納棺夫日記 (文春文庫)

  • 文藝春秋 (1996年7月10日発売)
3.47
  • (84)
  • (134)
  • (227)
  • (45)
  • (10)
本棚登録 : 1310
感想 : 223
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • 本 ・本 (240ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167323028

作品紹介・あらすじ

〈納棺夫〉とは、永らく冠婚葬祭会社で死者を棺に納める仕事に従事した著者の造語である。「生」と「死」を静かに語る、読み継がれるべき刮目の書。(序文・吉村昭 解説・高史明)

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 著者、青木新門さん、どのような方かというと、ウィキペディアには次のように書かれています。

    青木 新門(あおき しんもん、1937年4月11日 - 2022年8月6日)は、日本の作家、詩人。富山県下新川郡入善町出身。日本文藝家協会会員。

    1973年、冠婚葬祭会社(現オークス/当時の社長は奥野博)に入社(専務取締役を経て、2012年現在は非常勤顧問)、納棺専従社員(納棺夫)となる。

    1993年、葬式の現場の体験を『納棺夫日記』として地元出版社の桂書房から出版しベストセラーとなる。

    先頃、85歳にて亡くなられました。


    で、本作の内容は、次のとおり。(コピペです)

    掌に受ければ瞬く間に水になってしまうみぞれ。日本海の鉛色の空から、そのみぞれが降るなか、著者は死者を棺に納める仕事を続けてきた。一見、顔をそむけたくなる風景に対峙しながら、著者は宮沢賢治や親鸞に導かれるかのように「光」を見出す。「生」と「死」を考えるために読み継がれてほしい一冊。

  • 『おくりびと』のあとに、『納棺夫日記』も合わせて読んでみました。
    作者の青木新門さんが、納棺師の現場を綴ったものが第一章。
    『おくりびと』の中の場面はそこかしこに登場します。

    第二章では、仕事をしながら見聞きした様々な死が登場します。
    事故による死、看取るひとのいない死、まだ早過ぎる死。作者は目を背けず切々と書いています。

    圧巻は第三章の「ひかりといのち」です。
    ご遺体を右から左へと物のように扱っても、仕事と割り切ることは可能です。
    あまりに多くの死に出会うと、麻痺させなければやっていけない部分も出てくるでしょう。
    しかし、この作者はそれをしませんでした。

    ひとはどこから来てどこへ行くのか、生きるとは何か、死ぬとは何か、宗教や哲学や詩など様々な引用を用いながら わたしたちに考えさせます。
    ひとつの仕事を通してここまでの境地になれるというのは、やはり希有なことで、映画化されて人気を博すのも分かるというものです。

    わたしのこの本には、水色の付箋がいくつも貼られています。
    心にとまった箇所にこうして貼るのがいつもの読み方です。
    (もちろん自分で購入した本にしかやらないことです)
    後で何度も読み返すためです。
    咀嚼して、反芻して、理解できたと思ったときに、この付箋をはずします。これは、そういう作品です。

  • 映画「おくりびと」の「原作」である。

    小説、つまりお話の形になっているのかなと思ったら、著者が書き連ねていた日記をもとにした、随想のような本であった。後半は宗教書っぽくなり、また話は宇宙物理学にまで及んだりする(死を突き詰めて考えると、どうもそういうところまで行ってしまうらしい)。

    映画では納棺師と言っていたが、なんと「納棺夫」だ。実際、映画のようなきれいな世界ではないし、忌まれる存在であったことは想像に難くない。本にも、(家族などの)素人がいろいろいじっていたら血とか何とかが出て来ただとか、蛆とか轢死体とか、映画ではあり得ない生々しい描写もある(映画でも少しは触れていたけど)。

    さてしかし、遺体を扱うだけに、技術や経験の蓄積みたいな話で済まないところが、この仕事の深さだろう。

    多くの、さまざまな死(と遺族)に向き合っていると、やがて死と生とがひとつながりであることが見えてくる。

    苦しんだ人も、怒りや憎しみを抱いた人も、死に顔はほとんど安らかなものであるという。いまわの際には「ひかり」が見えるともいう(立花隆氏の著書「臨死体験」にもそういうくだりがあったっけ)。著者自身、あるとき、蛆が神々しく光って見えたことがあったそうだ。

