- Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167306038
作品紹介・あらすじ
現代の日本では“空気”は絶対権威のような力をふるっている。論理や主張を超えて人々を拘束するこの怪物の正体を解明し、日本人に独特の伝統的発想と心的秩序を探る。(日下公人)
感想・レビュー・書評
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空気三部作、日本人の精神構造を、空気と水をもって説明を試みるものです。場の雰囲気と、それに水を差すです。
「空気支配」の歴史は、いつごろから始まったのであろうか?
猛威を振るい出したのはおそらく近代化進行期で、徳川時代と明治初期には、すくなくとも指導者には「空気」に支配されることを「恥」とする一面があったと思われる。
「いやしくも男子たるものが、その場の空気に支配されて挙動妄動するとは」といった言葉に表れているように、人間とは「空気」に支配されてはならない存在であっても「いまの空気では仕方ない」と言ってよい存在ではなかったはずである。
ところが昭和期に入るとともに「空気」の拘束力はしだいに強くなり、いつしか「その場の空気」「あの時代の空気」を、一種の不可抗力的拘束と考えるようになり、同時にそれに拘束されたことの証明が、個人の責任を免除するとさえ考えられるに至った。
だが、「水を差す」という通常性的空気排除の原則は結局同根の別作用による空気の転位であっても抵抗ではない。
従って別「空気」への転位への抵抗が、現「空気」の維持・持続の強要という形で表れ、それが逆に空気支配の正当化を生むという悪循環を招来した。従って今では、空気への抵抗そのものが罪悪視されるに至っている。
気になったのは次です。
■「空気」の研究
・日本の道徳は、現に自分が行っていることの規範を言葉にすることを禁じており、それを口にすれば、たとえそれが事実でも、口にしたということが不道徳行為とみなされる。従ってそれを絶対口にしてはいけない。これが日本の道徳である。
・「せざるを得なかった」とは、「強制された」であって自らの意志ではない。そして彼を強制したものが真実に「空気」であるなら、空気の責任はだれも追求できないし、空気がどのような論理的過程をへてその結論に達したかは、探究の方法がない。
・「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。
・「空気」とは、一つの宗教的絶対性をもち、われわれがそれに抵抗できない、「何か」だということになる。
・「空気」は何となんと英訳すればよいのか。エアーで意味が通じるのか? KUKIとは、プネウマ(ギリシャ語)、ルーア(ヘブライ語)、アニマ(ラテン語)にも関係していて、このアニマからでたことばがアミニズムである。
日本では通常これらの言葉を、「霊」と訳している。原意は、風(Wind)、空気(air)だが、古代人は、これを息・呼吸・気・精・たましい・精神の意味にも使った。
・天皇は人間宣言を出した。だが面白いことに明治以降のいかなる記録を調べても、天皇家が「自分は現人神であるぞよ」といった宣言を出した証拠はない。天皇制とはまさに典型的な「空気支配」の体制だからである。
・ただ重要なことは、彼らが空気の支配を徹底的に排除したのは、多数決による決定だったことである。少なくとも多数決原理で決定が行われる社会では、その決定の場における空気の支配はまさに致命的になるからである。
・ひとことでいえば、「正義は必ず勝ち、正しい者は必ず報われる」世界である。
■「水=通常性」の研究
・あるひと言が、「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊するわけだが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって、即座に人々を現実に引き戻すことを意味している。
・天皇家は仏教徒なりや否やという問題である。これは過去いおいても現在においても、歴史家が触れない問題である。
天皇はどこかの寺の檀那で、仏壇に頭を下げてチーンとかねを叩いたとあっては「現人神」でなくなってしまうから皇国史観はなりたたない。と同時に、皇国史観的否定の上に立つ戦後史観にとっても、否定の対象の変質は少々こまる。従ってここは触れない。
