- 文藝春秋 (1996年2月9日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (240ページ) / ISBN・EAN: 9784167140038
作品紹介・あらすじ
人生に目的などありはしない。信ずべきは曖昧な幸福にあらず、ただ具体的な快楽のみ……。時を隔ててますます新しい、澁澤龍彦の煽動的人生論。三島由紀夫絶賛の幻の書。(浅羽通明)
みんなの感想まとめ
人生における快楽の重要性を説く本書は、即座の満足を求めることの意義を深く掘り下げています。著者は、貯金や結婚初夜のような「ひきのばされた満足」を皮肉り、真の幸福は実践を通じて得られるものであると主張。...
感想・レビュー・書評
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澁澤龍彦は一時ハマっていた時があって、本書も再読である。快楽主義の哲学というタイトルが先ず渋い。そして、人生全て快楽のためであるというような叙述がある。
― せっせと貯金をして家を建てるとか、三時までおやつの時間を待つとか、結婚初夜まで処女を尊重するとか、出世のために下働きの苦労をなめるとか、すべて、こうしたことは、即座の満足でなしに、ひきのばされた満足を求める心の結果であり、用心ぶかい「現実原則」の結果であります。死んだら天国に行かれると信じて、現世の快楽をあきらめる信仰者の場合も、あきらかに、このひきのばされた満足を求めているのでしょう。
宗教さえも〝引き延ばされた満足″と皮肉る。即座の満足ではなく、現実原則。で、クールなのは、そのことについて「快楽の満足をひきのばすなんて、なんともみじめったらしい!」と言ってのける。
更に、真の幸福とは、その実践にあり。運動状態にあるのだという、アリストテレスの「幸福とは実践である」を引いて追い打ちをかける。自分でつくり出す快楽、実践のうちからつかみ取る快楽にこそ、ほんとうの魅力があるのではないかと。オスカー・ワイルドも言っている。幸福などというけちなものを頭から軽蔑し、つねに新しい快楽を求めるという心意気こそ、ダンディズムだ。
死の恐怖なんて気にする必要はない。そのことに初めて触れたのも本書だった。エピクロスの発言。「死はわたしたちに無関係である。なぜなら、わたしたちの存在するかぎり、死は現に存在せず、死が現に存在するときは、もはやわたしたちは存在しないのだから」。
本書で久々に思い出した私のお気に入りの思想が二つ。エピクロスのように、わずらわしい世の中との関係を断ち切り、山にこもったり、放頃の旅に出たり、出家したりして、自分の理想を守ろうという隠者の理想が一つ。「ほんとうのことをくり返してしゃべったって、しかたがないではありませんか。だいいち、ちっともおもしろくない。二つの世界があることを知らねばなりませんよ。その一つの世界とは、現実の世界で、これは話さないでも存在している世界、話さないでもわかっている世界です。もう一つの世界は、芸術の世界で、これは話さなければいけない。話さなくては存在しない世界なんだから。」というワイルドの思想がもう一つ。美的快楽主義、耽美主義。アタラクシア。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『快楽主義の哲学』という一見過激なタイトルですが、卑近な表現に換言すれば、自己達成のために行動してきましょうよ、という内容で、非道徳的な内容であったり社会的頽廃を推し進めようとしたりするものではありません。
マスコミや余暇産業によって提供される規格化されたムードを無批判に享受したり、きびしい現実に適応するために本能的欲求を抑制し苦痛を回避するという消極的な幸福に甘んじたりすることは、一見すれば従順、真面目というふうに他者の目には映るでしょうが、その実は牙を抜かれて無気力で、認識を捻じ曲げて自己の欲求をごまかすようなことに他ならないということです。
ごまかしのための認識に陥るのではなく、無目的な人生の中で、実際に行動を開放し、未知の可能性や新しい快楽の海に身を投げうち、自らの手で快楽を味わい、発見していくべきだと述べている、とわたしは感じました。
三島由紀夫にせよ、ニーチェの超人思想にせよ、こういった思想に対する憧憬をわたしは抱くのですが、実際にそれを行動に移すのはなかなか難しいんですよね。 -
ブク友さんが読んでいて「そういえば私も持っていたかなぁ」と本棚から出してきて読んだ。再読。
とはいえ内容はまるで覚えていなかったのでほぼ初読。
