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Amazon.co.jp ・本 (304ページ) / ISBN・EAN: 9784167240158
感想・レビュー・書評
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精神的な病による息子の自殺と脳死、臓器提供という大きなテーマについて、ノンフィクション作家が自らの体験を基に書き上げた本。読みながら自らの意見を確かめるように、一つ一つの重たいテーマを深く考えさせられる内容だ。特に私は、自死を選ばざるを得なかった状況にまで追い込まれた、あるいは追い込まれずともそう決断するに至った経緯、つまり脳死に至る前の段階で、文書を追う目の焦点が合わなくなり、躓いてしまった。
父である著者がこの息子の書き上げた小説を本書に掲載しており、それはとても完成された未完成(仕組まれた作為)とでもいうような印象だ。父はそれを小説家の影響も多分にあると評し、その通りなのかもしれないが、その影響を受けたこと自体が、そのような感受性の状態であった事の証左でもある。
挿話の一つは、文学青年の理想を投影していた古本屋の店主の俗物性に触れ、青年が興ざめするというような内容だ。気を抜くと、この社会にふと冷めてしまう事は誰しもあるのではないか。因果を無視し、忘我により決断してしまう悪戯のような一瞬。
― 洋二郎がそういう奉仕活動に参加しようと決心したことには、彼なりの思想的な背景もあった。その源となったのは、彼が深く感動した旧ソ連の亡命映画作家タルコフスキーの映画『サクリフアイス(犠牲)』だった。われわれが一日一日を平穏に過ごしていられるのは、この広い空の下のどこかで名も知れぬ人間が密かに自己犠牲を捧げているからではないかという信仰的思想を、この映画は、精神病の主人公アレクサンデルが人類を核戦争の危機から救うために、自分の家に火を放って神への「捧げ物」とし、自らは精神病院に収容されるという、かなり難解な悲劇的寓話によって表現している。この「名も知れぬ人間の密かな自己犠牲」という点に、洋二郎は心を惹かれていたのである。
あまりに文学的な解釈なのかもしれない。だが、身内にとってはそうとしか理解できない事だとも言える。死後の肌に触れ、脳死の反応を看取った父の表現に外野があれこれいう事でもない気もする。
で、本書の凄さはそこから「脳死」を確認し、「臓器提供」による家族の感情の変化、脳死のデリケートな生物学的な状態と感情面での記録、家族がそれぞれの立場で受容していく過程を文章で伝える事にもある。それは是非読んで欲しいと思うので書かないが、知らない世界であった。私にとって、他者の死は他者のままだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ちょっとした好奇心から読み始めたんだけど、望外の収穫が得られる良い本だった。
20年以上前の作品だけど人間の根源に関わる普遍的で全ての人が無関係ではいられないテーマで、まったく古さを感じさせない。それどころか、医学が発達するほどジレンマに陥る脳死という問題。
作者の息子さんの人生を追体験するかのような前半と、脳死論の二部構成。
次男の遺した文章を織り交ぜる内容でリアルな人物像が浮かび上がるが、一歩引いた視点でまとめられている。現実には父親として想像を絶する苦悩があっただろうに、ここまで冷静に綴られていることに感服した。それでも我が子への愛情がにじみ出ているのが胸を打つ。同時に、作家というのは因果な商売だなと。芸術家は壁にぶち当たった時にそれを昇華して素晴らしい作品を残すというのを本書で強く感じた。
次男が陥ってしまった不幸な状況、これは時代も大きく関係していると思う。高度成長期を経てバブル絶頂期にいたる過程で、日本人はみな″こうあらねばならない″といういわゆるイケイケな時代に産まれてしまった。現代もそう変わらないとは言え、今なら彼のような天才肌というのか人とは違う感受性の強い子供に多少理解はある社会に変わっているように思う。
科学的考察の後半部については、日本人という民族特有の観点から論じた死生観をからめつつ、作家の目を通した問題提起と彼なりに導き出した答えに概ね同意できた。
単純に知識が広がるだけでなく、自分だけではなかなか到達し得ない、新たなものの見方や考え方の幅が広がる、読書本来の良さが詰まっていると思う。
いのち 永遠にして -
