私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)

  • 文藝春秋 (2006年7月20日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (248ページ) / ISBN・EAN: 9784166605194

みんなの感想まとめ

ユダヤ人とその文化を深く考察する本書は、反ユダヤ主義の根源やユダヤ人の特異性についての問いを探求しています。著者は、ユダヤ人が歴史的に受けてきた迫害や異化の過程を通じて、彼らが持つ独自の思考体系や革新...

感想・レビュー・書評

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  • 内田樹選集 - 内田樹の研究室(2024-11-08)
    http://blog.tatsuru.com/2024/11/08_0647.html

    小さな始点と大きな終点 『私家版・ユダヤ文化論』 (内田樹 著) | 書評 - 本の話(2006.07.20)
    https://books.bunshun.jp/articles/-/1652

    『私家版・ユダヤ文化論』(文藝春秋) - 著者:内田 樹 - 鹿島 茂による書評 | 好きな書評家、読ませる書評。ALL REVIEWS(毎日新聞 2006年9月17日)
    https://allreviews.jp/review/1094

    『私家版・ユダヤ文化論』内田樹 | 小林秀雄賞 | | 連載 | 考える人 | 新潮社(2007年10月4日)
    https://kangaeruhito.jp/article/960

    『私家版・ユダヤ文化論』脱稿 - 内田樹の研究室(2006-03-29)
    http://blog.tatsuru.com/2006/03/29_1004.html

    マルクスとフロイトとウディ・アレンの共通項『私家版・ユダヤ文化論』内田樹 | 文春新書
    https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166605194
    ーーーーーーーーーーーーー
    読み終えた時にイラっとなっったが、その時は、それだけ深い傷なんだと納得させた気がする。
    でもイスラエルは許せない。

  • ユダヤ人迫害の根底にある問題について考察している本です。

    本書では、日本における「日猶同祖論」やヨーロッパにおける反ユダヤ論の言説が紹介されていますが、それらの歴史を実証的に解説することが目的ではなく、「反ユダヤ主義には理由があると信じている人間がいることには理由がある。その理由は何か」という問いを掘り下げることがめざされています。

    その結論は、フロイトの議論を援用しつつ「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していたから」というものですが、著者自身がくり返し述べているように「分かりにくさ」があります。著者が社会的構成主義の言説に対してその〈起源〉への問いを投げかけているところに、本書を理解する手がかりを見いだすことができます。著者は、「父権制的な社会慣行が「男性/女性」というジェンダーを作りだした」という「構築主義的言明」に対して、「男性に社会的リソースを集中させるための抑圧的構築物である父権制社会が成立するためには、それに先立って性差がすでに有意なものとして意識されていなければならない」のではないかと問いかけます。このような問いかけは、「ユダヤ人は反ユダヤ主義者が作り出したものである」というサルトルの議論に対しても向けられています。すなわち、「なぜ他ならぬユダヤ人だけが、このような出口のない状況にあらゆる時代あらゆる場所で繰り返し追い込まれるのか」という〈起源〉への問いに、サルトルはこたえていないと著者はいいます。

    こうした問いに対して著者は、ユダヤ人思想家であるレヴィナスを参照しつつ、ユダヤ思想のうちに〈起源〉への遅れという主題があることを指摘することで、こたえを示そうとします。われわれはみずからの〈起源〉に対して決定的に遅れてしまっており、それゆえに有責であるという発想が、ユダヤ人の神に対する信仰を支えており、ユダヤ人への迫害はそれを「反復」することにおいてみずからをかたどっているのだということができるでしょう。著者は「私たちがユダヤ人について語る言葉から学ぶのは、語り手がどこで絶句し、どこで理路が破綻し、どこで彼がユダヤ人についてそれ以上語るのを断念するか、ほとんどそれだけなのである」と結論しています。

  • このヒトについては以前からHPやコラムを読むたびに気になっていて、いつかはマトモに読まなきゃ、と思っていたのだけれど、ご本業からはちと外れた(つまり「マトモ」ではない)これから読み始めて改めてその感を強くした。

