寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

著者 :
  • 文藝春秋
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本棚登録 : 3739
レビュー : 403
  • Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784166602513

感想・レビュー・書評

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  • 内田樹さんの本では、以前に『女は何を欲望するか』と『他者と死者ーラカンによるレヴィナス』にたいへんお世話になった。以上の2冊に負けず劣らず、本書も読みすすめるごとに頭がスッキリする感覚がある。「もーわからん!頑張ってもわからん!」となったときに読むと、効果てきめん。暗号のような思想が理解できたような気がする。内田さんは魔術師かなにかか。 思想うんぬんの前に、彼くらい頭のなかを整理整頓したいものだと思う。掃除上手なところをとても尊敬している。

    さて肝心の内容についてだが、『寝ながら学べる構造主義』という表題で、構造主義をそれなりに知っている人やそもそも興味のない人は手にとらず仕舞いになっているかもしれない。後者は仕方ないご自由にとして、前者はちょっともったいないことをしているかも。
    わたしは前者で、何冊か現代思想の入門書を読んでおり、あらたまって学ぶほどのことでもないだろうと、ちょっとばかし面倒くさがっていた。お盆休みの日長に積読を減らそうと読みはじめて、本書をさっさと手にとらなかったことにひどく後悔した。無駄とは言わないが、何冊も読まずともこの一冊でよかったのではないかと思うほど、本書は優等生だったからである。
    構造主義とはうたっているが、通読すれば現代思想の要までおさえることができてしまう。マルクス、フロイト、ニーチェ、ソシュール、フーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカン、スター選手が勢ぞろいだ。現代問題も引き合いに思想の検討が行われ、深さもともなっている。「しまった、時間と金を無駄にした」というがわたしの本音だ。苦労あっての学習なので、まあよしとしようとは思うが。

    内田さんの解説が冴えているのは、たとえが巧みだからだと思う。正直どれもよかったのだが、わたしが思わず「なるほど〜」と唸ったのは、バルトの「記号」について。わかるようでわからない「記号」とはなにか、たとえはこんな感じ。
    将棋を指していて歩が一個なくなったとする。しょうがないから相手に「じゃ、これ歩ね」と言って手元にあった蜜柑の皮の切れはしを盤におく。蜜柑の皮と歩にはなんの関わり合いもないけれど、対局者との了解があるなら、蜜柑の皮が「記号」となって歩の機能を果たす。すなわち「記号」とは、「ある社会集団が取り決めた『しるしと意味の組み合わせ』のこと」であり、「『しるし』と『意味』のあいだには、(中略)純然たる『意味するもの』と『意味されるもの』の機能的関係だけ」がある。「ほほう、そういうものか」と納得。

    内田さんの著作は、導入部分も冴えわたっている。本書の場合、「知らない」の意味を問うことからはじまる。わたしは、「知らない」とはそもそもどういうことなのかなどと考えもしなかった凡人なのだが、内田さんは「知らない」のではなくて「知りたくない」から「知らない」になるのだと言う。換言すると、「自分があることを『知りたくない』と思っていることを知りたくない」、ついうっかり知るのを忘れてたなんてことはない、必死に目を逸らしている結果が無知になる。これは痛いところを突かれた。

    内田さんの指摘はいつもズバリ。そして発想が逆。ここまでサッパリ言われると、なんだかやる気が湧いてくる。目を逸らしていることはないか、ついつい甘め判定が出る自身にこの問いを課すことが内田さん的掃除上手になる一歩となるのやもしれない。

  • 実にありがたい。こんな入門書を待っていた。市民講座の講義ノートをもとに執筆された本書は、「哲学について予備知識のない一般人」を対象としているので、素人でも安心して読み進めることができる。構成は、以下のようになっている。

    1.構造主義の生まれる土壌を形成した人々:マルクス、フロイト、ニーチェ
    2.構造主義の始祖:言語学者ソシュール
    3.構造主義の「四銃士」1:歴史学者フーコー
    4.構造主義の「四銃士」2:記号学者バルト
    5.構造主義の「四銃士」3:人類学者レヴィ=ストロース
    6.構造主義の「四銃士」4:精神分析医ラカン

    もちろん、こんな薄い新書一冊で、彼らの思想のすべてを網羅することはできない。だから各論についてはざっと紹介されている程度で、ちょっと哲学を学んだ人なら、「なあんだ、その程度のこと」というレベルの話なのかもしれない。それでも私にとっては新鮮な話題ばかりだったし、何より、私たちが普通に使う日常会話の文体で解説してくれているので読みやすく、ビギナーとしては大変ありがたかった。それに、構造主義を学びたければ上に挙げた人々の主著にあたれば良いのだという指針を与えてもらっただけでも、この本を読んだ価値はあった。

