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Amazon.co.jp ・本 (240ページ) / ISBN・EAN: 9784167306038
作品紹介・あらすじ
現代の日本では“空気”は絶対権威のような力をふるっている。論理や主張を超えて人々を拘束するこの怪物の正体を解明し、日本人に独特の伝統的発想と心的秩序を探る。(日下公人)
みんなの感想まとめ
現代の日本社会における「空気」の力を深く考察した作品は、私たちが日常的に感じる圧力や拘束感の正体を明らかにします。著者は、空気がどのように人々の判断や行動に影響を与え、時には個人を排除する力となるのか...
感想・レビュー・書評
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空気三部作、日本人の精神構造を、空気と水をもって説明を試みるものです。場の雰囲気と、それに水を差すです。
「空気支配」の歴史は、いつごろから始まったのであろうか?
猛威を振るい出したのはおそらく近代化進行期で、徳川時代と明治初期には、すくなくとも指導者には「空気」に支配されることを「恥」とする一面があったと思われる。
「いやしくも男子たるものが、その場の空気に支配されて挙動妄動するとは」といった言葉に表れているように、人間とは「空気」に支配されてはならない存在であっても「いまの空気では仕方ない」と言ってよい存在ではなかったはずである。
ところが昭和期に入るとともに「空気」の拘束力はしだいに強くなり、いつしか「その場の空気」「あの時代の空気」を、一種の不可抗力的拘束と考えるようになり、同時にそれに拘束されたことの証明が、個人の責任を免除するとさえ考えられるに至った。
だが、「水を差す」という通常性的空気排除の原則は結局同根の別作用による空気の転位であっても抵抗ではない。
従って別「空気」への転位への抵抗が、現「空気」の維持・持続の強要という形で表れ、それが逆に空気支配の正当化を生むという悪循環を招来した。従って今では、空気への抵抗そのものが罪悪視されるに至っている。
気になったのは次です。
■「空気」の研究
・日本の道徳は、現に自分が行っていることの規範を言葉にすることを禁じており、それを口にすれば、たとえそれが事実でも、口にしたということが不道徳行為とみなされる。従ってそれを絶対口にしてはいけない。これが日本の道徳である。
・「せざるを得なかった」とは、「強制された」であって自らの意志ではない。そして彼を強制したものが真実に「空気」であるなら、空気の責任はだれも追求できないし、空気がどのような論理的過程をへてその結論に達したかは、探究の方法がない。
・「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。
・「空気」とは、一つの宗教的絶対性をもち、われわれがそれに抵抗できない、「何か」だということになる。
・「空気」は何となんと英訳すればよいのか。エアーで意味が通じるのか? KUKIとは、プネウマ(ギリシャ語)、ルーア(ヘブライ語)、アニマ(ラテン語)にも関係していて、このアニマからでたことばがアミニズムである。
日本では通常これらの言葉を、「霊」と訳している。原意は、風(Wind)、空気(air)だが、古代人は、これを息・呼吸・気・精・たましい・精神の意味にも使った。
・天皇は人間宣言を出した。だが面白いことに明治以降のいかなる記録を調べても、天皇家が「自分は現人神であるぞよ」といった宣言を出した証拠はない。天皇制とはまさに典型的な「空気支配」の体制だからである。
・ただ重要なことは、彼らが空気の支配を徹底的に排除したのは、多数決による決定だったことである。少なくとも多数決原理で決定が行われる社会では、その決定の場における空気の支配はまさに致命的になるからである。
・ひとことでいえば、「正義は必ず勝ち、正しい者は必ず報われる」世界である。
■「水=通常性」の研究
・あるひと言が、「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するわけだが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人々を現実に引き戻すことを意味している。
・天皇家は仏教徒なりや否やという問題である。これは過去いおいても現在においても、歴史家が触れない問題である。
天皇はどこかの寺の檀那で、仏壇に頭を下げてチーンとかねを叩いたとあっては「現人神」でなくなってしまうから皇国史観はなりたたない。と同時に、皇国史観的否定の上に立つ戦後史観にとっても、否定の対象の変質は少々こまる。従ってここは触れない。
・「空気」は理由が言えずただ、「空気」だったといえるだけ、「空気」そのものの、論理的正当化は不可能である。
