「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

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  • 文藝春秋
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レビュー : 227
  • Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167306038

作品紹介・あらすじ

現代の日本では“空気”は絶対権威のような力をふるっている。論理や主張を超えて人々を拘束するこの怪物の正体を解明し、日本人に独特の伝統的発想と心的秩序を探る。(日下公人)

感想・レビュー・書評

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  • 山本七平『空気の研究』が興味深かった。

    「そういう空気」というものが、法律や客観的データをこえて全体意思を決定してしまうのである。

    学生時代気持ち悪いくらいに感じていたあの居心地の悪さの正体に肉薄していた。
    暴力的に公然と「空気に合わないもの」が排除され、個人を個人で居させてくれない言葉にできないあの息が詰まるような感じ。
    あのやり場のない怒りを一体どこに向ければいいのか。

    中島義道氏の『対話のない社会』にも相通じるものがあるかもしれない。

    戦争に突入し、戦艦大和を撃沈させたのも、天皇を現人神にしてしまったのも、
    日本の「空気」がそうさせたのだという。

    客観的な事実や研究結果ではなく、空気が全てを決定してしまうほど、
    神聖不可侵にして犯すべきものが空気であり、
    その空気は、ある時力を有していても、時季が変わるや否や、その神聖不可侵な対象は移り変わっていく。

    そして、どちらが善でどちらが悪かというような、分かり易い対立軸が生まれる。

    一方、一神教やヘブライズムにおいては、
    契約以外の一切が、「神の名前」までもが徹底的に相対化されうるため、「空気」は生まれようがない。

    イスラエルの遺跡発掘の際、人骨がバラバラ出てきた時、
    イスラエル人たちは平気であったが、日本人たちは調子を崩したそう。
    イタイイタイ病の元凶がカドミウムと言われた時も、記者会見の際、学者がカドミウムの棒を実際持ち出したら記者団はひっくり返り、学者がカドミウム棒を実際舐めてみせても放射能に対するかのような反応を見せた。

    日本人は、善意でひよこに白湯を飲ませ殺し、善意で赤ん坊のベッドにカイロを入れて殺してしまう。

    実は、この空気、
    「アニマ」「プネウマ」「ルーアッハ」、
    聖書でいうところの「霊」と同じというのである。

    日本の精神源流にある「アニミズム」は、ラテン語のアニマから来ているが、
    これはギリシャ語やヘブライ語にいうところの「霊」「風」「息」。

    この「空気」はその時々において、「絶対的な判断基準」となるが、
    その空気の赴く対象は次々と別のものに乗り移っていく。

  • 日本社会に蔓延する「空気」の存在について、著者の膨大な知識量を総動員して研究考察した名著。

    「物事を臨在感的に把握し、絶対化・神格化することによって人々はその対象に支配される。」空気の正体を早々に暴いた後には、空気のメカニズムを解き明かして行く。「これを信じ、行うものを暗黙的に純粋で善い人間と見て称揚し、これに反するものを排撃する」。空気の支配に対して「水(=通常性)を差す」行為は多くの場合黙殺され(この場合ここに自由はない)、またこれにより通常性を取り戻すことができたとて、今度はこれが新たな情況倫理を作る起点となり、この固定点は絶対化され、新たな空気を再構築するという無限ループに。これこそが空気が生み出される構造であると。

    集団で1つの「ゴムの物差」を用いるのでなく、あらゆる命題は矛盾を含み、それを矛盾を含んだものとして受け入れる前提を各個が持つことが大事。物事を安易に絶対化せず、相対化するプロセスを取れるかどうか。
    大戦の二の舞にならないためにも、作為的に生み出された空気に対し相対的議論が交わされる国、組織、人でありたい。

    ===========以下蛇足

    この空気というのは非常に厄介で、これに対して通常性を提示する行為というのはあくまで新たな空気を生む起点にしかならず、堂々巡りが待っている。

    相対化。言うは易し、行うは甚だ難し。

    であれば、どうせ空気に支配されてしまう民族、国家なのであれば、悪しき空気を変え、良い空気を醸成する人間でありたいもの。

    作中で引用される第二次世界大戦や西南戦争のように、プロパガンダ的悪用を許さず、これらに対して様々な視点から相対的議論を闊達に行う国家、組織、個人でありたいと思うのである。

  • 立ち読み5ページだけで書く。

    リモートで場所にとらわれなくなると、
    外でよその人と一か所に集まって話し合うときの「その場の空気」が共有されなくなる。

    各自ばらばらになって隣のリモートは何するものぞ?と思いつつも実際に作業中の現場を見に行けるわけじゃないから、言語化や見える化できない部分は特にシェアしにくい。
    論理的帰結をちゃぶ台返しするような「空気」による支配が弱まる可能性を読み取った。

