- Amazon.co.jp ・本 (248ページ)
- / ISBN・EAN: 9784166611508
作品紹介・あらすじ
黄金タッグがはじめて日本史に挑む!世界史の激動が日本を動かし、日本の台頭が世界を変えた時代、黒船来航から戦後日本まで、明治百五十年を一気に語る。日本史と世界史が融合した、新しい近現代史のスタンダードが登場。
感想・レビュー・書評
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黒船来航から、太平洋戦争、天皇人間宣言まで6章、山内昌之氏と佐藤優氏が対談で博覧強記、分析詳細しかも的確な語りを披露している。私には、目から鱗のことが多かった。
例えば、ペリーの後にやってきたロシアのプチャーチン提督が徹底した対話による外交を展開したこと。明治政府のシステムが初めから薩長を中心とした合議制で、2年近くにも及ぶそれが旧幕府も含めた超藩的な岩倉使節を可能にしたこと。サラエボで暗殺されたオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェルナント皇太子が、スラブに対して宥和的な考えを持っていたこと。日露戦争の後、日米戦争に向かわせてしまった政治家、外交官、論客、軍人などをたくさん挙げ、詳細に分析していることなどである。最後の昭和天皇の話もうーんとうなってしまった。
1921年、昭和天皇は皇太子として、イギリス、フランス、ベルギー、オランダを外遊し、時のイギリス国王ジョージ5世と親しく語ったり、第1次世界大戦の激戦地を巡るなどする。この経験が、立憲君主主義、平和主義、親英米の国際協調主義を目指した昭和天皇の原体験になったであろうという。二・二六事件で露呈された陸軍の天皇軽視は、日米開戦の方針を決める御前会議でも顕著であった。前日、「南方作戦は、約5か月で終了の見込みである」という杉山参謀総長の言葉に昭和天皇は激しく叱責するが、御前会議の当日は平然とだんまりを決め込んでしまう。そこで昭和天皇は、明治天皇の「よもの海みなはらからと思う世になど波風のたちさわぐらむ」という歌を詠みあげ、避戦への思いを明らかにする。天皇の悲痛な思いと焦燥が感じられる。ここには、明治天皇の思いと重ねて表現する歴史的思考が現れている。終戦を決めた御前会議でも、徹底抗戦を主張する軍部に、昭和天皇は、戦争終結の決意に変わりがないこと、戦争を継続すれば国体も国家の将来もなくなること、これに反し即時停戦すれば将来の根基は残ること、武装解除・戦争犯罪人の差し出しは耐え難きも、国家と国民の幸福のためには、三国干渉時の明治天皇のご決断に倣い、決心したことを語る。ここで山内氏は、「これを天皇に言わせた軍部に対する怒りが改めてむらむらとこみあげる。自分たちの不始末で戦争を始めておきながら、その収束は天皇に任せる。卑怯である」と語る。「対米英戦を決意の場合、ドイツの単独講和を封じ、日米戦に協力せしめるよう外交交渉の必要があること、さらに戦争終結の手段を最初から十分に考究し置く必要があり、そのためにはローマ法王との使臣の交換など、親善関係を樹立する必要がある」と昭和天皇は木戸幸一内大臣に述べているが、軍人、政治家、外交官こそが知恵を振り絞るべき問題を、天皇が悩み、考え、訴えている状況は悲劇的ともいう。
ドイツのナチス政権は最後まで止まらず、イタリアはクーデターに至ったが、日本はいったん終戦と決まったら、それまでの徹底抗戦を切り替えて実に合理的に撤退を行った。その切り替えの要に天皇の聖断があった。
1946年の天皇の「人間宣言」は、5箇条の御誓文の全文引用から始まっている。日本の再建にあたって、この5箇条の御誓文の精神が基となる、そこには平和主義、教養主義の重視、民生の向上、すべてが込められているというのである。ここに表れているのは、戦後の日本で進められるはずの民主化は決して占領国アメリカに押し付けられるものでなく、日本には自前の民主主義の理念があったという天皇の自負と信念だったろうという。
この本を読んで、昭和天皇に対する認識を改めた。眞に立派な方であったと。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
佐藤さんの今回のお相手は1947年生まれ13歳上の歴史学者山内昌之さん。
幕末から太平洋戦争までの近代日本の歩みに軸を置きつつ、そこから同時代世界の激動を視野に収め、さらには近代以前の長いこの国の歴史とも照らしながら、議論を重ねていきます。
佐藤さんの対談本はいくつか読んできましたが、今回は特にお相手への尊敬や信頼が伝わってくる気がしました。
その理由はあとがきを読んでわかりました。
また、やはり元外務省という経験がとても影響しています。
佐藤さんはご自分が入省してみて「彼らの中には、日本の国体を守ってきたのは外務省であるという強い意識がある」と知ったそうです。
「憲法をはじめとする国内法において、最終的な有権解釈をしてきたのは、内閣法制局長官です。それに対して、国際法に関しては、外務省の条約局長(いまは国際法局長)がその役を担う。憲法と日米安保条約がぶつかったときには、条約が上である。日本という国家の在り方を定めているのは、憲法ではなく、日米安保条約で、その解釈権はわれわれにあるー。これが外務省の論理なのです。」
外務省のいう「アメリカン・スクール」は、英語を話すから、あるいは英米に勤務したから、というわけではない。
アメリカン・スクールというのは条約局(現在の国際法局)に勤務した者のこと。条約局で日米安保条約を担当したことがある人間が外務省の主流派で、それが揺らぐことはない。歴代の事務次官をみても例外はない。
「こう考えていくと、なぜ宮内庁に外務省出身者があれだけ多いのかも説明できます。それは外務省が「国体保持」に関わる官庁だからですよ。」
そうだったのですね。 -
歴史は勝者によって作られる。ただ、後世の我々は残された史料を、角度を変えて読み解くことにより、必ずしも「勝者の歴史」通りではないストーリーを発見することができる。
これは本書で語られている一節。まさにその通りで、例えば幕末史。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」「燃えよ剣」は今や幕末の定説感さえ漂わしている。膨大な資料を渉猟し、書かれたとはいえ、あくまでも幕末を舞台にした「小説」。ゆえに、著書の主人公に対する肩入れから来る「作り事」も多く含まれている。黒船来航から明治維新までを概観する上においては格好の書ではあるけど、倒幕派=義 佐幕派=不義 という単純な見方で眺めるのはあまりにも短絡的過ぎる。「フィクション(小説)は、歴史の真実を錯覚させるという点で怖いものがある」と著者のひとりの山内氏が嘆息するのも頷ける。
【興味深かったトピック】
◉水戸学は徳川家生き残りの為の保険⁈
幕末の尊王思想の拠り所であり、理論武装の供給源であった水戸学。極端な尊王主義を打ち出すことで、何があろうとも徳川家は必ず生き残る。水戸藩自体は安政の大獄でボロボロになってしまうが、もし水戸藩がなければ徳川御三家はもっと酷い目に合う可能性はあった。王道(天皇)と覇道(徳川家)の緩衝材であり平衡装置でもあった。
◉征韓論の対立軸とは?
