明治の政治家というのは偉大な人ばかりかと思ったら、とんでもねぇ奴ばかりだな。酔って奥さん斬殺とか、羽目外しすぎだろ。
この作品は登場する明治の偉人たちが偉そうに見えないからすばらしい。まさに人間を表現している。西郷隆盛とか大久保利通とかその人間の仮面をつけた姿を描いても、面白くない。人。そう、人を描いている。
んで、そうなんだよ!国家転覆を成し遂げた男たちが野蛮でないわけないんだよ!
今の政治家みたいに発言への責任に脅えるような、悪く言えば弱弱しい、よく言えば良識的な人間なんて一人もいなかったんではないか??
よく現在の政治家とこの明治期の政治家を比較して、礼賛したりするけれど、ぜっっっったいに現代の政治家の方が真艫だかんね。
ただ、昔の政治家には夢がある。
そんな男たちの夢を魅力的に描いていくのが司馬作品。
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p19 西郷がすべきだったこと
西郷の征韓論音の本質的意味を理解できた者はいなかったであろう。西郷も征韓論に臨まなければいけない、日本の現状について、戊辰戦争で燃え尽きなかった武士という階級を燃やし尽くす必要を、きちんと論ずるべきだった。
それは当時、日本においてそれを論じる術が乏しかったから、言いたくても言えなかったのではないか。当時の論述は、中国の政治的語彙を用いて述べるか、中国の典籍を用いて比喩によって意見を述べるかという手段が中心だった。いまだ西欧の市民的概念や啓蒙主義の概念がない日本では、西郷の国民の精神を啓蒙するという主張を説明できるだけの語彙が存在しなかったのである。
後進国のはがゆさよ。
p22 後藤象二郎は清と戦争すべきと言った
後藤が清国代表の李鴻章とあった時に「帰国と日本は戦争する必要がありますな」と発言し、李鴻章を驚かせた。真意は、”清と日本で互いに切磋琢磨して力を高め、ともに西洋に負けない亜細亜をつくるべき”ということだった。
p23 「待てない」で歴史が決まった
西郷のミスは征韓論自体にあるというよりも、その時しか機会はないと強情に持論を断行しようとした点である。
「国家は会計によって決まるものに非ず」ということを西郷は主張したかった。日本国民全員に気高い精神の国民性を育てるべきだと、そのために征韓論で武士の生き様を国民に示すべきだと言いたかった。
しかし、西郷の教養レベルではこれを言葉で語れず、自らの行動で示す意外に術を知らなかった。行動でしますには、今しかなかった。だから「待てない」だった。
p30 木戸のスタンドプレー
征韓論の廟議に木戸は二日とも欠席した。薩摩と長州のトップ同士が真っ向から反発することは、薩長で固めている明治新政府を真っ二つに分断しかねない。そういう最悪の事態は避けなくてはならない、だから独断で木戸は欠席していた。すばらしい政治行動だ。
p34 貴族の裏切り
大久保利通は公卿を信頼していなかった。昔から公家というのは裏切ることが当然の社会を生きてきた。だから大久保は、岩倉と三条からの参議に就任する依頼を受ける際、西郷の征韓論を受け入れないという念書を書かせて、裏切りを封じた。
しかし、第二回の廟議において征韓論が決まってしまった。この廟議では征韓論の賛成反対は5:5の引き分けで多数決でも決まらなかった。しょうがないので左右両大臣の三条と岩倉で決議することになり、三条の「西郷に反対すれば彼の背後の士族集団が明治政府に反抗し、新政府が転覆するかもしれない。」ということで、散々悶着があった割に、すんなり西郷の遣韓が決まってしまった。
結局、公家の二人は大久保を裏切ることになった。
p39 二流の伊藤博文と山県有朋が明治を作った
彼ら二人は処理家としての政治家であった。近代化した日本に山積する事務処理をバリバリ裁いていくだけの力はあったが、西郷や木戸のような哲学は持っていなかったようである。
この違いが、現代人が過去の政治家である西郷や木戸を敬愛する理由かもしれない。
