- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784166611027
作品紹介・あらすじ
彼らはなぜ「面倒くさい」のか? 「これは自分の物語でもある」と語る著者が、SNSに巣食う現代人を徹底解剖!カフェでMacを広げ、自己啓発セミナーに熱心に通い、休日はバーベキューやパーティーに繰り出し、その煌びやかな姿をSNSにアップする……。そんな「意識高い系」の人々はなぜ生まれるのでしょうか。そのキーワードは「土地」と「スクールカースト」にあります。容姿とコミュニケーション能力で、学校内での序列が明確に決まってしまう現代社会。学生時代に「スクールカースト」最上位に位置し、承認欲求が十分に満たされた人々のことを「リア充」と呼ぶのは周知の通りです。一方、本書は「リア充」と「意識高い系」の違いを強調します。薄暗い青春時代を過ごした人は、どんなに後の人生において恋人を作ったとて、起業したとて、「リア充」にはなれないのです!むしろ「リア充」は生まれた土地の居心地が良いことから地元を離れず、SNSも使わない閉じた世界の中に居るため、私たちが観測できる華やかな人々は「意識高い系」かも知れません。彼らの生態を徹底的に掘り下げることで、現代社会の抱える問題が見えてきます!〈目次〉◆はじめに――意識高い系の研究「土地」「スクールカースト」「リア充」◆第一章 リア充は意識高い系の裏側に隠れているリア充と混同されがちな「意識高い系」/恋人の有無は関係がない/リア充は可処分所得が多い/土地に土着するリア充/土地から発生する人脈、恋人、ハレ/「スクールカースト」問題/本当のリア充はスターバックスに行かない/「意識高い系」の誕生――大学デビューと一発逆転の思想/夢見る「地方上洛組」/「リア充成り」という希望の灯/もうひとつの「意識高い系」――「在地下克上組」/社会派サークルを目指す「在地下克上組」◇コラム「意識高い系」の見分け方1 鍋のお汁で作る雑炊/〆のラーメン◆第二章 「意識高い系」の心理大義と欲望大儀と欲望の不都合な相関/ハロウィンで仮装する人の本音/「高次の大義」という隠れ蓑Ⅰ「意識高い系」の映す写真 自己宣伝としての被写体/重要なのは自分Ⅱ「意識高い系」=「中途階級」の心理 他人の年収を聞く人の心理/他人の学歴を聞く人の心理/「高次の大義」で遮蔽された抽象世界/承認と欲望/欲望を隠す気持ちの悪さⅢ「意識高い系」と「意識が高い人」の差 嫉妬を隠すべからず/進歩も改革もない世界「意識高い系」◇コラム「意識高い系」の見分け方 食べ放題とバイキング/カップ麺をすする◆第三章列伝Ⅰ青木大和、小4偽装サイト事件「挫折した意識高い系大学生」 イノセントなティーンとして/なぜメディア露出こだわったのか/SEALDsとの違いⅡ靖国コスプレイヤーと愛国女子愛国に仮託した承認欲 終戦の日を利用する悪質さ/無知で無邪気な「記念撮影/戦争当事者は無口であるⅢノマドワーカー わたし渋谷で頑張っているんだ、の空疎 「ベースキャンプを持つ遊牧民」という矛盾/宣伝ツールとしての渋谷/なぜ東京にいるのだⅣキラキラ女子「ばびろんまつこ」自意識の怪物 男のスペックで自分を測る/「上位20%」の美貌/セックス・アンド・ザ・シティに熱狂した「意識高い系」◇コラム「意識高い系」の見分け方 喫茶店とカフェ・甘味とスイーツ◆おわりに――意識高い系を超克するために/
感想・レビュー・書評
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【食品サンプルと泥付き野菜】
僕は、『意識高い系』という言葉が苦手だ。
他人の努力を視野狭窄な主観で揶揄するような印象を受けるうえに、その印象が漠然としていてモヤモヤするからだ。
そんな『意識高い系』に対する漠とした感情に、論理の軸を指してくれた一冊。
《「意識高い系」の研究 古谷経衝 》
自らも意識高い系だと称する著者が、自身の過去の分析と実際にあった事件を例に、意識高い系の特徴・生態を説いている。
意識高い系の特徴として、
・自己評価が異常に高く、他人を見下す
・学生時代はスクールカースト中位に所属しており、そんな自分にコンプレックスをもっている。
・ケーキ食べ放題には行かないが、ホテルのスイーツバイキングには目がない
といったものが挙げられていたが、とくに印象的だったのは『泥臭さ』と『土着』であった。
《泥臭い要素》
意識高い系は、泥臭さを嫌う。
理由は、泥臭さは過去のコンプレックスまみれの自分を思い起こさせるということと、自らが憧れる『リア充』たちからは泥臭さを感じないからだそうだ。