・人間は、「現在の情況から当時を考察する」ことはできても、「当時の情況を(当時の情況下で)考察する」ことは不可能である。
・言うまでもないが、天皇がただの人にすぎないことは、当時の日本人は全員それを知っていた。知っていたが、それを口にしないことに正義と信実があり、それを口にすれば、正義と信実がないことになる。ということも知っていた。
ひと言でいえば、それを口にするものは非国民、すなわち「日本人ではない」ということなのである。
■日本的根本主義について
・西欧的憲法と現人神の併存は、進化論と現人神の併存と似た関係になるからである。
・ひとことでいえば空気を醸成し、水を差し、水という雨が体系的思想を全部腐食して解体し、それぞれを自らの通常性の中に解体吸収しつつ、その表面に出ている「言葉」は相矛盾するものを平然と併存させておける状態なのである。
・そして、われわれは、そういう形の併存において矛盾を感じないわけである。これが、われわれの根本主義であろう。
目次
「空気」の研究
「水=通常性」の研究
日本的根本主義について
あとがき
ISBN:9784167306038
出版社:文藝春秋
判型:文庫
ページ数:240ページ
定価:560円(本体)
発行年月日:2012年09月05日 第28刷詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
同調圧力(空気)による日本人の被害を学べた。そういう文化なので、表向き従うしかないと言うのが結局感じたところ。少しでも、反発するといい事が無いイメージですので、マイノリティならあまり目立たない方がいいなと最近思いました。これからのZ世代が今のおじいちゃんたちが作った堅苦しい空気をどんどんなくしていってほしいです。
「メモ✍️」
## 空気という妖怪
- 空気とは絶対的な支配力を持つ「判断の基準」である
- それは非常に強くて絶対的な支配力を持つ判断の基準のことだ
- それにもし抵抗しようものなら異端とされまるで犯罪者のごとく待つ社会抹殺されてしまう
- 空気とは誠に大きな絶対性を持った妖怪であり、この正体を把握して置かなければ将来なにがおこるやら皆目検討がつかない
### 論理的判断基準と空気的判断基準
- 本当の判断の基準は、空気的判断
### 支配的な空気を作る要素
- 「臨在感的把握」の絶対化(目に見えない何かが実際に存在してるかのように感じる、人を支配する空気作りに変えてしまう要素)
- 「感情移入」の絶対化(自分が感じていることを持っていることを絶対的なものであると信じ込むこと、空気の拘束力がある、自分ができない事の人の気持ちがわからなくなる)
- 「命題」の絶対化(何らかの命題を正解と見なすこと、正解を守らないと悪いことになる)
### 第二次世界大戦中における戦艦大和の特攻
- 建造費約3兆円
- 無駄にしたくないという空気判断のせいで、米軍機の猛反撃を受け鹿児島県坊ノ岬湾沖で沈没し乗客員約3,000人が犠牲担った。
- 太平洋戦争そのものも空気判断
- 現代における社会問題や外交問題などあらゆる場面の決定事項が空気によって行われている
### 対抗手段としての水
- 水は場の空気を壊し「現実」に目を向けさせる
- 空気はその研究が終わるまでは漠然とした存在だった
- だが水という概念はもっと漠然としている
- 誰かの一言が水を差すと一瞬にしてその場の空気が崩壊することがあるだろう
- この場合の水というのは通常最も具体的な目の前の勝負
- お湯を意味しているそしてそれを口にすることによって即座に人々を現実に引き戻すのである
- 私たちは今日はで現実に目を向けることがなかった空気さえ盛り上がってしまえば
- やり遂げられるのではないかそういった錯覚を抱き続けてきたのである
- 現実という水を差しても、空気に飲まれ、結果は焼石に水になる
### 状況倫理
- 状況倫理という言葉をごく常識的に日常的に定義してみたいと思う
- この倫理は簡単に言えばあの状況ではあーするのが正しいが
- この状況ではこうするのが正しい当時の状況も知らないのに
- それを無視して今の状況下の基準だけで頭や殻いうのは間違っている
- 当時の状況ではああせざるを得なかったのだしたがって非難されるべきは
- ああせざるを得ない状況を作り出したものだといった一連の倫理観とその基準である
### 水が空気を作る
- 水を差すというのは現実に目を向けさせるということ
- 新たな空気の呼び水にもなる
### 虚構の世界
- これまで話してきたことに共通する内容を一言で述べた伊藤もそれは虚構の世界虚構の中に真実を求める社会でありそれが大勢とだった虚構の支配機構だということだ虚構の存在しない社会は存在しないし人間を動かすものが虚構なのだ
- 従ってその虚構に何かの力が作用するのは当然のことなのだ
