私の國語教室 (文春文庫 ふ 9-3)

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  • Amazon.co.jp ・本 (360ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167258061

感想・レビュー・書評

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  • 非常に面白く、読みにくい(笑)
    改革の末に私のような者が育っているのだから、筆者にとっては絶望でしかないかもしれない。

    こうして歴史的仮名遣いを振り返ってみると、語義に沿った仮名遣いという点では見事。
    そして、「大詰め(おおづめ)」と「差し詰め(さしずめ)」の矛盾など、現代仮名遣いが今尚引き摺る課題も確かに見えてくる。ちなみに、この二語ってどう区別するんだろう?まさかの、どっちでも良いパターン?

    そして、後半の漢字廃止論、ローマ字強化、日本語表音文字化にはなかなか驚いた。
    口語と文語の決壊について、何も言える立場にはいないが、まぁ「言っちゃって」が随分当たり前になった現在。それでも、公的文書に「言っちゃって」は顰蹙モノであるから、最後の一線は守られているの……だろうか。

    更に、ワープロ普及で最早、現在仮名遣い・常用漢字以外は認められなくなった強制っぷり。
    歴史的仮名遣いを打つと、誤用としてアンダーラインまで引かれた時って悲しくなったことはありませんか?

    古典は読めない、何に役立つのか、と言ってポイポイ歴史を捨てていく日本人なのだから、大学から文学部が消え去ることに何の疑問も抱かないのだろうな。

    絶版にならないことを願う。

  • 歴史的仮名遣ひを遠くに離れて教育をうけてきた人間にとつて、古典の物語はなんと遠ざかつてしまつたのだらうか。扱ひはまるで未知の言語のやうにされてしまつてゐる。そのことばを用ゐた彼らと同じやうに思考するといふことは、たしかに不可能かもしれない。だが、彼らと同じ島国で生きてきたといふそんな存在の事実さへも感じられずに、まるで違ふ生き物のやうにしてしまふのは、悲しいものである。
    表音化といふこともさうだが、最近では簡単でわかりやすく何かを説明するといふことが価値とされているやうである。わかりやすく、しかも簡単に書かれてゐなければ讀まれない。
    今まで習つた通りに現代仮名遣ひで書いてきたが、~しょうではなく、~せうと書いてみると案外書きやすい。歷史的假名遣ひで書かれてゐる彼の文体も、何の違和感もなく、讀めてしまふ。ことばであることには變りないが、それ以上に、彼は昔のことばではなく、歷史的假名遣ひにしたがつて、今のことばでもつて語つているからに他ならない。
    歴史的仮名遣ひとしては、難しい話は何ひとつないといふのに、それをさも難しいものとしてしまふのは詐欺といふより他ない。そもそも音を文字にするといふ難しいことをやつてのけてゐるのに、簡単になりやうはないではないか。それでも、とてつもなく長い時間の中で、模索しながら音を文字にしやうとやつてきた。さうして書かれた方法が続いてゐるといふのは、その方法が日本語といふ言語にとつてあつていたからに他ならない。それを無碍にして、音にあはせて簡単にしました、例外部分は歴史を取り入れましたといふのは、ことばに対して敬意がなさすぎると思ふ。
    ことばは思考の道具などでは決してない。ことば自身が考へる精神であり、すべてのはじまりである。人間はさういふ風に生れついてしまつているのである。語に随ふといふのは、存在としてのことばだ。漢字といふ異なる文化体系に感化されながらも、先人は自国を指して、言霊幸ふ国をいつたのは、その独自の表記や発音を見出したのは、ことばといふ存在をきはめて大切にしてきた証ではないか。
    音と文字は不即不離ではあるが、音は音である以上、文字は文字である以上、決して両者は交はらない。それでも、文字が書け、それを讀めるといふことは、どうしたつて驚くべき事態なのである。書物の歴史は、さういふ驚きの歴史でもある。文字と音が出会ひ、表現される歴史。さうやつて生れたものが混乱をきたすといふのは、無知無理解としかいひやうがない。混乱しているのはことばではなく、ことばを用ゐる人間の主観にある。
    さういふ時間の流れの中で育つてきたものは、確かに複雑で、取つ掛かりにくいものであることにはかはりない。しかし複雑であるものとわからないといふことの間には大きな違いがある。次元が違ふのだ。それ故、ことばを変へるのではなく、ことばのための教育を変へるべきだといふのだ。
    語彙力とはさういふ中で培はれていくものであつて、たくさん本を読んだからと言つて、たくさんのことばを知つてゐるからと言つて、身に付くものではない。たくさんことばを知つているのが語彙力だとするなら、そんなものは、コンピュータに任せておけばよろし。語彙力とは、語に随ひ、音を想起させるやうに書き写すことのできるさういふ力ではないか。ことばを用ゐる力が語彙力だ。そもそも、外来語の音を借りてばかりで、自ら考へ、ことばを受け入れやうとしないことばをたくさん知つたところでことばを活きて用ゐることはできないだらう。表音が惡いのではない。音から生じる観念を取り入れて表現しないで音に頼つてゐることこそ、彼の問題意識なのだ。素朴な唯物観とはたぶんさういふことだ。
    観念的に考へるといふことが、どうも苦手なやうになつている文化であるやうだ。すでにこの国ではほぼすべての人間が読み書きができる状態にある。たくさんの人間が読み書きでき、そこで言霊幸ふ国であると誇れればなんと素晴らしい国となるだらう。幸福の指標といふものはたくさんの観点からなされるが、言霊と人間が共に生きていゐる以上、言霊が幸ふこともまた、ひとの幸福へとつながるはずである。

