本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
Amazon.co.jp ・本 (272ページ) / ISBN・EAN: 9784167102050
みんなの感想まとめ
人間の内面や生きる意味に迫る深いテーマが描かれた作品で、主人公とその婚約者の葛藤を通じて、理想と現実の狭間で揺れる心情が丁寧に描写されています。学生運動の時期という特異な背景を持ちながらも、登場人物た...
感想・レビュー・書評
-
芥川賞を獲った作品に興味を持ち、手に取る。
昭和のベストセラーだという一作。勉強不足で作品名も知らなかった。
学生運動時期を投じ、挫折し大学に戻った主人公。そして、その幼なじみである婚約者。
その二人が中心となった物語。
理想に生きる自分、現実に折り合いをつける自分。常にこの二軸に悩む登場人物達。
学生時代だからこそと言えるセンシティブでナイーブな心情が揺れに揺れていく。
美しい描写と僅かな比喩で、儚い世界観が作られている。
生きる意味とは?という根源的なテーマが扱われている良い小説だった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
今まで読んだことのないような種類の本を初めて手にしたきっかけは池袋のジュンク堂の一角にあった本棚だった。
本音屋と書かれたその本棚には黒い本が立ち並び
自分の本音と向き合うため、タイトルも見ずに本を買うというものだった。
読んでみての感想だが、
今までの自分だったら第1章の途中で
積読と化しているだろう。
どうしても文章が馴染まないのは
知識に乏しい想像しずらい時代の話だからだろうか。
それでも最後まで読破できたのは
ところどころ共感のできる、または、
言語化できていなかった気持ちを表してくれていた
ことに感動できたからだろうか。
この本を読み終えた時に初めて表紙と帯をみたが、
この本を読み終えてマッチングアプリを
登録できる人はどのような解釈で
この本を閉じたのかがとても気になった。 -
「されど我らが日々」
始
私はその頃、アルバイトの帰りなど、よく古本屋に寄った。
終
荷物を送り出してがらんとした部屋の中に、夕暮れが入ってきた。この部屋で暮らすのもあと一日二日だ。だが、それでいい。私たちは毎日毎日全てのものに別れ、それによって、私たちの視野はなおのびやかになるだろう。
少し湿っぽくなってきたようだ。窓を閉めよう。東北の方は、まだきっと寒いのだろう。雨の日など、節子の傷の痕は痛まないだろうか。もし痛むのなら、抱いて暖めてやりたいのだが_。
「ロクタル菅の話」
始
ねえ、君。君はロクタル菅を知っているかい。
終
「アノトキノオマエハドオシタカ」
「アノトキノオマエハドオシタカ」 -
今さらって感ですが、ストーリーを例によって忘却、で、もう一度読むとまあ、こそばゆくなんか気恥ずかしい。
斎藤美奈子さんが『文庫解説ワンダーランド』に「党」だの「六全協」だのの解説ぬきでは現代の若い人にはわからないだろうと書いているが、それはわたしにはないけども(やや同時代なので)でも、革命的暴力にあこがれながらもそこまで没入できない弱さがあったのに、党が路線変更したので肩透かしをされ悩む、なんて言ってる不甲斐ない弱さはわからない。
そんな語り手(大橋文夫)がアンニュイになって大学に戻り普通の就職を目指して、あげく幼馴染と普通に婚約までして、でもなんだかぎくしゃくって、甘ったれもいいところだろう。その婚約者が自立してしまうのは当たり前なんだよ。(婚約者の名は節子!この時代よくヒロインに使う名だよね、と気がつく。例、三島由紀夫『美徳のよろめき』)
『チボー家の人々』のような大河小説で、登場人物の目線が多岐にわたっていれば一場面としてよいのかもしれない。それに構成が自殺と離別の後、手紙で知らせる形式というのは、漱石『こころ』でも無理っぽかった気がするしね。この作品が芥川賞で当時ベストセラー・・・。それでわたしも読んだのだけどね。まあ、作品丸ごと昭和のやわな青春のかたみ。 -
