子どもの体験 学びと格差 負の連鎖を断ち切るために (文春新書)

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  • 文藝春秋 (2025年4月18日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (216ページ) / ISBN・EAN: 9784166614912

作品紹介・あらすじ

「体験格差」という言葉の響きがもつ薄気味悪さを手がかりに、
大人たちを「体験の詰め込み教育」に駆り立てる「呪い」の正体に迫る!

大学入試の変化や非認知能力ブームで、子どもの体験までもが課金ゲーム化している。親たちは体験の詰め込み教育に駆り立てられ、子どもたちは格差意識を刷り込まれる。まるで「体験消費社会」だ。

体験をたくさんしたほうがいいと煽られた結果、お金のある家庭の子どもたちはたくさんの習い事をさせられ、かたやお金のない家庭の子どもたちは遊ぶ相手すらいない状態で地域に残される……。そんな、小学生たちの放課後の分断が、あるNPOの調査結果から浮かび上がってきた。

著者は、100年以上の伝統があるキャンプから、プレーパーク、無料塾、駄菓子屋さんまで、体験を通した子どもたちの学びの現場を訪ねる。現場からは、「体験格差」という概念そのものに対する疑念や困惑や批判の声が相次いだ。

本書は最後に、体験消費社会に対して3つの警告を発する。著者が発する3つの警告について、体験格差解消を掲げて活動する複数の団体からの回答もそのまま収録されている。

みんなの感想まとめ

体験の重要性とその格差について深く考察されている本書は、現代の教育システムにおける「体験消費社会」の問題点を浮き彫りにします。親たちは子どもに多くの習い事をさせることで、良い人生を送らせたいと願います...

感想・レビュー・書評

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  • こどもにより良い人生を送ってほしいという親心から、習い事を選んでいたつもりだが、自分の不安を解消したいだけだったかもしれないと反省。
    共働きで時間をつくるのが難しく、そんなに多くの習い事はさせてあげられないことに後ろめたさを感じていたが、そんな心配よりもこどもが自分で好きなことを見つけていく可能性を信じてあげることが大事なのかも。

  • 体験はないよりはあった方がいいと思うが、今はそれが極端になっているように感じる。周りがそうだと同調されやすいのが人間だし、学校では個性よりも協調性が重視されるために子も親も型にハマりやすい部分があると思う。ただ、理想的な話ではあるが、多くの人々が消費を求める現状で格差を断ち切ることは簡単ではないだろう。子どもに期待して体験をさせるのではなく、子どもがやりたいことを後押しできるような親でありたい。

  • 子どもの習い事について色々悩んでいたので読んでみました。

    内容は、体験格差の定義、社会的な構造などについて書かれています。
    著者が教育ジャーナリストということもあり、教育に関するカタカナも多く、慣れない人はこれどういう意味だっけ?となるかと思います。

    体験格差について考える機会がないまま、TV、雑誌などで取り上げられるので体験(習い事、旅行など)について新しい視点を持つことができました。

    体験についての私の解釈は、以下の通りです。

    体験は、多くしてほしい(チャレンジをしてほしい)。
    しかし、その体験をやる前に子どもの判断でどの体験をするのかを選ぶ機会を設ける。
    やりたいと思わないこと(気持ちが入らないこと)をしても能動的な作業となり、新たな学びにはつながりません。

    親にできることは、この体験の種類を多く提供しすることで、何が自分の好みなのかを判断する材料の提供です。

    あとは、家族で体験するのか、友達と体験するのかなど誰と体験するかを変えることでまた新たな学びになると思います。

  • 功利主義的な発想で子どもたちに習い事などを詰め込むことに対する警鐘。
    どのようテーマでも、資本主義からくる歪みがあるのだと感じる本でした。
    ただ、正しいことをマイノリティが叫んでも、どう世界が変わるのかという虚しさも感じました。

  • 小学生の我が子に体験学習型の習い事や夏休みの体験イベントを熱心に勧めている自分がまさに本書で戒められたような気分だ。

    自分でも知らないうちに、人生や人格の豊かさが子どもの体験で決まるような思い込みがあった。

    ただ、現在の社会では、子どもだけで外で過ごさせる・遊ばせることもできない。公園は禁止行為の注意書きの看板があり実質何もすることができない。外は不審者がいるからと子どもから目を離すことは許されない。親は大抵共働きで、学校が終わったあとは学童に預けられ、外で自由に過ごす時間なんてない。

    そんな環境だから、子どもに習い事をさせなくてはならない。そうでもしないと、子どもは何も体験することができない。我が子も週に3日の習い事があり、友達も忙しいと遊ぶことも難しい。
    社会環境は最悪だ。

    本屋に行けば非認知能力を謳う本が並んでいる。
    「〇〇力」という、ほんとにそんな能力があるのか分からないけど、メディアでは当然のように使われてる。

    非認知能力を子どもに獲得させて、勝ち組にさせたいという誤ったマインドセットはなくしたいと思った。これからは親の価値観を押し付けず、子どもの意思を見守って育てたい。