    しかし、実をいうと本書でもっとも面白かったのは「まえがき」だった。韜晦と諧謔に満ちた文章、逆説的なロジック。しかし、この人を喰ったような文章こそ、実は構造主義的思想の実践なのかもしれないと、何度か読み返した後にようやく気がついた。

    <知的探求は(それが本質的なものであろうとするならば)、つねに「私は何を知っているか」ではなく、「私は何を知らないか」を起点に開始されます。>(p12)

    要するに、「自分の知識を、常識を、文化を、絶対視しないこと。『自分だけが真理を語っている』と、無邪気に信じるのをやめること」ということらしい。ごく当たり前のことのように思えるが、このような考え方は、構造主義によって初めて本格的に思想史に導入された重要な知見のひとつらしい。本書を読んで、とりあえずその一点だけは理解できた。今後は、理解できた部分を足がかりにして、少しずつ他の書物を読んでいこうと思う。思想史の世界へ分け入るための足がかりを提供してくれた著者に感謝!

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「てな感じで、収拾つかなくなりつつあります」
      素晴しいです。
      興味の赴くまま、どんどん読んで。面白い本があればご紹介願います!
      「読むの超お...
      「てな感じで、収拾つかなくなりつつあります」
      素晴しいです。
      興味の赴くまま、どんどん読んで。面白い本があればご紹介願います!
      「読むの超おそいのに」私もそれが悩みの種。速読って身に付くでしょうか?
      2012/04/07
    • 佐藤史緒さん
      どうなんでしょうね、速読。身につけたら便利そうですが、それを身につける時間があるなら別の本を読みたい、というジレンマがありますねえ。
      どうなんでしょうね、速読。身につけたら便利そうですが、それを身につける時間があるなら別の本を読みたい、というジレンマがありますねえ。
      2012/04/08
    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「それを身につける時間があるなら」
      速読自体の信憑性から時間を割くつもりはありませんが、仕事では似たようなジレンマに陥るコトがしばしば。。。...
      「それを身につける時間があるなら」
      速読自体の信憑性から時間を割くつもりはありませんが、仕事では似たようなジレンマに陥るコトがしばしば。。。この中途半端なExcelは破棄して一から組んだ方が今後の為には、と思うのですが、結局直さずに使ってしまう。

      「射影幾何学と遠近法」
      遠近法は、絵を描く時に学びましたが、射影幾何学は未知の学問です。どんな内容でしょうか?
      まぁ紅茶さんがレビューを書かれるまで待ってます。。。
      2012/04/09
  • 新書というものは誰にでも分かるように書かないと売れない種類の本である。こみ入った話は避け、できるだけ平易な言葉で語ろうとする。だから、読みやすいのは当然で、あっという間に読み終えることができる。それだけに読み応えの方はあまり期待できないといったものが多い。ただ、話題が「構造主義」である。どれだけ平易な言葉で語ることができるのだろうか、という興味で読み始めた。結論から言えば、極めて分かりやすい構造主義の解説書でありながら、読み物としての面白さも併せ持った格好の入門書足り得ている。

    ただ、現代は「ポスト構造主義の時代」と呼ばれて久しい。なぜ、今頃「構造主義」なのか。それについて内田は、「ポスト構造主義の時代」とは、決して構造主義的な思考方法が廃れてしまった時代ではなく、むしろ構造主義の思考方法が「自明なもの」になり、誰もがその方法を使って考えたり話したりしている時代であるとした上で、そういう「自明なもの」だからこそ研究する意味がある。なぜなら、学術という仕事は「常識として受容されている思考方法や感受性のあり方が、実はある特殊な歴史的起源を有しており、特殊な歴史的状況の中で育まれたものだということを明らかにすることだから」だと言う。

    ここを読んで「あれ、どこかできいたような気がするぞ」と気づいた人がいるかもしれない。そう。実は、こういった切り口で、それまで自明と考えられていた物事について、その起源を探り、それらが、自明でなかった時代が巧妙に隠蔽されていたことを暴いていったのがフーコーら構造主義者と呼ばれる人たちだったのである。つまり、内田は構造主義についての解説書を書くのに構造主義的な思考方法を用いることで、その意義を語っているのである。

    構造主義とは何か。少し長くなるが内田の言葉を引用する。「私たちは常にある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に『見せられ』『感じさせられ』『考えさせられている』。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそも私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。」