    ユダヤ人を「異化」することはキリスト教文化の歴史において恒常的にあったことであり、それはその文化の洗礼を受けた日本においても硬軟両面であったことだ。

    でも実際「ユダヤ」とは何なのか、という問いに対して明確な回答はどこにもない。

    著者は「ユダヤ人」がなし得てきたことに対し、ひとつの共通点を見いだす。それは常にinnovativeであった、ということだ。そしてさらに彼ら自身にとってはそれこそがまさに「恒常的」なことであり、その状態が非ユダヤ人にとっては「異」なるものに写るのではないかと推測する。

    これはとても説得力をもった仮説の設定だった。
    ユダヤ人はよく「十人のユダヤ人がいればそこには十一の意見がある」と言う。それはつまり、彼らにおいてはどんな意見に対しても(たとえ自分の意見に対しても)必ず何らかのアンチテーゼが存在し、常に自分の態度すら疑う姿勢がある、ということを意味する。

    であれば、何らかの理念なり意見に安住してしまうよりも、innovationの生まれ得る可能性は高いだろう。

    ではどうして彼らがこのような思考体系を持つに至ったのか。それは常に彼らが「異」であることを周囲から意識させられ続けてきたからではないだろうか。

    ステレオタイプ的な反(親)ユダヤ論に、一石を投じる書物だと思う。

  • 面白いっ!

    哲学界の翁、内田樹による
    「私家版」ユダヤ文化、ユダヤ人論。

    卓越した知力と教養を身につけ、
    政界、財界、芸術界とありとあらゆる
    世界でトップに栄えるユダヤ人。

    しかしその歴史は、
    受難と迫害の歴史である。

    そもそも「ユダヤ人」とは何者か。
    なにゆえに彼らは、これほどの知性を身に着けたのか。


    -ユダヤ人たちが民族的な規模で開発することに成功したのは、「自分が現在用いている判断枠組みそのものを懐疑する力と『私はついに私でしかない』という自己繋縛性を不快に感じる感受性」である-

    -「選びは特権から構成されているものではない。それは有責性によって構成されている」-

    -ユダヤ人は自分がユダヤ人であることを否定するわずかによけいな身ぶりによって、自分がユダヤ人であることを暴露する存在として構造化されている-

    -『たしかに、おまえは一個の自我である。たしかに、おまえは始原であり、自由である。しかし自由であるからといって、おまえは絶対的始原であるわけではない。おまえは多くの事物、多くの人間たちに遅れて到来した。おまえはただ自由であるというだけではなく、おまえの自由を超えたところでそれらと結びついている。おまえは万人に対して有責である。だから、おまえの自由は同時におまえの他者に対する友愛なのだ。』-


    「ユダヤ人」をテーマに人間を、神を、宗教を、哲学を
    鋭くえぐり出す内田樹の傑作。

    決して読みやすい本ではないが、
    構造主義の基本を抑えている方であれば
    ぜひぜひ手にとって欲しい一冊。

  • 私が最近、自分の中で消化しようとしているキーワード「責任」「(ひとつの)原因」ということがわかりやすく書かれていた面もあったが、その何倍もわからないことを畳みかけられてさらに消化不良になった気もする。

    わからないことがあるのは素晴らしい、と考えることにする。

    ●要するにこういう本
    内田樹が思うユダヤ人がユダヤ人たるゆえんを歴史をなぞりながら確認する本

    ●気になったところ
    ・夫に勧められて読んだが、「まえがきからしてしびれる」と聞いていた。ユダヤ人がなぜ迫害されるのかを考える際、「ユダヤ人が迫害されたのには理由がある」と主張することは、政治的に正しくない。かといって、その思考を放棄すると「人間はときに愚鈍で邪悪になる」という結論しか見いだせなくなり、そこから何も進まない。ユダヤ人を師と仰ぐ著者は「ユダヤ人が迫害されるには理由がある、と信じる人が生まれるには理由がある」という問いにすり替えてこの問題を解こうというのだ。さぞかし長い前書きかと思ったら、ほんの3ページだった。問いを変えることにより、「ユダヤ人が迫害されるのには理由がある」という事実を認めないままに、思考を止めずに考え続けることができるということだ。