明治初期は税収政策が確立しておらず政府の金庫は火の車。多大な予算を必要とする西郷率いる外征派vs財政基盤の確立を目指す大久保率いる富国派。「富国強兵」と四字熟語として捉えがちだが、富国してこその強兵の大久保と同時に行えると鼻息荒い西郷のガチンコであった。
◉日本陸軍の誤謬
陸軍はドイツの参謀本部に学んだことで、ガバナンスが狂い出す。参謀本部は、そもそも企画立案をするだけのスタッフ部門。決定・命令を司る司令部ではない。ところが、昭和の日本陸軍は参謀本部が全てを決めてしまった。ゆえに、陸軍は参謀本部と戦線との乖離が生じ、暴走を始める。
◉小説「落日燃ゆ」の主人公 広田弘毅は凡愚だった
城山三郎の描いた平和協調に腐心した広田弘毅。その実はとんでもない外相であった。長引く中国との戦争の和平工作を断固反対したのが外務大臣広田弘毅だったとは…。
◉エネルギー面から見れば、戦争なんてできるはずもなく…
1940年時点で日本の石油輸入依存度は92%。その内81%はアメリカから。これだけとっても絶対にアメリカとは戦争できなかった。にもかかわらず戦争へと舵を切った。
「へぇ〜、そうなんだ」「そういう見方があるんだ」という新しい知識と見識を得た読書タイムであった。天皇・土地・宗教・軍事・地域・女性・経済。この7つのツボを押さえることで歴史を理解できると語るは、歴史学者 本郷和人氏。その説に倣えば、本書には女性こそ登場しないが、その他は確かに網羅されている。
黒船来航から戦後まで150年を「世界の中の日本の近現代史」と位置付けで知ることができた白熱の書でありました。 -
幕末から近代まで、博学博識の二人で濃密に語られている。
幅広い、奥深い見方考え方がしめされ興味深い。
手元に置き、記憶に残るようにいつでも読めるようにしたい本です。 -
難しかったが、歴史の横の広がりを感じられて良かった。
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[図書館]
読了:2018/3/24
印象に残ったところがたくさんあった。こうして思いつくまま書き並べてみるとやはり日中戦争・太平洋戦争だなぁ。
・昭和天皇の交渉による和平外交の意思を無視し続けた陸軍
・そもそもそこに至るまでの過程、とくに日露戦争後、海軍の重要性を認識できないまま突き進んでいった軍部
・満州事変(柳条湖事件)は関東軍の暴走という一言では説明しきれないこと
・課長級でありながら参謀本部長クラスも電話でコントロールすることができる、それを実現する明晰な頭脳と政治的術策を持っていた永田鉄山
・対照的に杜撰で単細胞な二・二六事件の首謀者が、長期的ビジョンも持たず、科学的合理性も正式な政治的手続きの重要性も認識せず、下克上と強引な政治介入といううわべだけを引き継いでいく
・杉山元の「便所の扉」というあだ名(どちらにでも開く)
・「東条英機は首相の器ではない」
・日独伊同盟を推進した駐ドイツ大使大島浩の「その程度の現状認識力と判断力」、「敗戦という重大な結果に対する責任感の希薄さ」(日本への移送の途上で「日本に戻ったら政治家になるしかないなぁ」→ A級戦犯)
・自分たちで戦争を始めておきながら、敗戦処理は天皇に任せる、最後の最後まで自分たちで責任を取ろうとしない軍部の腐り加減
その他の時代
・「三傑」という言葉がいみじくも示しているように、明治政府のシステムは、初めから薩長を中心とした合議制だった。連合政権だったから、権力機構の半分が外遊し、後の半分が国内統治を進めるという離れ業(岩倉使節団)が可能だった。
・第一次世界大戦は、1931年の百科事典では「日独戦争」とされている。日本にとって世界大戦への参戦という意識は非常に希薄だった。 -
この2人の対談が面白くない訳がないです。歴史を横と縦のつながりで考察することによって全然違う見方ができることを再認識しました。