    見事な要約と言えよう。ふだん自分が考えたり、文に書いたりしていたことをこうまで的確に説明されると、何だ自分は構造主義者だったのか、と妙に納得させられてしまう。そうなのだ、意識するにせよ、しないにせよ、私たちはすでに構造主義のただなかにいるのである。なあんだ、そうだったのかと思った人はここで本を閉じてもいい。構造主義についてはこれ以上の解説はない。後は、構造主義的な思考方法を準備した先駆者達、つまり、マルクス、フロイト、ニーチェの果たした役割と、始祖ソシュールに始まる構造主義の「四銃士」達、つまり、フーコー、バルト、クロード・レヴィ=ストロース、そしてラカンの思想の解説にあてられている。

    ただ、その解説のために準備された譬えがなかなか秀逸である。映画や能、狂言、童話まで駆使して解きほぐされる構造主義の「四銃士」たちの話はそこだけを読んでもおもしろい。慎重に選び抜かれた引用から、それぞれの著作にあたってみるというのもいいだろう。ラカンだけは、たしかに少し難解だが、それ以外の著者の文章は翻訳でも充分に理解できるはずである。個人的にはフーコーの『監獄の誕生』や『狂気の歴史』を読んだ後の「自明なもの」がぐらぐらと音立てて崩壊してゆくときの感覚が忘れられない。それは今に至ってもずっと続いていて、ものを考えるときの礎石になっている。

  • この手の解説本では、思想家の記述を逐一分析して結局なんなのかわからない、なんてややこしいものを結構みかけるのですが、この本は思想家の芯となる考え方を把握したうえで、コンパクトに記述を整理し親しみを加えて書かれているので、とても読みやすかったです。

    本書一冊で構造主義の概要・歴史、ソシュール、フーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカンと、もりだくさんの内容をとりあげており、これらの考え方をより知る際に、ここで書かれたことを押さえておけば、変な方向に勘違いすることはなさそうです。

    自分はレヴィ=ストロース、バルトに興味は持ったものの、それ以前にこの人たち、どういう状況の中で、何について考えてたの? というほど現代思想に無知だったのですが、頭の中が整理でき、もっと知りたいと思えるようになりました。
    良い本でした。

  •  内田先生による、構造主義の入門書です。

    読んでいて書き留めたい箇所を引用します。

     精神分析の目的は、症状の「真の原因」を突き止めることではありません。「治す」ことです。そして、「治る」というのは、コミュニケーションの回路に立ち戻らせること、他の人々と言葉をかわし、愛をかわし、財貨とサービスをかわし合う贈与と返礼の往還運動のうちに巻き込むことに他なりません。(P197)

     レヴィ=ストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っており、バルトは「ことばづかいで人は決まる」と言っており、ラカンは「大人になれよ」と言っており、フーコーは「私はバカが嫌いだ」と言っているのでした。(あとがき)

  • さすがに「寝ながら」は学べないけど、「寝っころがりながら」は読めたよ。

    構造主義それ自体というよりかは、構造主義にまつわる哲学者についての概説。
    専門書と違って言葉遣いがやさしく、わたしのような学術書初心者にはありがたかった。

    でも内田先生にかかってもラカンの解説は難しいのね・・・
    そこだけよくわからなかった。

    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「「寝っころがりながら」は読めたよ。」
      内田センセの、にこっとする顔が目に浮かびます。
      この本は、堅苦しくならないように、取っ掛かりを示して...
      「「寝っころがりながら」は読めたよ。」
      内田センセの、にこっとする顔が目に浮かびます。
      この本は、堅苦しくならないように、取っ掛かりを示してくださってますね。読んで気になったら次へ進みましょう!って感じで、、、
      2013/03/13
  • 内田さんの本・ブログではここで取り上げられた5人が繰り返し登場します。普段の出来事へそれぞれの思想家をうまく導入しています。学生の時にポストモダンはよく読んだけれど難解でつらくなる経験をした覚えがある自分にとっては、うそのようにこちらへ入り、外へ導入できそうな気にさせてくれて、大変ありがたいと常々思ってます。まえがきに「話を複雑にする」ことによって、「話を早く進める」・・「複雑な話」の「複雑さ」を温存しつつ、かつ見晴らしのよい思想史的展望をしめす、とあるように「簡単」な話におとさず、「時間・死・性・共同体・貨幣・記号・欲望・交換とは何か」という根源的問いを分かりやすく「パス」してくれてるようです。本書では構造主義の前史としてニーチェ・マルクス・フロイトの話が冒頭におかれ、つながりのあるどんな「パス」をしたかも垣間見れます。すぐ読んでしまえます。より細述された「現代思想のパフォーマンス」を読みはじめています。

  • 非常に面白くスラスラ読める。
    これでわかった気にならないこと大事そう。

  • 「構造主義」の超入門書。
    とにかくすらすら読めたし、著者の語彙力が豊富で何度も「ほぉぉぉ」と感嘆した。初めてでもすんと腹落ちさせるよう、具体例が随所に散りばめられていて著者の心意気を感じる。

