唯幻論物語 (文春新書)

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (212ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784166604555

作品紹介・あらすじ

「本能が壊れた動物である人間は、現実に適合できず、幻想を必要とする。人間とは幻想する動物である」。知的刺激に満ちた、この"唯幻論"は、どのようにして生まれたのか-。物心ついたときから、奇妙な強迫神経症に悩まされてきた著者は、フロイドの精神分析に出会うことで、その正体を探ろうとする。そして、一見、幸福な親子関係に潜んでいた自己欺瞞、母親の「愛情」こそ、神経症の原因だった…。人間という存在の不可思議さに瞠目させられる一冊。

感想・レビュー・書評

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  • 唯幻論が生まれた背景が分かる本だが、母親に対する自分の気持の分析よりも史的唯幻論の説明の方が断然面白い。
    最終章だけでも読む価値あると思う。
    ■本能が壊れた人間は、本能の代わりにじがを築き、
     自我を守るという形で辛うじて個体保存を確保せざるを
     得なくなった。
    ■マゾヒストの動物もサディストと動物もいないのに
     人間は自我を守るために自殺することもある。
    ■個人の人格構造と集団の社会構造
    ■集団的自我

  • わたしの印象だとこの人もうちょっとやれたんじゃないかなと。にしてもここまで現実と対峙しようって人がいることにちょっとエネルギーもらいました。その諦めの勇気に泣きましたw

  •  子が親から受ける被害には、欺瞞による主として精神的な虐待がある。親は、自分の目的のために子を必要としているのであるが、そのことを自分にも子にもかくして、自分は子を愛し、子のために尽くしていると思っている。
     放漫さは卑屈さに対する反動形成であり、卑屈な者のみが放漫になるのである。放漫な者が放漫であり得るのは、相手が卑屈であり得ることを前提としており、そのことが予想できるのは、自分の化に卑屈な面があるからである。放漫な者は自分に卑屈に屈従してくるものを必要としており、必要としていながら彼をやけに軽蔑するが、それは自分の卑屈な面への自己軽蔑を逸らしているのである。自分の中に卑屈な面がない者は、相手が卑屈になる可能性を思いつかないので、自分が放漫になることも思いつかないのである。

  • 義母の自分への扱いが自分の精神的な屈折、以上へと導いた。事故分析的に見る

  • 人間は本能が壊れ幻想に生きる動物である、とする「唯幻論」を唱え、1980年代思想界の注目を集めた岸田秀。心理学、精神分析学的な手法で文明批評を行う思想家、エッセイスト。

    本書は彼の唯幻論に対する批判に応える、といった趣旨で、彼が唯幻論を唱えるにいたった経緯、彼の個人的なトラウマや自己分析の歴史を告白する、といった形になっています。
    最終章の「史的唯幻論」までは、親子関係の破綻に起因する神経症を、いかに精神分析、自己分析によって解決したかを語っている。本当に本当に最終章、楽しかった。明確にまとめられていて理論自体も本当に興味深く、惹き付けられるもので。ですが、それまでの部分は正直しんどかった。同じことを繰り返す感じ(著者自身消化しきれてない感じ)、すこし違和感を感じるような一文の長さ(強迫的、執着を感じてしまうような)、そういう文章の癖が、もう悲鳴のように思えてならない。自分という人間の根本に向き合い、突き詰めることで「唯幻論」というユニークな理論を生み出すにいたったのだと思いますが、それまでの過程で本当に苦しんだのだろうな、と思った。まあ本気で自分に向き合う、という作業が簡単に出来るものであるはずもないのだけど。

    精神分析、は、人間理解の方法であると。多くの人との関わりの中で生きて、理解し合ったり誤解し合ったりしていて、人間を理解したいという願望になんとか応えようとする学問体系としての精神分析。非常に興味深い。

    「 他者を足場にして初めて、堂々巡りする自己中心的な自己観察がいくらか客観的な自己分析となる。 」
    自分について考える、自己分析を行うためには他者の視点が必要不可欠であり、つまり自己分析を行うことは世の中を洞察することに繋がるのだなあ。行動、趣向、自分の根本を問いただす、という作業を、わたしもぜひきちんとしていきたい。
    「観念や思考は文字にしないと、そして、しばらく時間が経ってからでないと、客観視できないのである。 」
    だよねだよねーーブクログを活用します!

