傾聴元和のころより文化文政のいまのほうが進歩している、などとは思わなかった。

    日本人が漢字を受容して歴史を作ってきた以上、それを手放すのではなく、あくまで「かな」を主体としながら漢字を使うべきである…とまぁ筆者が主張する漢字の使い方を纏めるとこんな感じになるのだろうか。でも「なるべくかなを使う」というのも結構分かりづらい。仮名も「かな」と表記すべきだとのことだが、この「なるべくかな」という部分だってすべてひらがなであればどこで切れるかが甚だ分かりづらいではないか。漢字を多く使うことで、例えば助詞とそれ以外の単語も視覚的に識別しやすくなり読書スピードは上がると思うのだが。

    あと内容は良いのだが、バカだの無教育だの随所に(主に前半に)散りばめられているのが読んでいて不快。親しみやすさの演出なのか、まぁ本当にバカと思ってるのかもしれないけれど、良い印象は受けないぞ。

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著者プロフィール

高島 俊男(たかしま・としお):1937年生れ、兵庫県相生市出身。東京大学大学院修了。中国文学専攻。『本が好き、悪口言うのはもっと好き』で第11回講談社エッセイ賞受賞。長年にわたり「週刊文春」で「お言葉ですが…」を連載。主な著書に『中国の大盗賊・完全版』『漢字雑談』『漢字と日本語』(講談社現代新書)、『お言葉ですが…』シリーズ(文春文庫、連合出版)、『水滸伝の世界』『三国志きらめく群像』『漱石の夏やすみ』『水滸伝と日本人』『しくじった皇帝たち』(ちくま文庫)等がある。2021年、没。

「2023年 『「最後の」お言葉ですが・・・』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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