うらなり (文春文庫)

  • 文藝春秋 (2009年11月10日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (208ページ) / ISBN・EAN: 9784167256241

みんなの感想まとめ

地味なキャラクターの視点から描かれる物語は、意外な深みを持っています。主人公のうらなりは、表向きは目立たない存在ですが、実は物語の中で重要な役割を果たすことが明らかになります。彼の愚痴や内面の葛藤がリ...

感想・レビュー・書評

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  • 前日「坊っちゃん」を読んだのは、小林さんの「うらなり」を読むためだ。坊っちゃんの中でのうらなりは影が薄そうに見えるが、実は物語の後半で多々起きる事件のキーパーソンであることがわかる。うらなりの愚痴めいた邂逅が面白かった。

  • 漱石『坊ちゃん』にインスパイアされた作品だった。それも地味なキャラクター・うらなり君目線の物語なのが面白い。表面上はうだつの上がらない彼だが、坊ちゃん先生に「五分刈り」というあだ名を奉り、心中では様々な異論反論を持ちつつ生きている。それが人というものの姿に思える。明治~大正~昭和初期まで、うらなり君が生きた軌跡を描くことで、それぞれが人生の主人公たり得ることを認識させてくれた小説だった。

  • 第59回アワヒニビブリオバトル「弱い」で紹介された本です。
    2019.12.03

  • 夏目漱石「坊っちゃん」の登場人物、うらなり君が主人公。彼が30年近くも経ってから、当時とその後を振り返る。登場人物はみんなイメージ通りで、「ああ、こんな感じだったかもなあ」と思える。巻末に著者の「創作ノート」がついているのも良かった。
    言われてみれば、うらなり君って坊っちゃんでは脇役だけど、あのドタバタの当事者だ。でも全然怒らないので坊っちゃんに「君子」なんて言われてしまう。坊っちゃんは当事者ではなく、うらなり君とそんなに親しいわけでもないのにプンスカ怒る。その辺が坊っちゃんの魅力なんだけど、うらなり君から見たら変わった人かもなあ。

  • 坊っちゃんの後日談ということを知って図書館で借りてみた。
    坊っちゃんはとんでもない奴だったw
    うらなりもそれなりの人生をおくったんだ。

  •  許嫁のマドンナを赤シャツに奪われ、校長に謀れて延岡に飛ばされることなったうらなり君。人がいいのか、弱いのか、送別会の主役にも関わらず、座敷の隅に追いやられ、ほったらかしに。会津っぽの山嵐や、江戸っ子の坊っちゃんのように、声を荒げて腕を振り回し、暴れまわればさぞ爽快だろうに。と、うらなり君が思ったかどうかは知らん。ひっそりと、表舞台に上がることなく、記憶の片隅に残ることもなく、さよならを告げる相手もなく退場した彼のその後の人生と、彼の目から見た山嵐と坊っちゃんの人物像とは。 
    久しぶりに坊っちゃんを読み返し、曖昧だったうらなりの意味を検索してたらこの本が引っかかったから読んだ。
    楽しいよ、これ。

  • 坊っちゃん、実はちゃんと読んだことがない(恥)。
    何となくのあらすじは分かるけど。

    坊っちゃんに出てくる脇役うらなり・古賀先生が主役に。
    坊っちゃんを読んでもう一度読もうと思う。

  • 【あらすじ】
     昭和9年、銀座四丁目で古賀先生(うらなり)は堀田先生(山嵐)と再会する。
     カフェでお互いのその後や近況を交換し、古賀先生は帰宅後、寝る前に今までの人生を振り返る。
     うらなり先生の視点から見たもう一つの「坊っちゃん」。
    【感想】     
     夏目漱石の「坊っちゃん」を読むと、私はつくづくうらなり先生だなと思います。
         
    ■[名作文学]【百年読書会】『坊っちゃん』その後おれはうらなりになった
      http://d.hatena.ne.jp/nazegaku/20090709/p1
         
     うらなり先生が語り手となってうらなり先生のその後が描かれているという小説があると知り、私が語り手とはどういうことだろう、私はその後どうなったんだろう、と興味深く思い、読んでみました。
     本作品では、「坊っちゃん」に描かれた事件が、うらなり先生や山嵐先生の視点から語られています。
     うらなり先生から見ると、坊っちゃんの行動が理解不能のようです。
         
    「男には人の心に土足で入ってくるようなところがあった。」
    「自分の考えや行動はよろず正しいと思っているらしいのが私とは合わなかった。合わないというよりも迷惑である。」
         