    ・ユダヤ人は「ユダヤ人を否定しようとするもの」に媒介されて存在し続けた、という記述(P.36)。私は、ユダヤ人がこんなにも定義しづらいものだとは知らなかった。しかし「ユダヤ人を否定しようとする」ものがいる限り、ユダヤ人を定義しなくてはならないということはわかる。「私たちはユダヤ人を語るときに必ずそれと反らずに自分自身を語ってしまうのである」と傍点を付けられて書かれていた。それは後のほうにも出てくる。

    ・「一つの結果には必ず一つの原因があるという命題は正しくない(p.100)」ということは、言われればそうだとわかるが、言われるまでそう思えない自分がいた。これは夫にも指摘されていたがようやく腑に落ちた感がある。「満たされたコップに1滴を落としてコップがあふれたとき、最後の1滴がただ一つの原因だ」とは誰も思わない、と例示されていた。その通りだ。私たちは時に「自分がこんな風になったのは親がこうだから」なんて思ってしまったりする。実際、「毒親」などという言葉によってそれが行われたりする。でも、そんなことはない。だが、「1つの結果に1つの原因がある」という考え方が、ユダヤ人を悪者にした。著書には「陰謀史観」という言葉で書かれていたが、この後に、あらゆることが知性の高いユダヤ人によって仕組まれたものだという主張がまかり通る時代のことが書かれる。この本で私が手に入れるべきは、「一つの結果には複数の原因がある」を直観的にわかることだった。ユダヤ人のことが書かれているこの本は、生き方や考え方を教えてくれる。

    ・反ユダヤ主義を掲げる人には「いいやつ」が多かった、という(P.105)。それは著者が反ユダヤ主義を語る本を読むにつれ、そう感じざるを得ない場面に多く出くわしたというのだ(P.154)。そんなことを掲げるやつは悪党に違いないと勝手なイメージを持ってしまうが、そうではない。人望があって、頭がよくて、人のためを思う人が、反ユダヤ主義という考え方に染まってしまう。これも考えてみると意外ではないが、直観的にはそう思えないことの一つ。悪いことをするやつだからといって、性根の悪いやつというわけではないのだ。つまりどんなに賢い人でもハマりうる罠だと思っていいのだろう。

    ・ダーウィンは、自分の理論に合致しない事実を必ずノートに記していた、という(p.110)。さすが賢い人はやることが違う、と感じた。人は、自分の理論に合致しないものをよけて法則を作ってしまいがちだ。「仕事ができる人は漏れなくレスが早い」みたいなことを言う人を私は信じないのだが、そういう人は本気で思っているのだろう。レスが遅くて仕事できる人の例を勝手に記憶から除外しているのだろう。

    ・ドリュモンという人の反ユダヤ主義を書いた『ユダヤ的フランス』という著書が売れたのは、古き良き時代はよかった、とする「懐古趣味」にあった、と説いている(P.122)。自分的にはあまり好まないかもしれないが「あの頃はよかった」とする手法は何かをヒットさせるときによいのかもしれない、とメモメモ。さらに、『ユダヤ的フランス』はすべてをユダヤ人の策略だとする「すべてを説明する物語」で、それを求めていた人(モレス侯爵)にドンピシャにハマったのだそうだ(P.134)。モレスは事業を大きくしたのちに失敗した。そういう挫折にひとつの原因が与えられたら、さぞかしカタルシスを感じるし、その説に身をゆだねたくなるだろうと思った。何かのせいにするのは危険だ。心を改めたい。

    ・「話のつじつまが合いすぎる」のは、読者にとっての印象が薄い、と書かれていた。輪郭が滑らかだと記憶に留まらない、と。だから、ユダヤ人についてわけの分からないことを書きたかった、というのだ(P.160)。読んでいるときには気づかなかったが、ここにこう書いてみて、前述の「すべてを説明する物語」はあまりにつじつまが合う話ではなかったか、と思ったのだがどうだろう。それが熱狂的に人に受け入れられたのだ。そこには矛盾があるような気がする。とはいえ、つじつまが合わないことが記憶に残る、ということも大いにありうる。私は自分の中でまだ決着がついていないことがらをよく文章にするが、それはやはり後で読み返しても生々しさを感じる。決着がついた「つるり」とした論説は、自分で読みなおしても手触り感がない。自分の文章を書く時には、つじつまのあわないこと、まだ考えに決着がついていないことを書くように心がけてみようかと思った。

