私家版・ユダヤ文化論 (文春新書 519)

著者 :
  • 文藝春秋
3.85
  • (106)
  • (120)
  • (132)
  • (8)
  • (4)
本棚登録 : 1275
感想 : 113
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (241ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784166605194

作品紹介・あらすじ

ノーベル賞受賞者を多数輩出するように、ユダヤ人はどうして知性的なのか。そして「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」。サルトル、レヴィナスらの思想を検討しながら人類史上の難問に挑む。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 面白いっ!

    哲学界の翁、内田樹による
    「私家版」ユダヤ文化、ユダヤ人論。

    卓越した知力と教養を身につけ、
    政界、財界、芸術界とありとあらゆる
    世界でトップに栄えるユダヤ人。

    しかしその歴史は、
    受難と迫害の歴史である。

    そもそも「ユダヤ人」とは何者か。
    なにゆえに彼らは、これほどの知性を身に着けたのか。


    -ユダヤ人たちが民族的な規模で開発することに成功したのは、「自分が現在用いている判断枠組みそのものを懐疑する力と『私はついに私でしかない』という自己繋縛性を不快に感じる感受性」である-

    -「選びは特権から構成されているものではない。それは有責性によって構成されている」-

    -ユダヤ人は自分がユダヤ人であることを否定するわずかによけいな身ぶりによって、自分がユダヤ人であることを暴露する存在として構造化されている-

    -『たしかに、おまえは一個の自我である。たしかに、おまえは始原であり、自由である。しかし自由であるからといって、おまえは絶対的始原であるわけではない。おまえは多くの事物、多くの人間たちに遅れて到来した。おまえはただ自由であるというだけではなく、おまえの自由を超えたところでそれらと結びついている。おまえは万人に対して有責である。だから、おまえの自由は同時におまえの他者に対する友愛なのだ。』-


    「ユダヤ人」をテーマに人間を、神を、宗教を、哲学を
    鋭くえぐり出す内田樹の傑作。

    決して読みやすい本ではないが、
    構造主義の基本を抑えている方であれば
    ぜひぜひ手にとって欲しい一冊。

  • ユダヤ人迫害の根底にある問題について考察している本です。

    本書では、日本における「日猶同祖論」やヨーロッパにおける反ユダヤ論の言説が紹介されていますが、それらの歴史を実証的に解説することが目的ではなく、「反ユダヤ主義には理由があると信じている人間がいることには理由がある。その理由は何か」という問いを掘り下げることがめざされています。

    その結論は、フロイトの議論を援用しつつ「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していたから」というものですが、著者自身がくり返し述べているように「分かりにくさ」があります。著者が社会的構成主義の言説に対してその〈起源〉への問いを投げかけているところに、本書を理解する手がかりを見いだすことができます。著者は、「父権制的な社会慣行が「男性/女性」というジェンダーを作りだした」という「構築主義的言明」に対して、「男性に社会的リソースを集中させるための抑圧的構築物である父権制社会が成立するためには、それに先立って性差がすでに有意なものとして意識されていなければならない」のではないかと問いかけます。このような問いかけは、「ユダヤ人は反ユダヤ主義者が作り出したものである」というサルトルの議論に対しても向けられています。すなわち、「なぜ他ならぬユダヤ人だけが、このような出口のない状況にあらゆる時代あらゆる場所で繰り返し追い込まれるのか」という〈起源〉への問いに、サルトルはこたえていないと著者はいいます。

    こうした問いに対して著者は、ユダヤ人思想家であるレヴィナスを参照しつつ、ユダヤ思想のうちに〈起源〉への遅れという主題があることを指摘することで、こたえを示そうとします。われわれはみずからの〈起源〉に対して決定的に遅れてしまっており、それゆえに有責であるという発想が、ユダヤ人の神に対する信仰を支えており、ユダヤ人への迫害はそれを「反復」することにおいてみずからをかたどっているのだということができるでしょう。著者は「私たちがユダヤ人について語る言葉から学ぶのは、語り手がどこで絶句し、どこで理路が破綻し、どこで彼がユダヤ人についてそれ以上語るのを断念するか、ほとんどそれだけなのである」と結論しています。

  • このヒトについては以前からHPやコラムを読むたびに気になっていて、いつかはマトモに読まなきゃ、と思っていたのだけれど、ご本業からはちと外れた(つまり「マトモ」ではない)これから読み始めて改めてその感を強くした。