    ……というような記述が度々繰り返され、赤シャツや野だいこ以上に坊っちゃんに対して辛辣な書き方が目立ちます。
     そのような記述を見ると、やはり私はうらなり先生ではないようです。
     もし私が回想するならば、いつまでも狸や赤シャツや野だいこに対する恨み辛みを忘れずに書きたてるだろうし、一方、それらに敵対していた山嵐や坊っちゃんを持ち上げるでしょう。
     私がもし当時の愛媛の学校の教師として赴任したとすると、やはり古賀先生に同情して堀田先生に加勢し、教頭や吉川先生と対立していたでしょう。坊っちゃん先生そのまんまです。
     私にとっては、本作品のうらなり先生の発想の方が分かりません。
     というと、私は、外から見えるタイプはうらなり先生で、頭の中は坊っちゃんということです。
     理想(思うこと)に現実(行動)が伴わないという、一番ストレスが溜まる組み合わせです。
         
     ところで、坊ちゃん先生のその後はどうなったことになっているのでしょうか。
     堀田先生は現在、東京在住ということですが、その堀田先生とも音信不通のようです。
         
    「東京に帰ってから、街鉄の技手になり、それから技師になったという噂もあったが、本当のところはわからない。それよりも、関東大震災を生きのびたかどうか」
      http://d.hatena.ne.jp/nazegaku/20150404/p1
         
    ……さて、私はさらに、歴史上繰り返されてきた人間の本質や日本人の国民性について考えてみました。
     ブログに書きましたので、よろしければ、ブログにお越し下さい。
         
    ■[日々の哲学]『うらなり』で考える日本人の国民性
      http://d.hatena.ne.jp/nazegaku/20150405/p1

  • 『坊っちゃん』の登場人物の一人「うらなり」の視点から描いた作品です。今の言い方でいえば、「スピンオフ」でしょうか?回想を織り交ぜながらも、『坊っちゃん』の世界観を壊すことなくオリジナルストーリーがあります。『坊っちゃん』を読み直したくなります。

  • 昭和初期の銀座のど真ん中で待ち合わせをする田舎の男。
    待ち合わせに遅れてきた声の大きい男。
    互いに50過ぎで、元教師である。
    田舎の男はコンプレックスの塊で、声の大きい男はがさつだが人は善いらしい。
    やがて昔話が始まり、“四国”“若気の至り”“教頭を殴りつける”“赤シャツ”という単語が出てくると、俄然、物語が面白くなってくる。

    そう、これは夏目漱石「坊っちゃん」のアナザーストーリーです。
    「うらなり」とは教頭に許婚を奪われた挙句、厄介払いで左遷させられた教師です。
    田舎の男こそ「うらなり」本人で、彼から見た物語と登場人物達のその後の半生が描かれます。
    「坊っちゃん」はそそっかしい正義派の“B型ヒーロー”である。
    このそそっかしさは育ちの良い都会人の一典型で、立身出世にこりかたまった地方出身者から見たら嗤うべきものだろう。そして坊っちゃんは“B型ヒーロー”が地方でどんな目に遭わされるかという物語でもあり、漱石その人もB型だった…。
    と語る小林信彦もB型です。かく言う私もB型で、親近感を禁じ得ません。

    坊っちゃんで起こる出来事の中心人物は「うらなり」と「山嵐」(声の大きい男)ですが、
    坊っちゃんは正義感から自分が主役気取りで首を突っ込んで赤シャツ達に敗北します。
    うらなりから見た坊っちゃんは浅はかで理解し難くB型の私は身につまされます。
    でもB型ってそんな自分も好きって人が結構多いと思うんですが…。

    この小説は、B型を愛する人には特にお勧めの面白い本です。

  • うらなりとは、夏目漱石の小説「坊っちゃん」に登場する人物のこと
    マドンナの元婚約者であり
    赤シャツ教頭の奸計にかかって松山を追われた英語教師である
    これは、うらなりのその後の人生を書いたオマージュ小説