  • なぜ子どもの体験サービスはこんなに高いのか?
    私も疑問に思っていました。
    子どもが消費者にされている。
    子どもがビジネスに取り込まれている。
    なぜ私たちの社会はそれを許しているのでしょうか。

    今は子どもがやりたいこと、好きなことを見つけてあげることが親の使命のようになり、あらゆる体験をさせて子どもの反応を見ている。そんなふうに、私には見える。

    教育は「親ガチャ」のように言われて、子どもが優秀ではないこと、子どもに頭抜けた取り柄がないことは親の責任のように感じてきた。この本は、そんな視点で子どもを見ていることがおかしいんだよと教えてくれる。

    体験格差を切り口に、なぜ体験が消費される社会になったのか、私たちが煽られて体験させなきゃと思わされているかを説明してくれる。

    負の連鎖を断ち切るためには、子どもたちを体験の数で比較して、数が少ない人を支援するのではなくて、社会に包摂してあげることの大切さを説く。

    社会を良くするためのアプローチを、知恵を絞って考えるきっかけを与えてくれた。

  • ネット上でみたこの本のための五味太郎の談話(というか毒舌)↓がよかったので読んでみようと思った。

    「体験格差」という考え方が親たちを体験への課金に駆り立て子どもに格差意識を刷り込んで「体験詰め込み教育」「体験消費社会」を加速しているのではないか、という懸念・危惧を全面に出しつつ、その「呪い」の正体に迫り処方箋を提案する本。
    たしかに、食べるにも事欠くとか家庭で親が料理する姿も見たことがない、というような最低限の体験の欠如への手当は必要かもしれないが、一般的には大小の体験にいいもわるいもなければ、多ければ多いほど豊かというものでもない。「コンピテンシー/非認知能力」だって、あまりに総花的すぎてけっきょくなにも言ってないに等しいし、まずは大人が落ち着こう、という話。

    「大人のよかれは子どもの迷惑」というのはわたしもずっと思っていることで、いまは大人も子どもも将来の幸せや成功のために「今」をあまりに犠牲にしているのが息苦しさの正体の一つだと思っているので、著者の提言はおおむね共感できるものだった。どんなによかれと思っても「与えられた」「させられた」と感じてしまったら得らるものは意図したものとまったく異質になってしまうと肝に銘じたほうがいい。五味太郎のいう「上品だと言われるものばかりを見ている下品さ」というのも言いえて妙だった。

    一冊読み通せば、衣食住の世話と安心できる家庭さえあればシンプルにほうっておいても子は育つのに(むしろ勝手に育っていくのに)、おとなになったときに困らないよう計画的に勉強させ学力をつけることも、さまざまな体験をする機会を作るのも、すべて家庭の責任のように思わせる(そして子どもは与えられたものをこなすのにいっぱいいっぱいで疲れ切っている)今の世の中に、自信を持って「ノー」を言うための理論武装になる。「学歴社会からさらに広い能力を含む序列化社会、ハイパー・メリトクラシーへ」「競争社会を内面化したキー・コンピテンシー/非認知能力」「体験=(能力主義にもとづく競争社会を生き抜く武器としての)非認知能力を得るための手段」という思い込みの呪い、「消費者マインドの内面化」⋯こういう言葉が理解できかつ説得力をもつタイプの人にまずはとどき、少しでも立ち止まる人が増えるといいいなと思う。世の中をひっくり返すのは不可能だしその必要もないけど、今の風潮は眉唾だしちょっと行きすぎだな、と思える人はもっといたほうがいいと思うので。

    五味太郎×おおたとしまさ(書籍非掲載部分も含めて再構成したインタビュー)
    https://bunshun.jp/articles/-/78280

    西野博之×おおたとしまさ(書籍非掲載部分も含めて再構成したインタビュー)
    https://bunshun.jp/articles/-/78234

  • 同じく新書で話題となった『体験格差』と同類かと誤解される向きもあるかもしれないが、本書は逆に「体験格差」なる概念が子どもの世界に持ち込んでしまう諸々に対して大きな懸念を示す。
    世代を超えて経済的な格差が受け継がれ固定化されてしまうのは問題であるとの前提は共有した上で、各家庭の抱える細かな違いを揃えることでかえって競争の結果の正当性が強調されてしまうことにならないか?様々な体験を外注することで得られる結果が保証されているかのような倒錯が起きていないか?そもそも体験で得られるとされる「非認知能力」とは何なのか?など、著者の様々な疑問を子ども支援の現場で奮闘する人々とともに議論する。
    最後には著者が違和感を感じる『体験格差』の著者にも直接疑問をぶつけ回答を得ている。言いっ放しではないところに好感を持てる。