    ユダヤ人を「異化」することはキリスト教文化の歴史において恒常的にあったことであり、それはその文化の洗礼を受けた日本においても硬軟両面であったことだ。

    でも実際「ユダヤ」とは何なのか、という問いに対して明確な回答はどこにもない。

    著者は「ユダヤ人」がなし得てきたことに対し、ひとつの共通点を見いだす。それは常にinnovativeであった、ということだ。そしてさらに彼ら自身にとってはそれこそがまさに「恒常的」なことであり、その状態が非ユダヤ人にとっては「異」なるものに写るのではないかと推測する。

    これはとても説得力をもった仮説の設定だった。
    ユダヤ人はよく「十人のユダヤ人がいればそこには十一の意見がある」と言う。それはつまり、彼らにおいてはどんな意見に対しても(たとえ自分の意見に対しても)必ず何らかのアンチテーゼが存在し、常に自分の態度すら疑う姿勢がある、ということを意味する。

    であれば、何らかの理念なり意見に安住してしまうよりも、innovationの生まれ得る可能性は高いだろう。

    ではどうして彼らがこのような思考体系を持つに至ったのか。それは常に彼らが「異」であることを周囲から意識させられ続けてきたからではないだろうか。

    ステレオタイプ的な反(親)ユダヤ論に、一石を投じる書物だと思う。

  • 私が最近、自分の中で消化しようとしているキーワード「責任」「(ひとつの)原因」ということがわかりやすく書かれていた面もあったが、その何倍もわからないことを畳みかけられてさらに消化不良になった気もする。

    わからないことがあるのは素晴らしい、と考えることにする。

    ●要するにこういう本
    内田樹が思うユダヤ人がユダヤ人たるゆえんを歴史をなぞりながら確認する本

    ●気になったところ
    ・夫に勧められて読んだが、「まえがきからしてしびれる」と聞いていた。ユダヤ人がなぜ迫害されるのかを考える際、「ユダヤ人が迫害されたのには理由がある」と主張することは、政治的に正しくない。かといって、その思考を放棄すると「人間はときに愚鈍で邪悪になる」という結論しか見いだせなくなり、そこから何も進まない。ユダヤ人を師と仰ぐ著者は「ユダヤ人が迫害されるには理由がある、と信じる人が生まれるには理由がある」という問いにすり替えてこの問題を解こうというのだ。さぞかし長い前書きかと思ったら、ほんの3ページだった。問いを変えることにより、「ユダヤ人が迫害されるのには理由がある」という事実を認めないままに、思考を止めずに考え続けることができるということだ。

    ・ユダヤ人は「ユダヤ人を否定しようとするもの」に媒介されて存在し続けた、という記述(P.36)。私は、ユダヤ人がこんなにも定義しづらいものだとは知らなかった。しかし「ユダヤ人を否定しようとする」ものがいる限り、ユダヤ人を定義しなくてはならないということはわかる。「私たちはユダヤ人を語るときに必ずそれと反らずに自分自身を語ってしまうのである」と傍点を付けられて書かれていた。それは後のほうにも出てくる。

    ・「一つの結果には必ず一つの原因があるという命題は正しくない(p.100)」ということは、言われればそうだとわかるが、言われるまでそう思えない自分がいた。これは夫にも指摘されていたがようやく腑に落ちた感がある。「満たされたコップに1滴を落としてコップがあふれたとき、最後の1滴がただ一つの原因だ」とは誰も思わない、と例示されていた。その通りだ。私たちは時に「自分がこんな風になったのは親がこうだから」なんて思ってしまったりする。実際、「毒親」などという言葉によってそれが行われたりする。でも、そんなことはない。だが、「1つの結果に1つの原因がある」という考え方が、ユダヤ人を悪者にした。著書には「陰謀史観」という言葉で書かれていたが、この後に、あらゆることが知性の高いユダヤ人によって仕組まれたものだという主張がまかり通る時代のことが書かれる。この本で私が手に入れるべきは、「一つの結果には複数の原因がある」を直観的にわかることだった。ユダヤ人のことが書かれているこの本は、生き方や考え方を教えてくれる。

    ・反ユダヤ主義を掲げる人には「いいやつ」が多かった、という(P.105)。それは著者が反ユダヤ主義を語る本を読むにつれ、そう感じざるを得ない場面に多く出くわしたというのだ(P.154)。そんなことを掲げるやつは悪党に違いないと勝手なイメージを持ってしまうが、そうではない。人望があって、頭がよくて、人のためを思う人が、反ユダヤ主義という考え方に染まってしまう。これも考えてみると意外ではないが、直観的にはそう思えないことの一つ。悪いことをするやつだからといって、性根の悪いやつというわけではないのだ。つまりどんなに賢い人でもハマりうる罠だと思っていいのだろう。