・「空気」は理由が言えずただ、「空気」だったといえるだけ、「空気」そのものの、論理的正当化は不可能である。
・人間は、「現在の情況から当時を考察する」ことはできても、「当時の情況を(当時の情況下で)考察する」ことは不可能である。
・言うまでもないが、天皇がただの人にすぎないことは、当時の日本人は全員それを知っていた。知っていたが、それを口にしないことに正義と信実があり、それを口にすれば、正義と信実がないことになる。ということも知っていた。
ひと言でいえば、それを口にするものは非国民、すなわち「日本人ではない」ということなのである。
■日本的根本主義について
・西欧的憲法と現人神の併存は、進化論と現人神の併存と似た関係になるからである。
・ひとことでいえば空気を醸成し、水を差し、水という雨が体系的思想を全部腐食して解体し、それぞれを自らの通常性の中に解体吸収しつつ、その表面に出ている「言葉」は相矛盾するものを平然と併存させておける状態なのである。
・そして、われわれは、そういう形の併存において矛盾を感じないわけである。これが、われわれの根本主義であろう。
目次
「空気」の研究
「水=通常性」の研究
日本的根本主義について
あとがき
ISBN:9784167306038
出版社:文藝春秋
判型:文庫
ページ数:240ページ
定価:560円(本体)
発行年月日:2012年09月05日 第28刷詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
日本社会に蔓延する「空気」の存在について、著者の膨大な知識量を総動員して研究考察した名著。
「物事を臨在感的に把握し、絶対化・神格化することによって人々はその対象に支配される。」空気の正体を早々に暴いた後には、空気のメカニズムを解き明かして行く。「これを信じ、行うものを暗黙的に純粋で善い人間と見て称揚し、これに反するものを排撃する」。空気の支配に対して「水(=通常性)を差す」行為は多くの場合黙殺され(この場合ここに自由はない)、またこれにより通常性を取り戻すことができたとて、今度はこれが新たな情況倫理を作る起点となり、この固定点は絶対化され、新たな空気を再構築するという無限ループに。これこそが空気が生み出される構造であると。
集団で1つの「ゴムの物差」を用いるのでなく、あらゆる命題は矛盾を含み、それを矛盾を含んだものとして受け入れる前提を各個が持つことが大事。物事を安易に絶対化せず、相対化するプロセスを取れるかどうか。
大戦の二の舞にならないためにも、作為的に生み出された空気に対し相対的議論が交わされる国、組織、人でありたい。
===========以下蛇足
この空気というのは非常に厄介で、これに対して通常性を提示する行為というのはあくまで新たな空気を生む起点にしかならず、堂々巡りが待っている。
相対化。言うは易し、行うは甚だ難し。
であれば、どうせ空気に支配されてしまう民族、国家なのであれば、悪しき空気を変え、良い空気を醸成する人間でありたいもの。
作中で引用される第二次世界大戦や西南戦争のように、プロパガンダ的悪用を許さず、これらに対して様々な視点から相対的議論を闊達に行う国家、組織、個人でありたいと思うのである。 -
「kY(空気が読めない)」という。今でも「空気」は日本社会を覆ている。
山本七平氏の「空気」という視点は面白いが、公害もイタイイタイ病も今の知見では、
氏の読み違いも甚だしい話です。
沖縄特攻の戦艦大和司令官が、「当時の空気ではやるしかなかった」との話は、なるほどとは思いつつも、続きを読むのはつらい。
「空気」ではなく「エビデンス」での議論という語りも、問題の絶対化と批判しているが、絶対化ではなくて問題の複眼化・分析方法の話だと思う。
例えば、戦艦大和であれば沖縄戦への投入は、乗員の命・作戦確度・制空権・制海権・士気・作戦の意味・・・などなど、複眼による分析と認識である。それがなぜ沖縄特攻になるのか。そこに「空気」があるならなぜか。本に回答はない。「空気」は、場の同調圧力です。暗黙の同調を求めて良くも悪くも作用します。沖縄戦への大和投入は、最大戦艦大和を無傷で温存した軍令部の最後の虚栄と、一億総玉砕といった馬鹿な軍事官僚の妄想でしかなかった。それを、「空気」と呼んだ司令官が愚将であっただけの話です。
山本七平氏を浅学菲才と呼んだのはだれでしたか。読書に値せずです。 -
山本七平『空気の研究』が興味深かった。
