サッカーと人種差別 (文春新書 987)

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (228ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784166609871

作品紹介・あらすじ

2014年3月8日、埼玉スタジアムで開催された浦和レッズ対サガン鳥栖戦において、浦和サポーターによって「JAPANESE ONLY」という差別的横断幕が掲げられた。Jリーグはこれに対して厳しく臨み、Jリーグ初の無観客試合という制裁を下した。 人種差別的かつ外国人嫌悪(ゼノフォビア)に基づくメッセージがスタジアムにも現れたことを受けて、サッカーをこよなく愛する文芸評論家・陣野俊史氏が緊急に書き下ろしたのが本書です。 内容は二つの柱からなっています。 一つ目は、スタジアムでこれまでどのような人種差別事件があったのか。 二つ目は、選手、クラブ、観客などサッカー界は差別とどのように闘ってきたのか。 本書は、この二つの内容を時間的には世界的な選手の移動を加速した1995年のボスマン裁定以後の20年、空間的にはサッカーの本場・ヨーロッパにしぼって詳述しています。 そこから浮かび上がるのは、アフリカ、アジアなどからの移民を受け入れてきたヨーロッパでは、今もなお、人種差別的な事件が起こり、それとの闘いも粘り強く続けられていることです。 多くの事件とその背景が選手の肉声などによって、具体的に明かされていきます。 人種差別的な言動を受けた選手たちのいたたまれない思い、尊厳を毀損された痛み、反撃できないもどかしさなども、身に迫ってくるはずです。 スタジアムで起きることは社会でも起きている、と著者は繰り返し書きます。 日本でも排外主義的な空気が高まるなか、差別を自分たちの問題として考えるための必読のテキストです。

感想・レビュー・書評

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  • 差別に対する自分の認識の低さを実感するような内容でした。

    自分は日本の田舎で育ち、外国人が身近でない環境でずっと生活してきたこともあり「 Black Lives Matter」などに対してもあまり興味を持つことがありませんでした。

    最近ではF2のユーリヴィップスが差別的な発言でレッドブル育成プログラムから外れるということがありました。ゲーム中のキャラクターに対して、一言発した程度で厳しすぎるというのが自分の考えであったのが、この1冊を通して変わりました。

    そこまでやる必要のある問題だったのだとはっきりと考えるに至りました。

    サッカーの歴史を、普通とは違った捉え方を出来るのでシーンに興味ある方は読んで損のない1冊だと思います。

  • サッカー界に今も蔓延るレイシズムの問題をとりあえげた本だけど、著者もそして取り上げられてる選手権も言及してるけど、これは社会の問題で、社会で普通に起こってるから今もサッカー界でもなくならないという図式。正直言って自分は体感としてそれを経験したことがないから実感として語れないんだけど(とはいえ日本サッカー界初の無観客試合はマイチームから起こってるんだけど)、読んでてもワジワジーしてくるような酷い話がたくさん。知ってたものも、知らないこともたくさん。
    そして何より。自分はレイシストではないしそんな思考は少しもないと思ってるけど、僕がハーフの子や選手たちを見て、「その生まれ持った身体能力は武器になるな〜」とか思ってることが、著者のいう「身体的特徴を彼らの属性に還元する」という「愚かな本質主義」であるという指摘が胸に刺さる。これも「彼は自分とは違う」という思考の端くれなのかも知れない。考える。
    2014年の本だけど色褪せずに読めたのは社会が変わっていない証左か。ヨーロッパでは試合前に片膝ついてる。今もまだ。