    一方、家庭内の空気は濃厚に感じられるだろう。
    家族の横槍というノイズや割込みタスクが突然降りかかってくる。
    でも、そんなのは専業主婦(主夫)にとっては、平常モードだ。これまで職住分離でノイズフリーで恵まれた環境で仕事していた人たちは、すぐには「まあ、そんなもんだ」で流せないかも。

  • 1977年の本を1983年に文庫化。だからロッキード事件やイタイイタイ病、自動車排ガス規制など当時の話題が例に取られている。でも戦前・戦後の話は今も通じるし、何より「空気」に拘束される世間が40年後も変わっていないことに衝撃を受ける。

    抗えない何らかの力について「空気」、そこへ異論を唱えることを「水を差す」と表現したのは当時画期的だったと思う。解決法についても最後のほうで少し示唆がある。でも難しいんだろうな、変わってないから。科学的論理的な積み重ねがあっても1枚のキャッチーな写真があると世論がなびく話は、まさに今のSNS。40年前に危惧していたことが極端化して現れているのを実感。

  • 「私はここで周恩来首相が田中元首相に贈った言葉を思い出す。「言必信、行必果」(これすなわち小人なり)と。この言葉ぐらい見事な日本人論はない。この言葉はおそらく全日本人への言葉だと思うが、これを「小人【ルビ:おっちょこちょい】」と読めば、何と鋭く日本人なるものを見抜いたものだろうと、思わず嘆声が出る。「やると言ったら必ずなるサ、やった以上はどこまでもやるサ」で玉砕するまでやる例も、また臨在感的把握の対象を絶えずとりかえ、その場その場の"空気"に支配されて、「時代先取り」とかいって右へ左へと一目散につっぱしるのも、結局は同じく「言必信、行必果」的「小人」だということになるであろう。大人とはおそらく、対象を相対的に把握することによって、大局をつかんでこうならない人間のことであり、ものごとの解決は、対象の相対化によって、対象から自己を自由にすることだと、知っている人間のことだろう。 だが非常に困ったことに、われわれは、対象を臨在感的に把握してこれを絶対化し「言必信、行必果」なものを、純粋な立派な人間、対象を相対化するものを不純な人間と見るのである」(p.63)

    半分ほど読んでいるところ。日本と海外を比較している箇所は、日本に限った話なのかなー?とは思う。

  • 私はムラ社会文化が大嫌いなので、この本にはとても興味を持てました。
    ただ若干難読で読破は正直つらい。内容は面白いんですが、けっこう執筆された時点での時事ネタが満載で、違う時代、違う「空気」の中で生きている私にとっては「?」の連続でもありました。書き口が軽快だから、辛うじて読める感じです。出来れば現代版に誰かに書き直してもらいたいくらいです。
    それでもこの本に本質的な考察があるからこそ、この本が長く読み継がれているんでしょうね。
    海外の方がこの本を読んだらどう感じるのかというのにも興味があります。
    まぁ最後まで読まなくとも、空気について再考する機会としては良い本です。

  •  実はこの人の本を読むのは初めてだ。
     本書の「空気」とは、あああれか、とすぐ察しがつくほど日本文化に「空気」概念の重要性は行き渡っている。最近でも「空気が読めない」などと、若者たちも相変わらず「日本的」な概念体系の内側にいるなあ、と思わされるものがある。
     しかしこの「空気」という概念は非常に漠然としており、思うに、様々な概念の集合した、輪郭の無い概念であるのかもしれない。
     本書で扱われる「空気」とは、たとえば社内の全体の意向として、上司により明示されたわけもないのに「我が社内での空気としては・・・」という、ある種の規範を示唆した物言いがよく使われている。
     資金も燃料も不足していたのに戦争に突入した日本も「そういう空気に支配されていた」のであり、戦艦大和が無謀にも関わらず「出撃せねばならない空気」に支配されて特攻したのである。本書で繰り返し呈示されるのはこうした「空気」だ。
     この「空気」なるものの出現(発端)を探って著者は、人骨を一日中触り、これを運ぶ労役に従事した日本人は心に変調をきたし、外国人は何でもなかった、という例を指摘する。
     ここはちょっと「空気」論とは微妙に外れているのでは無いかと私は思うのだが、要するにこの人骨の場合は民俗的な「ケガレ」感覚が日本人には強く残っており、人骨なるものへの複合的イメージが、それに四六時中触れるうちに心理の奥底にストレスフルに作用したということになるだろう。
     これは個人レベルに根付いているイメージなのだが、「社内の・・・」とか、若者たちが「今の空気」を云々する10名以下の小集団から40名程度の中学高校の学級集団が想定されている場合、それは人と人とのあいだ(間主観性)、あるいは、人々の集合の全体としてイメージされている集団ゲシュタルトが問題になっている。
     また、本書では「空気」論の根底にあるものを、福澤諭吉のような合理主義改革が取り残してしまったアニミズム的な日本の伝統的心性に求めている。
     そこはなるほどな、と思うフシもあるのだが、「空気」なるものの更に深い追究ができないものかとやきもきしているうちに、本書は終わってしまった。
     したがって、さまざまな文献を引いてきて豊富な具体例を呈示してくれる本書ではあるが、私としては突っ込みがやや足りない・甘いようにも感じた。
     全体的にどちらかというとエッセイふうであり、学術的な書物とは言えない。私はもっと社会学的・哲学的にこの問題を究めてほしかったと思った。

