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Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784166608393
AIがまとめたこの本の要点
この本を表す言葉
みんなの感想まとめ
聖書の新約福音書をケセン語に翻訳した本書は、難解な聖書の言葉を分かりやすく解説し、読者に深い理解を促します。著者は医師であり、震災の影響を受けた地域の言葉であるケセン語を用いて、イエスの教えを親しみや...
感想・レビュー・書評
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聖書を読んでいても
イマイチ腑に落ちない部分が多いのですが
分かりやすく書かれています。
聖書は、恥ずかしながら全部読んではいません。
新約の4福音書はまあ何とか・・・残りは飛び飛び。
旧約は、最初の創世記・出エジプト記は
お話のように読みましたが、
だんだん厳しい言葉が並ぶとね~
この作者はお医者様。
新約聖書の福音書をケセン語、岩手県気仙地方の
ことばに訳して発表されたかたです。
昨年3月の東日本大震災で被害を受け、この本の中にも
イエスの言葉とともにそのことにも触れている箇所があります。
一からギリシャ語を学ばれ、易しく読み解かれています。
訳が正しいのかどうかは私には分かりませんが
ただ、書かれていることはストンと胸に落ちました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
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2012/01/30
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NHKラジオ第1「すっぴん」6/15(金)源ちゃんの現代国語で紹介されていました。
「はじめに言(ことば)があった。」→「初めに在ったのァ神さまの思いだった。」「悔い改めよ。」→「さあ、心ォスッパリ切り換ァろ!」に打たれました。お腹の中にストンと落ちる感じ。
ただし、耳から聞いた時に比べて、やや物足りない。ラジオでやっていたようなケセン語ネイティブによる朗読を聞きたいですね。-
「耳から聞いた時に比べて、やや物足りない。」
ナルホド、こう言う本は電子書籍向きなのかも知れませんね~
私も聞いてみたいな、ネイティブのケセ...「耳から聞いた時に比べて、やや物足りない。」
ナルホド、こう言う本は電子書籍向きなのかも知れませんね~
私も聞いてみたいな、ネイティブのケセン語を。。。2013/04/01
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世界で一番読まれている本である「新約聖書」。その新約聖書は英語や日本語など様々な言語に翻訳されている。本書で紹介されている「ケセン語」は初めて聞く。どの国の言葉なのか、と思ったら、宮城県気仙沼地方の方言である。本書はそのケセン語にて聖書を翻訳しているユニークな一冊である。
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別の本でこの方の聖書に一節を読んだ。なんて心にしみ通るのかと思った。クリスチャンではないけれど読んでみたいと思った。
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こういう訳もあり。説明も原語に近くかつ分かりやすい。この先生はカトリックなんだなあと思うこと多々。
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毎週火曜日に職員礼拝を行っています。
今年のクリスマスには、山浦さんが最近出版された
「ガリラヤのイェシュー」の中の
イエスの誕生物語を読ませていただきました。
これが、驚くほどすっきりと心に沁み込んで来るのです。
イエスが生まれ、育たれたのは、鄙びたところだったのです。
当然使っていた言葉は方言で、相当訛っていたはずです。
それを日本に置き換えると「気仙沼」であると著者は語っています。
だからこそ、この訳は、腑に落ちるのだと感じています。
そんな山浦さんの新書版新作です。
面白くないはずはありません。
このクリスマスに読みたい1冊です。 -
山浦先生の聖書の原語に則したケセン語への訳に目から鱗。聖書の研究者や学者が訳した、これまでの日本語訳との対比で違いも歴然。ケセン語訳(解釈の問題です)のほうが細かなニュアンスも伝わる。これをお一人で続けてこられたことに感服いたしました。
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今年のNo1。その1。
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朝の礼拝で紹介された本です。
【紙の本】金城学院大学図書館の検索はこちら↓
https://opc.kinjo-u.ac.jp/ -
古ギリシア語から直接、日本語の、それも東北のケセン語に訳した労作で、これまでの翻訳と違い時代背景や当時の文化を元に解釈したもので、聖書がどうにもしっくりこない人にも素直に受け入れられる。
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高橋源一郎の『国民のコトバ』で紹介されていた聖書のケセン語訳とその解説。イエスもガリラヤの田舎町から出てきたのだから、聖書も土着の言葉で言われたもののはず。東北の気仙沼の方言で語ることでより真実に近づけるのではないか、というのが著者の意図。f原典であるギリシア語の語彙にまで注意を払ってその意図を推測していく。
例えば、こんな感じ。
・初めに言があった ⇒ 初めに在ったのァ 神さまの思いだった。
・悔い改めよ ⇒ 心ォスッパリ切り替ァろ!