### 空気の支配から逃れる道
- 空気から脱却しうる唯一の道はあらゆる高速を自らの意思で断ち切った
- 思考の自由とそれに基づく模索だけである
- こうするべきっこうあるべきという固定概念や常識こういったものを遠慮なくバッサリ切り捨てることで自分本来の思考を取り戻し、それこそが空気から脱却する道ビーチにつながっている
### 原点回帰
- その場に漂う重苦しい空気に流されそうになったら自分にとっての原点に一度立ち返ってみてはどうか
- 経営理念や人生理論に回帰することで自分の意思を取り戻し、それによって空気的判断から逃れることができる。 -
「「空気」の研究」山本七平著、文春文庫、1983.10.25
238p ¥460 C0195 (2024.12.23読了)(2023.06.08購入)(2007.07.05/18刷)
数年前に「KY」空気をよむ、空気が読めない、というのが流行りました。
日本では、理屈やデータで物事を決めるのではなく、その場、その時の空気で決めるということが行われます。それは、どうしてなのか、ということを考察している本です。
理屈やデータで決めたわけではないので、どうしてそのような決定が行われたのか、誰にも説明ができないし、だれも責任を取れません。国民性であり、文化なのでしょうから、なぜそういうことになるのか全く分かりません。
最近でも、コメ不足が言われ、コメは十分あると言いながら、値段が高騰し一向に下がる気配がありません。新米が出たら値段は下がるともいわれていたのですが、新米が出ても一向に下がりません。需要と供給の経済原理とかいうのがあるとか言いますが、いったいどうなっているのでしょうか。
【目次】
「空気」の研究
「水=通常性」の研究
日本的根本主義について
あとがき
解説 日下公人
☆関連書籍(既読)
「日本人とユダヤ人」イザヤ・ベンダサン著、角川文庫、1971.09.30
「比較文化論の試み」山本七平著、講談社学術文庫、1976.06.30
「勤勉の哲学」山本七平著、PHP研究所、1979.10.31
「日本資本主義の精神」山本七平著、光文社、1979.11.05
「聖書の常識」山本七平著、講談社、1980.10.01
「論語の読み方」山本七平著、祥伝社、1981.11.30
「一九九〇年の日本」山本七平著、福武書店、1983.06.30
「人望の研究」山本七平著、祥伝社、1983.09.25
「帝王学―「貞観政要」の読み方」山本七平著、日本経済新聞社、1983.11.25
「「色即是空」の研究」山本七平・増原良彦著、日本経済新聞社、1984.10.25
「派閥」山本七平著、南想社、1985.05.15
「指導力」山本七平著、日本経済新聞社、1986.01.24
「小林秀雄の流儀」山本七平著、新潮社、1986.05.20
「参謀学」山本七平著、日本経済新聞社、1986.11.20
「経営人間学」山本七平著、日本経済新聞社、1988.01.22
「ある異常体験者の偏見」山本七平著、文春文庫、1988.08.10
内容紹介(出版社より)
現代の日本では“空気”は絶対権威のような力をふるっている。論理や主張を超えて人々を拘束するこの怪物の正体を解明し、日本人に独特の伝統的発想と心的秩序を探る。(日下公人) -
日本社会に蔓延する「空気」の存在について、著者の膨大な知識量を総動員して研究考察した名著。
「物事を臨在感的に把握し、絶対化・神格化することによって人々はその対象に支配される。」空気の正体を早々に暴いた後には、空気のメカニズムを解き明かして行く。「これを信じ、行うものを暗黙的に純粋で善い人間と見て称揚し、これに反するものを排撃する」。空気の支配に対して「水(=通常性)を差す」行為は多くの場合黙殺され(この場合ここに自由はない)、またこれにより通常性を取り戻すことができたとて、今度はこれが新たな情況倫理を作る起点となり、この固定点は絶対化され、新たな空気を再構築するという無限ループに。これこそが空気が生み出される構造であると。
集団で1つの「ゴムの物差」を用いるのでなく、あらゆる命題は矛盾を含み、それを矛盾を含んだものとして受け入れる前提を各個が持つことが大事。物事を安易に絶対化せず、相対化するプロセスを取れるかどうか。
大戦の二の舞にならないためにも、作為的に生み出された空気に対し相対的議論が交わされる国、組織、人でありたい。
===========以下蛇足
この空気というのは非常に厄介で、これに対して通常性を提示する行為というのはあくまで新たな空気を生む起点にしかならず、堂々巡りが待っている。
相対化。言うは易し、行うは甚だ難し。
であれば、どうせ空気に支配されてしまう民族、国家なのであれば、悪しき空気を変え、良い空気を醸成する人間でありたいもの。