    日頃から「世の中のものごとをおおいに抽象化して見る」ことに快楽にも似た嗜好性を持つ私には、ご馳走のような一冊だった。

    とはいえ「構造主義」に初対面だったこともあり、中々理解が及んでないテーマも多い。
    それでも今後も思考のテーマにしたいあれこれを抜粋してみる。

    ・そもそも「構造主義」とは
    「構造主義というのは 、ひとことで言ってしまえば 、次のような考え方のことです 。私たちはつねにある時代 、ある地域 、ある社会集団に属しており 、その条件が私たちのものの見方 、感じ方 、考え方を基本的なところで決定している 。だから 、私たちは自分が思っているほど 、自由に 、あるいは主体的にものを見ているわけではない 。むしろ私たちは 、ほとんどの場合 、自分の属する社会集団が受け容れたものだけを選択的に 「見せられ 」 「感じさせられ 」 「考えさせられている 」 。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは 、そもそも私たちの視界に入ることがなく 、それゆえ 、私たちの感受性に触れることも 、私たちの思索の主題となることもない 。」

    私が「オリジナル」で考えたり話したりしているように思えることも、実は私が属する社会構造に誘導されているんだと。
    構造主義はそれへの批判の難しさも特徴の一つ。「構造主義はおかしい」「あぁ、そんな風に考えざるをえない社会構造の中で生きてきたのね」とかわされる。
    もはや私たちは気付かずとも「構造主義」にずっぽりハマっているのだ。構造主義者に言わせると、だけれど。

    「主体性の起源は 、主体の 「存在 」にではなく 、主体の 「行動 」のうちにある 。これが構造主義のいちばん根本にあり 、すべての構造主義者に共有されている考え方」

    「自己の存立根拠の足場を 「自己の内部 」にではなく 、 「自己の外部 」に 「立つ 」ものに置くのが実存主義の基本的な構えです 。」
    「「実存は本質に先行する 」というのはサルトルの有名なことば」
    「「根はいい人なのだが 、現実的には悪いことばかりしている人間 」は 、実存主義的には 「悪もの 」と評価されるわけです 。」

    つまり「実存主義」がすべての「構造主義者」に共有されている考え方ということなのか。(推測)
    「実存は本質に先行する」とはなんとも救われる言葉。「自分が本当はどんな人間なのか」は「毎日何をしている人間なのか」「日頃どんな行動をとっているのか」を見れば分かるということだ。
    「根」や「本質」を見極めようとするのは、不毛な癖だ。

    ・マルクス、ニーチェと並ぶ「構造主義」の地ならし役、フロイト
    「フロイトは人間は自由に思考しているつもりで 、実は自分が 「どういうふうに 」思考しているかを知らないで思考しているということを看破しました 。」

    「フロイトが発見したのは 、第一に 、私たちは自分の心の中にあることはすべて意識化できるわけではなく 、それを意識化することが苦痛であるような心的活動は 、無意識に押し戻されるという事実です 。私たちの 「意識の部屋 」には番人が許可したものしか入れないのです 。」

    私たちは自分の考えたいことしか考えていない、ということ。
    このことは誰もが知っている狂言『附子』を解説することで分かりやすく説明できると言う。

    「太郎冠者は自分のことをあらゆる可能性を勘定に入れることのできる狡猾な人間だと思い込んでいます 。ところが 、その太郎冠者は 、 「自分が噓つきであることを主人は知っている 」という可能性だけはみごとに勘定に入れ忘れたのです 。この太郎冠者の 「構造的無知 」は実は物語のはじめから私たちには知られていました 。というのは 、主人が砂糖を 「毒だ 」と言ってごまかそうとするのは 、そうでも言わないと 、太郎冠者はすぐに盗み食いをするに違いないということを主人は 「知っていた 」からです 。太郎冠者が不忠者であることは物語の最初から太郎冠者以外の全員が知っており 、太郎冠者だけが 「みんながそれを知っていることを知らなかった 」のです 。なぜ 、そんなことが起こるのでしょう 。それは太郎冠者が主人を内心では侮っているために 、自分より愚鈍であるはずの主人に自分の下心が見抜かれているという可能性を認めるわけにゆかなかったからです 。主人は自分より愚鈍であって 「欲しい 」という太郎冠者の 「欲望 」が 、怜悧な彼の目をそこだけ曇らせたのです 。こうして 、 「 『太郎冠者が何ものであるかを主人は知っている 』ということを太郎冠者は知らない 」という構造的無知が成立することになります 。これが 「抑圧 」という機制の魔術的な仕掛けです 。この無知は太郎冠者の観察力不足や不注意が原因で生じたのではありません 。そうではなくて 、太郎冠者はほとんど全力を尽くして 、この無知を作り出し 、それを死守しているのです 。無知であり続けることを太郎冠者は切実に欲望しているのです 。」