  • 学力などの認知能力だけでなく、非認知能力までも経済的豊かさを基軸とした評価をし、その能力を獲得するための体験を提供する。教育が社会に必要な人材を供給する、という上からの視点が根底にあると、子どものいいこと思いついた!が無視され、能力開発のための投資対効果に目がいってしまう。そうではない。子どもがやりたい、と思うことを体験できる環境を整えること。そのために人間の評価軸を経済的なものだけでなく多面的に捉えること。
    木材や食材は皮を剥いで加工しやすくなったもの、人材は?という例えが秀逸。

  • 【要は各家庭で抱え込みすぎ】

    五味太郎氏と著者の対談記事を目にしたのがきっかけで本書を購入。
    非認知能力の高さが収入に影響するという言説、
    「体験格差」という薄気味の悪い概念の正体に迫る。

    体験を「消費」する社会とはーー
    社会は本来、助け合い支え合うための場なのに
    いつしか競い合う場になってしまった。
    将来の成功のために
    子供に体験をさせて「あげる」ことで、
    社会を勝ち抜ける人間に武装させようとする。

    子育ての家庭依存が進みすぎていることも
    親の不安を駆り立てる。
    あの子は体験も習い事もたくさんしているのに
    うちの子には「してあげられてない」。
    このままだと子供の将来の選択肢が狭まってしまう。

    村全体で子供を育てれば、偏りが補正される。
    直接子供にかかわる大人を増やすべきだ。

    子供の未来を案じすぎず、
    今、子供が目を輝かすものに時間を割いては。
    五味太郎氏のように下心やメッセージ性抜きで
    子供と同じ目線で楽しむことが大人の役割なのだろう。

  • 「わが子にどんな体験をどれくらいさせるべきなのだろうか」と頭を悩ます親御さんは、ぜひ最後まで読んでほしい。本書を読む前、わたしは自分の子どもに非認知能力を高めるための体験をたくさんさせてあげたいと思っていた。でもそれは結局、「体験格差」という名をつけて必要以上に不安を煽るSNSやメディアに日々接し、消費型社会・競争社会・能力主義を前提にした社会の歪みに気づかないわたしが焦っていただけだった。体験の回数や金額が将来のためになるとは限らない。教育的な意図をもった体験をさせたら親自身は満足するかもしれない。それよりも、子ども自身が学びたいことを学びたいだけ学べることができたらいいと思えるようになった。

    昨今、大多数の中間層(だと思わされている)の子育て世代が、非認知能力ブームを土台にした、習い事、文化体験、社会体験、自然体験などの子どもたちの体験ブームに課金している。
    もちろん、一児の母として、子どもを自分より優秀な子に育てるためにあらゆる手を尽くしたいと思う気持ちはよく分かる。海、動物園、水族館、科学館、餅つき、体操教室、クッキング、犬との触れ合いといった様々な場所に3歳にも満たない子を連れて行き、実家で野菜の収穫(ピーマン、ナス、ブロッコリー、大根、カブ等)をさせては良い経験になったと満足しているわたしこそ『幼児教育の経済学』を読まずして、「幼児教育は投資効果が高い」という噂を信じていた愚か者である。実はそれは「アメリカの貧困家庭において、幼少期に適切な教育プログラムを提供することで、彼らが将来的に社会からドロップアウトしてしまう可能性を減らす効果が期待でき、社会全体として投資効果が大きい」という意味である。それを日本では、幼児教育にお金をかければ偏差値が上がり将来の年収が増えると誤解している人が多いとのことだったが、まさにわたしのことだった。

    さらに、著者と行動遺伝学の安藤氏の対談を読み、「社会的経済的地位に代表される“生まれ”による影響さえ打ち消せれば公正な競争が実現する」わけではないのだと分かった。なぜなら世の中は「たまたま知能や学力に関して有利な遺伝的特性をもったひとたちが圧倒的に有利な社会構造になっている」ことが問題であり、「本質は、教育を受けたあとに待っている社会の豊かさとか平等性の問題」なのだ。

    わたしの友人に子ども食堂に批判的なひとがおり、理由を聞くと「子どもにご飯を食べさせたからといって、根本的な貧困の解決にはならないから」とのことだった。経済的に恵まれない家庭を支援することで目の前の問題は解決するかもしれないが、既得権者によって守られてきた、職業や出身大学により賃金格差ができるような社会構造自体を変えていかなければ経済格差はなくならないのだと、本書を読み、痛感した。

