本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
Amazon.co.jp ・本 (288ページ) / ISBN・EAN: 9784166614103
作品紹介・あらすじ
1970年代後半から文芸批評家として活躍し、90年代後半からはマルクスやカント、ホッブスの読解から「交換」に着目した理論で社会や歴史を読み解いてきた柄谷行人さん。
その集大成ともいうべき『力と交換様式』では、社会システムをA=贈与と返礼の互酬、B=支配と保護による略取と再分配、C=貨幣と商品による商品交換、D=高次元でのAの回復という4つの交換様式によって捉え、とりわけ資本主義=ネーション=国家を揚棄する、人間の意思を超えた「D」の到来をめぐって思考を深めた。
「Aの回復としてのDは必ず到来する」。
民主主義と資本主義が行き詰まりを見せる混迷の危機の時代、
絶望的な未来に希望はどう宿るのか。その輪郭はどのように素描可能か。
『トランスクリティーク』『世界史の構造』、そして『力と交換様式』を貫く「交換様式」の思考の源泉に迫る。
ーーーーーーーーーーーーーー
Ⅰ:著者と読み解く『力と交換様式』
・「柄谷行人」ができるまで
・『力と交換様式』をめぐって 柄谷行人×國分功一郎×斎藤幸平
・モース・ホッブズ・マルクス
Ⅱ:「思考の深み」へ
・可能性としてのアソシエーション、交換様式論の射程
・交換様式と「マルクスその可能性の中心」
・文学という妖怪
Ⅲ:柄谷行人『力と交換様式』を読む
・『力と交換様式』を読む
大澤真幸、鹿島茂、佐藤優、東畑開人、渡邊英理
AIがまとめたこの本の要点
この本を表す言葉
みんなの感想まとめ
社会の基本構造を理解するための理論的枠組みとして、著者は「交換様式」を提唱しています。特に、贈与や返礼、支配と保護、貨幣と商品交換などの4つの交換様式を通じて、資本主義や国家の形成過程を分析し、現代社...
感想・レビュー・書評
-
社会システムを交換様式で体系化する『力と交換様式』について、有識者との対話、思想の解説が本著で掲載される。私は原典より先にこの解説書を読んだのだが、分かりやすいので、こうした順序で読むのも良いかも知れない。A贈与と返礼、B服従と保護、C貨幣による交換、D X(Aの高次元での回復)という4つの交換様式に分類することから、論説はスタートする。
ー 交換は本来見知らぬ他者との交換であり、それを成立させるには、交換を強制させるような力が必要であり、マルクスは、その力をフェティシズム(物神崇拝)と呼んだ。
分業は交換を前提としているが、国家の成立も、その保護に対する法の上での警察権への服従という観点では、これも交換の一形態だとする。更に、マルクスの言う物神とも異なる精神性、貸し借りの社会的紐帯を基礎とした儀礼、義務感のようなものが、贈与と返礼を成り立たせる。更に、柄谷は、コミュニケーションも言語の交換とした。確かに、褒め合いの現象はこれだろう。つまり、人間は交換し合う生き物だ。
よく分からないのは、Dの存在。交換様式DにおけるAの高次元での回復とは。人間の理性では構築できないが、必ず到来する。資本主義社会のあとに出現する。無力化したAが復活、回帰する、そして反復脅迫的に向こうから来るのだという。はて。
ネットで調べても、自論が飛び交う感じだ。オードリータンも分かっていないと、柄谷は指摘する。ここまで来ると、柄谷の説明責任という気もするが、ここに読み解く、解釈する楽しさもある。本著は他に史的唯物論と資本論の構造的解説など興味深い内容も多々含むが、私の感想はこの解釈に絞ってみる。
Aの回復という前提は、既にAが毀損している状態を示す。つまり貨幣を媒介せず担保のない「贈り合い」が消えた世界だ。資本主義が行き過ぎれば、全て信用が数値化され、貨幣に限らず、究極のCとなる。また、Aは低次元だとも言っている。これは一対一の閉じた関係だからだ。閉じた関係性を開くために、集団で信仰する貨幣を要したのだから、Aの未熟さは交換範囲が狭いことだと解釈できる。ならば高次元とは、Aのように貨幣を介さず、しかし、万人と交換が成立する事。どうしても、シェアリングエコノミーとか、ベーシックインカムとか、ボランティアみたいな事が想像される。