・汝の敵を愛せ ⇒ 敵だってもどこまでも大事にし続げろ
・人を裁くな ⇒ 其方等ァ人の善し悪しィ語ってんのば止めろ
医者でもある著者は、イエスの奇蹟についても、現実的な解釈を与える。宗教というよりも人生訓に近いものになり、キリスト教が持つこととなった意味とは離れていくようにも思えるが、元々はそうであったということなのかもしれない。
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ケセン語訳の試みは震災前からの仕事だが、津波に襲われた気仙沼で著者もまた被災する。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ!」(神さまんすゥ、神さまんすゥ、何故俺ァどごォ見捨てやりァしたれ?)とのイエスの最期の叫びが頭に浮かんだという。そこで互いに協力する人々の姿にイエスの言葉を重ねる。
キリスト教とは別の、「イエスの言葉」がここにある。 -
岩手県気仙地方の言葉で訳された新約聖書からイエスの言葉を選りすぐったもの。ケセン語で訳されたことも心に染みる理由の1つだと思いますが,より本質的には,ギリシャ語の原義に遡り,また,様々な角度から,ことばの実質に迫る著者の新しい聖書訳語のこころみによるところが大きいと思いました。そして,大震災・大津波を乗り越えていく著者の雄々しさとが相俟って,大変,心を打つ一冊です。とりわけ,「37 エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(236頁)が心に響きました。
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p.88
イエスがもっとも大事だと考えている、神様をお喜ばせする道は、人に対して親切を尽くす、ということにつきます。雑念などあってもいいのです。本当はこんなことやりたくないのだと腹の中では思いながら、他人を新設にするのは、不純な心でしょう。それでもいいのです。どうせ人間というものは不順で、よからぬ雑念のかたまりです。そんなことはどうでもいいのです。大切なことは人を新設にすること、これだけです。
p.216
いくらこちらが相手を大事にしたとしても、相手がそんなことを意にも介さず、ますますこちらを虐待しつづけるというようなことはいくらでもあるではありませんか。そんなときにはどうしたらいいのでしょう。いつまでも際限なく奴隷がご主人さまに仕えるように、相手を大事にしつづけなければならないのでしょうか。
いいえ、そうではありません。もしも相手が明らかに理不尽な要求をしつづけるなら、こちらもきちんとそれに反論しなければなりません。場合によっては正当防衛のために自分や家族を守る行動をとらなければならないこともあります。でも、そのような場合でも決して忘れてはならないのは、どんな非道な相手でも、相手にも何らかの正しさがあり、こちらにも何らかの至らなさがあり得るのだという謙虚さ、あるいは柔軟な態度でしょう。 -
山浦玄嗣さんの書いたものを初めて読んだのは、たまたま借りてきた『海が呑む』に特別寄稿として収められていた「3.11 巨大地震津波体験記」である。この人のケセン語訳を読んでみたくて、図書館で順番がまわってくるのを待っていた。図書館の本をしまいまで読んだ日に、じっくり読みたくて本屋で買って帰ってきた。
人の幸せとは何かと問う福音書の心を、イエスの言葉を、ふるさとの仲間にふるさとのことばで伝えたい。独特の翻訳用語で理解しにくい聖書を、ふるさとの仲間がするすると理解できることばで伝えたい。その思いで、山浦さんは聖書をそれが書かれた古代ギリシャ語から、ふるさとのケセン語に訳してきた。
私には、岩手のケセン語は必ずしもわからないけれど、それでも新共同訳による聖書のことばよりは、ケセン語によるイエスの言葉は、おなかに落ちてくるようだった。血が通うことばは、こういうものかと思った。聖書は訳語が何だかよく分からないまま遠く感じていたが、「人の幸せとは何か」を問うたイエスの言葉は、信仰がどうとかはおいても、魅力があった。
巻頭でケセン語訳される「神さまの思い」
▼初めに在ったのァ
神さまの思いだった。
思いが神さまの胸に在った。
その思いごそァ神さまそのもの。
初めの初めに神さまの
胸の内に在ったもの。
神さまの
思いが凝[こご]って
あらゆる者ァ生まれ、
それ無しに
生まれだ者ァ一づもねァ。
神さまの思いにァ
あらゆるものォ生がす力ァ有って、
それァ又、