    p20
    ヘックマン氏は著書『幼児教育の経済学』(東洋経済新報社、古草秀子訳)で「意欲や、(期的計画を実行する能力、他人との協働に必要な社会的・感情的制御といった、非認知力」との表現を使用している。これが一般に、ヘックマン氏が意図するところの「非認(能力」の概念であると解釈されている場合が多い。
    また、ヘックマン氏の研究を紹介してベストセラーになった教育経済学者の事教物子さ
    んの著書『「学力」の経済学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)にある「非認知能力とは何か」という図表には次のような項目が並ぶ。
    ・自己認識
    ・意欲
    ・忍耐力
    ・自制心
    ・メタ認知ストラテジー
    ・社会的適性
    ・回復力と対処能力
    ・創造性
    ・性格的な特性(Big 5)
    「性格的な特性(Big 5)」とは、「外向性」「情緒安定性」「開放性」「勤勉性」「協調性」のこと。さらに中室さんは同書の中で、重要な非認知能力として「自制心」と「やり抜く力」を挙げている。
    非認知能力という言葉が、「コンピテンシー」「ソフトスキル」「ライフスキル」「ソーシャル&エモーショナルスキル(社会情動スキル)」などに置き換えられることもある。
    それらを機成する要素として、ある学者は「自尊心、自己肯定感、自立心、自制心、自信、協調性、共感力、思いやり、社交性、道徳心」などを挙げるし、またある学者は「失敗から学ぶ力、人と協力できる力、違いを柔軟に受け止める力、新しい発想ができる力」のようなものを挙げる。別の学者は「目標や意欲・関心をもち、粘り強く、仲間と協調して取り組む力や姿勢」と表現する。
    要するに、非認知能力に分類され、将来社会で有用に働くと期待される能力は、無限に存在する。これらすべてを身につけさせようなんて考えたら果てしない旅だ。非認知能力という機念がインフレーションを起こしている。
    ここで学者ではない無責任な立場を利用して、私なりに大胆に「非認知能力」を定義させてもらうならば、「これからの時代をたくましく生きていくうえで子どもたちが身につけるべきだと大人たちが思い込んでいる、存在するのかどうかすら怪しい曖味な力すべて」となる。数式的に表現すれば「生きる力=認知能力+非認知能力」と表現できる。
    ただし、非認知能力を身につけること自体は決して難しいことではない。非認知能力という概念から私たちが確認すべきは、要するに、親子で楽しく会話をするとか、子ども同土で自由に遊ぶとか、おうちでお手伝いをするとか、習い事や部活を一生懸命やるなど、いわゆるお勉強以外のこともバランス良くやったほうがいいという当たり前のことだ。
    ヘックマン氏の結論は、「幼児教育は投資効果が高い」である。あくまでもアメリカの貧困家庭において、幼少期に適切な教育プログラムを提供することで、彼らが将来的に社会からドロップアウトしてしまう可能性を減らす効果が期待でき、社会全体として投資効果が大きいという意味である。
    従って、そのまま日本の社会に適応できるものではないとの意見が一般的だ。ましてや幼児教育にお金をかければ偏差値五〇の子供が偏差値六〇になるというような話ではない。だが、「幼児教育は投資効果が高い」という言説だけがひとり歩きし、幼児教育にお金をかければ非認知能力が高まって将来の年収が増えるかのような幻想が広まった。この「誤解」が現在の非認知能力ブームを招いたといっても過言ではない。
    そしていま、その非認知能力ブームを土台にして、習い事、文化、体験、社会体験、自然体験などの体験ブームが起きている。その盛り上がりは、かつての右脳教育ブームを彷彿とさせる。

    p42
    競争社会と能力主義を前提に、「体験が少ないと格差社会の"負け組”になってしまう」と煽られれば煽られるほど、子どもにもっと体験をさせなきゃいけないんじゃないかという不安が強くなることは容易に想像できる。不安から、「もっと!もっと!」「子どものためだから」と子どもに体験させる親が増える。社会全体が強迫症状に陥る。
    そもそも競争社会では、競争に負けたらどうしようという不安が常につきまとう。不安を解消するために、新たな能力を身につけなければいけないという強迫観念にとらわれる。
    次から次へと新たな能力を身につけずにはいられない強迫症状に陥る。競争社会に身を置く限り、そこから抜け出せない。
    バブル経済崩壊後、競争によって社会に成長をもたらすのだと喧伝されたことは先述のとおりだ。その負の側面として、いま、私たちが暮らす社会そのものが強迫症状に陥っていると言っても過言ではない。にもかかわらず、経済成長はしていない。

    p42
    高三の一二月までに結果が分かることから、学校推薦型選抜と総合型選抜合わせて「年内入試」と呼ぶことも一般的になってきた。
    文部科学省の発表によれば、二〇二三年度の国立・公立・私立大学入試において、学校推薦型選抜と総合型選抜からの入学者の割合は半数を超えている。内訳を見ると、国立で約二割、公立で約三割、私立で約六割。実施率で見ると、国公立大学であっても、九割以上が学校推薦型選抜を、約六割が総合型選抜を実施している。
    年内入試では、高校での成績に加え、志望理由書や小論文、面接などが評価対象にさわることが多い。文部科学省のホームページによれば、学校推薦型選抜とは「出身高等学校長の推薦に基づき、調査書を主な資料として評価・判定する入試方法」、総合型選抜とさ「詳細な書類審査と時間をかけた丁寧な面接等を組み合わせることによって、入学志願者の能力・適性や学習に対する意欲、目的意識等を総合的に評価・判定する入試方法」。
    年内入試において受験生は、なぜその大学のその学部を目指すのか、そこで何をどんなふうに学びたいのかを、自分の言葉で表現しなければならない。説得力をもたせるためには、自分が肌身で感じた実体験が鍵になる。大学生が就職活動で「ガクチカ」をアピールするのと似ている。(中略)
    総合型選抜対策を行う塾では、学校での探究学習や課外活動での体験を志望理由書や小論文の題材にする方法を指導する。それだけではない。一部の塾においては、総合型選抜に出願する目的で、NPOでのボランティア活動や海外スタディーツアーへの参加を斡旋するケースも見受けられる。
    露骨なところでは、「大学が求める学生像から逆算した課外活動をすれば合格できる」と豪語する業者もある。大学入試突破のための体験斡旋である。本末転倒も甚だしいが、それだけニーズがあるのだろう。