何となく、もう一踏ん張り。衣食住の生産がAIや機械により満たされた後、人間の仕事は遊びとの境界線が曖昧になる。そこでは賞賛が報酬となる。つまり、商品の交換ではなく人間は「賞賛を交換」し出す。「いいね」がいつの間に社会に組み込まれた。答えは「いいね」、ブクログはDの先取り。これこそ高次元の回復だ、と分かったような事を述べてみる。うむ、原典を読んでみよう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
【はじめに】
本書は、柄谷行人の最新作『力と交換様式』に関するインタビューや講演録、および雑誌『文學界』に寄せられた書評を集めて編集したものである。本書出版直前の2022年12月に 百万ドルの賞金で話題にもなったバーグルエン哲学・文学賞を受賞したが、世界的な影響力を確固とした柄谷行人の最後となるかもしれない交換様式を本格的に論じた『力と交換様式』は、思想界・哲学界から多くのアテンションを惹いていることがわかる。
柄谷は、互酬的な交換様式A、国家による略取と再分配という「交換」をもとにした交換様式B、資本主義経済による商品交換をもとにした交換様式Cに続くものとして、交換様式Aを高次元で実現する交換様式Dが今後訪れるはずであるという交換様式論を唱えている。彼の主著のひとつである『世界史の構造』の後、約10年以上を経て2022年に出版されたのが『力と交換様式』という本である。そこでは、『世界史の構造』で展開した理論の補完をしながらも、ある意味では余計なものを排するかのような徹底した論考の純化が行われているように感じた。
本書の巻頭に置かれた柄谷へのインタビューでは、柄谷自身の大学時代の駒場寮の話や、交換という観点で世界の構造を見ることに至った思考の軌跡などが語らていれる。
【シンポジウム】
國分功一郎を聞き手、斎藤幸平をコメンテータとした講演録が収められている。そこで柄谷は、『世界史の構造』とその10年後に書かれた『力と交換様式』では、「力」という問題についての認識に違いがあるという。交換において要請される「力」とはある種の霊力であり、『力と交換様式』は交換様式A、B、C、Dから生じる諸霊を考察するものとして書き上げたのだという。目には見えないけれども、社会を動かしている「力」が『力と交換方式』の主題となる。
柄谷は、彼の理論の中心でもある「交換様式D」は、こちらの力では無理なので、向こうからやってくるという主張を繰り返す。過去のNAMの活動を挙げて、昔は柄谷自身も人間が能動的にアクションを取ることで社会を変えることができる、少なくともそうであるべきだと考えていた。しかし、その活動の失敗にも触れながら、改めてこのシンポジウムの中でも交換様式Dは自分たちが意図してできるようなものではないと繰り返す。斎藤幸平は、交換様式Dを自らの課題認識に引き付けて脱成長コミュニズムに相当するものだと考えていると語るが、柄谷はその考えをやんわりと否定している。柄谷は、交換様式Dは向こうからやってくるものだと繰り返し、それは「何もしなくていいという意味ではありませんよ。むしろ大変な努力をして、それでもうまくいかない。でも、耐えろ、ということです」と言う。そういう意味では、斎藤幸平の考え方には逆説的にいまだ絶望が足りていないのかもしれない。
【書評集】
本書は最後に大澤真幸(社会学者)、東畑開人(臨床心理士)、渡邊英理(日本語文学研究者)、佐藤優(元外交官・文筆家・神学研究)、鹿島茂(仏文学者・評論家)の書評が並ぶ構成となっている。
佐藤優は、神学でいう聖霊を「力」に置き換えることによって社会の中に見えないが確実に存在する何かを語っているのだとして、これを「柄谷神学」の誕生と評する。なるほど交換様式Dが向こうからやってくるという思想も、どこか終末論的で高い次元において宗教が回復されているようにも思われる。改めて神の喪失から生まれた人文主義(ヒューマニズム)の限界への向き合うことが要請されているのだと感じさせた。
臨床心理士の東畑が、またある意味では佐藤優も、あまりにも自らのフィールドに引き付けて読み、そして語っているのに対して、加島茂の評は柄谷のテクストに寄りそう形で書かれていて『力と交換様式』を読む上で助けになるものだ。
【まとめ】