    その「ひかり」の前では生への妄執や現世的な欲望などがすっかり浄化され、言ってみれば「悟り」の境地が自然に訪れるらしい。

    なるほど、宗教とは何か、悟りとは何かを正面から論じている本だけに、映画(お話)に納得がいかなかったのも無理はない。

  • 映画『おくりびと』の原作とも言われる作品。映画も悪くはないが、全く別の、もっともっと人間の死に、生に迫った、心の奥に染みる作品。映画を観たから、あるいは映画の内容からの連想で読まないのはもったいない。多くの人に読んでほしい。

  • 死について深く考えさせられる名著。現代は生きることに重きを置かれすぎている。医者の役割は延命措置である。科学の進歩の多くは医療革新に関心が持たれている。「生」に関心を持つことはいいが、その反動で「死」が無視されていないだろうか?
    死は、生者の視点からでは解決できないと著者は言う。生と死という別々の概念を超えた「生死」の境地でいることでこそ、死を徹底的に見つめて生を輝かせる。そのような境地に達した人間には、光が見える。釈迦や親鸞や、さらには死を悟ってなお安らかに死を受け入れることのできた人の多くがそのような目には見えない光を見ている。
    光を見た人間は、いのちの連続性への奇跡の念と感謝の思いが生まれる。それが、正岡子規の「悟りとは、平気で死ぬことではなくいか何時でも平気で生きることである」という境地につながるのだと思う。
    本書はそれだけでなく、詩の魅力を教えてもらった。金子みすゞ・宮沢賢治の詩などを引用して彼らの死生観と自身の経験とを結びつける著者の感性の豊かさには脱帽した。

  • 映画「おくりびと」から本へ。映画はこの本から「納棺夫」という職業といくつかの小さなエピソードを持ってきているけれど、本の内容とは別物だと思う。ただ、映画もそれはそれですばらしい作品だった。

    著者の経験と、美しい文章と、深い死生観・宗教観、非常に内容の深い本。年を取ってからまた読み返したい。

  • ※この先、映画「おくりびと」のネタバネも含みます。


    映画「おくりびと」を見て、さらにこの本に行きついた方は少なくないと思う。ぼくもその一人です。
    何かの折に、原作である本書の著者 青木さんが、映画を良く思っていない?ような事を知りました。映画に大変な感動をおぼえていたので、その意図を知りたくてこの本を手に取りました。

    たぶん、それは、原作と映画では中心点がまるで違うからだと感じ取られる内容でした。映画は原作の意図する中心点を含んでいない。映画というものに話を収めるには重たすぎる。親子愛が一番わかりやすく纏まりやすいからなのでしょう。

    さて、中身ですが、単純明快ですが非常に重い。
    ご本人の体験記に始まって、宗教観、増補の体験記そして後書き、と続きます。書いた時期もバラバラなのでしょうけど、言っている核が定まっているので安定していて読みやすい。

