本が好き、悪口言うのはもっと好き (文春文庫 た 38-1)

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  • Amazon.co.jp ・本 (319ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167598013

作品紹介・あらすじ

支那という国名表記にメスを入れ、返す刀で李白と杜甫、狩野亨吉や江馬修を論じ、湖辺の侘び住いから鋭い書評を放つ。第11回講談社エッセイ賞を受賞した傑作痛快評論集。(坂梨隆三)

感想・レビュー・書評

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  •  こんな怖い人はいない。おそらく、学問的にはまったく相いれないだろうが、初期万葉論で、中西進や梅原猛や吉本隆明をぶった切っていく白川静のようなスピード感と、それからまるで京都人のようないやらしさ、遠回しやけれど、直で言ってるようなどぎつさを兼ね備えた人で、ほんと怖い人だと思う。また、この本は今年、ちくま文庫でまた再度販売されるようで、絶版ではない。絶版させてはいけない本だと思う。

     まず、この人の、日本語への宿命的欠陥という指摘がよかった。
    「日本語と漢語の大きな違いは、音韻組織が、漢語は複雑、日本語は簡単ということだ。たとえば、成功、製鋼、性交、精巧は漢語では全然別の言葉だが、日本語ではみなセイコウになってしまい、漢字のうらづけがないと意味を持ちえない」
    「つまり漢語のcheng(成)、xing(性)、gong(功)、jiao(交)などは固有の意味を持った音だが、日本語のセイやコウはそれ自体では何の意味も持ち得ない。成功とか精巧とかの文字が言語の本体で、セイコウという音はその本体が裏にはりつくことによってかろうじて意味を持ち得るたよりない存在なんだよ。だから、漢字の本家の中国では漢字を廃止しても大丈夫だろうが、日本語は漢字のうらづけがないと成り立たない」
    「だから、文字が背後からしっかり支えてやる必要がある。したがって、文字そのものや、文字と音とのつながりを変更するのは、よほど慎重でなければいけないということだ」
    「中国文化と日本文化は誕生の時期がちがう」「もし漢語と漢字が入って来なかったら、日本語は健全に成熟して、やがて日本語の生理にあった表記体系を生み出していただろう」
    「日本語における放送、包装、法曹、疱瘡などをそれぞれ別の語として支えているのは文字である。語彙の半分が、文字に寄り掛からなければひとりだちできない。日本語の宿命的欠陥である。」
     白川静が漢字は日本語であると言ったのと結局は結びつきそうなところだ。

     語源についてのエッセイもいろいろあって、灰の「は」は「果て」の「は」であり、あるいは木の葉の「は」という「ばらばらになったもの」である。旧字で読むと、手で枝なんかをもって火を消している様をさす。
     ほか、子どものことをいうのになぜ「息」という言葉を使うのか。
     呼吸をしていて生きていれば自然に次の世代を増やすので、ふやす、ふえるの意味。生ずる、ふえるということだ。「そく」は漢語、むすは和語だが、どちらもふえるという意味なのは面白いという。