  • 2014年3月8日の浦和−鳥栖戦で埼玉スタジアムに「JAPANESE ONLY」の横断幕が掲げられたことは記憶に新しい。この問題の処分としてJリーグ初の無観客試合が行われた。著者はこの本で、ここ20年くらいの間に起きたサッカーにまつわる差別と差別に対する闘いを紹介している。なぜ20年かと言えば、1995年の「ボスマン裁定」以後、今まで「外国人」とされていた「ヨーロッパ人」の選手たちがEU内のチームを自由に移動できるようになり、その結果空いた「外国人」枠に非ヨーロッパ圏の選手たちが移籍するようになったからである。
    非ヨーロッパ系の出自を持つ選手たちは、サルの鳴きまね、バナナの投げ込み、横断幕などで差別を受けて来た。そして選手たちはその差別に対してどのように闘ってきたか。
    2005年の10月末から11月にかけてフランス主要都市の郊外で、若者たちが暴走し、数万台の車を焼いたことがあった。「フランス暴動」と呼ばれた緊急事態に対して、元フランス代表ディフェンダーのリリアン・テュラムはテレビ番組で発言している。「私も郊外で育った。もし誰かがゴロツキを一掃しなければならないと言ったとしたら、私はそれを私に向けられた発言と捉えるだろう。」「かつて私も、お前はゴロツキだと言われたことがある。でも、私はゴロツキではない。私が望んでいたのは、働くことだった。サルコジ内相[当時]は、この微妙さが判っていない。デリケートな問題なんだ。人はいま困難な時代を生きている。はっきりとした不安を感じている。安全に生活したくない人間などいるだろうか?(中略)彼らには仕事が必要なんだ。いちばん扱いにくい連中は、そのことを攻撃的に表現しているだけなんだ。」
    差別はどこから生まれてくるのだろうか。「人はレイシスト(人種差別主義者)に生まれるのではない。人はレイシストになるのだ。」テュラムは続けて言う。「レイシズムは、何よりも知的な構築物だから。われわれは、世代から世代へと受け継がれていく歴史において、人を黒人や白人、マグレブ人あるいはアジア人として見るよう条件づけられてきたことに、注意を向けなかればならない。」
    ジャマイカ出身でのちにイングランド代表となったジョン・バーンズは彼の自伝の中で教育の重要性を強調する。それは特に未来のために必要なのだ。「40歳のレイシストが考えを変えるのは遅すぎるが、彼の息子には遅すぎることはない。白人は自分の祖先を奴隷にしたから大嫌いだと考える40歳の黒人の考えを変えることは遅きに失しているが、彼の息子には遅すぎるということはない。」
    さらにジョーンズは白人にも黒人にも正しい認識を持つことを訴えている。「白人たちは、人種差別が奴隷制から始まったことを理解していない。奴隷制そのものは、偏見の問題ではなくて、経済の問題である。もっとも安い労働力が黒人だった。奴隷制は、強欲に由来しているのであって、敵意から生まれたものではない。だが、結果的に、黒人たちは第二級の市民となった。黒人たちはまた、奴隷制に対して別の視点を持つ必要がある。自分たちの父祖は同じ黒人によって奴隷として売られたことを正しく認識しなければならない。黒人のほとんどは、すべての奴隷は白人によって捕らえられたと考えているが、95パーセントは黒人によって売られたのだ。西アフリカの海岸線には黒い王国が点在しているが、英国やポルトガル、スペインの貿易業者たちは、許可なく上陸することはできなかった。奴隷を買うためには、銃や金を代価として支払わなければならなかった。」
    サッカーにおける人種差別は、FIFAが反人種差別キャンペーンを行い制裁を科しても、未だに撲滅することはできていない。しかしテュラムやバーンズが訴えるように、歴史的事実を知り、差別の根源にあるものを知ることが必要であろう。次の世代のために。

  • フットボールと人種差別とが、現在どういう関わりを持っているのかを知るには良いかもしれない。しかし、現在の出来事を纏めているだけで、どうして人種差別が起きるのか、今一歩踏み込めていない。ただ、何も問題意識を持たずに漫然としているよりはまし。

  • 【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
    https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/685539

  • 「サッカーと人種差別」
    サッカーの裏の世界。


    サッカーと人種差別は切っても切れない関係にある。バロテッリがどれだけカッコいいゴールを決めても、アウベスが見事なアシストをしても、観客の中には、彼らの血を馬鹿にしたチャントを歌ったり、バナナを投げたりする。


    サッカーは、昔より沢山のスターが誕生し、プレーの質も高まり、クラブやFIFAを始めとする組織や各リーグは、市場的にも莫大な利益を生み出すようになった。儲かっている分、不正行為等の問題は発生しているものの、総合的に見ればサッカーは前に進んでいる。しかし、足を引っ張っているものもある。


    それは、未だにサッカーに蔓延る人種差別である。選手がいくら素晴らしいプレーを見せようとも、肌が黒ければまたは黄色系であれば、差別用語ばかりを壊れたおもちゃのように繰り返して叫ぶものがいる。それは昔はウルトラスであったが、今は普通の観客ですら行う。


    さらに人種差別を広義的に捉え、差別の側面からサッカーを見ると、女性差別や同性愛嫌悪、ヒジャブ禁止、移民を根底にした差別等、サッカーは多くの差別と戦っている。


    もちろん、戦う訳だから相手がいるのだが、彼ら差別を行う者が、何故差別を平気でするのか?と問われたとしても、まともに考えて回答を寄越すとは思えない。長く根付いた思想を簡単に退ける事は出来ないし、彼らにその意思があるかどうかも疑わしいのが現実だと思う。さらに、政治的背景を踏まえると、そもそも根絶は可能なのかとすら疑ってしまう。しかしながら、その状況をほっておくサッカーではない。


