日本のいちばん長い日 決定版 (文春文庫)

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  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (371ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167483159

感想・レビュー・書評

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  • この話の映画がかつてあったことは知っていた。また最近リメイクされることも、知っていた。しかし作者が半藤一利氏であったとは知らなかった。氏の作品はこの1年くらい前から何冊かよんだが、どの話も歴史的な事実を偏り無く伝えてくれていたので非常に好感が持てていた。だからこの話も偏見を持たずに読むことが出来た。終戦の玉音放送が流れるまでの24時間そのうらで起こった様々な悲劇的な出来事。天皇の本心を理解できずにクーデターまがいな行動に走った青年将校達も戦争の被害者であった。いま平和維持に関する法案が議論されているとき、戦争の悲惨さ、始めることは簡単だが、それを終わらせることの難しさ。を世に伝える良い話だと思う

  • 2015年6月

  • この著作のタイトルは昔から知っていた気がしますが、他の半藤さんの本を何冊か読んでから読むこととなりました。

    終戦というものの自分の中の理解がいかに限られたものであったか、と実感させられる本でした。

    原爆、ポツダム宣言、からのラジオで「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・・」ときかされて終わり、というイメージでしたが、こんな血だらけな、まさに命がけのやりとりが皇居付近で昼夜行われていたとは。

    教科書でなんて書いてあったんだろう?授業だと3学期になって、駆け足で近代史をばーっとやられるのでもはや覚えていないのか?センター試験日本史選択、いやそれ以外にも日本史を利用したので、高校の日本史の教科書は最後まで読み通しているはずなのに、それにしても全くイメージと違うことに驚きです。

    テクニックとしての日本史と、物語としての日本史の違いなのでしょうか。

    とは言え、この話はもう日本が敗戦必至、のところからスタートしているのでこの登場人物たちに対し、散り際だけを見て判断を下すわけにはならぬ、と思います。
    これまた他の本を読んで、知っていきたいと思います。

    あとがきを読むと、文芸春秋の編集部次長の仕事をしながら、毎朝4時起きで原稿をしたためていたと。
    この内容を世に出すことが使命だ、とも思うのも仕方ない、内容でありました。

  • 昭和史の大家が書いた入念な調査に基づいたノンフィクションとのこと。そのため、史実をまとめた新書にしては人情物に傾斜し、歴史小説にしては表現が稚拙。あくまで事実を描いたノンフィクションだからだろう。
     さて、そこで描かれたのは「正義とは何か」であると思う。陸軍強硬派は天皇制の精神の維持の観点から「天皇と国民の意志統一」を求め、降伏に反対した。一方、天皇など降伏派は天皇制の維持を確信した上で降伏した。前者からしてみれば、後者は天皇制の形骸化を指向するものであり、容認できるものでなかった。
     戦前においては「天皇制の存続」は絶対的正義であり、それを今の時代の観点から糾弾することはできない。しかし、同じ正義を有しながら、前者と後者の採った決断は180度異なった。それは何故だろうか。前者は「天皇制の存続」をあまりに理想化しすぎた。そのことに自ら酔いしれ、多角的視野に欠けたことが原因であろう。そうなってしまったら最後、彼らは意見を異にする人を粛正し、別の角度から考えられなくなってしまった。
     ここからわかるのは、「正義とはどうあるべきか」ということだ。正義とは各人がおのおの持つものである。その中で自らの正義を理想化し固執することは、暴走である。自分における絶対的正義は他人におけるそれではない。どんな崇高な理想も暴走すればそれは凶器である。だからこそ、相互承認の関係が必要なのだ。

  • 敗戦確定で、ボロボロになっているにも関わらず、徹底抗戦しようとする派閥と、これ以上の被害を防ぐためにポツダム宣言を受託する派閥との権力闘争に、善悪の判断に苦しむノンフィクション。