    「構造的無知」も初耳。普段口にする「知っている知っていない」という意味ではなく、無意識に「知りたくない」という抑制が働き、自ら能動的に「知らない状態」を選んでいるということを指すのだろう。
    考えたいことだけを考えているということだ。
    通勤途中にあるポストの存在に数年経って始めて気付く(これは積極的認知対象ではないから)こともある。
    「構造的無知」はそれより一歩踏み込んで、何らかの意図が無意識に働き、積極的に意識から排除している状態だと捉えた。



    ・「構造主義」の始祖、ソシュール
    「名づけられることによって 、はじめてものはその意味を確定するのであって 、命名される前の 「名前を持たないもの 」は実在しない 、ソシュ ールはそう考えました 。」

    「もし語というものがあらかじめ与えられた概念を表象するものであるならば 、ある国語に存在する単語は 、別の国語のうちに 、それとまったく意味を同じくする対応物を見出すはずである 。しかし現実はそうではない 。 (略 )あらゆる場合において 、私たちが見出すのは 、概念はあらかじめ与えられているのではなく 、語のもつ意味の厚みは言語システムごとに違うという事実である 。」

    例えば、日本では羽を持ち飛翔する昆虫のうち、区別された「蝶」と「蛾」という二つの単語を持つ。しかしスペイン(?)語では、「羽を持ち飛翔する昆虫」を表す「パピヨン」という単語一つしかない。
    同様に日本にはないが、世界には名詞を「女性」と「男性」に区分する言語が存在する。
    つまり日本語を母国語とする私と、その他の言語を母国語にする他者とでは保有する単語(シニフィアン)が異なり、すなわち保有する概念(シニフィエ)そのものが異なるということだ。

    「英語では 、根を詰めて仕事をすることを 、 「重荷を背中に背負う 」 c a r r y a b u r d e n o n o n e ' s b a c kと言い 、熱心に働くことを 「背骨を折る 」 b r e a k o n e ' s b a c kと言います 。ですから 、英語話者は仕事のストレスを 「肩 」ではなく 、 b a c kに感じ取っている 、ということが分かります 。」

    使用する言語体系が違うと、働きすぎた時に痛みを感じる体の部位まで違ってくるなんて!
    負荷がかかるのは、日本語圏では「肩」だけど英語圏では「背中」なのだ。


    「ある語が持つ 「価値 」 、つまり 「意味の幅 」は 、その言語システムの中で 、あることばと隣接する他のことばとの 「差異 」によって規定されます。」

    「ソシュ ールは言語活動とはちょうど星座を見るように 、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて 、まとまりをつけることだというふうに考えました 。
    ある観念があらかじめ存在し 、それに名前がつくのではなく 、名前がつくことで 、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです 。」

    「ソシュールは 、私たちがことばを用いる限り 、そのつど自分の属する言語共同体の価値観を承認し 、強化している 、ということを私たちにはっきりと知らせました 。」

    「私がことばを語っているときにことばを語っているのは 、厳密に言えば 、 「私 」そのものではありません 。それは 、私が習得した言語規則であり 、私が身につけた語彙であり 、私が聞き慣れた言い回しであり 、私がさきほど読んだ本の一部です 。」

    「私が確信をもって他人に意見を陳述している場合 、それは 「私自身が誰かから聞かされたこと 」を繰り返していると思っていただいて 、まず間違いありません 。」

    つまり日本語を使う私が、私の意のままに喋っているつもりの時、日本語の言語規則により、日本語の語彙により、聞かされ続けた誰かの言い回しにより、好きな本たちにより、つまり属する社会構造により、喋らされているってことなのね。


    ・四銃士の一人、フーコー
    「政治権力が臣民をコントロ ールしようとするとき 、権力は必ず 「身体 」を標的にします 。いかなる政治権力も人間の 「精神 」にいきなり触れて 、意識過程をいじくりまわすことはできません 。 「将を射んとすればまず馬を射よ 」 。 「精神を統御しようとすれば 、まず身体を統御せよ 」です 。」

    「軍事的身体加工の 「成功 」 (西南戦争の勝利 )をふまえて近代日本は 、 「体操 」の導入に進みます 。
    国家主導による体操の普及のねらいはもちろん単なる国民の健康の増進や体力の向上ではありません 。そうではなくて 、それはなによりも 「操作可能な身体 」 、 「従順な身体 」を造型することでした 。」

