(2022/02/28読了分)新井満の訃報に接して、何冊か読み返したくなり。今読み返すと、オールドファッションなところが見受けられたり、気取ってるなあ、と思うところもあるけれども、総じてこの世界観、ここに流れる空気に惹かれてまた何度も読むのだろうと思う。「音楽と絵画と文学の三人が、仲よく談笑しながらお茶を飲んでいる、そんな本ができたら…と夢のようなことを考えている」というあとがきに煽られたように、無性にサティが聴きたくなり、「ジムノペディ」「グノシェンヌ」「ジュ・トゥ・ヴ」「官僚的なソナチネ」「干からびた胎児」「スポーツと気晴らし」とつづけざまに聴いてしまった。/「あらゆる思想は、損なわれた感情から生まれる」(E.M.シオラン)/死のうと生きようと、大した違いはないのではないか/<彼らは皆、どこへ行ってしまったのか?><ここではない、どこか遠くへ>そしてこの場所には二度と戻って来ないだろう。(「苺」より)/人間も一生涯かけて大小様々な零を描き、最後にふっと消えてしまう(「ヴェクサシオン」より)///(2011/7/18読了分)何度読み返したかわからない。その昔、手に取ったきっかけは、サティの、840回も延々と同じフレーズを繰り返す曲のタイトルが冠されていたからだったことは覚えている。それから、同じ作者の作品を追って行ってた時期もあったけど、同じ道具立て、小道具が何度も使われていたり、登場人物の職業が、おそらく作者のこれまでの職業経験の範囲からのみ選ばれているんだろうな、主人公のタイプも似たかんじ、というのがほの見えて、広がりが無く感じられて、離れた時期もあり。独断と偏見だけど、大崎善生、山崎ナオコーラにもその傾向があるように思う。もっとも、その後、まったく毛色の違うほうへ、描かれる世界もひろがって、ということもないわけではないけれど。CFプランナーの三郎と、CF絵コンテイラストレーターの遥子。彼女が弾いたジムノペディをきっかけに、サティにのめりこんでいく三郎。フリーとしての一作目がこけたものの、遥子にコンテを頼んだ次回作はあたり、それ以降は忙しい日々を送り、ふたりのあいだに子どももでき…。「広」告から「狭」告へ、大衆の喪失と、価値基準の多様化、といったことは、この小説が描かれたころから語られていたんだな、ということ。太古から延々受けつがれてきた生命と、ヴェクサシオンの延々とつづくリフレインとを重ね合わせて、不思議さをかんじる三郎の素朴さに目がとまったり。