精神病により自殺を図った息子が脳死を経て心停止するまでの11日間において、父親として臓器移植等を体験し考えたことを綴ったノンフィクション。
海外文学作品を引用した心情表現、医学の専門的な内容等、難解な部分はあるものの、あとがき、解説等が充実しており、読みやすく工夫されている。
家族が脳死になったら家族としてどう向き合うか、また、自分が脳死になった場合の臓器提供をどうするか等、考えずにはいられなくなる内容だった。
読後に少し調べてみたところ、本書が発行されてからの25年の間に臓器移植法が制定・改正され、本書発行時は認められていなかった心停止前の脳死患者からの臓器移植も行えるようになっているようだ。
本書の著者は、息子が脳死となってから心停止するまでの数日間の猶予があったからこそ、息子の死を受け入れることが出来ていた。
心停止を待たずとも臓器移植を行える現代においては、脳死した患者家族の葛藤は、より大きいと思う。
本書の影響により、そのような家族の心に負う傷を少しでも小さくしてくれる枠組みが構築されていることを期待したい。 -
誰にも言えず、誰にも理解されない苦しみ。
筆舌に尽くし難い思い。
それでも、人は、生きていく。
この本を通して背中を見せてくださった。 -
精神を病んで自死を図り、その後脳死状態になった息子との11日間の記録。
大きく二部構成になっていて、前半は突然の息子の自死から、彼の臓器移植を決意するまでの過程が丁寧に書かれています。そして後半は脳死について柳田さんの思いが綴られています。
著者の柳田邦男さんはノンフィクション作家さんだけあって感情を抑えた文章で語られています。それが却って痛々しく辛い。
25歳の若さで死を選んだ柳田さんの次男洋二郎さんの書いた日記や短編小説がいくつか紹介されていますが、鋭い文章で書かれた短編小説を読むと、ご存命であったら今頃素晴らしい作家さんになられたのではないかと、尚更その死が惜しまれます。
ホスピスやターミナルケア、グリーフワーク(遺族の喪失感や悲しみのケアをすること)というと、ある程度の年月を生きた人の死に関わるものだと決めつけていましたが、この本では小児病院のホスピスも紹介されています。治癒できない症状を持って生まれてきて、短い生涯を閉じる子供の親にとって、これはとても必要なもの。普及を願います。
祖母は本人の遺志により献体し、母は死を迎えるまでの数ヶ月間植物状態だった経験から、臓器を含む身体は容器に過ぎない、脳が死んだ時が私が死ぬ時だと思って子どもたちにもそう伝えてきましたが、この本を読んで、例えば私が脳死状態になったとしても、彼らにも私の死と向き合う時間を与えてあげるべきかも知れないと思うようになりました。せめてそうやって遺族の感情と向き合ってケアしてくれる病院を探しておこうと思います。まだ考えはまとまりませんが、「延命措置はいらないからね」と言うだけでは無責任だと考えるようになりました。
最後の、医師を目指す高校生の読書感想文もとてもよかった。
いろんなことを考えさせられる本でした。 -
本を好きになるきっかけは、この本との出会いでした。
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次男の自死を体験した著者が、精神を病みながら直向きに生きた息子や、患者家族にも寄り添う救急医療スタッフ、臓器移植制度の課題についても語る。深く、鋭いノンフィクション。
脳死を「二人称の死」の視点から捉えた考察は、大変腑に落ちた。30年経った現在も移植医療が進まないのは、この視点が欠けているからであろうか。 -
家族の生や死を描くことはできても、それと向き合う自分を描くのは簡単なことではない。言葉では何かを描き漏らしているような気がしてしまう。それでも一冊描き上げた柳田邦男はすごい。
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この本を古本屋さんで見つけたとき、正直これほど感動するとは思っていませんでした。
打ちのめされました。壮絶な苦悩がこの家庭にはあり、普通ならなぜ自分がこんな目にあわなければならないのかと運命を憎むかもしれません。
でもこの家庭は違いました。壮絶というより
むしろ崇高という言葉がしっくりきます。
崇高な生き方ではないでしょうか。犠牲…というタイトルに込められた深い意味を理解するでしょう。 -