つまりは『友情・努力・勝利』のなかで、努力はすっ飛ばして勝利に即直結したいという心境らしい。
だが、彼らが憧れる対象は、見えないだけで泥臭い努力を積み重ねており、泥臭さを避け続けるのであれば、意識高い系からは抜け出せないという著者の論理に納得できた。
《意識高い系は、土地に土着していない(よそ者)》
スクールカースト中位の自分をリセットするために、地元を飛び出して新天地(おもに東京)へと向かう彼ら。
しかし、そこには土地の優位性(人間関係がすでにできあがっている、親の持ち家に住んでいる、など)をもったジモティ(地元民)がいる。
よそ者の彼らはジモティには勝てない。
そしてジモティへの憧れや、抱いた疎外感を払拭したいという想いから、豊富な人脈や洗練されたライフスタイルを、これみよがしにみせびらかそうと躍起になるという。
そして、意識高い系の爆誕へとつながるそうだ。
最初、この点には疑問を抱いた。
僕もよそ者で今の土地に住んで14年になるが、とくに疎外感を抱いたことはないからだ。
しかし、よくよく考えてみれば、創業60年の会社と結成30年の和太鼓団体という地域に根付いたコミュニティに所属しているおかげで、よそ者であるにもかかわらず、疎外感を抱かずにいられたのだと気づく。
改めて自分の状況に感謝したい。
《意識高い系を超克するには…》
著者は言う。
自らも未だ意識高い系から抜け出せないとしつつも、そんな自分を超克するためには「泥臭いことの積みかさねを、積み重ねて積み重ねることしか道はない」と。
『泥臭さ』と『土着』。
ふと、『泥付き野菜』が思い浮かぶ。
大地(土地)の恵みをうけた泥付き野菜。
そんな、『泥付き野菜』を僕は目指したいと思うとともに、他人の目ばかりを気にして、見た目だけの意識高い系=『食品サンプル』になっていないだろうかと、自問自答をする読後感であった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
現代の若者論。キーワードは、「スクールカースト」「承認欲求」そして「土地」。
前者2つはまあ分かるのだが、「土地」は……。
さて、「スクールカースト」と「承認欲求」は表裏一体のものだ。
幸運なことに、私は小学生・中学生時代を通して、アウト・オブ・スクールカーストだったので、底辺層の恨みつらみは分からない。
……少し盛った。
小学校1年生の秋、某所から転入した私は、学年のボス格の女子に気に入られ腰巾着になりかけた。すぐに嫌気が差したのだが、しかしそれ以上に粗野な男子が怖くてしばらくは問題解決を先送りにしていた。たぶん、ここで対応を間違えていたら間違いなく最底辺に突き落されていただろう。学年を上がってクラス替えで見事別クラスになり、ちょっとしてから私は彼女と決別できた。そして彼女は中学受験をして私立中学校にいってしまった。
中学校に入ってからは部活動(運動部)一筋で、男女交際が一つの象徴であるスクールカーストには与せずひたすら練習の日々だった。厭味を言われたこともあったが、男嫌いもあり「シラネ」で突き通した。その代償を払っているのが今なんだがなwww彼氏できないwwwそもそも男と交流できないwwwwww
失礼。少々取り乱しました。
なぜ私がアウト・オブ・スクールカーストでいられたかというと、部活動で充分すぎる程の承認欲求を満たせていたからだ。悪口陰口をスルーし、男嫌いをカバーして余りあるほどの。
だから、私は、「スクールカースト」と「承認欲求」は表裏一体だと思うのだが、同時にこれらを一緒くたに論じるのは違和感を覚える。確かにクラス単位で考えると、学校という社会は、狭く息苦しい。だけど、同時に脱出できる道もある程度は確保されている。それは部活動だったり、地域のボランティア活動だったり。図書館に籠るのだってありだ。あるいは、地域の子どもの家とか。習い事とか。クラスに固執するから、「スクールカースト」に絡めとられるのではないか。まあその、クラス単位で頑張ろーぜ、的な圧力は辛いものがあるけど。
で、だ。
問題の「土地」だがこれは一向に納得できない。
そもそも、著者は、リア充の定義を、「その土地に土着し、その土地を上級の親族から提供された存在(同居・相続)であり、その土地へ幼少期より土着することにより、重層的な人間関係を築いてきた人たち」とし、「ジモティ(先住民・地元民)」と同義だとする。
些か暴論ではないだろうか。
先のリア充の定義は、二つの要素からなる。
一つ目、「その土地に土着し、その土地を上級の親族から提供された存在(同居・相続)」であること。