  • (引用)空気とは、非常に強固でほぼ絶対的な支配力を持つ「判断の基準」であり、それに抵抗するものを異端として「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。我々は常に、論理的判断の基準と空気的判断の基準という、一種のダブルスタンダードのもとに生きているのである。そして、我々が通常口にするのは、論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。(引用終)

    お見事。著者の眼力の凄まじさがにじみ出る一文である。空気を読む、水を差すの表現にある通り、「空気(=支配するもの」」に対して、「水(=壊すもの)」との関連付けで議論を深めている。第2次世界大戦を経験した著者のいう「水を差す自由が大切」というのはもっともだと思う。空気による支配に対し、水を差すことが出来るものが英雄、というのも理解できる。
    敗戦等により空気がガラッと変わると、人々の行動様式、価値観はあっという間に変化する。これは日本人が軽薄なのではなく、空気的判断をしているからである。

  • 「空気」の「研究」というより「哲学」といったほうが正しいであろう。歴史研究において、例えば「なぜ日本は対米戦に踏み込んだのか」に対する答えとして「当時はそういうことを発言できる空気ではなかった」などと言われる。このときの「空気」とは何か。筆者はそれを「臨在感的把握」と定義する。また「ある地点から当時を振り返っても空気は捉えられない」や「水を差す」など鋭い指摘も光る。

    全体的には言い回しが諄く且つ独善的で、内容もやや難解だ。読み手の問題だが、空気とは単に「和を以て貴し」を醸成させるためのムード」でいいのではないかしら、と思ってしまう。

  • 山本七平『「空気」の研究』は東浩紀『一般意志2.0』と表裏一体。山本の「だから日本人はダメ」というロジックが反転して「だから日本の民主主義は一発逆転世界最先端になれる」と。ITによる「空気の可視化」によって。

    原発についてどんな立場を取るにしても山本七平の「空気」論は知っておかねば。賛成反対関係なく、日本人が陥りがちな「空気の支配」について考えておく必要があると思う。

    対象を相対化しなければ空気に支配される。対象を絶対化すると、問題を解決できなくなる。「原発」を臨在的に把握し、絶対化したら、「原発問題」は解決不可能になってしまう(という文章の意味がわからないのであれば、本書を読む価値はあるだろう)。ちなみに本書にも原発に関する記述があるがその内容や「立場」はこの本の内容全体に関係ないので、その一点にこだわってはいけないと思う(そのような読み方こそが本書で批判されている)。

    「天皇制」とは「偶像的対象への臨在的把握に基づく感情移入によって生ずる空気的支配体制」である。

    「空気」に「水=通常性」を差すことで現実を直視することができる。しかし、一君万民の平等主義と情況倫理の下では、「水」が情況を作り出し、情況を絶対化し、情況を臨在的に把握することしかできぬようにさせるのである。つまり「空気」と「水」の相互作用によって我々は雁字搦めにされてしまうのである。

    「空気」に支配されないためには第一に対象の相対化(ローティ的アイロニズム)。第二に状況倫理から固定倫理への移行。それらの前提としての「自由」と「個人」の概念。
    →日本人の組織マネジメントにおいて気をつけたい。

    日本人向けの文章では相対的(両論併記的というか)な原論を心がけたい。さもなくば臨在的把握による空気の創出に陥ってしまいかねない。言い換えると日本人はアジられたがっているので、極力「アジ的に読みうる文章」にならないよう細心の注意を要する。

    「空気」に支配されて非合理的な「父と子の隠し合い」(事実隠蔽)が起こってしまうのが日本なんだなあ。そこに「既得権の死守」という「合理性」があれば(ある意味では)まだマシなのかもしれない。「合理的」行動ならその非合理性を指摘するという議論ができるのだから。

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著者プロフィール

1921年、東京都に生まれる。1942年、青山学院高等商業学部を卒業。野砲少尉としてマニラで戦い、捕虜となる。戦後、山本書店を創設し、聖書学関係の出版に携わる。1970年、イザヤ・ベンダサン名で出版した『日本人とユダヤ人』が300万部のベストセラーに。
著書には『「空気」の研究』(文藝春秋)、『帝王学』(日本経済新聞社)、『論語の読み方』(祥伝社)、『なぜ日本は変われないのか』『日本人には何が欠けているのか』『日本はなぜ外交で負けるのか』『戦争責任と靖国問題』(以上、さくら舎)などがある。

「2020年 『日本型組織 存続の条件』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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