交換様式Dは「向こうから来る」ものだと繰り返すのに対しては、やはりもう少し具体的な候補のようなものを率直なインタビューや講演では触れてほしいとは思う。
そして、國分功一郎や斎藤幸平との対談、大澤や佐藤優の書評を読むにつけ、そうであるならば、東浩紀にも「交換様式論」について何かを書いてほしいと思う。自身もある意味では弟子筋であり、そうとは認めないかもしれないけれどもある種の継承を期待するのである。何となれば、東が拘るルソーの「自然」は柄谷の交換様式Dにもつながるものとして捉えることもできるのではないかとも思うのである。
----
『力と交換様式』(柄谷行人)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4000615599 -
・社会運動はA
・1848年の革命は資本主義国家と社会主義を結びつけた。同時にネーションが形成され、資本=ステート=ネーションが結合。
・1870年の普仏戦争は最初の帝国主義戦争。
・主人と奴隷(古代)、封建領主と農奴(中世)、資本家と労働者(近代)。これらの生産関係の根底には、交換様式がある。 -
柄谷行人の著作は他によんでいないので、これ一冊を読んだだけでの感想である。
交換様式A、交換様式B、交換様式C、という概念(理念型)を用いて社会の基本構造を分析する、という方法の有効性は納得できる。また、これらの交換様式に基づいて構成されている社会の問題点とその揚棄が望ましいこと、それがいわゆる共産主義的な社会であることもだいたい同意できる(実現可能か否かは別として)。
私にとってはここまで、後は観念的な議論の繰り返しにしか思えない。
以下、私的なメモです。
・生産物は、交換されなければ商品にならない。
・そもそも、財・サービスが交換される、という ことはその財・サービスを私的に所有している人 間(人間集団の場合も含む)が存在している、とい うことが前提である。
であれば、所有という観念とその実体について 明確にする必要がある。
・原始共同体(氏族社会?)が他の共同体と交換を 始めるのは、どのような経緯によるものなのか?
とりあえず、カール・ポランニーを再読したほうが良いだろう。 -
柄谷行人の近著『力と交換様式』をめぐって著者による講演、鼎談/インタビューを集めたⅠ、ⅡとⅢでは「文学界」2023年2月号『力と交換様式』を読む(各界識者5名による論考)を収録した。
『力と交換様式』を読んだ人は読んで損はないと思う。手元に置きたい一冊。 -
解説や講演や対談などの寄せ集め。同じ内容のことが反復されるため、慣れてきて何だか分かってきたような気にさせてくれる本。哲学というのか思想というのか、分類がよく分からないが、理解も難しいが、ワクワク感がある。ちょっとマウント取ってる感はあるが、かっこいいはかっこいい。
-
難しくてわからないので、ひとまず放棄しました。
でも、”「暗谷」氏らしさ”は、お変りないようです。
脱線しますが、なぜ柄谷行人氏が「暗谷」氏なのか?
少し古い本ですが、栗本慎一郎氏の『鉄の処女 血も凍る「現代思想」の総批評』(カッパ・サイエンス、1985年)に掲載されたマンガ「そして彼もいなくなった」(高橋春男作)で、柄谷氏が「暗谷」という名前で登場するからです。「暗谷」氏は愉快なお方だと思います。
マンガの一部を紹介しましよう。
マンガが始まって早々、登場者の「平岡」(平岡正明)が妖しい(奇しい)「鉄の処女」に跳び蹴りをあびせたが、あっさり消される(殺される)。
その時、「南陰坊」(南伸坊)が「二枚目は似顔絵が描きにくいんで早めに消されたんでしょ、ハハハ」と言うと、
「暗谷」(柄谷行人)が「だったらオレが最初のはずだ」と言って、南陰坊をポカリと殴る。
マンガの作者は”「暗谷」氏らしさ”をよく捉えている、と思われます。
因みに、「暗谷」氏は、「古本」(吉本隆明)が「ねむるようにあの世にいったのである(寿命だったとゆう説アリ)」となる直前に、
「鋏」(蓮見重彦)と共に「バットでなぐられるというインテリらしい最期をとげ」たのである。
この漫画は、「暗谷」氏が短気だと言いたいのでしよう。(短気な「暗谷」氏については、下記の【おまけ】の記事も参照してください。私には難しい内容です。)