他の作品とちょっと毛色が違って、世俗的なことや現代的なことに関しても色々言及しているので興味深く読む。私の中ではなんとなく「西洋の昔の人やもののことを書く人」というイメージなので。まぁ現代に生きていれば世俗的なことだってその人なりに思うところはあるわけで。
巻末の解説でこの本の初版がカッパブックスから出たことを知る。なるほど、と思う。だから雰囲気がちょっと違ったのかー、と。普段なかなか聞けない話を聞けて儲けた、と思う。
小説の「高岡親王航海記」が20代の頃にさっぱりわかっていなかったように、この本も若い頃にはなんとなく読み飛ばしたんだろうな。
追伸:樽のディオゲネスが出てきたので嬉しかった。
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澁澤の人気本。
今とは全く異なる時代背景にあって書かれたエッセイだから、ややもすると噛みつかれそうな表現があるが、さすが大先輩、古今東西の文学の豊かな土壌に培われ寛容だ。スカトロジーが研究対象だと巫山戯る私とは雲泥の差。
澁澤本人はこの本を嫌ったらしい。かれのすすめる快楽主義とは実のところ何であるのか、お茶を濁すきらいもある。しかし、目次を追っただけで内容が読めてしまうような自己啓発書よりも、これを読んで澁澤の紹介する「韜晦」や「ダンディズム」を知るほうが、人は生きやすくなるのでは。 -
軽妙で面白い箇所がありつつも、全体としては退屈で読み進めるのに苦労しました。
中盤あたりで真面目に読む本ではないなと思ったのですが、もっと早く気付くべきでした。
頽廃や耽美を掲げ、エスタブリッシュドなお堅い思想を嘲笑していくスタイルで論談が展開されていきます。これはなかなか刺激的で新鮮でした。
一方で、本書でいう快楽主義が今日に至るまで流行らなかったのは、それがお堅い思想に抑圧されてきたからではなくただ相手にされなかっただけ、と節々で感じてしまいました。全体にわたって、快楽主義自体の脆さをその中身の軽薄さでなんとか言い訳しているような印象を受けました。
快楽主義的な生き方が現代で通用するかと問われると、それもまた難しいような気がします。右向け右の時代ならまだしも、多様性が称揚される社会ではかえって窮屈で不自由な生き方になりそうです。
どうやら大衆のウケを狙った著作で、ファンからすれば澁澤龍彦らしさを欠いているらしいです。私は初めて彼の著作に触れたのですが、もう澁澤龍彦はいいかなと思ってしまいました。
ただ、浅羽通明さんの書評は本書のアウトラインと読後のモヤモヤを見事なまでに整理して言語化してくれました。なんならこの書評が本書で一番面白かったです。 -
快楽主義とは、一言では言えないが、幸福と快楽を全く別物であると言いきり、ただ享楽的に生きるのとは意味が違って、自らの歓びを得るために、あの手この手でパワフルに生きることや、遁世し山水に生きることなど、それぞれにそれぞれの快楽があることを述べた書。何十年も前の本だが、今だからはっとする箇所もあり、読んでいてがつんときた。これから何度か読み返すことになるかもしれない。
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●2025年7月15日、グラビティの読書の星で紹介してる男性がいた。
「東大出で、イケメンで、マルチリンガルで、変態的だけど愛妻家な澁澤龍彦さん。「幸福になる必要は無いと、自分を説き伏せる事に成功したあの日から、幸福が僕の中に棲み始めた。」マルキドサドの本3冊と、ジッドの本1冊買った。読書はいつまで経っても終わらない。」
→ 気になった本、やっぱりまた東大卒の人の本だ。これでこの1週間ほどで何冊目だろう?それにしても、この人と本の趣味がバッチリ合うなぁ、おどろき。
→ でもブクログの紹介文に「三島由紀夫絶賛の幻の書」と書いてあって、いやだな〜と思った。三島由紀夫はキライなのよ。
気になったAmazonレビュー:
「つまらない。2025年1月20日に日本でレビュー済み。時間潰しの読書。人生には、目的も意味もあるよ。そう思っている俺には、空虚な内容だった。」→私もそうなりそうな気がする。
「レビューの数からすると、渋澤ではこの本が今でも一番売れているのだろうが、まず、これは、当然だけれど、この本だけ読む人は、これを渋澤の代表作だと思ってはいけない。元は、昭和のサラリーマン向けに作られた「カッパブックス」の一冊である。鎌倉の自宅のための資金になったようだが、他の本とは語り口も異なり、異端、孤高の仏文学者のイメージが崩れるので渋澤自身はこの本を嫌っていたらしい。その程度の本である。」