生ぎる喜びィ人の世に
輝がす光だった。
光ァ人の世の
闇ィ照らしてだったのに、
闇に住む人ァその事に
気ァ付かねァでだったんだ。(p.15)
関心が外に向いていない人、つまりは自分のことにしか関心がない人は、目を閉じている状態と同じで、いくら光が輝いていても、それが見えない。もしこの世が闇だというなら、それは外に関心をもっていないからだ、目をひらいてよく見ろ!というのが神のことばだと山浦さんは書く。
「光」と読むと、「この子らを世の光に」という糸賀さんの言葉を思う。世の光とは何だろうと、山浦さんのケセン語訳を読みながら考える。
恐ろしい津波が去って3日目に、小雪の舞うコヒドロ山にたどりついた山浦さんが見たのは、壊滅した大船渡町のありさま。気持ちがことばにならないような状態で、まっさきに山浦さんの心に浮かんだのは、イエスの最期のことばだった。
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ!」
山浦さんのケセン語訳では、こう記される。
「神さまんすゥ、神さまんすゥ、何故[なして]俺ァどごォ見捨てやりァしたれ?」(p.236)
自分のことばを理解されず、誤解され、曲解され、憎まれ、ついには十字架にぶらさげられたイエスが、「神さん、なんでワシのことを見捨てるねん」と叫ぶ。それは、神を呪う絶望のことばのように聞こえるが、それこそが誤解だと山浦さんは解く。これは決して絶望の叫びでも、恨みの声でもないのだ。
「エリ・エリ・レマ・サバクタニ!」は、ダビデ王が絶望の淵にあった時に歌った有名な詩の冒頭の発句なのだと。ユダヤ人は、幼いときから旧約聖書をそらんじ、なかでも詩篇は朗詠され歌われ親しまれていて、たとえていうならば百人一首の上の句を聞けば下の句がスラスラと浮かぶように、冒頭のこの一句を聞くことで、ユダヤ人の心にはそれに続く一連の詩がスルスルと浮かぶのだと。
そのダビデ王は詩のなかでさんざんに神に悪態をつき、しかしその末尾に至って、神への信頼を叫ぶ。「助けを乞ひつつ御身に叫びて救はれざること絶えてなく、御身を頼うで見捨てられたる例[ためし]なし」と。わかってんねん、神さん、あんたは、助けてくれというたもんを、あんたを頼ったもんを、見捨てたことはあらへんねん、と。
この言葉から、山浦さんはイエスの思いをおしはかる。
▼イエスは何を願い求めていたのでしょう、それは、人が本当に幸せに喜びに満ちて生きるにはどうすればいいのかということを伝えたかったという、まことに単純なそのことにつきます。でもまさにそのことが既存の伝統や習慣の中でくらしている人びとの価値観と大きく衝突することになってしまいました。かれの言葉は危険思想視されました。かれは捕らえられ、反逆罪という冤罪のもとに磔刑によって殺されました。(pp.237-238)
おおむかし、子ども向けの伝記シリーズで、ヘレン・ケラーや野口英世やガリレオと並んで、イエスの1冊も読んだ記憶がかすかにある。イエスという人は、どう伝えられてきたんやろうと思う。
長崎の被爆について永井隆が「神の摂理」といい「神の与えた試練」だと語ったという言葉なども、ケセン語訳を読みながら、読みなおしてみたいと思う。
(6/8了) -
東日本大震災後に発行された、ケセン語(岩手県気仙地方のことば)で訳された聖書の抄録。方言で語られる言葉は、体に直結していてわかりやすいし、リズムも楽しい。合間あいまに語られる震災後の状況は苛酷で改めて震災の恐ろしさを実感する。そのような状況を、宗教という後ろ盾を持つ著者がどう受け止めてきたのかも興味深い。ただ!やっぱり私はキリスト教は肌に合わない。キリスト教が、というよりも多分一神教が私の思考回路になじまない。神様は人間が理解できる形はしていないし、人間が理解できる言葉は発しない、と思っていて、それをイエス・キリストの言葉を手がかりとして自分なりに追求するのならいいのだけれど、一人意思のある神様がいる、と思ったらそれは違うと思ってしまう。人智を超える存在を信じればこそ、神様を人間の理解できる範囲で考えてしまう危険を考える。宗教的な思考というのはとても大事だし、なぜ人間に宗教、信仰は必要かということは大事な視点。宗教は怖いという先入観は持つべきではないと思うけど、盲信はしてはならないと思う。この本が盲信しているとは思わないけど。でもやっぱり「神様におまかせする」のは私にはムリ、と再認識しました。
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