    ・著者が「決して忘れることの種類のことば」と称していたものの羅列をメモ(P.160 )。「世界と君との戦いにおいては、世界を支援せよ」「私が語っているとき、私の中で語っているのは他者である」「私たちは欲するものを他人に与えることでしか手に入れることができない」という言葉が紹介されていたのでググろうと思ったのだった。

    ・「そこに存在しない社会集団に対する幻想的な同一化と恐怖」が政治的に活発化することはありうる。それは日本の歴史を見ても明らかだという(p.168)。アメリカを中心とした陰謀論はこういうことなのかもしれないと思った。

    ・トーブというユダヤ人が、21世紀中ごろの北米における反ユダヤ主義の激化を予測しているという記述があった(p.170)。トランプを中心に発生している陰謀論がその火種になるのだろうか……と恐怖心が止まらない。

    ・ユダヤ人がイノベーターであることについて、「継承されてきたある種の思考の型」があるのだろうという(P.175)。それは、「自分が現在用いている判断枠組みそのものを懐疑する力と『私はついに私でしかない』という自己繋縛(けいばく)性を不快に感じる感受性」だと書かれている(p.178)。何のことやら……という感じだ。p.180で、すこしだけ別の言葉に言い換えている「自分が判断するときに依拠している判断枠組みそのものを懐疑すること、自分が常に自己同一的に自分であるという自同律に不快を感知すること」。前者はわかるが後者は難しい。これがなぜイノベーティブにつながるかというと、ユダヤ人にとっての普通を、非ユダヤ人は「イノベーティブ」とみなしているからだ、という(p.179)。この理屈は理解できるが、それだけでは説明がついていないような気がした。私が何とかイメージした解釈としては、ユダヤ人として生まれた人が、自分の血筋が何の根拠なく迫害されてきたという事実を知ったとき、そこに何度も「なぜ」を投げかけるだろうことは容易に想像できる。さらに、そこには明確な答えがないわけだ。そういうさだめを持って生まれてくること自体が、ユダヤ人的思想を作り上げているということなのだろうか。

    ・ユダヤ人は、非ユダヤ人よりも世界の不幸を多く受けなくてはならなくて、神はそのためにユダヤ人を選んだ、という(p.187)。さらにユダヤ人は、時間の捉え方が逆なのだという。人は罪を犯したから有責なのではなく、罪を犯す前から有責である、という(p.218)。この辺りどんどん難しくなっていくが面白さも同時に止まらない。さらに、ユダヤ人は「遅れて到来した」と書く(p.224)。このあたりもまたわからない。わからないままにどんどん進み、「神はなぜ悪しきものを罰さないのか」というのは幼児の問いだとバッサリと書く(p.225)。「すべての責任を一身に引き受けるような人間の全き成熟を求める」というのが、著者が師と仰ぐレヴィナスの主張だという(p.228)。責任をそこまで大きくとらえるのがユダヤ人の本質なのだとしたら、それは非ユダヤ人には到底かなわないものなのかもしれない。

    ・もうひとつ「私たちは愛する人間に対しさらに強い愛を感じたいと望むときに無意識の殺意との葛藤を要請する」と書かれていたのが印象的だった(p.211)。葛藤があるほうが、葛藤のない時よりも欲望が亢進するからだそうだ。恋愛において、ハードルがあるほうが燃え上がるというのはロミオとジュリエットに見て取れる。不倫もそうだろう。もっと愛したいと渇望するとき、自分の中に殺意を生み出してしまうのだそうだ。これがなぜユダヤ人との話に関係するかというと、反ユダヤ主義者はあまりに強くユダヤ人を欲望していた、なのだそうだ(p.212)。このあたりもまあ、よく理解できない。