    「権力が身体に 「刻印を押し 、訓育し 、責めさいなんだ 」実例を一つ挙げておきましょう 。一九六 ○年代から全国の小中学校に普及した 「体育坐り 」あるいは 「三角坐り 」と呼ばれるものです 。
    生徒たちをもっとも効率的に管理できる身体統御姿勢を考えた末に 、教師たちはこの坐り方にたどりついた
    竹内によれば 、戸外で生徒を坐らせる場合はこの姿勢を取らせるように学校に通達したのは文部省で 、一九五八年のこと」

    なんと、体育座りにそんな意図が込められていたなんて。従順なマインドは従順な体・態勢に宿るということか。権力者は「行動が思考を規定する」ことを熟知しているのだ。
    国家の思い通りに動く国民を増産するため、統制しやすい体づくりを教育課程に組み込んだということらしい。


    ・四銃士の一人、バルト
    「私たちの社会における 「自然な語法 」とは 、実は 「男性中心主義 」的な語法です 。それはあらゆる記号操作を通じて 、繰り返し男性の優位性と威信を語り 、政治権力と社会的 ・文化資源がもっぱら男性にのみ帰属することを正当化する 「ことばづかい 」である 、というのがフェミニズム言語論の主張するところ。
    知らず知らずのうちに 『男として読む 』ように訓練されてしまっているのではあるまいか ?テクストを支配しているのは男性主人公なので 、その男性中心的な見方に自己を同一化するようにと 、私たちは訓練されてきた 。男性主人公の見解が 、世界全体を見る基準であると 、私たちは思い込まされてきた。
    テクストのほうが私たちを 「そのテクストを読むことができる主体 」へと形成してゆくのです。」


    なんとも深遠だ。
    私が思考を深めるために、知恵や教養を身につけるために好んで読んできた「テクスト」は皆「男性中心的」な視点で書かれていて、読めば読むほどその視点が養われてきたということか。物事の見方が、男性主義的なものになっている?
    実感は伴わないけど。


    「村上龍はあるインタビュ ーで 、 「この小説で 、あなたは何が言いたかったのですか 」と質問されて 、 「それを言えるくらいなら 、小説なんか書きません 」と苦い顔で答えていましたが 、これは村上龍の言うとおり 。答えたくても答えられないのです 。その答えは作家自身も知らないのです 。もし村上龍が 「あの小説はね … … 」と 「解説 」を始めたとしても 、それは 「批評家 ・村上龍 」がある小説の 「解説 」をしているのであって 、そこで語っているのは 「作家 ・村上龍 」ではありません 。
    媒体からの主題や文体や紙数の指定 、同時代的な出来事 、他のテクストへの気づかいと競合心 … …それぞれのファクタ ーはてんでに固有のふるまいをします 。しかし 、それらが絡まり合って 、いつのまにか 「テクスチュア 」 ( t e x t u r e )は織り上がります 。これを前にして 「作者は何を表現するためにこれを織り上げたのか 」と限定的に問うことはそれほど意味のあることなのでしょうか 。
    テクストの統一性はその起源にではなく 、その宛先のうちにある 。」


    これも、「見たいものしか見ていない」「見たいように見ている」ということか。
    国語の問題で「作者は何を伝えたかったのでしょう」とよく問われるが、それも意味のない問いだと。読み手が感じたことが全てで、そこに作者の意図なんて極々わずかしか影響しない。仮に万感の想い・意図を込めて織り上げた作品だとして、読み手もその「想い」を何らかの場で知ったとしても、読み物として完成し手放した時点で、解釈の対象でしかなくなるのだ。「本当は」なんて意味がない。「込められた意図」ではなく、「与えた影響」が全てだという意味では、実存主義的か。


    ・四銃士の一人、レヴィ・ストロース
    「それぞれの社会集団はそれぞれの実利的関心に基づいて世界を切り取ります 。漁労を主とする部族では水生動物についての語彙が豊かであり 、狩猟民族では野獣の生態にかかわる語彙が豊かです 。
    「用語の抽象性の差異は知的能力によるのではなく 、個々の社会が世界に対して抱く関心の深さや細かさはそれぞれ違うということによるのである 。 」」

    「私たちは全員が 、自分の見ている世界だけが 「客観的にリアルな世界 」であって 、他人の見ている世界は 「主観的に歪められた世界 」であると思って 、他人を見下しているのです 。」

    属している社会構造によって世界の見え方は違う。関心を持つ対象もその深さも違う。
    私たちが考えていることは、社会構造により考えさせられていること。
    であれば、違う考えの人たちを「知的でない」なんて評価できるはずはない。傲慢になるな。各々の構造において必要な知性を身に付けているのだ。


    ・四銃士の一人、ラカン
    「私たちが忘れていた過去を思い出すのは 、 「聞き手 」に自分が何ものであるかを知ってもらい 、理解してもらい 、承認してもらうことができそうだ 、という希望が点火したからです 。だとしたら 、そのような文脈で語られた 「自分が何ものであるか 」の告白には 「自分が何ものであると思って欲しいか 」のバイアスが強くかかっているはずです 。」

