- Amazon.co.jp ・本 (241ページ)
- / ISBN・EAN: 9784166605194
感想・レビュー・書評
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面白いっ!
哲学界の翁、内田樹による
「私家版」ユダヤ文化、ユダヤ人論。
卓越した知力と教養を身につけ、
政界、財界、芸術界とありとあらゆる
世界でトップに栄えるユダヤ人。
しかしその歴史は、
受難と迫害の歴史である。
そもそも「ユダヤ人」とは何者か。
なにゆえに彼らは、これほどの知性を身に着けたのか。
-ユダヤ人たちが民族的な規模で開発することに成功したのは、「自分が現在用いている判断枠組みそのものを懐疑する力と『私はついに私でしかない』という自己繋縛性を不快に感じる感受性」である-
-「選びは特権から構成されているものではない。それは有責性によって構成されている」-
-ユダヤ人は自分がユダヤ人であることを否定するわずかによけいな身ぶりによって、自分がユダヤ人であることを暴露する存在として構造化されている-
-『たしかに、おまえは一個の自我である。たしかに、おまえは始原であり、自由である。しかし自由であるからといって、おまえは絶対的始原であるわけではない。おまえは多くの事物、多くの人間たちに遅れて到来した。おまえはただ自由であるというだけではなく、おまえの自由を超えたところでそれらと結びついている。おまえは万人に対して有責である。だから、おまえの自由は同時におまえの他者に対する友愛なのだ。』-
「ユダヤ人」をテーマに人間を、神を、宗教を、哲学を
鋭くえぐり出す内田樹の傑作。
決して読みやすい本ではないが、
構造主義の基本を抑えている方であれば
ぜひぜひ手にとって欲しい一冊。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ユダヤ人迫害の根底にある問題について考察している本です。
本書では、日本における「日猶同祖論」やヨーロッパにおける反ユダヤ論の言説が紹介されていますが、それらの歴史を実証的に解説することが目的ではなく、「反ユダヤ主義には理由があると信じている人間がいることには理由がある。その理由は何か」という問いを掘り下げることがめざされています。
その結論は、フロイトの議論を援用しつつ「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりに激しく欲望していたから」というものですが、著者自身がくり返し述べているように「分かりにくさ」があります。著者が社会的構成主義の言説に対してその〈起源〉への問いを投げかけているところに、本書を理解する手がかりを見いだすことができます。著者は、「父権制的な社会慣行が「男性/女性」というジェンダーを作りだした」という「構築主義的言明」に対して、「男性に社会的リソースを集中させるための抑圧的構築物である父権制社会が成立するためには、それに先立って性差がすでに有意なものとして意識されていなければならない」のではないかと問いかけます。このような問いかけは、「ユダヤ人は反ユダヤ主義者が作り出したものである」というサルトルの議論に対しても向けられています。すなわち、「なぜ他ならぬユダヤ人だけが、このような出口のない状況にあらゆる時代あらゆる場所で繰り返し追い込まれるのか」という〈起源〉への問いに、サルトルはこたえていないと著者はいいます。
こうした問いに対して著者は、ユダヤ人思想家であるレヴィナスを参照しつつ、ユダヤ思想のうちに〈起源〉への遅れという主題があることを指摘することで、こたえを示そうとします。われわれはみずからの〈起源〉に対して決定的に遅れてしまっており、それゆえに有責であるという発想が、ユダヤ人の神に対する信仰を支えており、ユダヤ人への迫害はそれを「反復」することにおいてみずからをかたどっているのだということができるでしょう。著者は「私たちがユダヤ人について語る言葉から学ぶのは、語り手がどこで絶句し、どこで理路が破綻し、どこで彼がユダヤ人についてそれ以上語るのを断念するか、ほとんどそれだけなのである」と結論しています。 -
ユダヤ人とはユダヤ教を信仰する人々であり、ローマ帝国時代から常に迫害され、忍耐と知性で自衛してきた。国民国家が成立していった19世紀、自身の国を持ちたいというシオニズムも起こり20世紀前半それの反動で弾圧され(迫害するのが普通の教養人であったことも悲劇的)ホロコーストにまで至り…。未来にも迫害はあるだろう、それが民族の終わり=神の意志かもとまで彼等は覚悟している。 0.2%の人口で、ノーベル賞の2割を得た民族の知的優位はいかに形成されたのか。考察は、ついには知性そのものがユダヤ人の発明かとまで展開していく
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先日ポーランドとチェコに行き、クラクフとプラハにあるユダヤ人街を訪れた。
日本ではあまり見かけない(私が意識していないだけかもしれない)が、ヨーロッパや東南アジアなど移民が多い国には「中国人街」や「インド人街」が至るところに存在する。
しかし「ユダヤ人街」は聞いたことがなかったし、どのような雰囲気なのか想像すらできなかった。ガイドブックにも載っていて定番の観光地らしいが、実際足を運んでみる
と人通りは少なく、見たことのない文字の看板が並び(おそらくヘブライ語)、それまでいた街より温度が低い気がした。
そういえば、ミラノに住んでいた頃通っていた小学校の目の前にはユダヤ人学校があった。なぜかユダヤ人学校の前には常に大きな銃を持った警官がいた。当時住んでいた学校の近くのマンションにはユダヤ人も住んでいたが、話したこともなければ挨拶をした記憶もない。幼いながらユダヤ人には特別の事情があるのだと感じた。
「ユダヤ人」の話をするときにだけ感じるこの特別感は一体どこから来るのだろう、なぜそう感じるのだろうか。ずっと気になっていたので、まずは内田先生の本を読んでみようと思った。
しかし、予想以上に難しい内容で、恐らく半分も理解できていないと思う。
でもそれもそのはずで、筆者自身が「ユダヤ人について語るとき、どうしてもユダヤ人を傷つけることになってしまう」ということを避けるために、ユダヤ人が読んでも納得してもらえるような書き方をしたそうだ。故にユダヤ人ではない人が読むと分かりづらい内容になってしまったそう。
このわかりづらさがユダヤ人問題の難しさを表しているのだと思った。ユダヤ人を知る上で導入に相応しいかはわからないが、ユダヤ人問題、反ユダヤ主義の複雑さを知るにはよかった。 -
【ノート】
・やっと読んだ。途中までは少し分かりづらかったりしたが、終盤の展開には引きこまれた。ところどころに出てくる「内田節」は、時にはホッとしたり、時にはちょっと鼻についたり。
・時間の観念を逆行させての有責性についての記述はちょっとまだ咀嚼できていない。
・人の善性を神の賞罰から切り離した「成熟した」知性。「神の賞罰を基準にしているのは幼稚な状態」という辺りの記述には、幼少の頃から感じていたモヤモヤしたものを一気に吹き払われたような感じ。
・アドルノとホルクハイマーの「啓蒙の弁証法」との共通項が多い。きちんと突き合わせて精読すべきだと思った。
・で、結局、「ユダヤ人」って誰のことなんだろう? -
ユダヤの選民思想とは何か。その思想的意味を内田樹が思い入れたっぷりに語る。本当かどうかはわからないけれど、一つの考え方としておもしろく読んだ。
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街場でない内田先生は難しい。