    p44
    「大学には、ディプロマ・ポリシーとカリキュラム・ポリシーとアドミッション・ポリシ
    ーがあります。学校推薦型選抜や総合型選抜では、受験生がアドミッション・ポリシーを満たしているかどうかを見るのであって、数学オリンピックで世界大会に出場したとか、高校時代に起業したとか、そういう尖った体験だけを求めているわけではありません」
    ディプロマ・ポリシーとは、卒業認定・学位授与の方針のこと。カリキュラム・ポリシーとは、教育課程編成・実施の方針のこと。アドミッション・ポリシーとは、入学者受け入れの方針のこと。この三つのポリシーが一気通貫している。募集要項にはアドミッション・ポリシーが明記されている。
    「大切なのは、体験のコンテンツではありません。体験を通して自分が得た価値観をもとにして自分が何を思考しどう行動を変え、それをどう大学での学びにつなげたいかというプロセスを言語化できることです。体験そのものよりも、自身の体験を言語化する能力を見ているといっても過言ではありません。そもそも大学とは、暗黙知を言語化して形式知に変え、さらにそれを言語によって共有して新しい知を生み出すところだからです」
    その意味では、学校で部活や委員会活動を頑張ったという体験でも十分。病気をして長期間学校を休んだ体験や、両親が離婚した体験など、一般的にはネガティブにとらえられがちな話題でも構わないという。逆に体験斡旋業者にいくらお金を使っても、付け焼き刃の体験では入試を突破するのは難しいと指摘する。
    「そういう業者があることは大学教員もみんな知っていますし、業者に頼った受験生はすぐにわかります。ひな形通りの体験をして、ひな形通りの教訓を得て、ひな形通りの志望理由書を書くからです。そういう受験生が語る体験には、自身の人生との一貫性も感じられません。その手の業者を利用して合格する受験生もいるかもしれませんが、彼らはそんなことをしなくても合格できたと思います。お金がもったいないですね」
    ひな形通りの作文ならAI(人工知能)でもできる。総合型選抜対策の塾の本来の役割は、華々しい体験をさせることではなく、受験生本人の人生に起きた実際の体験の意味を掘り下げる「壁打ち(対話)」の相手になり、それを言語化する術を授けることなのだ。
    「自分の興味がある体験にお金をかけること自体は悪いことではありません。でも、わざわざ業者に頼ってお金をかけなくても、大学でこれを学びたいという強い思いがあるならば、その思いに至るきっかけをつくった体験は身の回りにあるはずです。(後略)」

    p47
    体験の比重が大きい海外の大学入試対策
    日本の大学入試改革は欧米型大学入試への転換を意味するので、ここで少しだけ欧米の
    大学入試について触れておこう。
    たとえばアメリカの大学を受けるには、(一)SATまたはACTと呼ばれる学力テストのスコア、(二)GPAと呼ばれる学校の評定平均、(三)教科学習以外の課外活動記録、(四)大学共通または個別テーマの小論文数本が必要だ。
    名門大学を目指すのであれば、高校の成績(GPA)や、SATやACTといった共通のテストのスコアはすべてトップレベルでなければならない。SATやACT対策のための塾や家庭教師サービスもある。さらに、大学へ提出する共通願書(コモンアップ)で課外活動について書く欄は一•項目。そこに空欄をつくらぬようさまざまな体験活動に計画的に参加する。
    左記は、ニューヨーク在住の知人の子どもが実際にコモンアップに書いた活動の一部だ。
    彼は名門スタンフォード大学に合格した。
    ・サマーキャンプでのボランティア経験
    ・モロッコでのフランス語研修とホームステイ
    ・大阪での日本語研修とホームステイ
    ・フェンシング部での実績
    ・海洋生物学クラブでの大会実績
    ・アフリカン・ダンス
    ・トロンボーン演奏
    なかでもサマーキャンプでのボランティア経験は強いアピールポイントになったという。第七学年(日本の中一相当)から第一〇学年(同・高一相当)まで四年間キャンパーとして参加し、第一一学年と第一二学年(同・高二と高三相当)では、子どもたちの世話役のジュニアカウンセラーというボランティアの立場で参加した。知人の場合、奨学用は免除されたが、通常なら一夏で一〇〇万円以上かかるキャンプブログラムだ。高校によっては、大学受験対策も視野に入れて、このようなボランティアを必須にしているところもある。日本もいずれそうなるのかもしれない。