六全協以後の虚無感の漂う時代の中で自らのアイデンティティーに揺れる若者達を描いた1964年の芥川賞受賞作。予想に反して私小説的な要素が強い作品だったけど、地下潜行を契機に自虐的な観念に迫られてついに自ら命を絶った学生の挿話は心を打った。
-
1964年(昭和39年)の芥川賞受賞作。物語の舞台はさらにそれを10年ばかり遡った、学生運動が盛んだった頃。これくらいの年代の話というのは、現在の読者側としては実は一番距離が取りにくい気がします。いっそ江戸時代以前になっちゃえばもはや歴史はファンタジーだし、明治大正の文豪作品なんかだと、時代背景が違ってもそこに普遍的なものを見出せたりしますが、昭和・・・私はもちろん昭和生まれだけれど、60数年あるうちの自分が生まれるより前で、なおかつ戦後、くらいのことが一番遠い時代のことのように感じる不思議。
この作品の中で描かれている時代の大学生たちは、自らの思想や信念のために命を賭け、積極的に政治に関わり、自分たちに国を変えることができると信じて行動している。それはそれであの時代の流行のようなもので、彼らの多くはただ理想に酔って踊らされてるだけという見方もできるのだけれど、果たして現代のツイッターだのラインだのに依存して四六時中空虚な「繋がり」ばかりを求めている若者たちに、この熱さ(暑苦しさともいえる・苦笑)は理解されないだろうなあ。かくいう自分自身でさえ、はたしてそれくらいの年齢の頃なんて、自分の半径数メートルのことだけでいっぱいいっぱいで、国や政治のことなんて考えていませんでした。
作中に3通の手紙が出てくるのですが、そのうち2通は遺書、3通目は遺書でこそないものの書いた本人は自殺しそこなって入院中の病院で書いている。いずれの自殺の理由も、現代の私たちからすれば「そんな理由で死ななくても・・・」といったようなことばかりで(とはいえ同世代の方なら納得できるのかというとそれはまた別のような気も)、みな理想家で理屈屋で、観念的な理由で死にたがるので、素直に共感するのはちょっと難しい。かといって、まったく理解できないかというとそういうわけでもなく、むしろ現代人が何も考えなさすぎるんでしょうね。
「普遍的な青春」とは何か、なんてどうでもいいことをつらつら考えさせられました。 -
何と言っても佐野の遺書である。
信じた筈の主義主張を裏切ってしまった時、或いは信じた理想が誤っていた時、もう一歩踏み込んで「信じる」と云う行為をしてしまった時、私は過去に対してどう「落とし前をつけ」れば良いだろうか? の筋で読むと、参考の一つにもなろうか。
これに対する曾根の評「佐野は主観に溺れていた」「桃色の幻想か、黒い壁のどちらかで、……現実とは、何の関係もないもの」は果たして妥当だろうか。「健全な/自然な悟性」の存在を認めず、ただ「悟性A」「悟性B」「悟性C」…があるに過ぎない、と云う見地からすれば、主観に溺れると云うよりも、別の悟性がある事から目を逸らしてしまったのが間違いだったのだろうか。
相対主義を貫くと云う方針は見えた所で、過去とどう決着をつけるかの答えは見付かりそうにない。それこそ「本当の自分を探しに行く」節子の様に。 -
夏目漱石の「こころ」を読んだ時の感覚に似ている。大学闘争という事象を経て、さまざまに内面と向き合うその心の在りようが、ナルシズム的と言ってしまえなくもないが、それを超えて真摯で辛辣で読んでいて胸が震わされる。それでいて、恋をすることの喜びや哀しみのみずみずしさが端々で描かれ、そこにもまた胸を震わされる。
少し前の本にはなるが、全くもって色褪せない名作と思う。 -
-
昭和47年に読。当時の雰囲気とインテリの思考を知り、ある気分に浸ったのを思い出す。
-
「私、こうやって、一生あなたのお食事、作って上げるのかしら」
節子の声は、少し物憂げにきこえた。
「奥様稼業が嫌なら、一生勤めていたっていいよ」
私はそう答えながら、少し無造作すぎたと思った。私が節子にやさしくしようとすると、どうしても、そういう風になるのだった。
「ううん。やっぱり私が作って上げる。おいしいものを食べさせて上げるわよ」
節子は、別に私の無造作を怒りもせず、節子らしい優しい口調でそう言ってくれた。