  • 初めて読んだ『下流志向』に衝撃を受けて以来、
    ブログやTwitterをフォローして、少しは読み慣れていたはずだった“内田樹”文体だけれども‥冒頭からまたまた打ちのめされる。わかった気になってはいけないのだ、という事だけがかろうじてわかる‥ような。それでも読書会の課題本だったので、行きつ戻りつしながら読了。
    「新書版のためのあとがき」には、本書が「わかりにくい」大きな理由は、ユダヤ人が読んだときにも「わかる」ように書いているから」とある。なるほど‥安易にわかったつもりにならず、この先何度でも読み返せばいいのかもしれない。

  • エアレボリューション「反ユダヤ主義を再考する」https://www.youtube.com/watch?v=QNdNsuR6GHcが契機。
    とりあえず通読。

  • よくわからない。

  • 著者は神戸女学院大学教授で、有名な内田樹さん。ユダヤ人というのがなんだかよくわからず、”日本人"や"アメリカ人"等と並べるものではないと理解しつつもよくわからずもやもやしていたが、"私がみなさんにご理解願いたいと思っているのは、「ユダヤ人」というのは日本語の既存の語彙には対応するものが存在しない概念であるということ"という説明で、自分の中に概念がないものであるため理解が難しいということがわかり少しすっきりした。全般的にやや難しい。

  • 資料

  • 映画「オフィサー・アンド・スパイ」を見て思い出したように本棚から引っ張り出して再読しました。本当に読んだのかと自分でも疑うくらい覚えてなくて愕然としました。でも改めて読んでみて覚えてない理由がわかりました。それはこの本に登場する19世紀の反ユダヤ主義者なんて日本ではまったく馴染みがないし、当時のフランスの社会状況についても無知なので理解できないのは当たり前なのでした。今回じっくり読み返してみてその辺の情報も理解が深まり、ユダヤ問題の複雑さはよくわかりましたがやはり難しい。難しいだけで片付けたくないけどそれ以上言葉がつづかない自分がいます。ただ終章で「存在するとは別の仕方で触れてくる」という表現で暴走ぎみに考察していくのはすごいと思いましたし、自分の脳をグラグラ揺さぶられたようでもうお手上げでした。

  • ユダヤ人とはユダヤ教を信仰する人々であり、ローマ帝国時代から常に迫害され、忍耐と知性で自衛してきた。国民国家が成立していった19世紀、自身の国を持ちたいというシオニズムも起こり20世紀前半それの反動で弾圧され(迫害するのが普通の教養人であったことも悲劇的)ホロコーストにまで至り…。未来にも迫害はあるだろう、それが民族の終わり=神の意志かもとまで彼等は覚悟している。 0.2%の人口で、ノーベル賞の2割を得た民族の知的優位はいかに形成されたのか。考察は、ついには知性そのものがユダヤ人の発明かとまで展開していく

  • ・「日本人はユダヤ人という概念を手に入れることによって、何を手に入れようとしたのか?」
    明治期の「日猶( にちゆ )同祖論」を通じて日本人が手に入れようとしたのは、「聖史的=霊的長子権」ゆえの受難という「物語」であった。この「物語」によって日猶同祖論者たちは世界史的な通明性がある( ように彼らには信じられた )「血統神話」を手に入れた。大正期の近代反ユダヤ主義を通じて日本人は陰謀史観という「閉鎖系の政治学」を手に入れた。

    ・産業革命後、フランスがすさまじい勢いで近代化を遂げつつあるそのただ中で、ドリュモンは歴史の流れを逆行させるような物語を紡いでみせた。『ユダヤ的フランス』のマスセールスの最大の理由は読者の琴線に触れるこの懐古趣味にあった。私はそう考えている。
     そこに伏流しているのは、変化すること進歩することへの恐怖である。奇妙に聞こえるのを承知で言えば、未来の未知性に対する恐怖である。中世とあまり変わらない生活をしていた人々がわずか1・2世代の間に、現代と地続きの近代社会に投じられたのである。そのときの不安と困惑がどれほどのものか、その実感を私たちが想像的に追体験することはたいへんに困難である。

    ・反ユダヤ主義者はどうして「特別の憎しみ」をユダヤ人に向けたのか?どうしてそれは「特別の」と言われるのか?
    それは「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していたから」