     また、書評部分では、「書評は短いほど力量が必要だし、「文章はわるいが内容はすぐれている」なんて本はない。」という定義は参考になる。「三十五のことばに関する七つの章/久保 忠夫」や、1960年代の初め頃中国で一番愛読されている日本の作家江馬修について。それから林鶴一とか、いろいろ初めて知ったことが多かった。また、よくある新聞の記者の文書に対して「細心の配慮が望まれる という言い方は気に入らない。われわれは細心の配慮を望むといえばいい。注文はつけるが、注文をつけた責任は取らないよ、というつもりか」と最もな意見。とにかく意見が鋭いのだし、ぜんぶよくぞ言ってくれたと思えることばかりだ。
    朝日新聞紙上での「女たちの太平洋戦争・中国編」に対する違和感も鋭かった。どこに違和感があったかというと第一に、それまでの投稿者は日本の普通の婦人たちであったが、こちらの談話者は、当局に指名され、その監督下でしゃべる語り部であること。第二に、日本の婦人たちが戦争体験回想と違って、これらの談話が、政治的色彩の濃い、国家の政策に沿ったものだということ。また、結論部に「真の友人」にならねばならない、という言葉にも、個人同士ならば真の友人はいくらでもなれるが、国家と国家には経済や歴史経緯に由来するアンヴィバレンスがある限りまず不可能である。「中国国民の思い」というのも、中国権力の思いであるとずばり言う。
     中国にとって、まわりは東夷、南蛮、西戎、北狄と言った。ぜんぶ動物である。日本は東夷であり、ヒコは「卑狗」で「ちびイヌ」と呼び、「ひめ」という日本語に汚い字をあてて「卑彌呼」とよんだのである。
     そして、「わかる者にとって、中国はあくまで中央の高みを仰ぎ見ての「あなたさま」「あちらさま」である」ということも頭に入れておかねばならない。いま、辞書を読んでも、「支那」という日本語は最初から存在したことがなかったようになっている。
     「やつらとわれわれとはどこに本質的なちがいがあるのか、と彼らは考えた。われわれの生活には「文」がある。「文」は「紋」と同じで、衣服の紋様やひらひらである。衣服は身をおおうためのものだから、紋様やひらひら、つまり「文」は絶対必要のものでではない。しかし「文」があることによって、衣服は高尚になり美的になる。生活万般における「文」、つまり礼や音楽もこれと同じである。文があってはじめて人間の生活である。」というのも知っておかないといけない。中国とは「文」であると、松岡正剛が幸田露伴について述べているところで言っていたけれども、ネタ元は不明だけれども、ああこういう意味かとわかった。
    あと、中国で若い女性に「おばさん」というとよろこぶエピソードや、喧嘩で「おまえはおれの孫だ!」というのは侮辱の言葉であるというのは、さすが儒教国家だと思った。
     李白は古詩と七絶に長じ杜甫は律詩・排律に秀でると述べる名編もいいけれども、やはり、社会批評が好きだ。特にこの部分を引用する。いまでも、ツイッターで議論の中心になるところだと思う。

    P166より引用。
     今日本で、アメリカの悪口を言ってもイギリス人を批判しても、アメリカ蔑視だイギリス人差別だと言う者はない。それが中国となると、それが中国蔑視となると、それ中国蔑視だ中国人差別だと金切り声を立てる人があらわれる。
    なぜか。当人たちもはっきり意識してないのだろうが、彼らの心中には,日本は中国より上だ、日本人は中国人より上だ、中国は弱い国で中国人は弱い人たちだ、「いたわってやらなくては。自分たちが守ってやらなくては」という思いあがりがある。その思いあがりは、戦前支那人を軽侮した日本人と紙一重、いやほとんど同じ穴のムジナだ。なまじ良心づらしているだけ気色がわるい。
     中国人はそんな、日本人にいたわってもらわねばならぬほど弱い、あわれないくじなしか。十九世紀後半以来、彼らは、何か世の中がさかさまになっているらしい、という釈然とせぬ思いをいだいている。本来世界中央の高みにいるはずの自分らが、世界中央でおちこんでいる。そう感じること自体、彼らの血のなかを流れる自負の念が健在である証明だ。東海のチビ猿の同情やあわれみなど必要ない。
     好景不常、そのうち日本も落ちめになる。その時あちらの良心分子が、「その表現は日本の人の心を傷つけよす。やめましょう」なんぞ言ってくれたらうれしいか。
     スペインにこんな格言(?)があるそうだ。「フランス語は女をくどくのにちょうどいいことばである。ドイツ語は馬と話をするのにちょうどいいことばである。そしてスペイン語は、神と語るにふさわしいことばである」。これを聞いて、とびあがって「それはフランス蔑視だ、ドイツ人差別だ、やめろ」とわめく良心的スペイン人はよもやおるまい。フランス人もドイツ人も呵々大笑するのみであろう。まちがっても外交問題なんぞにはなりっこない。それが成熟したおとなの感覚であり、また関係というものだろう。ところが日本とその周辺では、うっかり冗談も言えない。冗談どころか、ほんとうのことも言えない。言えばたちまち岡っ引きがばらばらとあらわれて、差別だ蔑視だ反省不足だと騒ぎたて、人の口をふさいでしまう。国語辞典にまで手をのばしてとうとう「支那」は「卑語」ということにしてしまった。
     あまりにもケチくさく、かつ低次元ではないか。

  • 13年前1回目の感想ーーいやぁおもしろかった。めっけもん。特に李白と杜甫の章、こんな話を高校の先生がしてくれたらなぁとつくづく思います。

    今回はーー加えてⅡ章新聞醜悪録、Ⅲ章書評十番勝負が楽しかった。あと百田さんの中国本を読んだばかりだったので、国家同士中国と日本が「真の友人」になるなど考えられないと言い切っていることにやはりそうかーと納得、約30年前の著作なのに今も変わらずですものね。