そういう愉快な『鉄の処女 血も凍る「現代思想」の総批評』で、栗本氏は”「暗谷」氏らしさ”について次のように述べています。
<ところで、柄谷を批評したり読解する場合、非常に困ることがある。それは、彼の文体が、多分自分自身でも一体何を言いたいのか不明瞭なのに、何かを言っている――何だかよくわからないけど、少なくとも僕も何かひどく言いたいことがあるけんね、という文体だということだ。つまり、誰かに何か指摘された時に、「オレはそんなことを言っていない」と言って逃げる可能性を、常に残しているということだ。>
栗本氏の「誰かに何か指摘された時に、「オレはそんなことを言っていない」と言って逃げる可能性を、常に残している」という指摘は正しいと思います。合田正人氏の『吉本隆明と柄谷行人』(PHP新書、2016年)を読んでそう感じます。栗本氏が言う通り、「暗谷」氏はトボケているようです。
”「暗谷」氏」らしさ”をよく捉えているという意味で、栗本氏の『鉄の処女 血も凍る「現代思想」の総批評』は一読の価値があります。
参考に、『鉄の処女 血も凍る「現代思想」の総批評』から、”「暗谷」氏らしさ”を幾つか拾ってみます。
<柄谷行人。本名、善男(よしお)。1941年兵庫県生れ。神戸の名門、灘中・高から東大経済学部卒。同大学院英文科修士課程修了。文芸評論家、法政大学第一教養部教授(英語の先生)。(略)二枚目であり、女子学生にも人気がある。(有名な評論家なので、学内にもファンがいて、「ねえねえ、私、柄谷センセーと同じエレベーターに乗っちゃったの」などと、意味なくコーフンする女子大生も多いという。)本人もわりとその気なのか、便所で頭髪をけんめいに直している姿を見られたりしている。マユツバな話であるがアメリカに男の恋人がいるともいう。内向的で自閉的な性格とちょっと酷薄な政治的な性格が共存していてつき合いにくそうな人だと思う。
上杉清文氏のご託宣:変型体位を探究。不可能と聞いただけで濡れてきちゃう学者肌とか。>
<ところで、柄谷はニューアカ、インテリ好きのOLにも人気が高い。では、その魅力の源泉何かといえば、それは、まず第一にその少年っぽいパーソナリティ、次に、もし蓮見重彦の立場から言えば、吉本隆明ではなく、柄谷をこそロマン主義の権化と批判せねばならないほどの自己へのこだわり偏重主義、そして極めつけは、浅田彰の冷たい目から見れば、あの西部邁ではなく、柄谷こそがル・サンチマン(怨念)で思考する男の典型と批判せねばならないほどのセンチメンタリズム、などなどである。
(略)一見するとずいぶん違うようだが、思想家の姿勢としてはまったく同質である。ところが、その柄谷が、浅田と共に西部を激しく批判する。
そのわけは、ル・サンチマンを全面に押し出した感のある西部の仕事を読むと、自分の弱いところが拡大して投影されているかのように柄谷が感じるからに違いない。つまり、自己嫌悪の変形である。
もともと西部と柄谷は、学生時代はほぼ親友といってもよい仲であった。だからというわけではないが、柄谷の西部批判は、けっこう本気である。しかし、絶対に近親憎悪である。柄谷は、自分は怨念をもう少し昇華して出している、と言いたいのだろう。
これと同じようなことは、同じ歳のこの私が柄谷を見ても、感じることだ。柄谷の昇華は、外国の哲学や思想という他人の権威を借りて発言することにより、権威主義に支えられている。それはまさに神経質な秀才思想家という物語の反復なのである。もっと自分の言葉で語ることが、彼には要求されているのだ。
それでは、なぜ蓮見や浅田が、吉本を批判して柄谷を批判しないのかといえば、それはある種の忌避すべき「政治」の中に柄谷がいるということが第一である。(略)
ただ私は、柄谷がタフでないからこそ、自分の友人の編集者が求めるスタイルを維持しているということがよくわかる。よくわかりはするが、結局それは「政治」である。そして友人たちが物語を求めるとすると、柄谷は物語の反復装置として機能していくほかはなくなるのだ。>
<柄谷は近代社会成立期における文学の体制的役割、子ども、家族などの概念を生み出す成立基盤が、意外なほど稀薄であったことを提示した。しかし、そこまでである。ほんとうは、彼はそこから発生してくるはずの諸問題に向かって、さらに進むべきであったのだ。
(略)