作中で引用される第二次世界大戦や西南戦争のように、プロパガンダ的悪用を許さず、これらに対して様々な視点から相対的議論を闊達に行う国家、組織、個人でありたいと思うのである。 -
山本七平という人は、たしか読書会で同い年の方が教えてくれたのが最初でそれまで存在を知らなかった。数年後に『100分deメディア論』にてこの『「空気」の研究』が紹介されていた。因みに紹介者は大澤真幸さん。
日本人論についての本だが、次に『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』から『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』へと繋げていくために読んだ。
私は「日本人論の本」を狙って読んでいるわけでは特にないのだが、歴史や文化を知ろうとすると、結果的にどうしてもそういう本を読むことになってしまう。
この本、元は1977年に出版だが、文庫の新装版が2018年。森友・加計問題から「忖度」という言葉が流行語大賞になったのが前年の2017年で、それに乗っかって再刊されたのだと思う。
「忖度」あるいは「空気読めよ」「時代の空気が…」という時に使われる、あの「空気」についてを研究している。今なら「同調圧力」という言葉になると思うが、当時は今ほど一般的ではないせいか、この本では使われていない。
読みながら、岡本喜八監督のことを連想した。理由は、彼らの生まれ年。同世代人をなんとなく選んで並べてみると
1921年→山本七平
1922年→水木しげる
1923年→池波正太郎、司馬遼太郎
1924年→岡本喜八
1925年→三島由紀夫
となる。この中で三島だけ従軍体験がない。
そして読み終わったその日に『ETV特集』にて岡本喜八の番組が放映され、戦中派について語られていたから驚いた。大正9年(1920年)〜大正12年(1923年)生まれを、保阪正康さんは「戦争要員世代」と仰っていた。
山本七平は思想的には保守だが、上記の理由から戦後の保守とは違うと思う(このあたりは同じく『100分deメディア論』に出ていた中島岳志さんの著書に詳しく書かれているのではないかと思う)。要するに、戦中の現人神と崇められた「天皇」について、また無茶な戦争(戦略および戦術)をやらかした軍部に対する批判、それらは1冊読むだけでも感じとれる。
ほか、同世代人との共通性を感じたのは、岡本喜八にしろ司馬遼太郎にしろ「あの戦争はなぜ起こったのか?」と、昭和から明治・幕末まで遡る点。
さて具体的に本書の内容について、先に結論から書くと「総論賛成、各論反対」というのが私の率直な感想になる。
理由は、例として出している事柄が、今の目で見ればおかしい点が多いため。イタイイタイ病の原因はカドミウムであることは常識だし、排気ガス規制のマスキー法については米BIG3が反対したが、ホンダのCVCCが最初に規準をクリアして日本車の優秀性を示し、現在ではより厳しい規制にも対応できる性能になっている。
ただ、山本七平いわく「公害」と「公害問題」は違い、論じているのはあくまでも「公害問題」の方だということ。これを今の日本に当てはめるなら、原発事故とそれによる食品等の風評被害が最もわかりやすいと思う。つまり、「科学的な根拠がないのに、日本人は「空気」に左右される」というのが主な論点だということ。
マスキー法についても、米の法律に日本が追従して日本版マスキー法を作った点についてが、主として言いたいこと。どれも1977年当時に話題になったことを例に出しているので、今の我々からすれば二重三重に注意して読み込む必要がある。
さらに、南京事件に対する山本七平の立場を考えると(この本でははっきりと書いていないが、それとなくわかる)、南京事件なんて最もイデオロギーによって左右され、もはや歴史的な事実が全くわからなくなっている事柄である。
つまり、科学的根拠を重要視しているはずの当の山本七平本人も、結論ありきで書いていると感じるし、自分の立場における「空気」からは逃れられていないと感じる。そしてメディア批判については重要だとは思うが、この流れも戦後保守に繋がっていくのではないかと感じる(この点は先にも書いた中島岳志さんの著書等で検証が必要)。
また、日本人論について論じたいのであれば、比較文化論としてドイツやイタリア等枢軸国と比較すれば良いのでは?と思うが、それらについては全くなく、山本七平本人の領域であるキリスト教・ユダヤ教についての記述が主であるのも不満に思った。
では、この本には読む価値が全くないのか。これには私は「否」と思う。1977年当時の日本の情勢がどうだったのか、山本七平が当時どう考えたのか。アメリカ人と日本人の、矛盾の抱えどころの違いや、福沢諭吉、内村鑑三、新井白石、孔子らの話など、読んでいて面白い点もためになる点も多かった。
