「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

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  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (237ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167306038

作品紹介・あらすじ

現代の日本では“空気”は絶対権威のような力をふるっている。論理や主張を超えて人々を拘束するこの怪物の正体を解明し、日本人に独特の伝統的発想と心的秩序を探る。(日下公人)

感想・レビュー・書評

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  • 日本社会に蔓延する「空気」の存在について、著者の膨大な知識量を総動員して研究考察した名著。

    「物事を臨在感的に把握し、絶対化・神格化することによって人々はその対象に支配される。」空気の正体を早々に暴いた後には、空気のメカニズムを解き明かして行く。「これを信じ、行うものを暗黙的に純粋で善い人間と見て称揚し、これに反するものを排撃する」。空気の支配に対して「水(=通常性)を差す」行為は多くの場合黙殺され(この場合ここに自由はない)、またこれにより通常性を取り戻すことができたとて、今度はこれが新たな情況倫理を作る起点となり、この固定点は絶対化され、新たな空気を再構築するという無限ループに。これこそが空気が生み出される構造であると。

    集団で1つの「ゴムの物差」を用いるのでなく、あらゆる命題は矛盾を含み、それを矛盾を含んだものとして受け入れる前提を各個が持つことが大事。物事を安易に絶対化せず、相対化するプロセスを取れるかどうか。
    大戦の二の舞にならないためにも、作為的に生み出された空気に対し相対的議論が交わされる国、組織、人でありたい。

    ===========以下蛇足

    この空気というのは非常に厄介で、これに対して通常性を提示する行為というのはあくまで新たな空気を生む起点にしかならず、堂々巡りが待っている。

    相対化。言うは易し、行うは甚だ難し。

    であれば、どうせ空気に支配されてしまう民族、国家なのであれば、悪しき空気を変え、良い空気を醸成する人間でありたいもの。

    作中で引用される第二次世界大戦や西南戦争のように、プロパガンダ的悪用を許さず、これらに対して様々な視点から相対的議論を闊達に行う国家、組織、個人でありたいと思うのである。

  • 1977年の本を1983年に文庫化。だからロッキード事件やイタイイタイ病、自動車排ガス規制など当時の話題が例に取られている。でも戦前・戦後の話は今も通じるし、何より「空気」に拘束される世間が40年後も変わっていないことに衝撃を受ける。

    抗えない何らかの力について「空気」、そこへ異論を唱えることを「水を差す」と表現したのは当時画期的だったと思う。解決法についても最後のほうで少し示唆がある。でも難しいんだろうな、変わってないから。科学的論理的な積み重ねがあっても1枚のキャッチーな写真があると世論がなびく話は、まさに今のSNS。40年前に危惧していたことが極端化して現れているのを実感。

  • 「私はここで周恩来首相が田中元首相に贈った言葉を思い出す。「言必信、行必果」(これすなわち小人なり)と。この言葉ぐらい見事な日本人論はない。この言葉はおそらく全日本人への言葉だと思うが、これを「小人【ルビ:おっちょこちょい】」と読めば、何と鋭く日本人なるものを見抜いたものだろうと、思わず嘆声が出る。「やると言ったら必ずなるサ、やった以上はどこまでもやるサ」で玉砕するまでやる例も、また臨在感的把握の対象を絶えずとりかえ、その場その場の"空気"に支配されて、「時代先取り」とかいって右へ左へと一目散につっぱしるのも、結局は同じく「言必信、行必果」的「小人」だということになるであろう。大人とはおそらく、対象を相対的に把握することによって、大局をつかんでこうならない人間のことであり、ものごとの解決は、対象の相対化によって、対象から自己を自由にすることだと、知っている人間のことだろう。 だが非常に困ったことに、われわれは、対象を臨在感的に把握してこれを絶対化し「言必信、行必果」なものを、純粋な立派な人間、対象を相対化するものを不純な人間と見るのである」(p.63)

    半分ほど読んでいるところ。日本と海外を比較している箇所は、日本に限った話なのかなー?とは思う。

  • 私はムラ社会文化が大嫌いなので、この本にはとても興味を持てました。
    ただ若干難読で読破は正直つらい。内容は面白いんですが、けっこう執筆された時点での時事ネタが満載で、違う時代、違う「空気」の中で生きている私にとっては「?」の連続でもありました。書き口が軽快だから、辛うじて読める感じです。出来れば現代版に誰かに書き直してもらいたいくらいです。
    それでもこの本に本質的な考察があるからこそ、この本が長く読み継がれているんでしょうね。
    海外の方がこの本を読んだらどう感じるのかというのにも興味があります。
    まぁ最後まで読まなくとも、空気について再考する機会としては良い本です。

