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Amazon.co.jp ・本 (240ページ) / ISBN・EAN: 9784167460075
感想・レビュー・書評
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トラウマ? はたまたナントカ症候群? 運よく「巨匠の時代」に居合わせてしまったがために、その後ずっと食い足りない気分を抱えながら過ごさざるを得ないこういう《不運》のことをはたしてなんと呼ぶべきか?
この『落語家の居場所』という本について、志ん生や文楽、圓生ら往年の「巨匠」たちと身近に接してきた筆者は、「むかしほど落語にのめりこむことのできないでいる自分」を発見し、それでも断じて「團十郎爺い」にはなりたくないと抵抗をみせながらも、けっきょくは「世紀末落語論」をめざしたつもりが「『よき時代の落語讃歌』にかたちを変えてしまった気味がある」と告白する。
とはいえ、この本からは年寄りの昔話に付き合わされたようなうっとうしさはほとんど感じられない。ひとつには、それは筆者が過去と現在とを比較するような書き方を意識的に避けているからだろうし、もうひとつには、現在にも通じるや寄席の「気分」といったものが、さながらRPGの「アイテム」のようにこの本の随所に隠されて(?)いて、そのつどいろいろなことにあらためて気づかされるからではないか。
「つまり、ふだん着で、ふだん使っているものを手にして、ふだんの声で、ふだんの言葉ではなすのが、落語なのである」(「古今亭志ん生の執念」)
これからの新作落語について。三遊亭圓歌の「中沢家の人々」や林家木久蔵(現木久扇)を引き合いに出しながら(風俗描写やナンセンスな状況ばかりにたよらない)「ますますパーソナルな色彩を加えていくような気がする」(「寄席」94.2.16)
三代目小さんと圓遊についての夏目漱石による評をとりあげ、小さんの方を持ち上げるのは漱石が「なにより江戸趣味のひと」だっかからと指摘、むしろ「新しい時代にふさわしい感覚」にあふれていたのは圓遊の方であった(「世紀末落語論」)
今日の落語を取り巻く状況について、聴衆をふくめた当事者たちのその危機感の薄さは四半世紀前とまったく変わっていないと指摘する一方で、そのぬるま湯につかっているような居心地のよさがかえって「激しい世の移り変わりという時間の流れのなかで、少しも動かない静かな時間をつくり出していたことに、じつは最近になってやっと気づいた」(「世紀末落語論」)
生涯つつましい長屋暮らしを通したことで知られる彦六の正蔵師匠に、反面、コーヒーは自分で挽いた豆をサイフォンでたて、食堂車でオートミールの食べ方を著者に得意げに教授し、「落語家のなかでホームスパンのジャケットを最初に着」るようなモダンな横顔があったことをはじめて知った。へぇ〜(「林家正藏の反骨精神」)
その他にも落語好きには刺激的なエピソードや指摘が多数。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
矢野誠一さんが亡くなった。
単行本で読みかけにしていたこの本を、亡くなったと知ってから文庫で読み始めたが、いやおもしろいおもしろい。文章もやわらかくて、すいすい読めてしまう。そうして、矢野さんの感じた藝の味とか雰囲気とかいったようなものが、ふんわりと伝わってくる。
初めて知ることも多かった。三平の藝は天変地異への恐怖の裏がえしだったのではないかという分析など非常に斬新だと思ったし、志ん朝、談志、圓楽、柳朝を四天王と呼ぶその由来をつくったのが矢野さんであることもこれを読んで初めて知った。
明神下の神田川の座敷で文楽にいろいろな話をきくなんてエピソードは、うらやましいどころの騒ぎじゃない。文楽、志ん生、圓生、可楽らとそんな付き合いをしていた人が、ついこないだまでいたのだ……そう思うと不思議な感じがした。矢野誠一という人は、いるのが当たり前のような感じで、私は、そのありがたみをよくわかっていなかったのかもしれない。
しかし、そのキャリアの長さと実績について改めて考えれば、やっぱり大きな存在だった。本文中で矢野さん自身が引用する『三四郎』における三代目小さんについての記述が、落語家と評論家という立場の違いこそあれ、そのまま当てはめられるように思う。
他の著作も読みたいなと思いながら、早くも読み終わってしまった。 -
知っている落語家はまあ読んでも分かるが、知らない落語家は5軒先の爺さんの詳細、聞きたいわけないだろう。
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