    p65
    行動遺伝学の立場から見れば、子どもの学力に対する影響力は、遺伝が約五〇%、家庭環境(親の社会経済的地位など)が約三〇%、残り(いい先生と出会う偶然や本人がえられる要素)が約二〇%です。親の社会経済的地位に由来するように見える影響のうち半分くらいが、実は遺伝的要因の反映(環境と遺伝の受動的相関)だということもわかってきています。

    p67
    たまたま知能や学力に関して有利な遺伝的特性をもったひとたちが圧倒的に有利な社会構造になっている。

    p70
    安藤 学力のような特定の能力の高いひとほど有利な立場に立つ権利があるとする能力主義は、遺伝的不平等がそのまま社会的不平等になるという意味で、成立させてはならないことだと考えています。
    おおた 行動遺伝学の立場からすれば、公正な競争に基づく能力主義という概念自体が幻想であると。そんなことを追い求めても出口が見つかるはすがないと。
    安藤 そうです。代わりに、どの領域にもその領域において有能なひとが配置され、その能力をさらに高めるように教育されることが望ましいという意味での〈能力主義〉は歓迎されるべきだと思います。その結果として、どんな能力の持ち主でも、社会のどこかでその有能性が発揮され、それによって極端な貧富の差や機会の不平等が生じない社会となっていることが必要だと思います。
    おおた 社会的経済的地位に代表される“生まれ”による影響さえ打ち消せれば公正な競争が実現すると思い込んだままだと、そっちに希望を感じちゃうから、いまの社会の現実を変えなければいけないというモチベーションが相対的に抑制されています。知能や学力の半分は遺伝で説明できちゃう以上、公正な競争なんてありえないんだという事実を直視することで初めて、この社会の現実を変えるほかに道はないんだと背中を押されます。みんながそれに気づけば変わるんじゃないかと私は考えています。

    p72
    教育格差というと教育問題のように思われがちなんですが、本質は、教育を受けたあとに待っている社会の豊かさとか平等性の問題なんだと思います。

    p76
    “生まれ”が学業成果に大きな影響を与えていることを、教育社会学は明らかにした。(中略)「公正だと思われていたペーパーテストとて、実は上流階層に有利なように設計されたしくみだった」と読み解くべきだ。

    p148
    (前略)子どもたちは、場と大人の使い方を学んでいた。それができれば、お金がないことは、人生において何かを諦める理由にはならない。場と大人の使い方を知っているとはすなわち、「社会」の本来あるべき姿を知っているということだ。

    p167
    親に言われたことではなくて、自分で興味を持ったことをとことんやる子でした。自分一人でやるのが難しいときは、大人の力を借りることもできる。それで、自分の道を切り開いていけるのだと思います。
    もし幼少期の「体験」に格差が生まれるとしたら、そういうところじゃないですか。

    p179
    つまり、お金ではなくて、学校以外の場所と時間で子どもたちがのびのびと学ぶ環境を守ってあげられる大人たちが足りていないことが、根本的な社会課題なのである。YMCAの阪田さんが言っていた意味での「余裕」がいまの社会には足りていないから、経済的に弱い立場にある家庭の子どもたちを包摂できていないという社会構造の問題なのだ。大量に消費できるひとになるための競争には際限がないから、いくらできるようになっても「余裕」が生まれないのは当然だ。
    子どもたちの放課後や休日に十分な時間・空間・仲間の「三間」があれば、子どもたちは子ども同士で学び合うことができる。さらに何気ない日常生活のなかにすら多くの気づきをもたらしてくれる洞察と知恵と余裕のある大人たちが近くにいれば、子どもにとってはすべてが体験になり、学びになる。でもいま、三間も大人も足りない。それをアウトソーシングしようとするから、つまりお金のかかるサービスで埋めようとするから、お金が必要になる。お金が必要だから、放課後や休日の過ごし方が、貧困問題と結びついてしまう。それで、お金のかかるサービスを利用する機会の多募(多い・少ない)が、あたかも“体験”の“格差”に見えてしまうのだ。
    さらに、体験に非認知能力獲得という機能が紐づけられ、非認知能力に将来の経済的成功が紐づけられ、体験機会の格差が経済格差の世代間連鎖と紐づけられて語られるようになった。それで、体験の機会の多寡の差をなくすこと自体が目的であるかのような錯覚に、社会全体が陥ってしまったのである。

