- Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167140038
感想・レビュー・書評
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これめっちゃ面白い
もっと勉強しよう
がんばるんば詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
2009/8/14図書館で借りる
2009/8/22読了
三島由紀夫が序文を書いているところで、すでに鳥肌ものです。澁澤龍彦は珍書奇書に埋もれた書斎で、殺人を論じ、頽廃芸術を論じ、その博識には手をつけられないが、友情に厚いことでも、愛妻家であることでも有名である。
第一章:幸福より、快楽を
第二章:快楽を拒む、ケチくさい思想
第三章:快楽主義とは何か
第四章:性的快楽の研究
★
15分くらいで読みきるほど、おもしろかった。
第五章:快楽主義の巨人たち
血と太陽の崇拝者――反逆児ワイルド
ワイルドは快楽主義を自分の生き方として堂々と押し出した人物である。
第六章:あなたも、快楽主義者になれる
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「快楽主義の哲学」は、彼の中ではポップな部類の本で、エロティシズムや博物学の本を読んでいるファンにとっては、どこか彼らしくない押し付けがましさが感じられる。あとがきを読むと、売れる路線で企画されたために、改稿を余儀なくされたらしい。
とはいえ、簡潔な文章で彼の思想を語る本なので、澁澤さんって誰?という人にうってつけだと思う。
面白いのは、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」が、こてんぱんに叩かれているクダリ。
・・・いつも静かに笑っている・・・そういう気持ち悪い人に、私はなりたくありません!って、そこまで言うか(笑)
文学をやる人のライフヒストリーには、自分の「生まれ」で苦労する話がしばしばある。宮沢賢治も、太宰治も、生まれと環境のジレンマに悩まされた人だ。鴎外や漱石は、西洋と日本の文明の狭間で困難にあう。芥川龍之介は極端で、「一行のボオドレエル」よりも価値のない自分を嘲笑って死んだ。
どれも澁澤龍彦より前の世代の話ではあるけれど・・・
私が澁澤さんのファンなのは、彼が自分の生まれや、人生や、社会的な環境・・・そういった事に対してアッケラカンとしていて、もし自分に苦労があっても、それについてグチらずに文を書くところが好きだからだ。「雨ニモ負ケズ」をこき降ろすのは、徳の高い人格を目指しながら、へんに自分をすり減らそうとするコンプレックスの丸出しに我慢がならなかったんだろう。
澁澤さんは、子供っぽい作家だと思う。だだをこねる子供、夢見がちな子供、理屈っぽい子供。子供でいることは、快楽を追い続けることだ。彼の本のなかでは唯一、自己啓発の要素があって元気づけられるものでもある。 -
18歳の時に読んで、それまで死にそうに真面目に生きていたのに、膝かっくんされたみたいに笑われて楽しくなった。何度もコタツに潜って読んだっけ。
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哲学というと、堅いイメージ
誰かがいう「頭のよい人ほど難しい言葉を使わず表現できる」にそった本
知性、学問を自分のものに(自己顕示欲のもとにではなく)した人はこういった文がかけるのかしら、と素直に関心
いつだったか(ファッションとは周りを伺いながら、少しだけ道をそれてアイデンティティを主張するものだ)という文章を読んだことがある。この人の主張はさらにその上の(他人に流されない)(迷惑をかけない自己中心主義)であるように思った。素直に良書。 -
人間は死ぬことを知ってる動物だから、哲学があると思う。良くも悪くも生き物はどうせ死ぬ、って考えたときにどうするか。中島義道の本に対する解説みたいになっちゃった。凄く一方的な視点な気がするけど、中々いい本。
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澁澤 龍彦著の怪作。
「幸福は不幸。幸福より快楽を選択せよ」1965年当時にこんな大胆な人生論を世間に突きつけてる澁澤先生はある意味リアルパンクスです。しかし当時異端だと思われていたことが21世紀に突入した現在では当たり前のことになっている等、多少の内容の古さは否めない。
それでも不可侵と思われがちな"聖人"宮沢賢治を卑屈などとけなしたりだの歴史上の快楽主義者を羅列して論じて見せるだのやりたい放題で面白い。
今の時代、こういったことを本気で書ける作家ってなかなかいないだろうなぁ。 -
なぜかもう一度読みたくなった。
定義付けが曖昧な言葉をテーマに論じる時、結局こねくり回した言葉遊びになってしまうことが多いのだけれども、彼の"遊び"はスマートでクールで、Z世代の言葉を借りればエモい。 -
1965年に発刊された単行本の文庫版。1996年にやっと文庫化されたというのは、この本が当時の日本に与えた衝撃がかなり大きかったということなのかな?こんなの読んじゃいけません!みたいな、保守的な偉い人とか知識人たちもたくさんいただろうなぁと想像する。本文中に、こんな箇所がある。
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p.47
個人的な快楽はすべて軽蔑すべきものであり、不健全なものだ、と頭からきめこんでいる人たちがいます。「きのうは映画、きょうはボーリング。」などというと、不愉快そうな顔をし、「昨夜はおばあさんのお通夜に行ってきました。」などというと、いかにも満足そうな顔をする人たちがいます。
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そういう人たちが大多数の時代にあっては、澁澤龍彦さんが翻訳したたとえばマルキド・サドの著作の数々も、澁澤さん自身の本も、かなり前衛的でアブノーマルなものと捉えられただろう。でも令和5年の今日読むと、そこまでぶっ飛んだ内容でもなかったように感じてしまうから不思議。欧米に比べたらまだまだなのだろうけれど、日本だけで半世紀前と今とを比べてみれば、思想的にも、性的にも、本当に多様性に寛容になってきてはいるんだなぁと思った。
そしてわたしは重大なミスを犯していた。昔読んだ『西洋哲学史 古代から中世へ』がずっと印象に残っていて、その著者が書いた本だと思ってこの本を借りたのだけれど、『西洋哲学史〜』は熊野純彦さんで、澁澤龍彦さんでは全くなかった…道理で文章の雰囲気が似ても似つかなかったわけだわ。 -
第一章 幸福より快楽を
から始まり、刺激的だが、荒唐無稽ではなく、むしろ生活そのものであるようなエッセイ。
快楽 とある以上、五感のリアルである事よ。
確かに、現代、概念的理性的に寄りすぎているかもしれない。
なんなら労働ですら遊んで仕舞おうか。