  •  実はこの人の本を読むのは初めてだ。
     本書の「空気」とは、あああれか、とすぐ察しがつくほど日本文化に「空気」概念の重要性は行き渡っている。最近でも「空気が読めない」などと、若者たちも相変わらず「日本的」な概念体系の内側にいるなあ、と思わされるものがある。
     しかしこの「空気」という概念は非常に漠然としており、思うに、様々な概念の集合した、輪郭の無い概念であるのかもしれない。
     本書で扱われる「空気」とは、たとえば社内の全体の意向として、上司により明示されたわけもないのに「我が社内での空気としては・・・」という、ある種の規範を示唆した物言いがよく使われている。
     資金も燃料も不足していたのに戦争に突入した日本も「そういう空気に支配されていた」のであり、戦艦大和が無謀にも関わらず「出撃せねばならない空気」に支配されて特攻したのである。本書で繰り返し呈示されるのはこうした「空気」だ。
     この「空気」なるものの出現(発端)を探って著者は、人骨を一日中触り、これを運ぶ労役に従事した日本人は心に変調をきたし、外国人は何でもなかった、という例を指摘する。
     ここはちょっと「空気」論とは微妙に外れているのでは無いかと私は思うのだが、要するにこの人骨の場合は民俗的な「ケガレ」感覚が日本人には強く残っており、人骨なるものへの複合的イメージが、それに四六時中触れるうちに心理の奥底にストレスフルに作用したということになるだろう。
     これは個人レベルに根付いているイメージなのだが、「社内の・・・」とか、若者たちが「今の空気」を云々する10名以下の小集団から40名程度の中学高校の学級集団が想定されている場合、それは人と人とのあいだ(間主観性)、あるいは、人々の集合の全体としてイメージされている集団ゲシュタルトが問題になっている。
     また、本書では「空気」論の根底にあるものを、福澤諭吉のような合理主義改革が取り残してしまったアニミズム的な日本の伝統的心性に求めている。
     そこはなるほどな、と思うフシもあるのだが、「空気」なるものの更に深い追究ができないものかとやきもきしているうちに、本書は終わってしまった。
     したがって、さまざまな文献を引いてきて豊富な具体例を呈示してくれる本書ではあるが、私としては突っ込みがやや足りない・甘いようにも感じた。
     全体的にどちらかというとエッセイふうであり、学術的な書物とは言えない。私はもっと社会学的・哲学的にこの問題を究めてほしかったと思った。

  • (引用)空気とは、非常に強固でほぼ絶対的な支配力を持つ「判断の基準」であり、それに抵抗するものを異端として「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。我々は常に、論理的判断の基準と空気的判断の基準という、一種のダブルスタンダードのもとに生きているのである。そして、我々が通常口にするのは、論理的判断の基準だが、本当の決断の基本となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の基準である。(引用終)

    お見事。著者の眼力の凄まじさがにじみ出る一文である。空気を読む、水を差すの表現にある通り、「空気(=支配するもの」」に対して、「水(=壊すもの)」との関連付けで議論を深めている。第2次世界大戦を経験した著者のいう「水を差す自由が大切」というのはもっともだと思う。空気による支配に対し、水を差すことが出来るものが英雄、というのも理解できる。
    敗戦等により空気がガラッと変わると、人々の行動様式、価値観はあっという間に変化する。これは日本人が軽薄なのではなく、空気的判断をしているからである。

  • 「空気」の「研究」というより「哲学」といったほうが正しいであろう。歴史研究において、例えば「なぜ日本は対米戦に踏み込んだのか」に対する答えとして「当時はそういうことを発言できる空気ではなかった」などと言われる。このときの「空気」とは何か。筆者はそれを「臨在感的把握」と定義する。また「ある地点から当時を振り返っても空気は捉えられない」や「水を差す」など鋭い指摘も光る。

    全体的には言い回しが諄く且つ独善的で、内容もやや難解だ。読み手の問題だが、空気とは単に「和を以て貴し」を醸成させるためのムード」でいいのではないかしら、と思ってしまう。

  •  HPVワクチンの、子宮頸がん発症予防への有効性は医学的に認められており、世界的にも普及をしている。しかし、我が国での普及は燦々たるものである。

     最近、あるジャーナリストが、厚労省の官僚にインタビューした記事を目にした。HPVワクチン接種の推進についての記事である。インタビュアーは“何でワクチン接種を推進してこなかった?科学的根拠をもってやるべきでは?”という問いかけに対して、官僚は“当時の空気ではできなかったですよ”と返していた。
    “空気”のために、何人の人間が命を落とすことになったのだろう?
    厚労省の官僚すら贖えない“空気”、なんだ?これ?いったい?

     本書は、“空気”を論じたものである。文章が難解なため、単純に整理が困難であったため、私の解釈も入れて、“空気”を説明してみようと思う。

     まず、著者は、“空気”の説明に、“臨在感的把握”という単語を使っている。簡単に言うと、ある出来事や物に対して感情移入してしまう、ということか。臨在感的把握をしてしまうと、出来事や物を絶対化し、判断を支配されてしまう!