    p182

    p180
    (前略)本来的に変えなければならないのは、教育の結果得られた“能力”のように見えるもので大人になってからの収入や社会的地位が決定づけられていまうしくみではないか。教育によってそれぞれに花開いた才能を最大限に活かせる職業にみんなが就けるようにするのはもちろん、職業による収入の差が大きくならないような社会を設計すべきなのである。そうすれば経済的な格差は縮まり、仮に学力の差や非認知能力の違いはあったとしても、みんながそのひとらしく尊厳をもって生きることができる。
    最終的な目的はあくまでも、誰もがそのひとらしく尊厳をもって幸せに生きられる社会の実現である。教育格差や体験格差の「差」をなくすことは、理想の社会を実現する手の一つにはなり得ても、目的では決してない。そこを取り違えてはいけない。
    本来、子どもが自分にとっての幸せを知るために人生のさまざまな体験がある。大量消費社会において構築された“幸せ”の形に近づくために消費したり、そのために必要な収入を得たり、そのために必要な非認知能力を獲得したり、そのために必要な体験をしたりするのではない。まったく逆だ。
    よって、能力主義にもとづく競争社会を生き抜く武器としての非認知能力を得るための手段として体験を位置づける議論をいくらしても、子どもたちは幸せになれない。むしろもっと息苦しくしてしまう。これは本書の中でもトップクラスに強調しておきたい点だ。
    元来、社会は助け合いのためにできたのであって、競争の場ではない。教育は、知的財産を惜しみなく共有するために行われる営みであって、子どもたちを武装させるたのではない。そもそも人間個人の中に『能力"のようなものが他人と比較可能な形しているわけではなく、多様な環境や人間同士の複雑なかかわりあいのなかで、の持ち味が引き出されるのだ。
    子どもが自分にとっての幸せに出合う体験をするために必要なのは、体験そのものの機会でもお金でもなく、まわりにいる大人たちの洞察、知恵、工夫、機転、受容のようなものだということが、本書のさまざまな事例からわかる。それこそ非認知能力だ。子どもに非認知能力を身につけてほしいと願うなら、まず大人が、非認知能力を発揮しなければならない。大人たちが非認知能力を発揮するのを見て、子どもたちもそれを学ぶのだ。
    さらに、大人たちがいろいろな幸せを体現しているのを見て、子どもたちは自分の幸せを選びとる。ならばまず大人が、この社会を支配する能力主義、競争社会、功利主義、消費型社会のような暗黙のルールそのものを疑い、その外に出て、自分にとっての幸せをそれぞれに見つけなければならない。だが五味さんが指摘するように、みんながそれをさぼっているから、暗黙のルールの中でこそつくり出される格差が世代間連鎖するのだ。
    他人に幸せのモノサシを決められてそれに沿うように生きるのも、自分自身で自せのモノサシを見つけなければならないのも、実際にはどちらもしんどいことではある。でも格差のない社会を目指すなら、論理的な結論として、後者を選ぶよりほかはない。

    p210
    最後に、「わが子にどんな体験をどれくらいさせるべきなのだろうか」と頭を悩ます親御さんたちへ。大人が先回りして体験を用意してあげなくても、子どもは子ども同士で学び合う。その子にとって本当に必要な体験は、その子が自分で見つける。一回や二回チャンスを逃しても、その子にとって本当に必要な体験のチャンスは何度でもやってくる。何かを体験できなかったからといって、何かが足りないまま大人になるなんてことはない。大切なのは、体験の回数やかけた金額ではない。どんな関係性のなかで、どんな気分で体験するかだ。そしてこの世界とのかかわりのなかで、知らなかった自分と出会うことができるかどうかだ。
    親から何かを提案するならば、将来のための損得勘定を抜きにして、家族でこんな時間を過ごせたら楽しそうだなとか、こんな思い出を残せたら素敵だなというイメージが湧くことをすればいい。あるいは純粋に、親自身が大好きなものを紹介するつもりで、子どもを誘ってみればいい。
    支えてくれる大人がまわりにいれば、一見ネガティブな体験からも子どもは多くを学ぶ。
    生きていればすべてが体験。子ども自身が世界と向き合い、試行錯誤し、感動し、打ちのめされる体験を通して何かを学んでいる横顔を、そっと見守ってあげることができれば、親としてそれ以上すべきことはない。それ以上すべきではない。

  • 「体験格差」なんてないんだというお話。
    説得力があり、体験の量や質を格差だと感じてしまう日本社会全体への提言でもあった。
    自分自身の少年期を振り返ってみても、著者の言っていることに凄く共感できた。
    子どもにとってはあらゆることが体験であり、それを見守れる余裕のある人間が必要なんだと思った。

  • 体験消費社会か、確かに頷ける。非認知能力を獲得するために体験を用意するのではなく、日常の中で子ども自ら興味あることを伸ばしていける環境を作っていきたい。あくまで、あまり手を出さないように。今後、出来るだろうか、不安だが大切なことだ。

  • 「光る泥だんご」のドキュメンタリー番組の中で、
    担当ディレクターの「光るだんごっくりが子どもの将来にどうゆう影響をもたらすのか」の問いに対して、著者の加用文男さんは
    「これをやったからと言って、それが何かにつながって将来こういうふうに良い結果が出るなんてことは、考えたくもない」と返された。
     このエピソードに「おっ」と反応される方にぜひおすすめです。

