新装版 考えるヒント (文春文庫)

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  • 文藝春秋
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レビュー : 120
  • Amazon.co.jp ・本 (270ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167107123

感想・レビュー・書評

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  • 表現が難しくて、理解しながら読めたのは「お月見」以降の章。青年と老年とか。
    中盤までは、こんな難しい文章が平気で新聞や雑誌に載るなんて、昔の人の教養恐るべし…などと圧倒されながら読み流していた。読み流すしかなかった。
    ただ、難しく感じるのは自分だけではないようで、読んでいる最中に、読みづらいという話を周りから聞いた。
    読みにくさに焦点を当てた本もあるらしいので、そちらも読んでみようと思う。

    どうせ歯が立たないことはわかってるのに、続きを読んでみたくなるんだよなあ。

  • 全編を通して、ひたすら「自分の頭で考えろ」「社会に迎合して変化していく教養とか正義とかなどはろくでもないもので、そんなものより解釈などでは変わりえない恒常的な人間事実を見ろ」ということが言われているように感じた。

    全ての章を通して要約することは私の力では到底できるものではないので、各章で気になったことをメモ程度にまとめておく。

    *

    ・常識
    将棋は人間の「考える力」を前提にしている。だから我々の常識は、機械には将棋はさせないと告げている。しかしこの常識が届く範囲は私事をでない。事が公になると、常識は計算機に成り下がる。ところで、技術の進歩により、将棋においても人工知能AIが人間を圧倒するようになった。その点では小林は間違っていたことになる。しかし、小林が真に言いたかったのは機械人間になるな、考えろ、ということであって、その意図は現代においても当然有効である。AIは「考える」事はできるのか。

    ・プラトンの「国家」
    私達は、人々の無法な欲望を体現した「巨獣」(すなわち社会)を飼っている。この巨獣の欲望の動きは必然であって、正不正の問題ではないのに、人々はこれを良い悪いとか正しい正しくないとかいって様々な意見や学説をだして、これを知識だといっている。そして民衆はこれを盲信する。教育者は、自分の欲望に沿った「正義」というものを教えるだけ。これはプロパガンダである。そしてそれすら外部から強制されている。考えなければたちまち巨獣に食われる。何があっても自分で考えるという事、これが人間が人間たる所以だ。

    ・読者
    己の経験を正直に語ろうとするには拙劣で不明瞭な表現を使用せざるを得ない。これが自問自答による個人的証言である。文学の塩はここにある。心の傷は人によって大小様々である。それを私的な段階から、人々が普遍的に備えているような一種の精神へと純化するのが文学だ。文学者は、伝統というのは先ずこれを内から感じて見なくては話にならないと考える。また、自分の私生活は自分によってさえ分析できない微妙なものだ。その自覚があってこそ、他人への過干渉が抑制される。これがデモクラシー倫理の塩である。(この2つの「塩」が具体的にどう結びつくのかがイマイチわかってない)

    ・良心
    迷いがないところに良心は存在せず、それに外から近づいていく方法はない。考えるとは合理的に考えることであり、能率的に考えることではない。考える手間を省くのは道徳の命の欠落だ。すると台頭するのが、外部現実に依拠し、変化していく正義である。しかし道徳が外部から来る権力の異名なら、道徳の問題は力と力との争いの問題に成り下がる。人間の良心とは心の中に根付いている事実ではないのか。本居宣長はこの自体を表して、良心は理知なのではなく情なのだと言った。この情は個人の内側の感慨にしか生きられない。だから私達はひそかに一人悩むのだ。この悩みは均一化されはしない。だからこそ意味がある。

    ・歴史
    個性とは他との競いによって生まれるものではなく、自ずから湧き出てくるようなものだ。私達は独創を言いながら模倣ばかりしている。個人主義は去ったが、私達は個人として生きざるを得ない。人権の平等だけを叫べば、のっぺらぼうのように均一化された人間ばかり生まれる。フロイトは意識と無意識の関係について解明したが、それは私の心が私の自由になるようなものではない事を示している。解釈などでは変わり得ない恒常的な人間事実は存在する。筋の通った解釈や議論とは何の関係もない不透明で強固な実体なのかもしれないという点では、歴史も同じ。私達めいめいの生活は歴史の内側で行われているという歴史感情が必要。

    ・言葉
    姿(言葉)は真似しにくく、意は真似しやすい。先にあるのは各人に固有の動作としての言葉であり、意味は後から生まれてくる。例えば泣くという動作により情がととのえられて悲しみという感情が生まれる。先ず動作としての言葉が生まれたのだ。そしてその動作は各人に固有なものであり、似せ難い絶対的な姿を持っている。似せがたい動作を似るように繰り返すことにより似せやすい意が得られる。大義は偽物を繰り返す事により得られる。

    ・ヒットラーと悪魔
    ヒトラーは人間の根本は獣性にあり、人間の根本は闘争にあると考えた。これは事実であり、現代の教養人もまた事実だけを重んじている。人間は他に勝とうとする。だから、弱者が強者に屈従するのは当然のことだ。これが大衆の原理だ。そして大衆にとっては自由とは重荷なのである。批判精神は、この中にあって生きた微妙さを失い、想像力も忍耐力も失い、抽象化してしまった。絶えず自分の頭で考える事をやめてしまったのである。今の私たちに、ヒトラーに対抗できるような確固とした人生観があるかどうか。