     これは日本人独特で、西欧人にはないようだ。西欧は絶対的なものは神のみであり、自明の理である。その他のものは全て相対的に把握するものである。なので、出来事や物に対して臨在感的把握をすることはありえず、相対的に把握をする。行き着いた先は、合理的に出来事や物を把握することである。

     日本の場合、古来、多神教だった。なので、いろんな出来事や物に対して臨在感的把握をして、絶対化してきた。相対化する必要などなかった。もし一つの絶対化が崩れたとしても、別の出来事や物に対して臨在的把握をして、絶対化をすればよいだけである。ものごとの可否の判断に着いても、可、否を相対的に判断するのではなく、それぞれを絶対化してしまう。特に日本では、相対化して考えるより、絶対化して考える方が、はるかに楽なんだ。

     すると、“この社会”はどんな社会になっているの?逆説的だが、構成しているメンバーは、絶対化された対象の前では、皆平等である。絶対化された対象は、メンバーに対しての物差しとなる。その物差しを君とする。ここに“一君万民”の社会ができる。君を覗いたメンバー同士の関係性は、家族的となる。万が一、“一君万民”に対して矛盾に見える出来事が起こると、メンバーの間で、出来事そのものの存在をなかったことにする。メンバーは互いに家族なんで、これができる。こうやって秩序を保持する。“この社会”のメンバー間の関係性が“空気”である。

     “この社会”が一旦確立してしまうと、方向転換ができず、“鎖国”となる。最終的には自滅する。しかし、自滅後も“この社会”は別の出来事や物を臨在的把握し、絶対化するだけである。

     では“空気”がなくなるのは?どういうきっかけなんだ?その一つに“水を差す”行為がある。定義は困難なようで、著者も、少しずつ浸み込んで行って腐食させるもの、とだけ書いているが、つまりは“それを言っちゃあ、おしまいよ”てなことである。ただ、これが通用するのは空気が形成されたごく初期なんだろう。
     
     他に方法はないのか?著者の定義では、“この社会”が自滅するのを待つしかない、ということになる。

     HPVワクチンに当てはめて考えると、ワクチン推進派、反ワクチン派で比較すると、臨在感的把握を行い、“空気”を形成しているのは、反ワクチン派である。ワクチン非接種という“出来事”を絶対化し、“この社会”を形成している。

     すると、解決には、反ワクチン派の意見に“水を差す”ことができるかもしれない。しかし、もはや水すら効果がないところに来ている。
    最終的には、反ワクチン派の自滅を待つしかない、というのが、著者の意見になる。

     ただ、もう一つだけ、本書では少ししか触れられていなかったが、可能性がある。日本人は出来事や物に対して臨在感的把握を行い、絶対化する、と書いた。しかし、“この社会”を形成するには多くの日本人が、出来事や物に対して同じように臨在感的把握を行い、絶対化する必要がある。たまたま形成されることもあるだろうが、そんなにうまくいくだろうか?おそらくは多くの場合は、典型的日本人ではない、非典型的日本人による誘導ではないか?

     つまり、自らが非典型的日本人となり、出来事や物を臨在感的把握を行うように仕向ける、ということである。

    ただ、厚労省の役人ですらできなかったこと。できる人は・・・日本で数十人レベルかも・・・

    日本の未来、暗いな。。。。

  • 「空気の研究」の箇所を読了。

    日本人がディベートが苦手な理由にもつながっているように感じるが、空気の醸成の背景には対象の「絶対化」が存在していることにある。
    出来事や物体に対し感情移入を結果として起し、それ以外の相対する考えは排除される。
    そしてアニミズム的な世界として、その絶対化の対象が転々としていくこと。

    一方で一神教としては、神のみが絶対なのですべてのことは相対化して考えられなければいけない。こういったことから、空気への抵抗(=相対する考えの発現)が比較的容易である。

    一団となって攻める際には、非常に有効だが、揚げ足取りに利用されると大変効果的でない。
    ヨブ記と同様で、絶対的な考え在りきで現実を捉えるため、目の前の状況がその考えと一致していなければ、その理由を対象とされている者に求める(正義は報われるがそうなっていないのは、何か隠し事があるから)。

    多様性ということが叫ばれる中、うまく使い分けていくことが重要だと考える。
    基本的にはキリスト教的考えが世界を席巻しているわけで、そこでは相対化というところが取られている。

    一方で一神教も度が過ぎるとISのようになり、絶対化の対象を神のみならず現状の世界にまで拡げて解釈することになり、絶対と状況を統一させようという考えが成り立ってしまう。

  • 興味深い。

    確かに進化論と同時に、天皇が神だと教える/信じるのは変だ。
    (戦前も進化論教えてたんだ、とは思いましたが。)

    二重思考?

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著者プロフィール

山本 七平(やまもと しちへい)
1921年12月18日 - 1991年12月10日
東京都に生まれる。1942年、青山学院高等商業学部を卒業。野砲少尉としてマニラで戦い、捕虜となる。戦後、山本書店を創設し、聖書学関係の出版に携わる。1970年、イザヤ・ベンダサン名で出版した『日本人とユダヤ人』が300万部のベストセラーに。
著書には『「空気」の研究』(文藝春秋)、『帝王学』(日本経済新聞社)、『論語の読み方』(祥伝社)、『なぜ日本は変われないのか』『日本人には何が欠けているのか』『日本はなぜ外交で負けるのか』『戦争責任と靖国問題』(以上、さくら舎)などがある。

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