    坊っちゃんこと「五分刈り」の行動を理解できないうらなりは
    常に戸惑いとある種の畏怖をもって彼に接していた
    そんなことが、山嵐との再会をきっかけに、回想されていく
    しかし、実際のところ
    「五分刈り」とうらなりは
    根っこの部分で似た者同士だったのではないだろうか
    常に率直で、しかも飽きっぽい「五分刈り」と
    世間におもねることを善しとするうらなりが
    互いを理解しあえるはずはないのだが
    それでも
    彼らがそれぞれの現状に不満を抱き続けていたのは確かである
    そして
    英語教師のくせに外国人を恐れるうらなりの心性は
    結局、誰かに相乗りする形でしか動けない「五分刈り」に通ずるものだ
    このふたりのすれ違いは
    近代日本の悲劇を、何か象徴するものである
    …ような気もしますよ

  • 『坊っちゃん』から百年、"うらなり"こと古賀を主人公に据えた物語
    うらなりにとって坊っちゃんはどれほどの存在であったのか、『坊っちゃん』の読み方を考える作品だった。著者の創作ノートも興味深い

  • 漱石の「坊ちゃん」に登場する同僚の英語教師“うらなり”。
    ほんの少ししか登場しない、しかも登場しても影の薄い“うらなり”を主人公として彼の物語(「坊ちゃん」からそれ以後まで)を書こうという着想もさることながら、あくまでも「坊ちゃん」を尊重した(ゆえに読者にすんなりと受け入れられる)ままで物語を描き切っているところがすごい。
    本編も面白かったが、作者自らが解説をつける形で巻末に添えられた「創作ノート」も興味深かった。「坊ちゃん」をそう読むのかぁと思い、書棚へ「坊ちゃん」を探しに行ったが、実家に置いてきたようで見つけられず…残念。
    ☆菊池寛賞

  • 「坊ちゃん」のスピンオフ。

  •  新潮文庫版『坊っちゃん』(夏目漱石)の記事を書いた折のことだ。坊っちゃんこと「おれ」にとっての「松山という町の何にも勝る美点」として、私は「湯」と「山嵐(堀田先生)の存在」を挙げたのだけれど、最も大事なものを失念している事に気がついた。それは、「うらなり君(古賀先生)の存在」である。

     坊っちゃんからしてみれば、慎ましやかな彼の性情には、じれったさや物足りなさを覚えることもあったろうし、竹を割ったような好漢というか、スッパリと解かりやすい山嵐に比べると、何を考えているかよく分からない人物と映っていたであろうことは想像に難くないが、それでも、うらなり君が延岡に転任させられる時には、「浜まで見送る」と坊っちゃんに言わしめるのだから、やはりそれだけの徳を持った人物であることは間違いない。まぁ、徳というよりも、単にほっとけないタイプだったと言った方が近いかもしれないが。

     うらなり君が校長や赤シャツの奸計に引っかかって、五円の昇給とひきかえに延岡の中学校に転任させられることとなり、『坊っちゃん』という作品の中盤から消えた後、彼の消息がどうなったか気になる読者は存外に多いのではないかと思われる。この小林信彦氏が書く『うらなり』は、そんな押しの弱そうな英語の古賀先生が、松山時代から延岡時代を経て姫路に移り住み、自分の来(こ)し方を振り返る形で進行していく。

     昭和九年、かつて松山で英語教師を務め、東京から赴任してきた新人教師に「うらなり」と呼ばれていた男・古賀は、これも同じ中学で数学教師をしていた堀田と東京で再会する。お互いに早、五十年配の初老になっている。堀田は数学の参考書を出版し、その評判から堀田の存在に気付いた古賀が出版社に問い合わせ、再び邂逅する運びとなったという設定である。およそ三十年ぶりの顔合わせだ。古賀と堀田は、松山時代に出会った、無鉄砲で江戸っ子気質丸出しの新人教師の思い出を語り、堀田とその新人教師が教頭(赤シャツ)と画学教師(野だいこ)を打擲(ちょうちゃく)した事件の顛末を確認していく。

     面白いのは、『坊っちゃん』に登場する「おれ」が古賀を「うらなり」、堀田を「山嵐」という風に、周囲の人間に綽名(あだな)を付けていたのと同様に、古賀も「坊っちゃん」と呼ばれていた新人江戸っ子教師のことを「五分刈り」と呼んでいることである。本家本元の「坊っちゃん」は、容貌どころか実名だって説明されていないから、物語を展開する上では彼を何かしらの呼称で呼ばなくてはならぬ。そこで「五分刈り」ということになったのだろう。そうか、「坊っちゃん」て五分刈り頭だったのかと、夏目漱石の『坊っちゃん』の方にも、具体的で生き生きとしたイメージや色が付与されていくようである。