    彼のような生き死にの捉え方も一つだなと感じて読了。


    余談ですが、映画もとてもよくて、僕にチェロを習わせはじめるには十分でした。

  • 青木新門(1937~2022年)氏は、富山県生まれ、早大中退後、富山で飲食店を経営する傍ら文学を志し、吉村昭の推挙で「文学者」に短編小説が載る。しかし、経営する店が倒産し、冠婚葬祭会社に入り納棺専従社員(納棺夫)となった。
    1993年、納棺夫としての体験を『納棺夫日記』として地元の出版社・桂書房から出版しベストセラーとなる。それを読んだ本木雅弘が青木氏を訪ね、映画「おくりびと」が制作されることになったが、本の内容と映画の脚本が異なること等を理由に、青木氏の意向で、本書は映画の原作としてクレジットされなかったという。「おくりびと」(監督:滝田洋二郎、主演:本木雅弘)は、2008年に公開され、アカデミー賞外国語映画賞、日本アカデミー賞最優秀作品賞などを受賞した。
    私は従前より、人は死んだらどうなるのかなど、いわゆる死生観について関心があり、これまで様々な本を読んできたが、先日、井上理津子『葬送の仕事師たち』を読み、登場する仕事師たち(葬儀の専門学校の生徒、葬儀社の社員、湯灌師、納棺師、復元師、エンバーマー、火葬場の職員等)のプロ意識の高さに驚き、有名な本書を読んでみた。(私は映画「おくりびと」も見ていない)
    本書は、著者自身が「日記と題していながら、日記でもなければ、自叙伝とも小説とも言えず、宗教書でもなければ、哲学書でもない。あえて言えば、ノンフィクションかなと思ったりしてみたが、そうとも言えない。」と書いているように、一風変わった本である。本編「納棺夫日記」の第一章、第二章は、著者が書き残していた日記・記録をもとに書かれているが、第三章は、著者の考える死生観を、親鸞・浄土真宗の思想を軸に、古今東西の宗教、文学から科学的見解まで含めて綴られており、更に、桂書房刊行のものから一部改訂され、「『納棺夫日記』を著して」が加えられている。
    ひと通り目を通すと、前半の部分は、納棺夫の仕事を初めて知る場合はかなり衝撃的と思われるが、私は『葬送の仕事師たち』を読んでいたので、ある意味淡々と読み進めることができ、後半に引きつけられた。
    著者は相当な博学で、上記の通り、実に幅広い角度から死生観を述べており、私がどれほど理解できたか心許ないのであるが、キーワードが「光/ひかり」であることは間違いない。本書には、32歳の若さでがんで亡くなった医師が、多数の転移を知って死を覚悟した日に、アパートの駐車場で見た全ての光景が輝いて見えたという、井村和清の『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』(1980年に出版されミリオンセラーとなった。私も子供の時分に読み、この部分だけは強烈に印象に残っている)の一節が引用され、また、著者自身は、遺体に湧いた蛆さえ光って見えたというが、その光は、臨死体験をした人たちが例外なく語る光、釈迦や親鸞や多くの宗教者が出合った光と同じであり、その光こそが、宇宙の生成と消滅、生き物の生と死を超えた唯一絶対の真理であり、生きとし生けるものの全てに現れ救ってゆく存在なのだとする。(後半は、私が苦手とするスピリチュアルの世界との区別がつきにくくなるが。。。)
    また、正岡子規の『病床六尺』から引用されている次の一節が強く心に残った。「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」
    本書の感じ方は、読む側の、それまでの体験や置かれた状況、心持ちで大きく変わってくるのだろう。また時を置いて読んでみたいと思う。
    (2024年5月了)

  • 映画「おくりびと」を見たので、再読。
    葬儀社に勤め、遺体を納棺する仕事に就いていた著者による生と死にまつわるエッセイ。

    ・「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」
    ・親鸞と教行信証

  • 映画は受賞して話題になるより前に観てとても良かったし、サントラCDも買った。
    本書は映画を観た後に購入し、2009年読了、後に処分。
    ★は当時付けたもの。

全223件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

詩人・作家。1937年、富山県(下新川郡入善町荒又)生まれ。早稲田大学中退後、富山市で飲食店「すからべ」を経営する傍ら文学を志す。吉村昭氏の推挙で「文学者」に短編小説「柿の炎」が載るが、店が倒産。1973年、冠婚葬祭会社(現オークス)に入社。専務取締役を経て、現在は顧問。1993年、葬式の現場の体験を「納棺夫日記」と題して著わしベストセラーとなり全国的に注目される。なお、2008年に『納棺夫日記』を原案とした映画「おくりびと」がアカデミー賞を受賞する。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

「2014年 『それからの納棺夫日記』 で使われていた紹介文から引用しています。」

青木新門の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×