- Amazon.co.jp ・本 (368ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167291044
感想・レビュー・書評
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戦後、戦場体験を冊子にして戦死者の遺族に配る。重宝される一方で、微妙に喜ばれないことも。各人の戦争体験が戦後の生活によって、想起すべきか否かを分けているように思われた。戦争があったから今をありがたいと感じる心象と、戦争さえなかりせばという心象は戦後の生活のクオリティに左右されているはずだ。結構見落としがちだが、戦争を振り返る心情は即物的なのだ。
皇居などをめぐる東京見物の最後のシーン、百貨店のにぎわいが平和の象徴であることを知った。戦後と百貨店は、大衆化、大量消費、レジャー、豊かさを象徴しているのは体感するが、これからはそれらに加えて平和もリストアップしておく。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
太平洋戦争・雲南騰越(とうえつ)玉砕戦から生還した二名の元兵士が、戦後に自身の戦争体験を記録に残そうとする。小説は二人が交互に戦時を回顧する形式である。あとがきによると実話ベースのようだ。
回顧録を追う、という形式がポイントで、本作は時を経て戦争の激烈な経験がどのように人間の中で咀嚼され、忘却されていくのかという点がひとつのテーマになっている。
二人は回顧録を執筆するさなかに、自分が決定的だと感じていた経験の記憶が、失われていることに驚く。そのこと自身が死んだ戦友に対して薄情なのではないかと、罪の意識に襲われる。その葛藤が生々しく重みがある。
生存者が数千人に一人という玉砕戦を生き延びた存在として、記憶を遺族に伝えることに使命を抱きつつ、記憶が失われていくこと。ある意味では人間の標準機能であるが、忘却は救いにもなり、傷つけることにもなる。
また、すべてをありのままに伝えれば良いわけではないというジレンマ(怨恨で小隊長から撃たれた中隊長の最期は、そのまま遺族に伝えるには忍びない)も感じつつ、もと兵士二人は回顧録を完成に近づけていくが、エンディングで、記憶の伝道者としての使命は、思わぬ揺さぶりを受けることになる。
こういう良書が、手に取りやすい文庫の形で残されているということは、素直に感謝したい。 -
援蒋ルート遮断のためにビルマ派遣軍が雲南にまで進出していたのは知っていた。一昨年訪中した際に、現地ではそれなりに地方史として認識されているのだとは知った。地域おこしっぽい感じがしないでもなかったが。
しかしそんな、戦史のすみをつつくような取り上げ方ではなくて、がっつりと書いた本である。小説としても、本の惹句のままだけど、静謐で清澄で、読んでよかったと思う本だった。
自分がのほほんと旅行していた場所は、激戦地だったんだ。
それでもちゃんと風景の記憶があるので、「あそこで戦っていたのか」ということが分かる。
もういちど行ってみたいな。 -
作者が一兵卒として参加し、奇跡的に生き残ったビルマ(ミャンマー)での過酷な戦いの実相と、生き残った人々の日々を描いた戦争三部作。
第一部は、龍兵団2600名中、生き延びたのはわずか30人の騰越守備隊の玉砕を描く。 -
昭和も戦争も遠くなってしまって、とかありたきりな感想を持ってしまうわけど30年以上前に書かれた作品の登場人物も同じような感想と諦観を持っていかたってるわけで、その無常さが小松左京の「果しなき流れの果に」とかぶって意外でした。
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読み終わったら 気分的に落ち込みました。
なぜなのか わかりませんが
騰越の戦い があまりにも 厳しい内容だった
からでしょうか。
騰越の戦いの生き残り・・・
落合一政が『雲南戦記』という本を出したところから始まる。
白石芳太郎も 同じように生き残りで・・
雲南の戦記を書こうとしている。
一政と芳太郎の二人の回顧によって
騰越の戦いの全貌がわかっていくとストーリー展開。
話の展開はくどさがあり、繰り返しが多い。
体験した戦記をどう書くのか?
ということを苦悩するところや
生き残り者として何を伝えるのか?
と迷うところが具体的である。
『戦場では、生きるも死ぬも、運としか言いようがない。
助かったものにはああいう幸運が最後まで続くのである。
一度でも、それが途切れたら、人は死ぬのである。』
人生とは偶有性の連続であるが、
戦場においては、それが先鋭化する。 -
肯定も、否定もできない、戦争。
著者プロフィール
古山高麗雄の作品