  • まさに子供が生まれた今、自由型選抜が増えてきたから習い事たくさんさせた方がいいのかな〜と考えていたところで読むことができて運が良かったかも。どんどん体験の機会を与えてはどう?楽しかった?と聞いてしまったかもしれない、、子供が自らやりたい!と言ったことにはなるべくサポートして、あとはほどほどに見守ろう、、

  • 結論は第1章ですでに出ているようで、その根拠をたくさん書きましたという印象。
    経済格差と子供の体験や学びが直結する社会はよくないし、子供に習い事をたくさんさせたり、目先の利益を見据えた体験をさせるのも良くないのはわかる。

    親になって気づいたのはとにかく子供を待つ、子供に合わせるがとんでもなく疲労する。だから習い事って楽だよね。だってお金払えば子供は習うものに興味を示すし。私も間延びした時間過ごさなくていいしと。その結果、習い事させちゃうご家庭もあるのかなと思う。みんな共働きですし。
    しかし、「おわりに」の2つの幼稚園の比較。これは書き方としてどうなんだろう?とも思った。うち小学校受験予定ですが、まるで小受予定は全員目が死んでますとでもいうかのような書き方ですな〜と思った。
    そして、この人の書き方なのか、このシリーズの特徴なのかわからないが、強調したい部分に点つけるのいいけど、文章まるごとに点をつけすぎて行間狭すぎて読みにくい…点が目に入るたびにチカチカします

  • 述べられていることは非常に興味深い。
    確かにそうだとも思える。
    ただ、ではどうすれば良いのかというところで最後に結局親としてできることは、教育的な意図を持った体験はさせなけても育つから、先回りして出来上がった体験をさせなくても大丈夫というのは理想論すぎるように感じた。
    とはいえ周りがやっていると焦るのが親である。
    そこで、うちはそんな体験させなくても大丈夫と自信を持って抗える親が果たしてどれほどいるだろうか。
    子どもに非認知能力を身につけて欲しかったら、まずは親が身につけろというのも投げやりすぎる。
    では親になってからの非認知能力はどのようにつけたら良いのかと考えてしまう。
    読了後も路頭に迷ってしまう。
    言っていることはよくわかるが、現実的に難しいだろう特に経済格差が酷い都市部では。というのが、この本を読んだ素直な感想でした。

  • 内容に同意しかなかった

    というか、今の都市部の子育てってこんな感じなのか笑

    田舎育ちゆえ、ここにかかれてる理想的な環境そのもので育ったからこそ、自分が親になった時もその環境になりたいと改めて思った

    あとやっぱり、大人に余裕がない社会の皺寄せが子どもにいってる気がしてならない…

  • ママ友の子供で、習い事を5つとか6つとかやっていて土日ハシゴしたりしていてすごいなーと思っていた。自分の子供にももっと習い事をさせたいと思っていたところだったので、本書はなかなかに今の私にグサグサと刺さるところが多かった。

    習い事のあとで「どうだった?」と聞くのは答えを強制しているようだからよくない、というのが印象に残ったので実践しようと思った。私もやってたし。

    でも。本書を通読して、やっぱり女は子供を産んだら(少なくともしばらくは)主婦になって、いつでも子供に向き合える余白の時間を作るのがいいかなあ、と思い至り、そう自分が思ったことが、よい事なのか悪い事なのかは…分からなかった。もしかしたらこの本、ワーママさんたちは読んでいてつらくなることがあるかもしれない。

    決して著者の結論がそう言ってるわけじゃないんだけど。でも私にはそう読めた。

    著者はおそらく聡明な人だから、そう断言しない品性を持ち合わせているだけ。

    (夫に余白の時間がたくさんあって私が稼ぐのもよいのかもしれないけれど、そういう男の人が夫だったら私はいずれ尊敬できなくなるだろうなあ。。)

    インタビューしている人たちの活動が楽しそうで行ってみたくなった。一方でちょっと左翼っぽさというか、なんだろう。そういうのも感じた。今のままでよいんだよっていう全肯定してくれる場所はもちろん必要だと思うけれど私はやっぱり上に向かって努力できる人間が好きだし子供にもそうあってほしい。と思うのは親のエゴなんだろうか。

  • 【子どもにとって本当に必要な体験とは何か?】なぜいま「子どもの体験」が課金ゲーム化しているのか。「体験格差」という言葉の薄気味悪さを手がかりにその諸悪の根源に切り込む。

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著者プロフィール

おおたとしまさ:教育ジャーナリスト。1973年東京生まれ。リクルートで雑誌編集に携わり、2005年に独立後、数々の育児・教育誌のデスク・監修・企画・編集を務め、現在は教育に関する書籍執筆および新聞・雑誌・webメディアへの寄稿を行う。テレビ・ラジオなどへの出演や講演も多数。心理カウンセラーとしての活動経験、中高の教員免許、私立小学校での教員経験もある。著書は『ルポ名門校』(ちくま新書)、『勇者たちの中学受験』(大和書房)、『不登校でも学べる』(集英社新書)など80冊以上。オフィシャルサイト:http://toshimasaota.jp


「2024年 『学校に染まるな!』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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