「そういう空気」というものが、法律や客観的データをこえて全体意思を決定してしまうのである。
学生時代気持ち悪いくらいに感じていたあの居心地の悪さの正体に肉薄していた。
暴力的に公然と「空気に合わないもの」が排除され、個人を個人で居させてくれない言葉にできないあの息が詰まるような感じ。
あのやり場のない怒りを一体どこに向ければいいのか。
中島義道氏の『対話のない社会』にも相通じるものがあるかもしれない。
戦争に突入し、戦艦大和を撃沈させたのも、天皇を現人神にしてしまったのも、
日本の「空気」がそうさせたのだという。
客観的な事実や研究結果ではなく、空気が全てを決定してしまうほど、
神聖不可侵にして犯すべきものが空気であり、
その空気は、ある時力を有していても、時季が変わるや否や、その神聖不可侵な対象は移り変わっていく。
そして、どちらが善でどちらが悪かというような、分かり易い対立軸が生まれる。
一方、一神教やヘブライズムにおいては、
契約以外の一切が、「神の名前」までもが徹底的に相対化されうるため、「空気」は生まれようがない。
イスラエルの遺跡発掘の際、人骨がバラバラ出てきた時、
イスラエル人たちは平気であったが、日本人たちは調子を崩したそう。
イタイイタイ病の元凶がカドミウムと言われた時も、記者会見の際、学者がカドミウムの棒を実際持ち出したら記者団はひっくり返り、学者がカドミウム棒を実際舐めてみせても放射能に対するかのような反応を見せた。
日本人は、善意でひよこに白湯を飲ませ殺し、善意で赤ん坊のベッドにカイロを入れて殺してしまう。
実は、この空気、
「アニマ」「プネウマ」「ルーアッハ」、
聖書でいうところの「霊」と同じというのである。
日本の精神源流にある「アニミズム」は、ラテン語のアニマから来ているが、
これはギリシャ語やヘブライ語にいうところの「霊」「風」「息」。
この「空気」はその時々において、「絶対的な判断基準」となるが、
その空気の赴く対象は次々と別のものに乗り移っていく。 -
1977年の本を1983年に文庫化。だからロッキード事件やイタイイタイ病、自動車排ガス規制など当時の話題が例に取られている。でも戦前・戦後の話は今も通じるし、何より「空気」に拘束される世間が40年後も変わっていないことに衝撃を受ける。
抗えない何らかの力について「空気」、そこへ異論を唱えることを「水を差す」と表現したのは当時画期的だったと思う。解決法についても最後のほうで少し示唆がある。でも難しいんだろうな、変わってないから。科学的論理的な積み重ねがあっても1枚のキャッチーな写真があると世論がなびく話は、まさに今のSNS。40年前に危惧していたことが極端化して現れているのを実感。 -
「私はここで周恩来首相が田中元首相に贈った言葉を思い出す。「言必信、行必果」(これすなわち小人なり)と。この言葉ぐらい見事な日本人論はない。この言葉はおそらく全日本人への言葉だと思うが、これを「小人【ルビ:おっちょこちょい】」と読めば、何と鋭く日本人なるものを見抜いたものだろうと、思わず嘆声が出る。「やると言ったら必ずなるサ、やった以上はどこまでもやるサ」で玉砕するまでやる例も、また臨在感的把握の対象を絶えずとりかえ、その場その場の"空気"に支配されて、「時代先取り」とかいって右へ左へと一目散につっぱしるのも、結局は同じく「言必信、行必果」的「小人」だということになるであろう。大人とはおそらく、対象を相対的に把握することによって、大局をつかんでこうならない人間のことであり、ものごとの解決は、対象の相対化によって、対象から自己を自由にすることだと、知っている人間のことだろう。 だが非常に困ったことに、われわれは、対象を臨在感的に把握してこれを絶対化し「言必信、行必果」なものを、純粋な立派な人間、対象を相対化するものを不純な人間と見るのである」(p.63)
半分ほど読んでいるところ。日本と海外を比較している箇所は、日本に限った話なのかなー?とは思う。 -
私はムラ社会文化が大嫌いなので、この本にはとても興味を持てました。
ただ若干難読で読破は正直つらい。内容は面白いんですが、けっこう執筆された時点での時事ネタが満載で、違う時代、違う「空気」の中で生きている私にとっては「?」の連続でもありました。書き口が軽快だから、辛うじて読める感じです。出来れば現代版に誰かに書き直してもらいたいくらいです。