  • ポツダム宣言の受諾直前から玉音放送までを1時間ごと一章ずつつづられていく。「勝利か死か」で教育されてきた国民、青年将校を納得させなくてはならない、国家の大事業、戦争終結の困難さがよく書かれていた。天皇の毅然とした態度、阿南陸曹には頭が下がる。この辺の出来事は教育現場ではすっとばされているせいかよく知らないことがはずかしい。日本人として知っておかなくてはならない。

  • 今年の夏に再度映画化されると言うことで先に原作を読んでおこうと思った作品。ポツダム宣言から玉音放送まで、8月15日を中心に(プロローグだけがその前の話)24時間のさまざまなドラマを描いたものです。日本初の敗戦と言う形での終戦をどう行うのか、それぞれの立場で考えがあったのだろうけど、たしかに着地点を考えるのは難しいものですね。クーデターを起こしてでも戦争継続を狙う青年将校たち、「生きて虜囚の辱めを受けず」と言う戦陣訓もあったのかもしれないけど、この価値観だけは(嫌いじゃないけど(笑))70年経った今となっては共感できずに歴史として読んでいました。

  • 1945年8月14日から翌15日の玉音放送までの1日を時系列で並列的に活写。現代からの断罪がないのがいい。和平を望む天皇と重臣、内閣、海軍。本土決戦の後に一撃講和を目論む陸軍。その代表として苦悩する陸軍大臣阿南惟幾。ついに辞職せず陸軍を降伏に導く為に落とし所を探り、ポツダム宣言受諾に反対する青年将校をたしなめ、日本を敗戦に導いた陸軍を代表して自決する。彼無くしてあれ程スムーズな武装解除はなかった。首相鈴木貫太郎の政治力なき政治力。人間力がぶれずに聖断を2度使う荒技で一気に降伏に持っていった。時間がかかれば反対派のクーデターの準備も組織だったものになったから、本当にギリギリの勝負だった。宮城占拠した青年将校と利用された近衛兵。殺された森師団長。そしてポツダム宣言受諾の為なら何でもやると言った天皇の決意。常にリンカーンとダーウィンの彫像を飾っていた科学と理性の時代の天皇にとって、精神論や観念論で戦争続行を叫ぶ青年将校とは永遠に相容れないだろう。15日以降も各地で何件も反対派の蜂起がある。それにしても玉音放送の威力、天皇の権威の威力がなければ、ドイツのように首都陥落まで戦争が続いた可能性がある。もしくは原爆があと何発使われたか。近代国家となった日本がキリスト教の代わりに国家の精神的支柱にした国家神道の極地に国体護持と神州不滅を叫ぶ青年将校の姿がある。皮肉なのはその御神体ともいうべき天皇が、あまり国家神道教を信じていないという事実。憲法を遵守する立憲君主制を大事にする天皇と統帥権を盾に内閣をないがしろにする軍部。この矛盾は国家のプランニング、つまり憲法の矛盾であり、民衆革命ではなく軍事革命だった明治維新の負の遺産だと思う。いずれは破綻した。

  • 映画『日本でいちばん長い日』が公開されるという。
    役所広司演じる阿南陸相を主人公とした1945年8月15日の昭和天皇による玉音放送開始までの1日を辿るドラマとのこと。

    ここんところ満州を中心に戦前からの昭和の時代を巡る書籍を読み続けてきたんで、そろそろ終戦時の状況というモンに手を伸ばしてみてもよいかと思ったのだ。
    さっそくAmazonさんでポチったところ本書の初版は昭和40年(1965年)とのこと。
    ボクでさえまだ生まれる前の本である。
    終戦が昭和20年(1945年)なので、本書の出版まではまだ20年しか経っていない時期。
    今となってはほぼ当時の関係者が亡くなっているであろうが、当時ならではのまだ生存している当事者へのインタビューや1次資料に加えて、最近発見された一級資料で再考し、手直しを加えたモノがこの『日本のいちばん長い日(決定版)』である。