なにより、最近起こった私の「とある個人的なトラブル」が、日本人論や福沢諭吉に関連しており、このタイミングでこの本をたまたま読んだことは、自分にとっては大いなる癒しになったのだった。読書とは、自分にとってそういうものである。 -
「kY(空気が読めない)」という。今でも「空気」は日本社会を覆ている。
山本七平氏の「空気」という視点は面白いが、公害もイタイイタイ病も今の知見では、
氏の読み違いも甚だしい話です。
沖縄特攻の戦艦大和司令官が、「当時の空気ではやるしかなかった」との話は、なるほどとは思いつつも、続きを読むのはつらい。
「空気」ではなく「エビデンス」での議論という語りも、問題の絶対化と批判しているが、絶対化ではなくて問題の複眼化・分析方法の話だと思う。
例えば、戦艦大和であれば沖縄戦への投入は、乗員の命・作戦確度・制空権・制海権・士気・作戦の意味・・・などなど、複眼による分析と認識である。それがなぜ沖縄特攻になるのか。そこに「空気」があるならなぜか。本に回答はない。「空気」は、場の同調圧力です。暗黙の同調を求めて良くも悪くも作用します。沖縄戦への大和投入は、最大戦艦大和を無傷で温存した軍令部の最後の虚栄と、一億総玉砕といった馬鹿な軍事官僚の妄想でしかなかった。それを、「空気」と呼んだ司令官が愚将であっただけの話です。
山本七平氏を浅学菲才と呼んだのはだれでしたか。読書に値せずです。 -
山本七平『空気の研究』が興味深かった。
「そういう空気」というものが、法律や客観的データをこえて全体意思を決定してしまうのである。
学生時代気持ち悪いくらいに感じていたあの居心地の悪さの正体に肉薄していた。
暴力的に公然と「空気に合わないもの」が排除され、個人を個人で居させてくれない言葉にできないあの息が詰まるような感じ。
あのやり場のない怒りを一体どこに向ければいいのか。
中島義道氏の『対話のない社会』にも相通じるものがあるかもしれない。
戦争に突入し、戦艦大和を撃沈させたのも、天皇を現人神にしてしまったのも、
日本の「空気」がそうさせたのだという。
客観的な事実や研究結果ではなく、空気が全てを決定してしまうほど、
神聖不可侵にして犯すべきものが空気であり、
その空気は、ある時力を有していても、時季が変わるや否や、その神聖不可侵な対象は移り変わっていく。
そして、どちらが善でどちらが悪かというような、分かり易い対立軸が生まれる。
一方、一神教やヘブライズムにおいては、
契約以外の一切が、「神の名前」までもが徹底的に相対化されうるため、「空気」は生まれようがない。
イスラエルの遺跡発掘の際、人骨がバラバラ出てきた時、
イスラエル人たちは平気であったが、日本人たちは調子を崩したそう。
イタイイタイ病の元凶がカドミウムと言われた時も、記者会見の際、学者がカドミウムの棒を実際持ち出したら記者団はひっくり返り、学者がカドミウム棒を実際舐めてみせても放射能に対するかのような反応を見せた。
日本人は、善意でひよこに白湯を飲ませ殺し、善意で赤ん坊のベッドにカイロを入れて殺してしまう。
実は、この空気、
「アニマ」「プネウマ」「ルーアッハ」、
聖書でいうところの「霊」と同じというのである。
日本の精神源流にある「アニミズム」は、ラテン語のアニマから来ているが、
これはギリシャ語やヘブライ語にいうところの「霊」「風」「息」。
この「空気」はその時々において、「絶対的な判断基準」となるが、
その空気の赴く対象は次々と別のものに乗り移っていく。 -
1977年の本を1983年に文庫化。だからロッキード事件やイタイイタイ病、自動車排ガス規制など当時の話題が例に取られている。でも戦前・戦後の話は今も通じるし、何より「空気」に拘束される世間が40年後も変わっていないことに衝撃を受ける。
抗えない何らかの力について「空気」、そこへ異論を唱えることを「水を差す」と表現したのは当時画期的だったと思う。解決法についても最後のほうで少し示唆がある。でも難しいんだろうな、変わってないから。科学的論理的な積み重ねがあっても1枚のキャッチーな写真があると世論がなびく話は、まさに今のSNS。40年前に危惧していたことが極端化して現れているのを実感。 -
「私はここで周恩来首相が田中元首相に贈った言葉を思い出す。「言必信、行必果」(これすなわち小人なり)と。この言葉ぐらい見事な日本人論はない。この言葉はおそらく全日本人への言葉だと思うが、これを「小人【ルビ:おっちょこちょい】」と読めば、何と鋭く日本人なるものを見抜いたものだろうと、思わず嘆声が出る。「やると言ったら必ずなるサ、やった以上はどこまでもやるサ」で玉砕するまでやる例も、また臨在感的把握の対象を絶えずとりかえ、その場その場の"空気"に支配されて、「時代先取り」とかいって右へ左へと一目散につっぱしるのも、結局は同じく「言必信、行必果」的「小人」だということになるであろう。大人とはおそらく、対象を相対的に把握することによって、大局をつかんでこうならない人間のことであり、ものごとの解決は、対象の相対化によって、対象から自己を自由にすることだと、知っている人間のことだろう。 だが非常に困ったことに、われわれは、対象を臨在感的に把握してこれを絶対化し「言必信、行必果」なものを、純粋な立派な人間、対象を相対化するものを不純な人間と見るのである」(p.63)