p64 三条実美の願い
必死こいて、泣きながら西郷に征韓論を止まるように頼み込む。
国家とは財政によって成立し、国家商業が必要なのである。(重商主義)そのためには外国に負けない商業を国家に起こして、商略されないようにしなくてはならない。西郷のいう形而上的な理想論だけでは実質的な国家の自立は不可能だということを説いた。
結局、西郷を説き伏せることはできず、ノイローゼのようになってしまった。
p73 西郷の情報力
部下に恵まれなかった。この頃西郷を取り巻いていた桐野利秋・別府晋介らは武に長じたが、知に劣った。
三条実美が病気で休職するので、勅令によって岩倉具視を代理の太政大臣につけることが決まった。これを西郷は征韓派の副島種臣から聞き、本来この情報を真っ先に入手し西郷に届けるべきである桐野や別府に西郷の方から手紙で伝えるという体たらく振りであった。
p76 岩倉具視という男
公卿の伝統を受け継ぎ、日和見なところも多いが、小御所会議の時や征韓論の時のように、ここぞと決めたところでは度胸を据えて持論を通す、そんな男だった。
p86 西郷の失敗
征韓論の廟議で西郷の朝鮮使節の派遣は決まった。しかし、病気の三条に代わり太政大臣についた岩倉は自宅で西郷たちに「征韓論の無期凍結」を言い渡した。
桐野利秋のような血の気の多い者を護衛に付けておくのは相手を脅すという効果もある。しかし、今回は岩倉を逆に「脅しに負けるか」という意志を固める結果になり、逆効果になってしまった。
P95 西郷の引き際
西郷の推進する征韓論が中止になり、それでも西郷が東京に残れば血の気の多い輩が西郷を担いで都下を騒擾するとみて、西郷は速やかに故郷に退去することを決した。
P112 西南戦争なんて考えてなかった
西郷が故郷に帰るという段では、そののちに起こる西南戦争など考えていなかった。反乱も謀反も眼中になく、維新で終えた自分の役割を静かに田舎で終わらせようと考えていた。
P113 黒田清隆はクラーク博士を連れてきた男
明治九年にアマースト州の農科大学からクラークを招聘してきた。その日本への船の中で、黒田とクラークは「宗教による徳育」を巡って激論した。明治新政府は江戸時代の切支丹禁制を引きずっていたし、官立学校において宗教教育を実施するという行為はいかがなものかと。しかし、クラークの正論に納得し、承認はしないが、大っぴらにやらなければ見逃すという容認を出した。
P114 黒田清隆の欠点
酒癖の悪さ。素面の時は謹直で謙虚な人物だが、一定量の酒がはいると豹変してしまう。居酒屋でも途中から黒田の酒は水増し酒が出されるほどだった。
この男の最大の酒の過ちは、妻を酔って斬殺したことである。西南戦争の翌年明治10年に、酒に酔って帰った黒田がささいなことから妻を斬り死に至らしめたらしい。現職の大臣が殺人を犯すようなことは史上最初で最後であろう。この時、大久保利通が隠ぺいしたことで切り抜けられた。
p121 黒田夫人の変死事件が大久保暗殺に繋がった
大久保は現職大臣の保身のため、殺人事件を隠ぺいした。大臣には法があたらないという恐怖政治の所業に対し、大久保は命を狙われる。
明治11年5月14日に紀尾井坂で刺客に会い命を落とす。下手人:島田一郎の斬奸状にも黒田夫人の変死の件が書いてあった。
黒田は結局、反征韓論を唱えたことで西郷を、自身のスキャンダルの煽りで大久保師を、師と仰いだ両人を間接的に殺したことになる。
p130 津田塾大学
黒田は北海道開拓使の予算で日本の女子5人をアメリカ留学させた、その中に津田梅子や大山巌の妻となる捨松などがいる。黒田なくして津田梅子はおらず、津田塾大学もなかったのである。
黒田清隆は明治政府で種々のスキャンダルを出したが、功績も大きかった。薩摩出身のこの頃の政治家で最も仕事をした人の一人である。
p145 西郷の明治30年3期説