    戦前、前後に渡り、当時の日本人の熱狂の理由を探して様々な本を読み進めているモノの最近出版されたモノは読み易さはあれど、やはり資料から導き出されているモノが多く、当事者の声、熱というエモーショナルな部分が伝わらないところに限界がある。
    そういう意味で本書は当事者の声、熱情と言ったモノを1次情報として収集し、纏められているという意味で今となっては貴重な情報であろう。



    冒頭、初版出版時の大宅壮一の序にこう書かれているところから本書は始まる。

    今日の日本および日本人にとって、いちばん大切なものは〝平衡感覚〟によって復元力を身につけることではないかと思う。内外情勢の変化によって、右に左に、大きくゆれるということは、やむをえない。ただ、適当な時期に平衡をとり戻すことができるか、できないかによって、民族の、あるいは個人の運命がきまるのではあるまいか


    まさにボクが歴史から学ぼう、知ろうと思っている時に気をつけるべきと常々感じているモノと同じことを述べている。
    昭和の戦争に限らず、幕末、戦国、南北朝のどの時代であろうとこの『平衡感覚による復元力』を身につけることは重要と考えている。
    大宅壮一のような大家と同じく平々凡々のボクであっても同じようなことを考えつくということは、やはり『日本人の熱狂』というものは民族的な欠陥ともいうようなモノなのであろうか?
    と、このような日本人論は本書の領域ではないのでとりあえずおいておいて。

    本書は1945年8月14日の正午から玉音放送が行われた8月15日の正午までの24時間の物語である。
    テレビの終戦特集、昭和特集等で何度も目にし耳にした昭和天皇による玉音放送。
    ラジオで天皇自らが声を発するということ自体とんでもない初のことであるという認識も特になく育ってきたが、よくよく考えるとつい先ほどまで現人神として崇め奉って在らせられた昭和天皇ご自身のお声をラジオを通じて直に聞くということ自体が当時の国民にはとんでもない出来事であった1945年の日本。
    玉音放送の時にはすでに戦争云々といったことはどうにもこうにもならない袋小路状態に陥っていたモノと漠然と思っていたが、この24時間の間に戦争に至る道のりの様々なことのすべてが凝縮されていたのである。
    昭和前史をすべて凝縮した濃くて長い一日の記録。

    この24時間を1時間ずつ状況の進展を描く手法はまるでドラマ『24』を観ているかのような緊迫感とドラマ性を高めている。

    戦争責任を背負うべき人物はほぼ戦況悪化のためステージから退場させられ、残されたB級、C級ともいうべき登場人物がメインの本書はともすれば華がないと思われるかもしれない。
    しかし、トップスターが退場すると自然と下の人間が成長してトップスターの座を掴むモノである。

    本書でもその筆頭は戦争を終結に持って行った主人公の一人、鈴木貫太郎首相だろう。
    ボク自身この人にはほとんど関心も無かったし、記憶にすらなかった人である。
    この鈴木首相ののらりくらり一見飄々としながらも、周りの意見がすべて出し切るまで議論させて、最後の最後で自分が思う方向へ誘っていくやり口がなんともB級タレントらしい組織マネジメントで彼自身のキャラが引き立っている。
    しかし、陸軍が『統帥権』の名の下に天皇を利用して戦争を拡大してきたのと同様、この鈴木首相のやり口も最後の最後で天皇の『聖断』というものを利用したのだとボクは思う。

    日本における『天皇』というものの特殊性。皇帝でも王様でもないなにものでもない、なにか。
    天皇の強権というものはなんなのか?本当に持ち得ていたのか?
    よくよく日本史を眺めていても、天皇親政という時代は古代を除いては後醍醐天皇の建武の新政くらいである。他の時代はどの時代でも『天皇』というものはいざというときに担いで正当性を主張するための証明書でしかない。
    それが本当に昭和の時代というのは違っていたのだろうか?
    ということは常々疑問に感じているところである。