    ・ダーウィンは、自分の理論に合致しない事実を必ずノートに記していた、という(p.110)。さすが賢い人はやることが違う、と感じた。人は、自分の理論に合致しないものをよけて法則を作ってしまいがちだ。「仕事ができる人は漏れなくレスが早い」みたいなことを言う人を私は信じないのだが、そういう人は本気で思っているのだろう。レスが遅くて仕事できる人の例を勝手に記憶から除外しているのだろう。

    ・ドリュモンという人の反ユダヤ主義を書いた『ユダヤ的フランス』という著書が売れたのは、古き良き時代はよかった、とする「懐古趣味」にあった、と説いている(P.122)。自分的にはあまり好まないかもしれないが「あの頃はよかった」とする手法は何かをヒットさせるときによいのかもしれない、とメモメモ。さらに、『ユダヤ的フランス』はすべてをユダヤ人の策略だとする「すべてを説明する物語」で、それを求めていた人(モレス侯爵)にドンピシャにハマったのだそうだ(P.134)。モレスは事業を大きくしたのちに失敗した。そういう挫折にひとつの原因が与えられたら、さぞかしカタルシスを感じるし、その説に身をゆだねたくなるだろうと思った。何かのせいにするのは危険だ。心を改めたい。

    ・「話のつじつまが合いすぎる」のは、読者にとっての印象が薄い、と書かれていた。輪郭が滑らかだと記憶に留まらない、と。だから、ユダヤ人についてわけの分からないことを書きたかった、というのだ(P.160)。読んでいるときには気づかなかったが、ここにこう書いてみて、前述の「すべてを説明する物語」はあまりにつじつまが合う話ではなかったか、と思ったのだがどうだろう。それが熱狂的に人に受け入れられたのだ。そこには矛盾があるような気がする。とはいえ、つじつまが合わないことが記憶に残る、ということも大いにありうる。私は自分の中でまだ決着がついていないことがらをよく文章にするが、それはやはり後で読み返しても生々しさを感じる。決着がついた「つるり」とした論説は、自分で読みなおしても手触り感がない。自分の文章を書く時には、つじつまのあわないこと、まだ考えに決着がついていないことを書くように心がけてみようかと思った。

    ・著者が「決して忘れることの種類のことば」と称していたものの羅列をメモ(P.160 )。「世界と君との戦いにおいては、世界を支援せよ」「私が語っているとき、私の中で語っているのは他者である」「私たちは欲するものを他人に与えることでしか手に入れることができない」という言葉が紹介されていたのでググろうと思ったのだった。

    ・「そこに存在しない社会集団に対する幻想的な同一化と恐怖」が政治的に活発化することはありうる。それは日本の歴史を見ても明らかだという(p.168)。アメリカを中心とした陰謀論はこういうことなのかもしれないと思った。

    ・トーブというユダヤ人が、21世紀中ごろの北米における反ユダヤ主義の激化を予測しているという記述があった(p.170)。トランプを中心に発生している陰謀論がその火種になるのだろうか……と恐怖心が止まらない。

    ・ユダヤ人がイノベーターであることについて、「継承されてきたある種の思考の型」があるのだろうという(P.175)。それは、「自分が現在用いている判断枠組みそのものを懐疑する力と『私はついに私でしかない』という自己繋縛(けいばく)性を不快に感じる感受性」だと書かれている(p.178)。何のことやら……という感じだ。p.180で、すこしだけ別の言葉に言い換えている「自分が判断するときに依拠している判断枠組みそのものを懐疑すること、自分が常に自己同一的に自分であるという自同律に不快を感知すること」。前者はわかるが後者は難しい。これがなぜイノベーティブにつながるかというと、ユダヤ人にとっての普通を、非ユダヤ人は「イノベーティブ」とみなしているからだ、という(p.179)。この理屈は理解できるが、それだけでは説明がついていないような気がした。私が何とかイメージした解釈としては、ユダヤ人として生まれた人が、自分の血筋が何の根拠なく迫害されてきたという事実を知ったとき、そこに何度も「なぜ」を投げかけるだろうことは容易に想像できる。さらに、そこには明確な答えがないわけだ。そういうさだめを持って生まれてくること自体が、ユダヤ人的思想を作り上げているということなのだろうか。