私たちは概して頑ではなかった。私たちは大体において、できるだけ相手に優しくしようとしたし、また事実優しかった。私たちは、頑になり、相手に対する優しさまでを犠牲にして守るべきものをも、持っていなかった。 -
1964年上半期芥川賞受賞作。全体のスタイル、そこから受ける感慨は鷗外の『舞姫』を想起させる。すなわち、すべてが終ったところからほろ苦く青春が回想される構図が。時間の彼方にあるものは、やはりそれだけでロマネスクである。あるいは、太宰の『晩年』を想わせもする。この小説が執筆された時、作家は29歳であったが、小説内世界においても、また作家自身の諦念においても、若々しさよりは、それを過ぎてしまった感覚が濃密だからだ。そして、六全協の敗北感よりも、むしろより個的な中での世代的連帯と共感とを回想しているかのようだ。
-
芥川賞受賞の小説であり、あまりにも有名なので読んだはずであるが、いつ読んだかは思い出せない。韓国小説の紹介をしていた著者が、この小説の主人公が共産党に入っていて朝鮮戦争が米軍と韓国軍が北に攻め入ってきたという共産党の説明を鵜呑みにして旧友に話したら曽根という同級生が見てきたこともないのにいい加減なことを言うな、という場面があったが記憶にはない、という説明をしていた。そのために、再度読んでみたが、私もそこを読んだ記憶はなかった。今回、再度読んでみて、共産党に翻弄された青年の姿がよく分かるだけでなく、どんどん自殺したり死んでいくという女性や男性、女性の描き方には男性からのものもあるようだが、東大生という特別なエリート集団での話ということであった。
会話よりも手紙で心情を伝えるということが70年前のことである。 -
【内容】
本作は、1950年代の極左冒険主義と称されるような暴力行使による現状変更(革命)を目指す学生たちを描いた作品である。
ただ、彼らは六全協(日本共産党本部が軍事革命路線の変更を決めた会議)によりその目的、彼らの日々の生活における「充実」そのものを失うことになる。
本作はむしろ、六全協後の彼らの「人生の意味」の崩壊、物語性が失われた空虚な茫漠とした日々を描いている。
【感想】
当時の若者が、闘争や革命を標榜し、それに対して燃えるように身を焦がしていた様子が伝わってくる。また、そのイデオロギーが崩壊した後の身を空にするような虚無感も、同時によく伝わってくる。
当時の若者は、自らが吸う空気(共産主義)の確かさを信じていた、あるいは信じようとした。その憧憬にも似た感情を、本作はセンチメンタルに、そして美しく描いている。 -
1964年の芥川賞受賞作
学生運動を離脱した男が婚約者にふられる話だ
彼女は、何が不満なのか自分でもよくわからないまま
男に困惑する暇さえ与えず、北国へ旅立ってしまう
フロイト的に考えれば
家父長制に対する依存と嫌悪で宙吊りになったことへの「不安」だと
簡単に説明できるだろう
しかし説明できたからといってどうなるものでもない
そういう悲劇なんだ
それを解決するには何を持ってくればよいか
本当は誰もがうすうす気づいてるはずだ
マッチョイズムである
洗練から遠く離れた熱狂と共に
わがままを包み込んでくれるであろう優しい遊技的世界の実現だ
けれども、近代的理性の側に彼女らが立つ以上
そんなことストレートに口から出せるはずはなかった
だからさびしい
作中の時代背景は、共産党の路線変更に関する記述から察するに
1950年代の終わりごろと思われる
ここに書かれたようなことはおそらく
この時期の「優しい左翼」に普遍的な問題だったのだろう
しかしそれはまた
山岳ベースの大量殺人に行きつく流れでもあった -
学生運動が盛んな時期に大学生活を過ごす高学歴男女の恋愛その他を巡る気持ちの変遷を描く。
学生運動に失望して自ら命を絶つ者等の描写があり、当時の若者の繊細な気持ちが良く伝わってくる。全体として何かぼんやりとした夢のような、遠い過去のような世界観。
過去のエリート階級の若者はこのような気分を持っていたのかとうっすらと垣間見ることができる作品。
この本が好きな人におすすめの本
著者プロフィール
柴田翔の作品
本棚登録 :
感想 :