    例えば、アウベスがバナナを投げつけられた時は、ネイマール等がバナナを食べる動画を差別への抗議メッセージとしてSNSから世界に拡散した。この一連の運動の前提には、まずバナナを食べる(その後、投げ返す!)機転を利かせたアウベスの行動があるが、今の選手はインスタ、ツイッター、フェイスブックと言ったメディアよりも早く且つ自分の意思を正しく伝えることが出来る武器を持っている。その武器を上手く使えば、差別が如何に問題視されているかを素早く正しく伝えることが出来る。


    一方で、この運動はアウベスが差別をする者達に怒りや悲しみではなくユーモラスで対応した例であり、それを拡散することで差別なんて笑って流せば良い、と言う風潮だけが取り上げられていくことに意を唱えている選手もいる。


    ユーモラスに対応したアウベスは素晴らしく、選手が動画を拡散したのも一つの手段であるが、メディアを含めて私達が目をそらすべきではないのはそうやって笑って流さざるを得ない差別が現実問題としてあると言うこと。アウベスを始めとする選手は差別的なチャントを受けながら、プレーせざるを得ないと言うことだ。その現実を見ることなく、バナナ動画がユーモラスでナイスだ!と言う観点だけで人々に広がってしまったら、動画で伝えるべき本来の意図が埋もれてしまう。確かに、その選手の視点は正しく思う。


    では選手達が対応するパフォーマンス以外にはどんな対処で差別と戦うのか。難易度はかなり高いと思うが、やはり私もバーンズやテュラムが考えるように人種差別を根絶するには教育を改めるしかないと思う。


    歴史的背景や政治事情が長く続き、それらの影響をもろに受けて出来上がった教育を改めることが出来るのか。ニグロを当たり前に使う国が、その意味を理解して決して使わないようにと指導する大人が出てきて、子供達は正しくそれを学べるか。又、ヒトラー政権を示唆するパフォーマンスをするべきではないと正しく教育出来るのか。


    色々不透明な点はある。更に厄介にさせるのは、政治的な意味合いを含むパフォーマンスや差別的発言で罰せられるのは、何も観客だけではないところだ。ゴールパフォーマンスだったり、接触プレーだったり、審判に抗議する際だったり、問題点は選手側にもありふれている。サッカーには中にも外にも対処すべきものがあるのだ。


    つまり、教育は観客だろうが、選手だろうが、全ての人間に行う必要がある。それはかなり難しいと一発で思ってしまった。だから教育を改めるのは正しいと理解出来ても、改めた後の姿がなかなかイメージ出来なかった。


    それだけこの問題は根が深いのだと解釈したが、だからと言って何もしない訳にはいかない。もしかしたら差別を受けて、サッカーを続けることを辞めてしまう天才少年が世界のどこかにいるかも知れないし、勿論、今後更なる悲劇が起きかねない。サッカーは昔より遥かに経済的なパワーを持っているのだから、仮にFIFA等組織のトップが差別的な発言をすれば、その影響は一気に拡散されるし、眠っているウルトラス予備軍等を刺激することもあり得る。


    とにかくほっておいて良いことはない。だから、少しずつでもサッカーには差別があり、その差別は根絶していかねばならないと認識していかねばならないと考える。テュラムの様な偉大なプレイヤー達に任せるしかない部分はあるものの、私は一観客、一人間として出来ることを考えていこうと思う。

  •  サッカーを巡る人種差別。

     事件や選手らの個人史からサッカーを巡る人種差別の闇、さらにその対策を考えていく。
     グローバル化もあって、サッカーの人種差別は激しい。筆者は日本人がこのことに関心があまりないことを嘆いている。私も日本人はもっとこのことに関心を向けるべきだと思う。

  • サッカー旅にはサッカー本を。
    欧州各国で起こった色々な差別について取り扱った内容。テュラムやオシムの考え方は大いに参考になる。もはや日本でもアクションが求められている。

    著者はフランス文芸評論家にしてマルセイユ好き、名は陣野とどこかでひっかかっていたら思い出した。大学でフランス語習った先生だ(笑)
    授業でワールドカップの試合をフランス語実況で観たのが懐かしい。

  • 曾野綾子が2月に産経新聞に書いたコラム※のこともあり、図書館に所蔵のあるなかで「人種差別」とタイトルに入ってる本のうち、一番新しいのを借りて読んでみた。

    私はサッカーをはじめスポーツにはとんと詳しくないが、それでも昨年、浦和レッズの一部サポーターが「JAPANESE ONLY」の横断幕を掲げ、その制裁として無観客試合があった、というくらいは知っていた。この本も「Jリーグ初の無観客試合」のことから始まっている。