    ・福沢諭吉
    我が国が漢学から洋学に転向するという大きな転換期において、私達の立っている状況をポジティブに捉え、「一身にして二生を経るがごと」き実情に置かれているとした。イデオロギーの衣替えでは人間は転向出来ない。人生は常に過渡期。道徳は言葉にはない。人心の機微のうちにある。言葉はイデオロギー化し紛糾する。人柄から溢れ出るものは共感と反感を生む。両身を生きてこそ学問できる。その経験が「私立」。士道(封建道徳)は「私立」の外を犯したが、「民主主義」は「私立」の内をくさらせた。

  • 「いつかはクラウン」ならぬ、「いつかは小林秀雄」

    の思いは以前から持っているものの、挑戦した数冊は50頁も読み進められずに撤退。書店で手にしてパラパラと頁をめくった限りでは、遂にこの日は来るのか⁈と思わせたのだが…

    結果は、またもや返り討ちとなった。

    それにしても、ここまで難解な表現を使う必要があったのか?皆にわかりやすい表現を敢えて避ける事によって、解釈の幅を広げて逃げを打っているのか?または、大家の表現をありがたがって奉ってもらう為の手段だったのではないか?と、未だ1冊も読み切れてない者が言ってもバチは当たるまい…


  • 学生時代、小林秀雄という批評家は権威の象徴であった。その格調高く示唆に富んだ文体に陶酔もしたが反発もした。結論の出ないまま関係が途絶して数十年。最近、彼の文章が大学入試に初めて登場した、というニュースを聞いて読み返した。頭の中で何かがまた回りだした、そういう印象だった。そして彼の文章が自分の血や肉になっていることを再認識。再評価されるべき。

  • 大学入試を思い出すような文体。

  • アラサーにして初めて知る、小林秀雄の魅力。一言でいえば「かっこいい」「しびれる」。
    これは中高生の生真面目な時期に読めば劇薬だったはずだ。
    ほっとするような、口惜しいような。
    中上も大江も太宰も安吾もドストも詩も絵も音楽も、とにかくあらゆる芸術の、見方が変わる。おおげさすぎるか。見方が加わる。
    とにかく知識に立脚して、その上で「シンプルに」。「生きる」にもつながりそうだ。

    前半、「考えるヒント」。
    ・「歴史」。変り者という言葉→フロイトの自伝→歴史意識への言及。このアクロバット。
    ・「言葉」。本居宣長。生活され経験される言葉にしか興味がなかった。言葉の、形を似せるか意を似せるか。感情をととのえて歌が生まれる。
    ・「ヒットラーと悪魔」。スタヴローギン。

    後半、「四季」。このエッセイも、冴え冴えとしている。
    ・「さくら」。本居宣長の歌について、やまとごころがうんたらかんたらではなく、「桜はいい花だ、実にいい花だと私は思う」と解釈。
    ・「人形」「花見」。これはもはや小説だ。それも極上の、やさしい情感の込められた。

  • 小林秀雄の思考のスタイルは、徹底的に「私」(近代的自我ではない)や、「人」、「情」にこだわるところだと思う。社会や政治の蒙昧な一挙一動に注意を払うのでなく、個人、言葉、歴史のほんとうの姿を掴んで離さぬ小林の姿勢を見て、身につまされる思いがする。ただ、ドゥルーズのような「概念の創造としての哲学」や、寺山修司の「行為としての詩」が好きな私は反発を覚えることもあるのですが。

  • 頑張って最後まで読むことは読んだものの、自分の教養のなさを痛感。
    もっと本を読もう、という気にさせてくれました。
    そしていつかまた再チャレンジしたい。

  • 小林の評論は、対象について評論しているつもりでも、いつのまにか小林自身を表現してしまう。

    という様なことを青山二郎が言っていた、という様なことを白洲正子が書籍に残しています。

    私にとって、このシリーズの読後感が、
    「小林秀雄についてもっと知りたい!」
    である以上、これは正しい評価なんだろうと思います。

    評論の対象がなんであれ、小林的であるその点について、熱狂的に読めました。

    評論を読む態度としては失格ですが、小林的なものを批判的に読むのは私には無理です。

  • 考えるとは、合理的に考える事だ。能率的に考える事ではない。考えれば考えるほどわからなくなるというのも、物を合理的に考える人には、極めて正常な事である。だが、能率的に考えている人には異常な事だろう。

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著者プロフィール

小林秀雄

一九〇二(明治三五)年、東京生まれ。文芸評論家。東京帝国大学仏文科卒業。二九(昭和四)年、雑誌『改造』の懸賞評論に「様々なる意匠」が二席入選し、批評活動に入る。第二次大戦中は古典に関する随想を執筆。七七年、大作『本居宣長』(日本文学大賞)を刊行。その他の著書に『無常といふ事』『モオツァルト』『ゴッホの手紙』『近代絵画』(野間文芸賞)など。六七年、文化勲章受章。八三(昭和五八)年、死去。

「2019年 『人生について』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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