このような、柄谷が提起した問題から当然、喚起されるべきすべての問題を、彼はその後、放棄してしまったのだ。
考えてみれば、彼は私と同じように、異世界の存在としての少年性を頑固に残したまま一部分だけ大人になり、大学教授などをやっている人物だ。だから、おそらく我々だけにわかる問題が多いのに、残念である。
ところが、それだけならともかく、その後、彼は突然、グレゴリー・ベイトソンのダブル・バインド(二重拘束)の問題を提起し、さらに、数学者、クルト・ゲーデルの不完全性定理の問題を登場させた。それはそれで重要な問題かもしれない。しかし、これは思想における単なる精神分裂である。本人の意識の中ではつながっていることかもしれないが、少なくとも、取り巻きの編集者やファンにはわかるわけもない飛躍であった。それなのに、わかった顔をする知ったかぶりの取り巻き多いのに、私はどっとシラケた。秀才や天才の物語を期待するだけの馬鹿が、この世には多すぎる。>
以上
********************
【おまけ】
「暗谷」氏と中野孝次氏の対談が口論になったそうです。いかにも「暗谷」氏らしいので、興味を覚えました。しかし、世の中はそういうバカらしいことに気を留めません。お二人の口論に関する情報はほとんどありませんが、やっと見つかりました。
萩原俊治氏のブログより
https://yumetiyo.hatenablog.com/entry/20150515/1431651992
2015-05-15
モッブ
昔、中野孝次と柄谷行人がある文芸雑誌で対談し、大喧嘩になったことがあった。と言うより、この二人は文字通り水と油なので、大喧嘩になるのが分かっているのに、編集者が面白がって対談をさせたという風に私には思われた。
私はこの二人が好きではなかった。
中野の書いたものは、そのお涙ちょうだいの自伝的小説に少し感心したぐらいで、エッセイなどはわざとらしくて読み続けることができなかった。私のいう「わざとらしい」というのは、演技をしているということを意味する。文章を書くときは誰もが多少とも演技をしなければ書けないものだが、中野の場合は、その演技が読者、いや、少なくとも私には透けて見えた。このため、読んでいる方が恥ずかしくなる。作者は演技が見えないように書かなければいけない。私の独断にすぎないが、実生活でも中野の演技は他人には分かったのだろうと思う。中野は愛すべき人物には違いなかろうが、作家としては落第だと思った。
一方の柄谷は中野以上にわざとらしく、そのエッセイは関西の言葉でいう「ええかっこしい」の文章で、わざと難解な文章を書いた。中野がその対談で柄谷に「人が読んで分かる文章を書け!」と罵声を浴びせたが、まさにその通りと私も思った。柄谷の文章は着想は面白いが、読み進めてゆくと、文脈が分からなくなり、何が言いたいのかさっぱり分からなくなる。柄谷のいちばん良くないところは、自分でもよく理解できない思想家などをあたかも分かっているかのように引用しながら、えらそうに断定するところだ。ここでまともな読者は退散する。
若い頃私は素直だったので、柄谷のそういう文章を読んで「たいしたもんだなー」などと感心していたのだが、少しずつ柄谷の文章がインチキだと分かってきて、読むのをやめた。柄谷はこういうこけおどしの文章を書く方法を誰から習ったのか。計算高い編集者などから面白いとおだてられているうち、しだいに、そんな文章を書くようになったのか。柄谷の格好ばかり気にした、内容空疎で非論理的な文章は、ラカンやクリステヴァの文章に似ている。
柄谷がそういう文章を勝手に書いているのは構わないのだが、困るのは、最近、柄谷を模倣する者が増えたということだ。彼らは文脈を無視しながら、平気で非論理的な文章を書く。編集者も売れればいいと思っているのか、その非論理的な文章を直そうともしない。柄谷亜流の人物が書いたものを読む読者が非論理的で文脈の読めない者になってゆくのは明らかだろう。先に「文脈が読めない人」 でも書いたことだが、新聞記者やインターネットの掲示板などで文脈の読めない者が増えているように思う。これは柄谷やラカンなどの間接的な影響もあるのではないのか。間接的な影響というものは直接的なそれより影響が大きい。