  • 現代仮名遣い、当用漢字で教育を受けた私たちには「歴史的仮名遣い」から「現代仮名遣い」への移行、そして漢字制限ともいえる「当用漢字」の制定について、当時どのような状態であったのかまったく解っていなかった。
    この本を読んだからといって「歴史的仮名遣い」と「現代仮名遣い」のどちらが良いのか判断ができる訳ではない。しかしながら、「漢字」、「平仮名」、「片仮名」使う母国語の表記について、自分たちは何と無関心であったのだろうと痛感した。

  • サテ福田恆存氏も今年で没後20年でした。この人も毀誉褒貶相半ばし、神様と並び称されるかと思へば、天下の愚物扱ひをする人もゐます。まあ愚物は言ひ過ぎですな。とにかく存在感は抜群、歴史に名を残す思想家・批評家・劇作家・翻訳家と申せませう。
    福田氏の代表作は何か。良く分かりませんが、一番読まれてゐるのはこの『私の國語敎室』ではないでせうか。

    元来、戦後に行はれた「国語改革」批判として書かれたものであります。敗戦後、それまで自信満々だつた日本人が、一転米国へのコンプレックスの塊と化しました。戦争に負けたのは、文化力の差だと感じ、その原因の一つとしてやり玉に挙がつたのが、他ならぬ日本語であります。
    漢字のやうな前近代的な文字を駆使してゐるから、世界に出遅れるのだ。しかも音韻と表記が不一致である。根本的に我国の国語を見直さうではないか...

    今では噴飯物と感じられるさういふ意見も、当時は一定の支持を得てゐたやうです。「改革派」の思惑は、漢字の全廃、そしてローマ字化であります。ベトナムや朝鮮も漢字を廃した。あの中国でも漢字を簡略化し、ローマ字を併記し始めたではないか。このままでは欧米に追ひつくことは愚か、中国にも抜かれてしまふぞ。あの志賀直哉大先生もフランス語国語化論をぶつてゐるぞ...

    福田氏はかういふ態度の国語審議会のメムバアに対し、真向から反論してゐます。六章構成となつてゐて、著者は頭から全部読むのが一番良いが、取敢へずの問題を把握するためには、第一章、第二章、第六章をまづ読めと説きます。
    「現代仮名遣い」の不合理性を指摘し、「歴史的仮名遣ひ」が如何なる法則に基いてゐるのかを解説します。時には改革論者を激しく罵倒し、痛快ですらあります。

    ポイントは漢字に対する認識の相違か。文字は音韻を表現するものとしてローマ字化を進めたい改革派に対し、表意文字としての漢字の重要性を説く著者。現在は日本語ワードプロセッサが当り前になつてゐますが、当時から既にこの状況を予想してゐた著者の慧眼にも注目でせう。
    日本語の特質を、文字と音韻の面から詳しく解説し余すところがありません。名著の名に恥ぢぬ一冊と申せませう。