    ・ユダヤ人は「すでに名指され」「すでに呼びかけられたもの」という資格において( レヴィナスの術語を借りて言えば「始原の遅れ」を引きずって)はじめて歴史に登場する。
    そのつどすでに遅れて登場するもの。
    この規定がユダヤ人の本質をおそらくどのようなことばよりも正確に言い当てている。そして、この「始原の遅れ」の覚知こそ、ユダヤ的知性の( というより端的に知性そのものの )起源にあるものなのだ。

  • 「遅れてきた者」、この考え方に目を開かされました。視界が広がった感じがします。

  • 先日ポーランドとチェコに行き、クラクフとプラハにあるユダヤ人街を訪れた。
    日本ではあまり見かけない(私が意識していないだけかもしれない)が、ヨーロッパや東南アジアなど移民が多い国には「中国人街」や「インド人街」が至るところに存在する。
    しかし「ユダヤ人街」は聞いたことがなかったし、どのような雰囲気なのか想像すらできなかった。ガイドブックにも載っていて定番の観光地らしいが、実際足を運んでみる
    と人通りは少なく、見たことのない文字の看板が並び(おそらくヘブライ語)、それまでいた街より温度が低い気がした。
    そういえば、ミラノに住んでいた頃通っていた小学校の目の前にはユダヤ人学校があった。なぜかユダヤ人学校の前には常に大きな銃を持った警官がいた。当時住んでいた学校の近くのマンションにはユダヤ人も住んでいたが、話したこともなければ挨拶をした記憶もない。幼いながらユダヤ人には特別の事情があるのだと感じた。
    「ユダヤ人」の話をするときにだけ感じるこの特別感は一体どこから来るのだろう、なぜそう感じるのだろうか。ずっと気になっていたので、まずは内田先生の本を読んでみようと思った。

    しかし、予想以上に難しい内容で、恐らく半分も理解できていないと思う。
    でもそれもそのはずで、筆者自身が「ユダヤ人について語るとき、どうしてもユダヤ人を傷つけることになってしまう」ということを避けるために、ユダヤ人が読んでも納得してもらえるような書き方をしたそうだ。故にユダヤ人ではない人が読むと分かりづらい内容になってしまったそう。
    このわかりづらさがユダヤ人問題の難しさを表しているのだと思った。ユダヤ人を知る上で導入に相応しいかはわからないが、ユダヤ人問題、反ユダヤ主義の複雑さを知るにはよかった。

  • 自分は、ユダヤ人のことについてほとんど何も知識を持たず生きてきました。
    もちろん、ホロコーストのことは知っている。
    スティーブン・スピルバーグがユダヤ系だとか、米国のネオコンと呼ばれる人たちにユダヤ人の勢力が影響しているといった話も聞いたことはある。
    が、どれも断片的な情報ばかりで。

    そういう身であまり偉そうなことは云えないんだけど、この本の大部分は著者のオリジナルな議論というよりは、サルトルのユダヤ人論や「日猶同祖論(※)」や19世紀フランスの反ユダヤ主義者・モレス侯爵の生涯など、過去の言説や歴史の振り返りがほとんどを占めているような気もしなくはありません。
    (※)日本人はユダヤ人の末裔だ、という主張のこと。そんな荒唐無稽な話が真剣に語られていた時代があったなんて、本当に驚いた!

    そうだとしてもこの本は面白い。
    基礎知識の無い身にとって「ユダヤ人とは」「反ユダヤ主義とは」という話が新鮮に響いたということもあるけど、やはり何と言っても著者の流麗なレトリックを駆使した文章の卓抜さに支えられているところは大きいと思う。

    大部分は過去の言説の紹介、などと書いたけど、終章の最後2節ほどは著者オリジナルの議論が展開されます。
    ユダヤ人は「何故」知的なのか、そして、「どこが」知的なのか、について。
    この部分がまた読んでてよくわからんのです。
    書いてあることが正確に理解できない、ということもあるけど、どうして著者がそういう結論に至ったのか、その「飛び具合」に着いて行けない、というか(著者自身「暴走」だと認めてますが)。
    それでも何となく分かったような、読んで一つ頭がよくなったような気分にならされてしまうのが、内田マジック。
    って、褒めてんだかなんだか分からなくなってきましたが。