ところで、そういう文脈の読めない人が増えていること、それじたいに問題はない。いや、問題はあるのだが、それだけなら、その問題が社会全体に広がることはない。文脈が読めない人は現実を理解できないので、生きてゆくのに苦労するだけだ。問題は、文脈の読めない、現実の分からない人は、必ずハナ・アーレント(『全体主義の起源』)のいう「モッブ(群衆)」になるということだ。モッブとは誰か。それは社会のどこにも自分の居場所を見つけることができない人のことだ。居場所のない彼らは自分が置かれた現実を理解できないため(現実とは居場所のことだ)、自分の欲望を満たすため、あらゆる非合理な、あるいは非論理的な手段に訴える。
要するに、文脈が読めないと現実が分からなくなり、自分の居るべき場所が分からなくなる。そして、居場所がないので、ますます現実が分からなくなり、ますます文脈が読めなくなり、ついには、やけのやんぱちになり、むちゃくちゃを始める。
アーレントが言うように、モッブこそがヒットラーの全体主義を支えたのだ。私は私たちの社会がそういう全体主義社会に近づいているいるような気がしてならない。いや、もうすでにそうなっているのかもしれない。
(2015/05/20:一部訂正しました。)
萩原俊治(id:yumetiyo)10年前
******************** -
交換様式Aの高次元での回復である交換様式Dとは何か? 昔、数学の講義で23次元が理解できなくて悩ましい顔をしてたら、イメージしなくていいと言われた。そして、この学問をあきらめた。今回はあきらめてはダメだよってささやかれている気がする。
-
柄谷行人の原著を読んだ上で読むと、実に面白いし、よりよく理解できる。中でも興味深いのが東畑開人の解説なのだが、これだけで一つの書物になりそうなポテンシャルがあり、にわかには理解できない深みがある。ここをさらにふくらませた本を読みたいところだ。
-
視点と発想の転換。その時々の偉人たちも精一杯生きていた。
0→1 を作り出すことは人生をすべて注ぐことになるかもしれない、事実から真実を解き明かす。 -
著作に関する雑誌記事を集めたもの。微妙に異なる箇所もあるが、基本的には同じ話が繰り返されるのである意味理解は深まる。よって、エッセンスを把握するには丁度よい。
-
p.2023/5/24
-
何よりも柄谷行人の生い立ちを読むことができたのが最大の収穫である。新聞連載もされているが、1ヶ月に2回ほどのペースなので、それは忘れたころにやってくるという感じ。最初からではないがすでに相当汚かった駒場寮にもいたとのこと。そこで廣松渉などとも出会っている。なかなかおもしろい時代だったわけだ。「力と交換様式」については理解が深まったかというと、なかなか難しい。前半は國分さんや斎藤さんとの会話をワクワクしながら読んでいたのだが、後半、5人の書評(これは書評と呼んでいいものなのだろうか)を読んでいると余計に分からなくなってくる。皆さんきっぱりと解説してくださっているのだけれど、特にDについては解釈が大きく異なるように感じる。まあそれぞれが自由に考えて、Dを探し求めていけばよいのだろうか。戦争や恐慌などを乗り越えた後に向こうからくるものと言われると、どうしてもそれだけではなく自然災害が一番影響大なのではないかと思われる。やはり大地震か富士山の噴火か、はたまた地球外からやってくる小惑星の衝突か。あまり大きな声では言えないが、養老先生も相当地震を期待されているようだし、何かそういう大きな出来事が起こらない限り、この「クソみたいな世界」は変わらないのかもしれない。(ちょっとドラマに影響されている。)と思ったけれど、3.11と原発のことを考えると、地震があっても変わらないのか。東京が壊滅しないとダメということか。しかし、東京には知り合いも多くいるし、はあ悩ましい。こういうとき、たいがい自分は大丈夫という変なバイアスがかかっている。ところで、僕にとって柄谷行人は分からないけれど読んでおきたいNO.1で、単行本でも出れば買って読む唯一の著者だ。そう頻繁に出ないからでもあるのだが。
-
【絶望的な未来にも〈希望〉は必ずある】国家と結びついた資本主義を超えることは可能か。世界の成り立ちと反復する歴史の危機を「交換様式」で捉える柄谷理論の源泉に迫る。
著者プロフィール
柄谷行人の作品
本棚登録 :
感想 :