  • 『自由は必然性の自覚だ』

  • わかりやすかった
    人間は本能が壊れた動物であるため現実を見失った。いいかえれば内側の本能と外側の現実の間に溝ができた。このままでは人間は不適応になって滅びてしまうので、人間は精神を発明し論理に基づいて精神を構造化した。その精神の橋渡し作用の失敗例が神経症や、その他の精神病である。精神は論理に基づいて構成されるが、その論理はその人間が属するある文化の中において正しい論理に基づいて構成されるため、文化が変わったりすればズレを感じ、精神が破綻することもある。

    生きていくためには幻想を必要とする。人間は自我を守るために生きている。

    神経症の具体例
    現実感覚の不全:「情熱的な」インチキ恋愛、侮辱された時に感じる「殺人的な」すさまじい怒り、いかがわしい卑屈な「過剰サービス」
    どのような観念もそれ自体として神経症的であるとか、病的だとか、正常だとかということはなく、同じ観念が自我から排除されていれば神経症的で、自我に組み入れられていれば正常。自我にとって異物だから排除されるのではなく、排除されるから異物になるのである。

  • 岸田秀が、幼児期からの母親との関係が原因で神経症になったことは、すでにあちこちで本人が書いており、岸田の読者にはよく知られた事実だ。しかし、こうして書き下ろしの本で詳しく読むと、そこから癒されようとして彼がたどった道に、学ぶべきものが多くあることを改めて感じる。

    精神分析は、ある観念からその真の根拠を切り離し、真の根拠を無意識へと抑圧すると、意識に残ったその観念は強迫的になるという。ある観念を打破するには、その根拠を現実的または論理的に崩せばよいのだが、真の根拠は無意識に抑圧されているので、意識の判断では手が届かず、したがって崩しようがない。したがってその観念は、頑固で不合理で動かしがたく思え、「強迫」観念として立ち現れるということだ。

    だから意識のレベルでの自己観察では、無意識に抑圧されたところまで深まる自己分析は難しい。そこで岸田は、日常生活における他者との関係に助けを借りたという。たとえば、特に、激しいショックを受けたとか、猛烈に癪に障った非難は、自分が否定したがっている無意識的コンプレックスの的をずばりと射ていることが多く、貴重な資料になったという。

    また、これはよく言われることだが、とくに理由もないのに、ある人が嫌いだとか虫唾が走るという場合は、自分が否認し抑圧している自分のある面をその人に投影している場合が多い。嫌なやつには自分が映っている。

    さらに、ある物語に非常に強く心を動かされたり、かき見出されたりした場合、その物語は自分の何かのコンプレックスの傷口に触れていると考えられる。

    このように自分の無意識は他者の眼、他者の行動、他者の鏡、他者の物語を介して見えてくる。他者を足場にして初めて、堂々巡りをする自己中心的な自己観察がいくらか客観的な自己分析となるという。岸田自身が、こうした他者を契機とした自己観察によってよって、抑圧を自覚していったのである。

    これはこれで参考になるが、もし岸田と話す機会があったなら、ヴィパッサナー瞑想はサティとラベリングという方法によって意識のおよばない抑圧に気づいていく方法だが、これについてどう思うかと訊いてみたいと思った。

  • 岸田秀二冊目にして、初嫌悪。
    ちょっと文句言われたからって、本で仕返ししなくても…なかなか執念深くて私みたいな人なんだねきっと。
    でも、そうか、そうだったのか、と、肩を叩きたくなることうけあい。

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著者プロフィール

精神分析者、エッセイスト。1933年生まれ。早稲田大学文学部心理学専修卒。和光大学名誉教授。『ものぐさ精神分析 正・続』のなかで、人間は本能の壊れた動物であり、「幻想」や「物語」に従って行動しているにすぎない、とする唯幻論を展開、注目を浴びる。著書に、『ものぐさ精神分析』(青土社)、「岸田秀コレクション」で全19冊(青土社)、『幻想の未来』(講談社学術文庫)、『二十世紀を精神分析する』(文藝春秋)など多数。

「2016年 『日本史を精神分析する』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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