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ノンフィクション作家として、航空機事故、医療事故、災害、戦争などのドキュメントを多数発表している柳田邦男氏が、1993年に25歳にして精神疾患から自殺を図り、脳死状態で11日間を共にした次男・洋二郎氏を追悼するために著した作品。1994年に文藝春秋に掲載されたものに加筆、再構成し、更に別途発表した脳死・臓器移植論を加えて、1995年に出版、1999年に文庫化された。1995年に菊池寛賞受賞。
内容は、洋二郎氏が自殺を図った日から、脳死を経て、心肺停止状態になるまでの11日間を、洋二郎氏が精神を病み始めた中学時代以降の追想、及び洋二郎氏の残した日記や文章を断章として加えて、克明に綴ったものである。
柳田氏は、本作品の執筆の動機を、「あえて簡潔にいうなら、彼の究極の恐怖心を取り除いてやるためだといおうか。・・・彼が抱いていた究極の恐怖とは、人間の実存の根源にかかわることで、一人の人間が死ぬと、その人がこの世に生き苦しんだということすら、人々から忘れ去られ、歴史から抹消されてしまうという、絶対的な孤独のことだった」と語っており、また、洋二郎氏の生前の意思に沿って、心肺停止後、腎臓移植(自らドナー登録をしていた骨髄移植はできなかったが)も行っている。
しかし、洋二郎氏の持っていた“究極の恐怖心”とは、実は全ての人間のものであり、我々は、自分の死に対し、自らがどのように折り合いをつけるのか、死んだ人間に対し、残された人間がどのように対処するのか、自らのこととして常に考えておかなければならない。
自ら及び大切な人の死と生について、改めて考えさせる一冊である。
(2006年7月了) -
この世界の矛盾を受け入れる存在がいないと、世界は成り立たないのかもしれない。地球規模、もしくは遺伝子の問題として、犠牲を必要としているのかもしれない。そういう意味で、ドナーもレシピエントも、同じ犠牲を捧げる人だと思えてくる。特に、著者の息子さんのように心を病むことは、社会のしわ寄せを一身に引き受ける、犠牲以外のなにものでもないように思えてきた。彼は臓器を提供する以前に、精神疾患になる事で、すでに犠牲を捧げていたのかも…。
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以前に読んで衝撃を受け、二度目の読了。柳田邦男さんの「息子が生きた証を残したい」という思いが痛いほど伝わってきて、脳死や臓器移植に対する現代医療の問題なども共感を覚えました。暗い内容だけど、不思議と手元に残しておきたい作品です。
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ノンフィクションの分野には、社会や政治、大事故や自然災害のように対象の大きなものから、個人の体験記ように比較的小さなものまで、多種多様な作品があります。本作は近しい人を失うという経験を後者の視点で語っていますが、その個人的な視点の先には、現代社会に生きる人なら誰でも感じ得る、大きく広いテーマがあります。
放送記者を経て作家となった著者は、飛行機事故を題材にした『マッハの恐怖』を皮切りに多くのノンフィクション作品を送り出していますが、その中にあって本作が異彩を放つのは「自身の心」に分析の対象が向けられている点です。近しい人を失った時、心はどうなるのか。目には見えない自らの内面が変容していく過程を、細やかに、冷静に記しています。
ちなみに、第一章の題名は『百年の孤独』です。私はこの本をきっかけに、ガルシア=マルケスの著作を読んでみたいと思ったのでした。 -
「心の深みへ」と本作を通じて、先端医療で切り捨てられてきたもの、医療者にとって本当に大事なことに改めて気付かされた思い。患者や家族を病んだ人間としてとらえ、病気や死をその物語の中に組み込んでいけるように支えていく。「脳死であっても普通の患者と同じように責任を持って最後までお世話します。」という富岡医師の言葉に医師の矜恃を感じる。
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精神を患った息子が自殺を図り救命救急センターで植物状態、脳死を経て死に至るまでの11日間のこと、息子の死を著者がどう受け入れていったかが、よくわかりました。死の形は人それぞれで、死をめぐる家族の物語も十人十色。死を語ることは、その人の生を語ることに他ならないのだと思います。フランクル関連本から手にとった本ですが、いつか突然自分のそばで起こるかもしれない脳死について、すごく勉強になりました。