「下等生物にぴったり。2024年1月19日に日本でレビュー済み。おすすめ!原始的下等生物にはぴったりの本。母なる大地も父なる天空も守るためには文明も戦争も不要。人は自然なる動物。地上にはラブホテルだけにして後は建造物も道具もすべて破壊すべし。地上を無人島のようにして自然らしくしてから原始的生活にもどるべし!快楽こそ全てなり!和も法も礼も単なる堕落」 -
澁澤世界はなかなか面白い。私は此の人は評論・哲学を語るより、芸術作品を産み出す側であってほしい。
要するにこの本はイマイチ、だが、澁澤作品にはこの一冊を引き金に惹かれる事になった。
人類はこの通りになった―とあるが、果してそうだろうか。究極美をどこまでも追求する快楽は見当たらない。
美に倒錯し給え、人類よ。
快楽の追求は最早、芸術世界でしか不可能であると私は思うのだ。 -
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似た考え方の人いたわ~。
というかそりゃいるよな。80億人もいれば。いや、もうなくなった方を含めれば、何人の人間がいるんだろう。
ここではっきり申しますが、オルガスムの美学の最高の理想は、情死だろうと思います。
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密室から広場へ一歩踏み出すためには、まず羞恥心を捨て、嫉妬心を捨て、独占欲を捨てなければなりますまい。2人だけの密室の恋愛になれたわたしたちには、これはなかなか難しいことです。
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まず、第一に注目すべきは、サドが男性のペニス、女性のヴァギナのみを性器と考えているのではない、ということです。
人間の体には、男でも女でも、いろんな孔が開いていますが、サドは肛門であれ口腔であれ、あるいはその他の肉体の凹所であれ、全ての孔をヴァギナと同格なものとみなしているのです。
また、その孔に挿入すべき突起物にも、たんに、男性のペニスだけでなく、口の中の舌、指、あるいは発達した女性のクリトリスなどが使われます。
つまり、肉体のありとあらゆる孔とよび突起物を用いて楽しむわけで、エロチックな快楽には性器だけが利用されうると信じている世の中の通常人には、到底考えられない複雑な態位による乱行も、こうして可能となるのです。
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社会の組織と同じく、人間の肉体の組織にも、階級制度があり、分業が行われているようです。
では仕事をするための器官、舌は味をみるための器官、肛門は糞を排泄するための器官、そして、性器は快楽のための器官、と言うことになってしまいます。
これではあまりに不公平だ。あくせく働いてばかりでちっとも楽しい思いをしない器官があるではないか。
サドはそう考えてら手も舌も肛門も、分け隔てなく、エロスの快楽に参加させてやったわけなのでしょう。
これまで性器だけが、まるで専制君主制のように特権的な地位を占め、あらゆる快楽を独占している現状です。
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快楽主義の巨人
高い知性と、洗練された美意識と、きっぱりとした決断力と、エネルギッシュな行動力
この4つの条件が揃って、初めて人間は翼を得たように、快楽主義的な宇宙の高みに舞い上がることができる。 -
シニカルに生きる
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情死の美学は好きだったな。去年道行ものの日本画をたくさん見たからかな。
全体としてはサクサク読めて手頃だし、基本スタンスは自分のそれと一緒なので楽 -
澁澤龍彦には多分に影響を受けているが、この本は現代人の自分にとって余りにも当たり前の内容だった。
幸福なんかより刹那的な快楽、現在形よりing形を重視する生き方なんて当たり前でしょう。
マジメな人には今でも響くものがあるかもしれない
とはいえ、ソクラテスや宮沢賢治を痛烈にディスるのは心地よかった。(かなり無理矢理だが) -
精神の貴族たれ、という時に、都合の良い解釈かもしれないけれど、本書に書かれている姿勢をそのまま実績せよとは言っていないと思うので、