    なほわたくしが所持するのは新潮文庫版『増補版 私の國語敎室』でありますが、絶版とのことですのでより入手容易な文春文庫版を挙げませう。ただしこちらには、一部未収録の文章があるさうです。悪しからず。

    http://genjigawa.blog.fc2.com/blog-entry-505.html

  • ふと國語の勉強をしたくなつてゐたところ、偶々この本と出会ひました。日頃、自分の遣ふコトバが如何に亂れてゐるか、その亂れの基準と云ふか、根本の部分を知るコトが出來ただけでも有意義でした。
    學校の授業だけでは敎へられない貴重な「國語敎室」です。舊漢字の勉強にもなります。

  • 旧かなづかいと新かなづかいに関して、その問題点を論じた本。対象を書く人向けとしているので自分はまったく当たらないのあるが、激しい論調だけは読み取れた。まったく無知とはこわいものである。

  • 文学

  • 「歴史的かなづかひ」と「現代かなづかひ」
    本書は、旧漢字と歴史的かなづかひで書かれている。旧漢字で難しかったのは、舊(旧)。これはさすがに読めないな。あと、價(価)、壓(圧)圖(図)、據(拠)も読みにくかった。あとはだいたいいける。

  • 現代かなづかいの不合理を糾弾し,歴史的かなづかいの正統性を主張した本.
    「舊漢字―書いて、覺えて、樂しめて」の著者萩野貞樹氏は高校時代にこの本を読んで感激し,大学入試も舊字舊かなで書いたという.というわけで私も読んでみることにした.

    ひとことでいえば退屈.自説が延々と繰り返される.それなりに根拠はあるのだが,熱のこもった言葉で現代かなづかい推進派への強硬な批判がこれもまた延々と続くとちょっとうんざりしてしまう.著者の読んでほしいという,1章,2章,6章をななめ読みするのがやっとだった.

    ただ6章は他の章よりは若干冷静に書かれている.この章を読むと,官僚と御用学者,それに無批判に追従するマスコミ,学校という構図がこの昭和30年代からすでにあったということがわかる.私はお決まりの官僚批判には与しないが,やはり権力に伴う責任はもってやってほしいとは思う.

    私はこの本の主題であるような正統性論議には全く興味がわかないが,舊字や歴史的かなづかいが国の政策として廃止されたことにより,舊字舊かなであるというだけで,昔の本が読まれなくなっていくというのは,本当にもったいないことだと思う.

  • 「現代かなづかい」の不合理と「歴史的かなづかひ」の合理性から、「現代かなづかい」を批判している本。
    「現代仮名遣い」を学び、使用している為「歴史的かなづかひ」は読みにくく、また小説やビジネス書ばかり読んでいる為こういった専門的な内容は難しかった。……と私の頭の程度の問題で評価の星は少ないが、書かれている内容自体は面白い(とは思う)
    一章・二章は退屈、三章・四章はもっと時間をかけて読めば面白そう、五章は退屈…と読み進めていき、飽きながらもなんとか読んだ最後の六章が一番面白い。読み進め甲斐があった。

    崩れつつあっても尚美しい言語だと思うが、日本語はもっともっと美しいものだったのだと思った。

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著者プロフィール

評論家,劇作家,演出家。東京大学英文科卒業。 1936年から同人誌『作家精神』に,横光利一,芥川龍之介に関する評論を発表。第2次世界大戦後すぐに文芸評論家として活動を始め,やがて批評対象を文化・社会分野全般へと広げた。劇作は 48年の『最後の切札』に次いで 50年『キティ颱風』を発表,文学座で初演され,以後文芸部に籍をおいた。 52年『竜を撫でた男』で読売文学賞受賞。 63年芥川比呂志らと文学座を脱退,現代演劇協会,劇団雲を結成して指導者となる。 70年『総統いまだ死せず』で日本文学大賞受賞。シェークスピアの翻訳・演出でも知られ,個人全訳『シェイクスピア全集』 (15巻,1959~67,補4巻,71~86) がある。著書はほかに『人間・この劇的なるもの』 (55~56) など。 81年日本芸術院会員。

「2020年 『私の人間論 福田恆存覚書』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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