半分ほど読んでいるところ。日本と海外を比較している箇所は、日本に限った話なのかなー?とは思う。 -
私はムラ社会文化が大嫌いなので、この本にはとても興味を持てました。
ただ若干難読で読破は正直つらい。内容は面白いんですが、けっこう執筆された時点での時事ネタが満載で、違う時代、違う「空気」の中で生きている私にとっては「?」の連続でもありました。書き口が軽快だから、辛うじて読める感じです。出来れば現代版に誰かに書き直してもらいたいくらいです。
それでもこの本に本質的な考察があるからこそ、この本が長く読み継がれているんでしょうね。
海外の方がこの本を読んだらどう感じるのかというのにも興味があります。
まぁ最後まで読まなくとも、空気について再考する機会としては良い本です。 -
-
実はこの人の本を読むのは初めてだ。
本書の「空気」とは、あああれか、とすぐ察しがつくほど日本文化に「空気」概念の重要性は行き渡っている。最近でも「空気が読めない」などと、若者たちも相変わらず「日本的」な概念体系の内側にいるなあ、と思わされるものがある。
しかしこの「空気」という概念は非常に漠然としており、思うに、様々な概念の集合した、輪郭の無い概念であるのかもしれない。
本書で扱われる「空気」とは、たとえば社内の全体の意向として、上司により明示されたわけもないのに「我が社内での空気としては・・・」という、ある種の規範を示唆した物言いがよく使われている。
資金も燃料も不足していたのに戦争に突入した日本も「そういう空気に支配されていた」のであり、戦艦大和が無謀にも関わらず「出撃せねばならない空気」に支配されて特攻したのである。本書で繰り返し呈示されるのはこうした「空気」だ。
この「空気」なるものの出現(発端)を探って著者は、人骨を一日中触り、これを運ぶ労役に従事した日本人は心に変調をきたし、外国人は何でもなかった、という例を指摘する。
ここはちょっと「空気」論とは微妙に外れているのでは無いかと私は思うのだが、要するにこの人骨の場合は民俗的な「ケガレ」感覚が日本人には強く残っており、人骨なるものへの複合的イメージが、それに四六時中触れるうちに心理の奥底にストレスフルに作用したということになるだろう。
これは個人レベルに根付いているイメージなのだが、「社内の・・・」とか、若者たちが「今の空気」を云々する10名以下の小集団から40名程度の中学高校の学級集団が想定されている場合、それは人と人とのあいだ(間主観性)、あるいは、人々の集合の全体としてイメージされている集団ゲシュタルトが問題になっている。
また、本書では「空気」論の根底にあるものを、福澤諭吉のような合理主義改革が取り残してしまったアニミズム的な日本の伝統的心性に求めている。
そこはなるほどな、と思うフシもあるのだが、「空気」なるものの更に深い追究ができないものかとやきもきしているうちに、本書は終わってしまった。
したがって、さまざまな文献を引いてきて豊富な具体例を呈示してくれる本書ではあるが、私としては突っ込みがやや足りない・甘いようにも感じた。
全体的にどちらかというとエッセイふうであり、学術的な書物とは言えない。私はもっと社会学的・哲学的にこの問題を究めてほしかったと思った。 -
(引用)空気とは、非常に強固でほぼ絶対的な支配力を持つ「判断の基準」であり、それに抵抗するものを異端として「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。我々は常に、論理的判断の基準と空気的判断の基準という、一種のダブルスタンダードのもとに生きているのである。そして、我々が通常口にするのは、論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。(引用終)
お見事。著者の眼力の凄まじさがにじみ出る一文である。空気を読む、水を差すの表現にある通り、「空気(=支配するもの」」に対して、「水(=壊すもの)」との関連付けで議論を深めている。第2次世界大戦を経験した著者のいう「水を差す自由が大切」というのはもっともだと思う。空気による支配に対し、水を差すことが出来るものが英雄、というのも理解できる。
敗戦等により空気がガラッと変わると、人々の行動様式、価値観はあっという間に変化する。これは日本人が軽薄なのではなく、空気的判断をしているからである。 -