    ▼残念なことに、サッカーのスタジアムには様々な差別の歴史が刻まれている。…(略)…
     この本では、この20年くらいの時間の中で起きた代表的な(という言い方も奇妙だが)差別に関わる事件について、できるだけ平明に述べ、そうした差別と戦う人々を紹介したい。そのうえで、もう一度、私たちのサッカーの環境へと戻ってくることにしたいと考えている。(pp.13-14)

    様々な種類の差別は絶え間なくずっと続いているが、そのなかで「この20年くらい」をとりあげるのは、この間にサッカーをめぐる環境が大きく変わった、1990年代半ばあたりでその変化が始まったのではないかと著者が考えているからである。

    サッカーに疎い私には、この本に書かれている「○○選手を覚えているだろうか」「××の試合が云々」といった話がまるで分からないのだが、選手の写真があったり、前後の事情をそれなりに説明してくれているので、なんとか読めた。サッカーをめぐる状況を通じて、「差別」というものを考える本である。

    黒人選手に向かってバナナを投げ、猿の鳴き真似をするという人種差別的な行為は繰り返されてきた。そうした行為は長らく放置されていて、侮蔑を向けられた選手はただ耐えてプレーしていたのだが、一人また一人と立ち上がる選手があらわれる。

    著者は、3章「差別と闘う人びと」で、現役時代から必要とあれば政治的な発言を行ってきたというリリアン・テュラムの言葉を引いている(pp.176-177)。

    ▼大きかろうが小さかろうが、人間は自分がこうなりたいと願う星を必要とする。人が自分に対して押し付けてくる偏見をぶち壊し、自立し、自分の価値を打ち立て、人が想像するものを変えるためにはモデルが必要だ。
     子どもの頃、私にはたくさん星があった。…(略)… だが、黒い星たちについては、誰も私に語ってくれなかった。階級の壁は白く、歴史書のページも白かった。私自身の祖先のことを私はまったく知らなかった。奴隷制だけが人々の口にのぼった。こんなふうに取り上げられる黒人の歴史は、武器と涙の谷でしかなかった。
     …(略)… この本はあなたのためにある。なぜなら、人種差別や非寛容と戦う最上の方法は、あなたの認識と想像力を豊かにすることだからだ。(『私の黒い星たち』裏表紙/Lilian Thuram,Mes étoiles noires:De Lucy a Barack Obama,Philippe Rey,2010)

    このあとのフランスの大統領であったサルコジのヘイトスピーチについて書かれた箇所を読んでいると、日本はこの状況を追いかけてしまっている…と思えた。サルコジのひどい演説内容は、非難され、多くの人々の嘲笑と怒りを買ったという。だが、日本でもそうであるように、それを荒唐無稽とは思わず、そんなことがあるのかと思う人たちがいる。

    ▼サルコジ前大統領の言葉こそまさに無茶苦茶で、彼の言葉や誤った歴史認識を、嗤うことができる間はまだよかった。問題は、サルコジの言葉を却下するのではなく、一定の説得力を持って受け取る層が明らかに存在することだ。(p.185)

    4章「コスモポリタンへのレッスン」で書かれている"本質主義 対 反・本質主義"の話は、バナナを投げるとか猿の鳴き真似をするような分かりやすい差別的な言動に対して、見えにくく分かりにくい差別的な言動(例:黒人といえば"身体能力が高い"とか"リズム感がいい"などと、あたかもそれが黒人の本質であるかのように結びつけようとする)を示そうとしているのだと思った。

    本質主義は、差別じゃなくて区別だというような話とするりと結びつきやすい。とりわけ性別に関するあれこれでは、私にも実感がある。

    ※曾野綾子のコラムに関して、亀井伸孝さんが書いたもの(synodos)
    「文化が違うから分ければよい」のか――アパルトヘイトと差異の承認の政治
    http://synodos.jp/society/13008

    (3/16了)

  • クールな文に、熱い気持ちが入ってます。
    所属するけど、違う視点を持つこと。コスモポリタンっていいとおもいます。あと、寛容と余裕とジョークかな。

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著者プロフィール

1961年長崎県長崎市生まれ。文芸批評家、作家、フランス語圏文学研究者。立教大学大学院特任教授。主な著書に『じゃがたら』『渋さ知らズ』『フランス暴動 移民法とラップ・フランセ』『泥海』『ザ・ブルーハーツ ドブネズミの伝説』(いずれも河出書房新社)、『フットボール都市論 スタジアムの文化闘争』(青土社)、『サッカーと人種差別』(文春新書)などがある。

「2022年 『魂の声をあげる 現代史としてのラップ・フランセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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