    「全力を尽くして 、被分析者は自分について語っているつもりで 、むなしく 「誰かについて 」語っているのです 。 「その誰かは 、被分析者が 、それこそ自分だと思い込んでしまうほど 、彼自身に似ている 」だけなのです 。しかし 、それでよいのです 。
    ある病的症状がより軽微な別の症状に 「すり替え 」られたとしたら 、それは実利的に言えば 、 「治療の成功 」と言ってよいのです 。それが 「無意識的なものの代わりに意識的なものを立てること 、すなわち無意識的なものを意識的なものに翻訳すること 」というフロイトの技法なのです 。
    病因となっている葛藤が解決されるなら 、極端な話 、何を思い出そうと構わないのです 。精神分析の使命は 「真相の究明 」ではなく 、 「症候の寛解 」だからです 。」

    「分析主体が知るべきなのは 、自分の症候の 「真の病因 」などではありません 。そんなものはどうでもよいのです 。大事なのは 、この対話を通じて 、欲しいもの (いまの場合でしたら 、 「自分の成り立ちについてのつじつまのあった物語 」 )を手に入れるためには他者 (分析家 )を経由しなければならないという人類学的な真理を学習することなのです 。
    「お金を払う 」ことは非常に重要なのです 。なぜなら 、被分析者は分析家に治療費を支払うことで 、精神分析の診察室において 「財貨とサ ービスのコミュニケ ーション 」である経済活動にも参与することになるからです 。
    精神分析の目的は 、症状の 「真の原因 」を突き止めることではありません 。 「治す 」ことです 。そして 、 「治る 」というのは 、コミュニケ ーション不調に陥っている被分析者を再びコミュニケ ーションの回路に立ち戻らせること 、他の人々とことばをかわし 、愛をかわし 、財貨とサ ービスをかわし合う贈与と返礼の往還運動のうちに巻き込むことに他なりません 。」

    カウンセリングの目的は症状を発生せしめた「原因」を特定することではない。「思い出」そうとするうえで一連の対話を交わし、自分に施された「治療」に対価を支払うことにより、ある意味ではこころを軽くし、そして大切なことに人間世界で言葉や財産を交換(コミュニケーション)できる状態に回復させることだ。良く生きるうえで必要なことに、巻き込むことだ。
    だから、思い出す内容は何だっていい。患者の勘違いでも作り話でもいい。「自分をこう見せたい」という健やかな欲望のもと、目の前の相手と言葉を交換し、価値を交換し合う過程にこそ意味がある。


    「人間の 「社会化 」プロセスこそ 、 「エディプス 」と呼ばれるものなのです 。
    「エディプス 」とは 、図式的に言えば 、子どもが言語を使用するようになること 、母親との癒着を父親によって断ち切られること 、この二つを意味しています 。これは 「父性の威嚇的介入 」の二つのかたちです 。
    「父 」は子どもと母との癒着に 「否 」 ( N o n )を告げ 、 (近親相姦を禁じ ) 、同時に子どもに対して 、ものには 「名 」 ( N o m )があることを (あるいは 「人間の世界には 、名を持つものだけが存在し 、名を持たぬものは存在しない 」ということを )教えるのです 。
    子どもが育つプロセスは 、ですから言語を習得するというだけでなく 、 「私の知らないところですでに世界は分節されているが 、私はそれを受け容れる他ない 」という絶対的に受動的な位置に自分は 「はじめから 」置かれているという事実の承認をも意味しているのです 。
    この世界は 「すでに 」分節されており 、自分は言語を用いる限り 、それに従う他ない 、という 「世界に遅れて到着した 」ことの自覚を刻み込まれることをも意味しています 。」


    子どもに対する「父性的」役割の一つは「言葉を教えること」。これは、世界の切り取り方を教えることであり、子どもが生まれた時点ではすでに決まってしまっている「世界の分節」を(理解出来る、出来ないに関わらず)(納得出来る、出来ないに関わらず)そのまま有無を言わせず受容させることである。
    その意味で「父性」は権力的で威圧的で一方的だ。
    この、「理不尽を受け入れる作業」を子どもたちがすんなり遂行できるよう、世界のあちこちで誕生し、語り継がれてきた「物語」がその背中を押している。
    『こぶとりじいさん』も役立つ一作だ。
    鬼の前で同じくらい下手くそに踊りを披露したお爺さんの、一方はコブをとってもらい一方はコブを増やされた。
    物語ではその理由が説明されていないのだ。極めて理不尽だ。だけど私たちはどうにかすんなり受け容れている。