「空気」の「研究」というより「哲学」といったほうが正しいであろう。歴史研究において、例えば「なぜ日本は対米戦に踏み込んだのか」に対する答えとして「当時はそういうことを発言できる空気ではなかった」などと言われる。このときの「空気」とは何か。筆者はそれを「臨在感的把握」と定義する。また「ある地点から当時を振り返っても空気は捉えられない」や「水を差す」など鋭い指摘も光る。
全体的には言い回しが諄く且つ独善的で、内容もやや難解だ。読み手の問題だが、空気とは単に「和を以て貴し」を醸成させるためのムード」でいいのではないかしら、と思ってしまう。 -
山本七平『「空気」の研究』は東浩紀『一般意志2.0』と表裏一体。山本の「だから日本人はダメ」というロジックが反転して「だから日本の民主主義は一発逆転世界最先端になれる」と。ITによる「空気の可視化」によって。
原発についてどんな立場を取るにしても山本七平の「空気」論は知っておかねば。賛成反対関係なく、日本人が陥りがちな「空気の支配」について考えておく必要があると思う。
対象を相対化しなければ空気に支配される。対象を絶対化すると、問題を解決できなくなる。「原発」を臨在的に把握し、絶対化したら、「原発問題」は解決不可能になってしまう(という文章の意味がわからないのであれば、本書を読む価値はあるだろう)。ちなみに本書にも原発に関する記述があるがその内容や「立場」はこの本の内容全体に関係ないので、その一点にこだわってはいけないと思う(そのような読み方こそが本書で批判されている)。
「天皇制」とは「偶像的対象への臨在的把握に基づく感情移入によって生ずる空気的支配体制」である。
「空気」に「水=通常性」を差すことで現実を直視することができる。しかし、一君万民の平等主義と情況倫理の下では、「水」が情況を作り出し、情況を絶対化し、情況を臨在的に把握することしかできぬようにさせるのである。つまり「空気」と「水」の相互作用によって我々は雁字搦めにされてしまうのである。
「空気」に支配されないためには第一に対象の相対化(ローティ的アイロニズム)。第二に状況倫理から固定倫理への移行。それらの前提としての「自由」と「個人」の概念。
→日本人の組織マネジメントにおいて気をつけたい。
日本人向けの文章では相対的(両論併記的というか)な原論を心がけたい。さもなくば臨在的把握による空気の創出に陥ってしまいかねない。言い換えると日本人はアジられたがっているので、極力「アジ的に読みうる文章」にならないよう細心の注意を要する。
「空気」に支配されて非合理的な「父と子の隠し合い」(事実隠蔽)が起こってしまうのが日本なんだなあ。そこに「既得権の死守」という「合理性」があれば(ある意味では)まだマシなのかもしれない。「合理的」行動ならその非合理性を指摘するという議論ができるのだから。 -
難しい、、、わからなかった、、、
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山本七平による「空気」についての研究書。
日本人は往々にして「あの空気では何も言えない」「当時の空気がそうさせた」と、あたかも「空気」が最終決定者であるような言い振りをする。しかし多くの人はこの「空気」が一体何なのかを知らない。
著者はこの本で、判断基準かつ権力者である「空気」がどんなもので、どのように醸成され、どのように人々を支配するようになるのかを明らかにしようとした。
また著者はここから発展して、「空気」の伝統的な対抗手段として存立していた「水を差す」という行為と、この「水」についても考察を加える。
内容は非常に面白い。
ただ記述が哲学的、かつよくわからない比喩を多用されるため無茶苦茶読みにくい。時代背景と前提が違うことを差し引いても、読ませる気がないとすら思うほど目が滑る本だった。
ポイントは、本著内でやたらと出てくる「臨済感的把握」という概念の理解かと思う。
「臨在」というのがキリスト教用語で、「神は不可視ではあるがその場その場に存在している」という意味。「臨在感」は、因果関係が恐れや救済といった感情と結びつくこと。
ゆえに「臨在感的把握」とは、ある対象と何らかの感情を結びつけて認識すること。と理解できる。
ここを押さえておけばある程度は読めると思う。
読みづらいが、ネットと睨めっこしながらでも読み切る価値のある本。 -
HPVワクチンの、子宮頸がん発症予防への有効性は医学的に認められており、世界的にも普及をしている。しかし、我が国での普及は燦々たるものである。
最近、あるジャーナリストが、厚労省の官僚にインタビューした記事を目にした。HPVワクチン接種の推進についての記事である。インタビュアーは“何でワクチン接種を推進してこなかった?科学的根拠をもってやるべきでは?”という問いかけに対して、官僚は“当時の空気ではできなかったですよ”と返していた。
“空気”のために、何人の人間が命を落とすことになったのだろう?