  • 【ノート】
    ・やっと読んだ。途中までは少し分かりづらかったりしたが、終盤の展開には引きこまれた。ところどころに出てくる「内田節」は、時にはホッとしたり、時にはちょっと鼻についたり。
    ・時間の観念を逆行させての有責性についての記述はちょっとまだ咀嚼できていない。
    ・人の善性を神の賞罰から切り離した「成熟した」知性。「神の賞罰を基準にしているのは幼稚な状態」という辺りの記述には、幼少の頃から感じていたモヤモヤしたものを一気に吹き払われたような感じ。
    ・アドルノとホルクハイマーの「啓蒙の弁証法」との共通項が多い。きちんと突き合わせて精読すべきだと思った。
    ・で、結局、「ユダヤ人」って誰のことなんだろう?

  • 第1章 ユダヤ人とは誰のことか?
    第2章 日本人とユダヤ人
    第3章 反ユダヤ主義の生理と病理
    終章 終わらない反ユダヤ主義

    第6回小林秀雄賞
    著者:内田樹(1950-、大田区、フランス文学)

  • 2010年にフォトリーディングして以来積読。思い出して読みだす。

    「私家版」と断っているのでと著者は何度も書いているが、とてもしっかりした内容。でも自分の受け入れない事には、多少感情的嫌味をちらつかせているあたり、「私家版」とこだわる理由の一つなのかも。

    収穫としては日ユ同祖論の系譜が分かり、その背景が(著者的な視点で)解説されていること。でも聖書からの解説ではないのでその点は注意。日ユ同祖論の背景は反ユダヤ主義的、神国日本思想があったとの事。

    日本の親ユダヤ主義政策は、反ユダヤ主義論調のさなかにとられた政策。その背後には、ユダヤ人の人脈や金融支配の力を借りたい思いがあったとのこと。(これは河豚計画にも書いてあったが、ちょっと疑問。)


    さすが哲学の先生だけあって、ユダヤ人の定義を哲学的に述べている。

    私的にまとめると、ユダヤ人とは反ユダヤ主義によってあとから定義される人々。また別の言い方では、神の呼びかけにあとから応答したという意味で、呼ばれて答えた人々。

    親ユダヤ主義も反ユダヤ主義も表裏は同じ。神への信仰がある人の罠として、悪魔の存在を認めるゆえに悪魔の所業を認めて糾弾する現れとして、反ユダヤ主義に陥ることがある、と著者はいう。

    著者はレビストローネというフランス人(超正統派のユダヤ教徒らしい)の言葉を引用する際に、せっかくヨブ記からの疑問への答えなのに、ヨブ記を引用せずレビストローネの言葉だけを引用しているあたり、キリスト者としては「をゐ!」と思わされたりもする。


    多くの付箋を付けたが、この本についてここで全部しらべて要約は載せず、思い出すまましるしてみた。

    だいぶ疲れたので、いちいち振り返るのが億劫だった故。

    必要があったので読んだが、難しい内容であった。
    星は三つ。

  • むずかしい。著名な映画監督、音楽家、学者に経営者の名前を挙げてユダヤ的な才能とくくっている限り、それは何なのかと、真似して再生産できるカテゴリーではないことに気づくばかりです。

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著者プロフィール

1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授、神戸市で武道と哲学研究のための学塾凱風館を主催、合気道凱風館師範(合気道七段)。東京大学文学部仏文科卒、東京都立大学人文科学研究科博士課程中退。専門は20世紀フランス文学・哲学、武道論、教育論。 主著に『ためらいの倫理学』、『レヴィナスと愛の現象学』、『寝ながら学べる構造主義』、『先生はえらい』など。第六回小林秀雄賞(『私家版・ユダヤ文化論』)、2010年度新書大賞(『日本辺境論』)、第三回伊丹十三賞を受賞。近著に『日本型コミューン主義の擁護と顕彰──権藤成卿の人と思想』、『沈む祖国を救うには』、『知性について』など。

「2025年 『新版 映画の構造分析』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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