二つ目、「その土地へ幼少期より土着することにより、重層的な人間関係を築いてきた人たち」であること。
「スクールカースト」の例を挙げるまでもなく、一つ目と二つ目は必ずしも両立しない。特に、二つ目の要素は、町内会やPTAを嫌がる若い世代が台頭する中で、どの層が該当するのか首を捻らざるを得ない。重層的、というからには、少なくとも親・子の二世代の交流は必須だが、本書を読む限り、同世代の交流を問題にしても、異世代間の交流はさほど問題にされていない。というか、このリア充の定義に従えば、親の代以上が頑張らないと必然的にリア充になれないらしい。リア充ってそんな構造的なものなの?わりと最近できた言葉だと思うんですが。うーん、違和感。
批判ばかりになってきたので、良かったところを。
真のリア充はSNSで報告などしない、というのは大賛成、仰る通り。
「意識高い系」はその点ある意味では分かりやすい。彼らに共通するある種の文法、言い回しってあるよね。お手軽な承認欲求は、お手軽に手に入るけど(「いいね!」)、真には満たされない。
全体的に、日本特殊論が鼻につく。いや右の人だっていうのは存じておりますが。
だけどね、文化人類学でも齧ったらいかがでしょうか、と言いたい。
お祭りとは本来土地に密着し、排他的なものです。日本のお祭りが特別に排他的なんじゃあ、ありません。 -
僕がこの著者を知ったのは、テレビタックルというテレビ番組で、ホリエモンやひろゆきと意見をぶつけている姿を見た時で、この著者の発言がまったく意味が分からず、見た目も含めて気持ち悪いと思ってしまったが、逆に興味を持ってしまった。気持ち悪いけど、何か自分と近いものも持っている気持ち悪い人。同類相哀れむ。作品でリア充について語る様は気持ち悪い。研究と言いながら、資料は少なく、主観がほとんど。読むだけ時間の無駄なので、健康な人は読んじゃだめ。サブカル系の人でも、この本に時間を使うなら、他の本に時間使ったほうがいい。でもなんか、気持ち悪さが好きな本。
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戦争や政治に対して意識が高い人を「意識高い系」と揶揄する風潮に疑問を感じていたので、タイトルから気になって読んでみた。本書ではきちんと「意識高い系」(系は「もどき」)と政治に対して「意識が高い人」を区別しており、やはり政治に対して関心を持つ人を「意識高い系」と揶揄する風潮は、政治に関心を持たない人々が「私意識高い系じゃないから(笑)」と自己を肯定し思考停止するための言葉として使われているのではないかと考えた。
抽象的で多幸的な言説を善とする意識高い系は、具体的でグロテスクな欲望を避けるために「高次の大義」を掲げがちであり、それはかつて戦争に突き進んでいった「高次の大義」(ex.「アーリア人の生活圏の拡大」「エチオピアの文明化」etc.)を思い出させるという筆者の指摘は私をゾッとさせるものであった。
「おわりに」でも筆者が書いていたように、この本全体からリア充への羨望とそれをはるかに上回る憎しみがふつふつと感じられ、筆者ほどではないもののリア充に劣等感を抱いてきた私は共感しながら楽しく読めた。
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面白い視点ではあるがそれを裏付ける論拠に弱い
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意識高い系について話す本
まとめ方が下手すぎる。要素の選び方も下手で土着性などは作者が今コンプレックスに思っているだけでは。それを抽象化してまとめるべき。
このテーマで別の人が書いてほしい -
作者の劣等感と極端で偏った狭い世界での考えに私は理解しかねる。
土着しているのがリア充とは思えない。
そもそも生まれ育った地にいることの方が狭い世界で物事を考え、視野が狭くなると思う。
生まれ育った地で性格することを否定はしない。
しかし、それはリア充の定義であるかは疑問。
またスクールカーストなるものはどの地域にもあるのか?女性はあるのかもしれないが男性は意識していないのではないか。私は意識した学生生活ではなかった。
スクールカースト中位層が成人し成功したい。それが意識高い系?無理があるかな。
あと、内容が下品なので読み返すことはない…。 -
「本当に能力のある人間は、人に見せびらかさない」
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研究というよりはエッセイに近い