厚労省の官僚すら贖えない“空気”、なんだ?これ?いったい?
本書は、“空気”を論じたものである。文章が難解なため、単純に整理が困難であったため、私の解釈も入れて、“空気”を説明してみようと思う。
まず、著者は、“空気”の説明に、“臨在感的把握”という単語を使っている。簡単に言うと、ある出来事や物に対して感情移入してしまう、ということか。臨在感的把握をしてしまうと、出来事や物を絶対化し、判断を支配されてしまう!
これは日本人独特で、西欧人にはないようだ。西欧は絶対的なものは神のみであり、自明の理である。その他のものは全て相対的に把握するものである。なので、出来事や物に対して臨在感的把握をすることはありえず、相対的に把握をする。行き着いた先は、合理的に出来事や物を把握することである。
日本の場合、古来、多神教だった。なので、いろんな出来事や物に対して臨在感的把握をして、絶対化してきた。相対化する必要などなかった。もし一つの絶対化が崩れたとしても、別の出来事や物に対して臨在的把握をして、絶対化をすればよいだけである。ものごとの可否の判断に着いても、可、否を相対的に判断するのではなく、それぞれを絶対化してしまう。特に日本では、相対化して考えるより、絶対化して考える方が、はるかに楽なんだ。
すると、“この社会”はどんな社会になっているの?逆説的だが、構成しているメンバーは、絶対化された対象の前では、皆平等である。絶対化された対象は、メンバーに対しての物差しとなる。その物差しを君とする。ここに“一君万民”の社会ができる。君を覗いたメンバー同士の関係性は、家族的となる。万が一、“一君万民”に対して矛盾に見える出来事が起こると、メンバーの間で、出来事そのものの存在をなかったことにする。メンバーは互いに家族なんで、これができる。こうやって秩序を保持する。“この社会”のメンバー間の関係性が“空気”である。
“この社会”が一旦確立してしまうと、方向転換ができず、“鎖国”となる。最終的には自滅する。しかし、自滅後も“この社会”は別の出来事や物を臨在的把握し、絶対化するだけである。
では“空気”がなくなるのは?どういうきっかけなんだ?その一つに“水を差す”行為がある。定義は困難なようで、著者も、少しずつ浸み込んで行って腐食させるもの、とだけ書いているが、つまりは“それを言っちゃあ、おしまいよ”てなことである。ただ、これが通用するのは空気が形成されたごく初期なんだろう。
他に方法はないのか?著者の定義では、“この社会”が自滅するのを待つしかない、ということになる。
HPVワクチンに当てはめて考えると、ワクチン推進派、反ワクチン派で比較すると、臨在感的把握を行い、“空気”を形成しているのは、反ワクチン派である。ワクチン非接種という“出来事”を絶対化し、“この社会”を形成している。
すると、解決には、反ワクチン派の意見に“水を差す”ことができるかもしれない。しかし、もはや水すら効果がないところに来ている。
最終的には、反ワクチン派の自滅を待つしかない、というのが、著者の意見になる。
ただ、もう一つだけ、本書では少ししか触れられていなかったが、可能性がある。日本人は出来事や物に対して臨在感的把握を行い、絶対化する、と書いた。しかし、“この社会”を形成するには多くの日本人が、出来事や物に対して同じように臨在感的把握を行い、絶対化する必要がある。たまたま形成されることもあるだろうが、そんなにうまくいくだろうか?おそらくは多くの場合は、典型的日本人ではない、非典型的日本人による誘導ではないか?
つまり、自らが非典型的日本人となり、出来事や物を臨在感的把握を行うように仕向ける、ということである。
ただ、厚労省の役人ですらできなかったこと。できる人は・・・日本で数十人レベルかも・・・ -
まじで難しい言葉で言えば良い本ぽく見えると思ってんのかってくらいつまんなかった
同じこと繰り返し言ってるだけだし、まとめたらA4一枚でなんとかなりそう -
ロジックが通らなくて納得いかないことがままあるけれども、その理由の一つがこれか。面白い。
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科学的な展開ではないのでエッセイです。エッセイなのに、非常に読解困難で、薄いにもかかわらずぐったり疲れました。しかも読後に残っているのは「ははあ、現在日本では、科学的論理を超越してはびこる力があるね確かに。それを空気と言い換えたのは絶妙だね」という本の裏に書かれている紹介文以上の何物でもなかったりする。臨在感的把握の絶対化という言葉を使う必然性が最後まで得心できず。疑いをはさませない思い込ませ、でいいだろうに。名著らしいが読書力に自信のある暇な人にしか薦められない。
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