西郷は明治が始まって30年は10年ごとに段階分けされると予想していた。最初の10年は乱世だろう。次の10年は休息養生だろう。その後の10年は立法政治の時代だろう。そのころまでは一蔵(大久保利通)が必要だ。
と予想したが、そのようになった。ただ、大久保はその時代まで生きなかったが、、、。
p158 西郷にとって国家・民族とは…
「正道を踏み、国を以て倒るるの精神無くば外国国際は全かるべからず」と言った。大国からの理不尽な圧迫に対して、あくまでも正道を貫き抵抗すべきだと主張した。
p175 長州の陸軍
西郷の帰郷を知って、陸軍の薩摩兵士が自分の軍帽を放り投げ次々に辞表を提出していった。
この頃から、陸軍は長州閥の勢力が力を強めた。
p180 天皇を利用した
大久保は西郷退去の混乱を天皇の権威を借りて鎮めようとした。天皇の招集で近衛将校を集め、事態の鎮静の勅語を出させた。
しかし、まだ天皇の権威が後年のように大きくなかったため、それほどの効果は得られなかった。
西南戦争後に軍を天皇の統べる組織とする「軍人勅諭」を出す必要性をここらへんから感じたのかな。
p206 政治 ポリチック
木戸孝允は政治のことをポリチックと英語であえて表現していた。政治という言葉は幕末からよく使われていたが、王が民を統べるという意味合いが強く、民主主義の精神を含まなかったため、あえて英語で言っていたのだろう。
政治とは、秦の始皇帝である政が民衆を治めたことが語源に来ているのかな。だから専制的な意味合いを強く含むのかも。
p241 伊藤博文の時代から江戸の雰囲気は薄れる
明治初期は多分に江戸時代の空気・風習が残っていた。例えば大久保は川路利良から後の自由民権運動に通ずるような建白書を受け取った時、それを読むに際してきちんと袴を着て正装して読んだ。これも江戸時代の武士の習慣が残っていた事例である。
この江戸時代の空気は伊藤博文が宰相になるころから
p308 江戸の奉行は366人で治安を維持していた
明治4年に発足した首都警察の邏卒は3000人配属された。しかし、世間からはこんなに人手がいるのか懐疑の目を向けられた。というのも、江戸時代の江戸町奉行は366人の人員で100万人都市を警備していたからである。
世界史上最も稀有な治安状況だったとはいえ、それを知るものは少なく、警察の人員は実際3000人よりも少なかったらしい。
p315 岩倉を襲った刺客
西郷が征韓論を唱えるについて、人を朝鮮と清に送り込んだ。その一人が戊辰戦争では情報将校として活躍した土佐藩の武市熊吉であった。勇躍帰国したが征韓論は反故になってしまい、武市らは岩倉を国賊として暗殺を企てた。失敗したが。
p327 県名
廃藩置県で、戊辰戦争で新政府側に参加して功のあった藩は、名誉として城下のあった地名を県名にしてもらった。鹿児島県、山口県、高知県、佐賀県、福井県、がそうである。
逆に官賊になった藩である若松県や仙台県、米沢県、松江県、金沢県はすぐに改名されて、小さな郡の名前などをとって命名された。
こういった色分けをしたのである。
p335 西郷が英医ウィリアム=ウィリスを拾った
明治新政府になって従来のオランダ中心の外国知識の輸入を改める動きがあり、ドイツ式を中心に新たに取り入れ始めた。それに際して、それまで教えてもらっていたお雇い外国人はお払い箱になった。その一人である英医ウィリスを西郷が引き取って、鹿児島医学校・同附属病院を開かせたという。
しかも月給900ドルという東京でももらえないくらいの破格の待遇で。西郷には鹿児島の医療技術を育てたいというのと、新政府の勝手で捨てられたウィリスに対する申し訳なさからこうしたのではないか。
ウィリスは鳥羽伏見の戦い、戊辰の北越戦争や会津攻めにも従軍した。なかなか数奇な人生を送っている。
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この巻は薄くないか?
江藤新平も佐賀に帰ったし、そろそろ戦争がはじまりそうだ。
このシリーズを読むのにも慣れて、メモをとる量が増えてきてまとめるのが大変だ。