     当時「うらなり」と呼ばれていた古賀の視点から、新人江戸っ子教師を観察すると、まるで理解できない言動のオンパレードだったことが分かる。この古賀の心情を端的に表す文があったので引用しておきたい。

     男には人の心に土足で入ってくるようなところがあった。江戸っ子というものがすべてそうとは思わないが、自分の考えや行動はよろず正しいと思っているらしいのが私とは合わなかった。合わないというよりも迷惑である。

     確かに古賀のように万事控えめで、言いたいこともハキハキと言えない、性格の穏やか過ぎる男にとっては「五分刈り」のような男は付き合いづらいに違いない。

     自分に対して、決して良い意味ではない「うらなり」などという綽名をつけ、その割には温泉で偶然一緒になれば、顔色の悪い自分の事を気遣って「病気はないのか」と聞いてきたり、自分の事を君子だと褒めたり、転任に際しては「浜まで見送りに行く」と親切なところを見せたりする。その上、ある事情があって江戸っ子教師が下宿先を引き払ってしまった時などは、間借りさせてくれる家を紹介して欲しいと、自分の所に頼っても来るのだ。(おいおい、まず引越し先を決めてから、今の下宿を引き払うのが順番でしょうが…)と古賀は思ったようだ。当たり前だ。しかし、江戸っ子教師には、本当にそういう無鉄砲で無考えなところがあって、しかも他人の懐に無防備に飛び込むような幼さもあるのだ。古賀のような松山の地の人間で、傾きかけているとはいえ旧家で生まれ育った人間からすると、この江戸っ子の考えていることなど寸毫も理解できなかったのであろう。そういう風に「うらなり」から「坊っちゃん」の姿がどう見えていたかということも書かれていて、ほんのりとした可笑しみを愉しむことが出来る。

     この『うらなり』を読んだことによって、漱石の『坊っちゃん』における主人公も実はこの「うらなり」だったのではないか、という気がしてくる。表題こそ『坊っちゃん』となってはいるが、物語の骨子は、校長(狸)・教頭(赤シャツ)・画学教師吉川(野だいこ)の俗物トリオと古賀(うらなり)・堀田(山嵐)の暗闘だからである。

     そして古賀と堀田とは、一人は何も言わずに運命を受け入れて去っていく敗者であり、もう一人は最後の最後に教頭(赤シャツ)と画学教師(野だいこ)を殴るという直接的な反骨精神を発揮して去っていく敗者となっているのだ。堀田が堪忍袋の緒を切らして上司と同僚を殴ったのに比べて、古賀が、マドンナを奪われそうになっていても、理不尽な経緯で転任の御沙汰を受け入れさせられても、ぐっと堪えて去って行ったことを考えると、『坊っちゃん』という作品の中で良識的なのは古賀だけなのである。

     「坊っちゃん」はどちらかといえば、松山の中学校を舞台としたその暗闘に巻き込まれて、たまたま堀田とウマが合ったがゆえに中途参戦したに過ぎない傍観者なのである。(下女の清も坊っちゃんと同じ東京組として傍観者の立場にある) 『坊っちゃん』の冒頭にて「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」とあるが、「坊っちゃん」自身は松山での生活で損などしてはいない。堀田と一緒になって赤シャツと野だいこを殴り、教職を放り投げて東京に戻った後、かれはさっさと他人の周旋で東京市街鉄道株式会社の技手として再就職し、清を看取ることも出来ているのだから。本当に損をしたのは、言いたいことをすべて飲み込んで、生まれ故郷に母もかつての許嫁も残し、一人で転任していった「うらなり」なのである。だからこそ、我々読者は物語の途中で、ひっそりとフェードアウトしていく古賀の行く末が気になって仕方がないのだ。

     もっと言うと、清以外の登場人物が<坊っちゃん>という言葉を使っている点に着目すると、主人公は「坊っちゃん」だけでも「うらなり」だけでもなく、物語に出てくるあらゆる人物が主人公なのではないかとも思えてくる。それはここだ。教頭(赤シャツ)と吉川(野だいこ)が、張り込みしている「坊っちゃん」と堀田(山嵐)に攻撃される少し前。野だいこが行った台詞にこんなくだりがある。

     「あの男もべらんめえに似ていますね。あのべらんめえと来たら勇み肌の<坊っちゃん>だから愛嬌がありますよ」

     ここで言われている<坊っちゃん>とは、要するに、世間知らずで世渡りが下手な甘ちゃんということだろう。一義的には、東京から来た新人教師を指すわけだが、しかし、<坊っちゃん>気質なのは果たして江戸っ子新人教師だけであったろうか。それを言うなら、皆、狭い世間の中で生きることを余儀なくされている<坊っちゃん>なのではなかろうか。