    「実は 、この物語(こぶとりじいさん)の教訓は 「この不条理な事実そのものをまるごと承認せよ 」という命令のうちにこそあるのです 。この物語の要点は 「差別化 =差異化 =分節がいかなる基準に基づいてなされたのかは 、理解を絶しているが 、それをまるごと受け容れる他ない 」と子どもたちに教えることにあります 。
    彼らの仕事は 、この世には理解も共感も絶した 「鬼 」がいて 、世界をあらかじめ差異化しているという 「真理 」を学習することです 。それを学び知ったときはじめて 、 「子ども 」はエディプスを通過して 「大人 」になるからです 。」

    私たちは、「日本語になぜ一人称が多く存在するのか」「日本人が保有する単語にはなぜ性別の違いがないのか」「日本にはなぜ羊と羊肉を区分する概念がないのか」と疑問を持つ前に、その理由を知る前に、それに納得する前に、「日本的構造」に属せられ、その構造により世界を見させられ言葉を発っせさせられる。
    諦めでも自棄でもなく、「私は日本語を母国語にしているから、その枠組みで世界を見ている」という事実を、事実として分かっておくことだ。一から十まで自らが選び取ることができるわけではなく、属している社会構造により予め規定されている「理不尽」をまずは一旦受け容れるところからだ。それは同時に「私はとんでもなく偏っている」し、「私はとんでもなく主観的に物事を見ている」ということを意味する。


    「ラカンの考え方によれば 、人間はその人生で二度大きな 「詐術 」を経験することによって 「正常な大人 」になります 。一度目は鏡像段階において 、 「私ではないもの 」を 「私 」だと思い込むことによって 「私 」を基礎づけること 。二度目はエディプスにおいて 、おのれの無力と無能を 「父 」による威嚇的介入の結果として 「説明 」することです。」

    分かるような分からないような。。



    ・あとがき
    哲学の一端を覗き見するうえで、著者の分かりやすい解説に何度も助けてもらった。
    あとがきのこの一節はそのことを象徴する書きっぷりだ。

    「レヴィ =ストロースは要するに 「みんな仲良くしようね 」と言っており 、バルトは 「ことばづかいで人は決まる 」と言っており 、ラカンは 「大人になれよ 」と言っており 、フ ーコ ーは 「私はバカが嫌いだ 」と言っているのでした 。
    人と仲良くすることのたいせつさも 、ことばのむずかしさも 、大人になることの必要性も 、バカはほんとに困るよね 、ということも痛切に思い知らされ 、おのずと先賢の教えがしみじみ身にしみるようになったというだけのことです 。」

    よくぞここまで言い切った!と感じると同時に、
    「そうか、きっと何年か経って読み直すともう少し理解できるのかもな。」と心が軽くなった。
    そうだ。だって私は、無意識のうちに自らの興味領域を決めてしまっているのだから、その領域が自ずと広がったタイミングでこれを読めば、今気付けなかったことに容易に気付くかもしれない。それに私は、属する社会構造の枠組みで世界を見ているのだから、少しずつ変化する社会構造に適応していく過程で、ピックアップできる内容や考えを深め言葉にできるテーマも変わってくるのだろう。

    まんまと「構造主義」にハマっている。





  • 平成が始まったばかりの頃、学生の私は先輩に勧められて「構造主義」の本を読んだ。

    平易に書かれていたであろうその新書は、当時の私には難解だった。

    ただ、現代の思想の最先端といわれる構造主義ってなんだろう?
    その問いかけだけは、自分の中に残り続けた。

    「大人のための読書の全技術」(齋藤隆)の「社会人が読んでおくべき50冊」の中の1冊で、この本を見つけた。
    同窓会で、優秀な先輩に出会ったかのような感覚がした。

    著者は語る。
    「専門家のための解説書・研究書はつまらない。入門者のためのそれは面白い本に出会う確率が高い」と。
    それは、知らない人のためにわかりやすく本質的なことを伝えようと努力するからだ、とも。

    では、私たちはあることをなぜ「知らない」のか。
    それは、「知りたくないから」。「自分があることを『知りたくない』と思っていることを知りたくない」からだ、と。子どもが親の説教をシャットアウトするように。

    「寝ながら学べる」とのタイトル通り、近現代の難しい哲学的課題をわかりやすく伝えることに見事に成功している「敷居の低い」一書。

著者プロフィール

うちだ・たつる 1950年東京生まれ。武道家(合気道7段)。道場兼能舞台兼私塾「凱風館」館長。神戸女学院大学名誉教授。翻訳家。専門はフランス現代思想史。東京大学文学部卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。ブログ『内田樹の研究室』。



「2019年 『そのうちなんとかなるだろう』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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