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臓器提供の実際がよくわかる。感情の問題で可否を決めるわけにはいかなくとも、人間の死を感情を排して済ませることも難しい。
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脳死についての考え方を得られただけじゃなく、生と死を見つめ直す事にも優れた本だった。
自殺を遂げた洋二郎さんの内的な世界の捉え方や、現実に対応して生きれない苦悩も、非常に共感させられるものがある。何も苦痛なく生きている人も実際いるのだろうが、こういう苦しみを抱えながら世間的には普通に生活している人も大勢いるのだと思う。人間は見た目以上に多く考えているし単純ではない。
父の接し方が洋二郎を間接的に殺したんだという批判をちらっと見たけど、実際のところ神経症を患って一人で生きる力を失っていたのだから、彼を突き放したり他の対応が取れたかは疑問に感じる。
「脳死は人の死か」については、二人称の視点の重要性に目を開かされた。死はどの視点から取るかで全く意味が違ってくるからだ。ドナー待ちの患者を救うことと、患者の死を迎える遺族を救うことは、同様に重要なことだと思う。
「洋二郎は、昼間と全く同じように、静かに眠っているかのようだった。手を握ると、あたたかく湿っている。額も胸も、温もりがある。」
この一文が、実際に家族の脳死に直面した二人称の視点でしか、決して分かりえない重みがあることは理解しておかなければいけない。 -
著者の次男が自殺を図り、脳死という状態で11日間過ごした日々の中で、二人称の死に対面した家族の心の葛藤、苦しみ、悲しみそして息子の死と再生の模索が描かれている。脳死患者と家族への医療のあり方に一石を投じている。
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精神を病み、自死を計り脳死状態となった青年。青年の手記を交えながら、その父親である筆者・柳田邦男が息子について、脳死について語る。
この本の何よりも素晴らしい点は、この本の存在自体が柳田邦男の息子を救うものであるということ。人間存在の根源的孤独に苦しんだ彼の記録としての本書が、破壊され得ないものとして存在する事実。それを彼の父親が、息子の人生の完成のために創り上げたこと。孤独と悲劇の記録が、その記録が成されることによって希望になる、それが本当に素晴らしいと思う。
本書は息子の死、息子の手記、それに対する父である筆者の語り、という非常に個人的な話題と共に、脳死、臨床治療といった社会的話題が取り上げられている。柳田邦男は息子の自死というあまりにもつらい事態に対して、自身の持つ科学的知識の利用によって自己コントロールを試みた。主観的な問題に対して、客観性を用いてバランスを取ろうとしているんですね。でも当然ながら客観性だけでは解決し得ない苦しみがあって、それに対してきちんと向き合うこともしている。結果として、一般と個が混ざり合った内容になっている。ここが素敵だなあと思った。どちらが欠けてもいけないと思うから。
精神を病んだ青年が夢見た「自己犠牲」、どこの誰の手によるものかわからない犠牲によって、平凡な毎日が支えられていると思うことは、この世界を辛うじて人間に値するものにすることが出来る唯一のもの。いまこのとき人に残されているのは、不毛なものを希望に変え続ける意志である、と。
生きる意味を見いだす物語が「犠牲」を主軸としたものであることがあまりに切ない。だけど、世界と人生に価値を与える、そんな物語を病の苦しみのなかで彼が発見したことを想うと、胸が詰まる。
そして青年の読書に対する情熱に、衝撃を受けた。読書に対する姿勢があまりにも真摯で、真剣で、それがそのまま人生に対する真摯さに通じているように思えて、心を打たれました。わたしはこんな誠実さを持っていない。彼のこの誠実さは、人間の根源的孤独への気づきに至り、結果として非常に彼は苦しんで自死を選んでしまったので、鈍感さはある意味で自分と自分の周りを生かすための武器なのかなあ、と思いつつ、この気づきを受けてなおかつ乗り越えて行けるだけの叡智がどこかに存在すると信じたい。ただ、苦しみ抜いたその潔癖が、こういった鈍感さの払うべき対価を引き受けてくれたようにも思う。だれかの犠牲によって購われている鈍感さ。どう受け止めるべきか、まだわたしにはわかりません。
著者プロフィール
柳田邦男の作品
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