    ・ユダヤ人は、非ユダヤ人よりも世界の不幸を多く受けなくてはならなくて、神はそのためにユダヤ人を選んだ、という(p.187)。さらにユダヤ人は、時間の捉え方が逆なのだという。人は罪を犯したから有責なのではなく、罪を犯す前から有責である、という(p.218)。この辺りどんどん難しくなっていくが面白さも同時に止まらない。さらに、ユダヤ人は「遅れて到来した」と書く(p.224)。このあたりもまたわからない。わからないままにどんどん進み、「神はなぜ悪しきものを罰さないのか」というのは幼児の問いだとバッサリと書く(p.225)。「すべての責任を一身に引き受けるような人間の全き成熟を求める」というのが、著者が師と仰ぐレヴィナスの主張だという(p.228)。責任をそこまで大きくとらえるのがユダヤ人の本質なのだとしたら、それは非ユダヤ人には到底かなわないものなのかもしれない。

    ・もうひとつ「私たちは愛する人間に対しさらに強い愛を感じたいと望むときに無意識の殺意との葛藤を要請する」と書かれていたのが印象的だった(p.211)。葛藤があるほうが、葛藤のない時よりも欲望が亢進するからだそうだ。恋愛において、ハードルがあるほうが燃え上がるというのはロミオとジュリエットに見て取れる。不倫もそうだろう。もっと愛したいと渇望するとき、自分の中に殺意を生み出してしまうのだそうだ。これがなぜユダヤ人との話に関係するかというと、反ユダヤ主義者はあまりに強くユダヤ人を欲望していた、なのだそうだ(p.212)。このあたりもまあ、よく理解できない。

  • 以前読んだが、なんとなく忘れていたので再読。

    ①ユダヤ人を定義するものは何か?
    ②どうして迫害され続けてきたのか?
    ③どうして優秀な人材を輩出するのか?

    こういう基本的な事を知りたかったが、結局はっきりした結論らしきものは書かれてない。
    いろいろ考える材料はあるので自分で考えるのも一興。

  • 著者は神戸女学院大学教授で、有名な内田樹さん。ユダヤ人というのがなんだかよくわからず、”日本人"や"アメリカ人"等と並べるものではないと理解しつつもよくわからずもやもやしていたが、"私がみなさんにご理解願いたいと思っているのは、「ユダヤ人」というのは日本語の既存の語彙には対応するものが存在しない概念であるということ"という説明で、自分の中に概念がないものであるため理解が難しいということがわかり少しすっきりした。全般的にやや難しい。

  • 資料

  • 映画「オフィサー・アンド・スパイ」を見て思い出したように本棚から引っ張り出して再読しました。本当に読んだのかと自分でも疑うくらい覚えてなくて愕然としました。でも改めて読んでみて覚えてない理由がわかりました。それはこの本に登場する19世紀の反ユダヤ主義者なんて日本ではまったく馴染みがないし、当時のフランスの社会状況についても無知なので理解できないのは当たり前なのでした。今回じっくり読み返してみてその辺の情報も理解が深まり、ユダヤ問題の複雑さはよくわかりましたがやはり難しい。難しいだけで片付けたくないけどそれ以上言葉がつづかない自分がいます。ただ終章で「存在するとは別の仕方で触れてくる」という表現で暴走ぎみに考察していくのはすごいと思いましたし、自分の脳をグラグラ揺さぶられたようでもうお手上げでした。

  • 金大生のための読書案内で展示していた図書です。
    ▼先生の推薦文はこちら
    https://library.kanazawa-u.ac.jp/?page_id=18333

    ▼金沢大学附属図書館の所蔵情報
    http://www1.lib.kanazawa-u.ac.jp/recordID/catalog.bib/BA77685492

  • ユダヤ人とはユダヤ教を信仰する人々であり、ローマ帝国時代から常に迫害され、忍耐と知性で自衛してきた。国民国家が成立していった19世紀、自身の国を持ちたいというシオニズムも起こり20世紀前半それの反動で弾圧され(迫害するのが普通の教養人であったことも悲劇的)ホロコーストにまで至り…。未来にも迫害はあるだろう、それが民族の終わり=神の意志かもとまで彼等は覚悟している。 0.2%の人口で、ノーベル賞の2割を得た民族の知的優位はいかに形成されたのか。考察は、ついには知性そのものがユダヤ人の発明かとまで展開していく

全113件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

内田樹の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
フランツ・カフカ
カズオ イシグロ
三島由紀夫
三島由紀夫
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×