例えば本書でかなりページをさかれているエロティシズムに関しては正直なところ、共感は出来なかったが、要は偏屈だ頑固だと言われても、少なくとも精神の自由を侵されてはならないのだと言う主張だと解した。
巻末で解説者は、次のような趣旨を述べている。
本書での、労働の忌避や、大衆化したレジャー産業に乗せられないようにとの警鐘は既にして時代遅れで、定職につかないような若者、ますます個別多様化する趣向などはもはや当たり前になりつつある、と。
また著者は、当時、それこそ大衆向けの安易な入門書?のレーベルに執筆することに抵抗を感じていたともいう。
しかし、本書で重要なのは先に述べたように、誘惑に対して自覚的に乗っかるようなことがあっても、周囲の状況に安易に迎合せずに、既存の価値観念を冷静に検討し、少なくとも精神的には孤高の自由を保つことを最重要視しているのではないか。
時代が変わって、一見多様化したように思えても、結局似たような集団が形成されている状況に変わりないのではないか。
著者が執筆した当時のような破壊すべき「大衆」側の文化は、分かりにくい状況ではあるが、個人として取るべきスタンスは変わらない。そういうものを考えるヒントになるのが本書ではないか。 -
人間にはいろんな生き方があるなと思う澁澤氏の生き方と考え方。
史上の珍な生き様を紹介しながら、いかに自分にとっての生き方が大事かを説く。
労働と遊びの一致。
いつでも遊んでいるような存在にならなければ真の意味で社会や文明が進歩したということにならない、と。
1965年刊行で、
今もって尚新しい。
博識知的教養の深さに裏打ちされた澁澤龍彦の思想・発言。
出過ぎた杭とはこのことだろう。
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文章自体は非常に読みやすかった。
正直、共感は皆無だった。
50年以上前、当時36歳だった著者が書くにはなんか爺臭く枯れてるのか当時の人はこんな感じなのか何だか不思議な感じがしたが単に著者の知識階層のレベルが高かっただけで老成してるだけだった。
内容はボードレールもワイルドもサド公爵も読んだことのなさそうな昭和のスケベ爺が好んでそうな話。
選挙も行かず、消費行動もとらない今の人たちを見て素晴らしいとこの方は感じるのだろうか? -
とてもわたくしごとですが。
この本で若かりしわたしは読書をほぼ初めて、楽しいと感じました。
今はもう少し捻たので、手放しに大絶賛するような感想は持てなくなってしまいましたが、読み物としてとても面白いことは今でも何も迷わず主張できます。
10年前後昔に、澁澤みたいなお父さん欲しいなって思ったのを思い出しました。
完全にチラ裏です本当にありがとうございました -
1960年代に書かれた澁澤龍彦さんの雑談。
色んなものに縛られていないでやりたいようにやろうよ!という呼びかけが冗談交じりに行われる本。
ユーモア溢れる内容です。
人間がいつでも遊んでいるような状態にならなければ真の意味で社会や文明が進歩したということにはならないという考えには文句無しに首肯する。 -
人生に目的などはありはしない。ただひたすら快楽を求めよ、それが異端でも構わない。一匹狼を辞するな。という扇動が込もったシブサワ哲学。
なるほどな、と思ったのが、幸福と快楽は違うということである。一見、類似しているかのような二つの言葉だが、意味が全然違う。まず、幸福とは苦痛を回避するものだ、という。確かに、幸福というイメージは平和、安泰、保険などがあり、どれも苦痛を回避している。澁澤はこれを苦痛の欠如とも言っている。
ところが、快楽となると、これは進んで快感を求めることである、という。例えば、おいしい料理をたらふく食べたい、絶世の美女(または美男)を手に入れたい、という欲求が快楽であるという。
なるほど、確かに幸福ばかり続くとつまらない。「日常に刺激が足りない」とよく言うが、この刺激こそが澁澤の言う快楽なのであろう。
澁澤自身、黒魔術についてだったり、妖怪についてだったり、超常現象についてだったりと、様々な日常とはかけ離れたものを好んでいた。それは小説にも見られ、澁澤の書く小説は「衒学的だ」、「異端だ」、「役に立たない」と人々は揶揄し、非難したそうであるが・・・私は首を捻ってしまう。私には、澁澤の書くものが、人間の自然的快楽欲求に叶っているとしか思えないからである。そういうお気楽な幸せ者たちに、「非難されるのはどちらなのか」と、思わず訊きたくなる。
著者プロフィール
澁澤龍彦の作品