    日露戦争以降、『天皇』という存在はますます神聖化されていく。
    本書でも日本における天皇の存在というものが至るところで書かれている。

    別の一組は「大御心」とはなにか、「国体の精華」とはなにかという大命題にとっくんでいた。真剣に、それは殺気だつほどの真剣さで。しかし真剣すぎるだけに狭かった。彼らが大問題にとっくんでいる土俵がつまり「軍人精神」というワクであるのに、彼らは気づいていなかった。彼らは教育されていた。全滅か、もしくは勝利あるのみと。彼らに降伏はなかった。陛下を奉じて戦えば、たとえ全滅するもそれは敗北ではない。そうした神秘的な、しかし徹底した観念を吹きこまれていた


    この時期ほど〝国体〟が問題にされたときは日本歴史はじまっていらいなかったであろう。彼らばかりではない、幾度、幾十度、幾百度、何千何万の人が「国体」という言葉を口にしたかしれなかった。しかしその内容としてはなにが考えられていたかとみてくれば、千差万別、その顔の異なるように変っていた。抽象的に高唱された場合があり、もっと具体的な意味をもったときもある


    米内の言う憂慮すべき国内事情とは何なのか。政治上層部や官僚や財閥は、明らかに共産革命を考えている。

    内大臣木戸幸一、近衛、岡田啓介ら和平派が恐れていたのは、本土決戦による混乱であり、それにともなう革命である。和平派が望んだのは、革命より敗戦を! であった。

    機関としての天皇。彼らは、軍部や絶対天皇主義勢力を切り捨て、天皇制を立憲君主制としてでも残し、なんとか機構の存続を図ろうとしたのである。

    阿南は、軍人でありながらこれに与した米内をついに許せなかった。将来の天皇の保障なくして、期待や可能性で終戦を推進するとは、阿南からすればこれ以上の不忠はないのである


    戦中を通してますます『天皇』というものの神聖化を推進し、翼賛体勢を強化していった当時の為政者たちは結局のところ『国体』などという意味不明な実態のない言葉を作り出し、その言霊によって『日本』という国を縛り付けた。その中心には『大御心』という魂の入っていない『御輿』を置き、それぞれの立場で利用しあっただけなのではないだろうか?
    天皇に主権というものは本当にあったのだろうか?

    となると、美戸部達吉の天皇機関説や現在の象徴天皇制と実行上なにが違うのだろう?
    現在の日本人の感覚では理解できない、違いというモノが当時ははっきりと論理的に理解できていたのだろうか?
    とまた新たな興味が沸いてきた、そんな様々な興味をもたらせてくれる一冊である。

  • 太平洋戦争末期、ポツダム宣言を受け入れ終戦に向かおうとする内閣と終戦を受け入れられず徹底抗戦を叫ぶ陸軍将校たちの攻防を記したドキュメント。
    8月15日の終戦までにこんな激しい攻防があったのかと驚きを感じた。原爆を投下され敗色濃厚にもかかわらず徹底抗戦を唱える陸軍将校たちの考えが今思うと恐ろしく感じた。

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著者プロフィール

半藤 一利(はんどう かずとし)
1930年、東京府東京市向島区(現在の東京都墨田区)生まれ。東京大学文学部国文科卒業後、文藝春秋新社に入社。編集者として活動しながら匿名記事も記す。1965年に大宅壮一の名義を借りて『日本のいちばん長い日』を執筆、発行。『漫画読本』『増刊文藝春秋』『週刊文春』『文藝春秋』編集長を歴任。1995年に文藝春秋を退社してから作家・評論活動専任となる。
1993年『漱石先生ぞな、もし』で新田次郎文学賞、1998年『ノモンハンの夏』で山本七平賞、2006年『昭和史』で毎日出版文化賞特別賞をそれぞれ受賞。2009年の語りおろし『昭和史 1926-1945』『昭和史 戦後篇 1945-1989』はベストセラーとなった。
妻の半藤末利子は、松岡譲と、夏目漱石の長女・筆子の四女で、夏目漱石が義祖父にあたる。

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