     「坊っちゃん」は当然、初めて社会に出たばかりの世間知らずだろう。そして堀田も、そこそこ若そうな年齢からいって、今いる学校以外の教壇に立ったことのないであろう世間知らずだ。古賀もそう。許嫁である遠山のお嬢さん(マドンナ)以外の女性と親しく語り合ったこともなかろうし、父親が遺してくれた財産を人に騙されてすり減らしてしまったことから言っても、折り紙つきの世間知らずだ。マドンナの場合は<嬢ちゃん>と言うべきだが、古賀という好人物の許嫁がいるにも関わらず、有望株のように見える教頭にして文学士の赤シャツになびこうとしているのである。時代柄とはいえ、狭い狭いコミュニティーの中での異性しか知らず、尚且つ、男を見る目の無い世間知らずの女性なのである。こう考えて見ると、夏目漱石が遺した『坊っちゃん』は、世間というものをまだまだ良く知らない初(うぶ)な人たちが繰り広げるやっさもっさで占められているようでもある。

     ただ単純に『坊っちゃん』を読んだだけでは気付かなかったようなことを、『うらなり』という作品は気付かせてくれたように思う。それは取りも直さず、「うらなり」こと古賀の目線に転換して、『坊っちゃん』が語り直されているからである。けれども『うらなり』は、漱石の作品の焼き直しとか二番煎じにはなっていない。勿論、先行作品をチョイチョイと利用したスピン・オフ作品でもない。「うらなり」という、漱石が提示した「物言わぬ敗者」にも懸命な後半生があり、明治・大正・昭和を通じてのいとおしむべき人生があるということを最大限に想像し、訴えかけているオマージュ作品に仕上がっている一作なのである。

  • 夏目漱石の坊ちゃんのその後。
    薄くてすぐ読めるかなと手にとってみたものの、そういや坊ちゃんて読んだことなかったことに思いいたる。
    それでも読めました。

  • 「坊っちゃん」を「うらなり」の視点から描き、
    その後の生活までも描いた良作。

    その中でもやはり「坊っちゃん」と交差するシーンが凄い。
    うらなりがまた脇役のうらなりに引っ込んで
    主人公の「坊っちゃん」が一気に前に出る。
    その瞬間の衝撃、背骨がびりびりする。
    あの一瞬のために読み続ける価値がある。

    蛇足だけれど私は著者を別の「信彦」氏だと思ってずっと読んでいて
    へー、あの信彦さんがこんな文章をかけるのか、と思っていた。

    違う信彦さんのことだった。

  • 30年以上も前にキネマ旬報に載るほんの1頁のコラムを毎月読んでいただけなのに、それだけで十分、小林信彦は私にとって最も信頼に足る批評家であり作家となった。帯に、『坊っちゃん』から100年、彼らのその後の人生は−とあるこの本、文春文庫、今月の新刊で手に取る。作者自身の創作ノートに「愛すべき初期漱石作品へのぼくのオマージュ」とある通り、漱石の代表作『坊っちゃん』の世界と登場人物を借り、作者としての『坊っちゃん』の読み方を渋み溢れる文章で綴る。『坊っちゃん』は中学生の時に『猫』とともに読んだ記憶があるのだけれど、もはや後半の筋立ては怪しく、赤シャツだの野だいこだのマドンナなど登場人物の類型の鮮やかさだけが記憶の片隅に残る程度。「うらなり」もまた、その聞き慣れぬ響き故か赤シャツなどと同等に記憶されているが、創作ノートを読んで改めて知るのだけれど、その登場回数の少なさに驚く。そうしたところを押さえながら、漱石の雰囲気を壊さず、うらなりの視点から彼らのその後を描く着想には脱帽。創作ノートが非常に興味深かった。

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著者プロフィール

小林信彦 昭和7(1932)年、東京生れ。早稲田大学文学部英文科卒業。翻訳雑誌編集長から作家になる。昭和48(1973)年、「日本の喜劇人」で芸術選奨新人賞受賞。平成18(2006)年、「うらなり」で第54回菊池寛賞受賞。

「2019年 『大統領の密使/大統領の晩餐』 で使われていた紹介文から引用しています。」

小林信彦の作品

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