それでもこの本に本質的な考察があるからこそ、この本が長く読み継がれているんでしょうね。
海外の方がこの本を読んだらどう感じるのかというのにも興味があります。
まぁ最後まで読まなくとも、空気について再考する機会としては良い本です。 -
実はこの人の本を読むのは初めてだ。
本書の「空気」とは、あああれか、とすぐ察しがつくほど日本文化に「空気」概念の重要性は行き渡っている。最近でも「空気が読めない」などと、若者たちも相変わらず「日本的」な概念体系の内側にいるなあ、と思わされるものがある。
しかしこの「空気」という概念は非常に漠然としており、思うに、様々な概念の集合した、輪郭の無い概念であるのかもしれない。
本書で扱われる「空気」とは、たとえば社内の全体の意向として、上司により明示されたわけもないのに「我が社内での空気としては・・・」という、ある種の規範を示唆した物言いがよく使われている。
資金も燃料も不足していたのに戦争に突入した日本も「そういう空気に支配されていた」のであり、戦艦大和が無謀にも関わらず「出撃せねばならない空気」に支配されて特攻したのである。本書で繰り返し呈示されるのはこうした「空気」だ。
この「空気」なるものの出現(発端)を探って著者は、人骨を一日中触り、これを運ぶ労役に従事した日本人は心に変調をきたし、外国人は何でもなかった、という例を指摘する。
ここはちょっと「空気」論とは微妙に外れているのでは無いかと私は思うのだが、要するにこの人骨の場合は民俗的な「ケガレ」感覚が日本人には強く残っており、人骨なるものへの複合的イメージが、それに四六時中触れるうちに心理の奥底にストレスフルに作用したということになるだろう。
これは個人レベルに根付いているイメージなのだが、「社内の・・・」とか、若者たちが「今の空気」を云々する10名以下の小集団から40名程度の中学高校の学級集団が想定されている場合、それは人と人とのあいだ(間主観性)、あるいは、人々の集合の全体としてイメージされている集団ゲシュタルトが問題になっている。
また、本書では「空気」論の根底にあるものを、福澤諭吉のような合理主義改革が取り残してしまったアニミズム的な日本の伝統的心性に求めている。
そこはなるほどな、と思うフシもあるのだが、「空気」なるものの更に深い追究ができないものかとやきもきしているうちに、本書は終わってしまった。
したがって、さまざまな文献を引いてきて豊富な具体例を呈示してくれる本書ではあるが、私としては突っ込みがやや足りない・甘いようにも感じた。
全体的にどちらかというとエッセイふうであり、学術的な書物とは言えない。私はもっと社会学的・哲学的にこの問題を究めてほしかったと思った。 -
(引用)空気とは、非常に強固でほぼ絶対的な支配力を持つ「判断の基準」であり、それに抵抗するものを異端として「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。我々は常に、論理的判断の基準と空気的判断の基準という、一種のダブルスタンダードのもとに生きているのである。そして、我々が通常口にするのは、論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。(引用終)
お見事。著者の眼力の凄まじさがにじみ出る一文である。空気を読む、水を差すの表現にある通り、「空気(=支配するもの」」に対して、「水(=壊すもの)」との関連付けで議論を深めている。第2次世界大戦を経験した著者のいう「水を差す自由が大切」というのはもっともだと思う。空気による支配に対し、水を差すことが出来るものが英雄、というのも理解できる。
敗戦等により空気がガラッと変わると、人々の行動様式、価値観はあっという間に変化する。これは日本人が軽薄なのではなく、空気的判断をしているからである。 -
「空気」の「研究」というより「哲学」といったほうが正しいであろう。歴史研究において、例えば「なぜ日本は対米戦に踏み込んだのか」に対する答えとして「当時はそういうことを発言できる空気ではなかった」などと言われる。このときの「空気」とは何か。筆者はそれを「臨在感的把握」と定義する。また「ある地点から当時を振り返っても空気は捉えられない」や「水を差す」など鋭い指摘も光る。
全体的には言い回しが諄く且つ独善的で、内容もやや難解だ。読み手の問題だが、空気とは単に「和を以て貴し」を醸成させるためのムード」でいいのではないかしら、と思ってしまう。