  • この人の著作は『水滸伝の世界』しか読んだことがなかったが、他のエッセイもずいぶん有名らしいので借りてきた。

    内容が中国に関わるもののほうがやはり読んでいて面白い。水を得た魚のように語彙もリズム感も冴えてる気がする。

    4.「支那」はわるいことばだろうか、5.ネアカ李白とネクラ杜甫が特に面白い。
    どちらも学生の時に読んでおくべきだったと思う。大学で中国史を専攻していた割には「支那」の呼び名の経緯をここまで明確に理解していなかったことが今になって恥ずかしい…。

    李白と杜甫は高校の漢文のテキストに必ずと言っていいほど名前がでてくるが、そもそも漢文自体が授業でほとんど重きを置かれていないと思う。こういう軽妙で分かりやすいエッセイが授業で使われていたら、彼らの詩や人生、時代背景にもっと興味をもつ生徒が増えたかも。

    ただ、言葉についてつらつらと述べている章のほうは、確かにごもっともではあるが、じゃあそこまで言葉の乱れを嘆くなら類語辞典のようにすぐ引いて参照できる誤用リファレンスの発行でも編集者に持ちかけてくれたらよかったのに、と思わないでもない。

  • 再読
    好きな書き手の一人なので、おりに触れて読んでいます。

    言葉に対する感覚、こだわりに説得力がある。
    諸々の発言も悪口というより、至極当たり前の発言をしてるだけ。随って、後味もスッキリ。でもやられる方はやっぱりたまらないか。

    文春の連載が終わってしまったが、「お言葉ですが・・・」のシリーズで未読のものもあるので楽しみたい。

  • 読書家の名文である。諧謔に満ちた簡潔さで権威を懼れず、ばっさばっさと切り倒す文章はどれも一気に読ませてしまう。この人とは『お言葉ですが・・・』を14巻ほど読んだのが始まりで、今でも時々読み返している。
    文章中の引用文や参考図書が気になり、ついその派生本にまで手を伸ばしてしまう。追究していたら際限がない。この本の読書中も氏が紹介した数多い本の中からの数冊を古本屋や図書館に注文してしまった。積ん読はますます溜まる一方である。

  • [評価]
    ★★★★☆ 星4つ

    [感想]
    著者の考えや風刺の効いたコラムをまとめた一冊
    文章が読みやすくスラスラと読むことができたし、それなりに古い本であるが、なるほどと感じて面白かった。

  • 以前読んだ中国の大盗賊が軽快で面白かったので著者の名前が記憶に残り(結構著名な方だったようだが知らなかった)、この本のタイトルを見た時、すぐに購入してしまった。内容としては、発売が1995年とのことだが、それ以前にあちこちで書かれたものを集めてきたエッセー集で、内容もあちこち飛ぶ。昔よく読んだタイプのエッセー集だけど、最近はこういった類の物書きの方はあまりいないような気がする。

    ご本人が言葉のプロフェッショナルであることは所々からうかがい知れるが、言葉も生き物と考えた場合に頑なに”伝統的に正しい”方法に拘るのも少々面倒な気もするが、こういった方も一定数必要だろうと思う。

    支那という言葉が悪いものかどうかという章は非常に興味深かった。確かに著者が言うようになんとなくワルイモノとされているような感覚がある。要約すると以下となる。
    ・戦前の日本では、中国人を支那人と呼んでおり、言葉自体に価値判断は含まれていなかった。
    ・中国人というのは戦後の呼び方で、当時はそういう呼び方しかなかった。
    ・中国に敬意を持っていた人たち、吉川幸次郎氏や倉石武四郎氏は支那を使い、また魯迅も自分を支那人と呼んだ。
    ・そもそも1500年以上前にインドが現在の中国あたりをシナスタン、もしくはシナと呼んでいた。(スタンとは地域という意味)
    ・シナとは恐らく秦に由来すると学者たちは考えている。
    ・シン・シナがギリシャ語のシニカ、フランス語のシーヌ、イタリア語のチーナ、ドイツ語のヒナ、英語のチャイナになった。
    ・もともと中国には、みずからの民族・土地・国を全体として呼ぶ語がなかった。その必要もなかった。
    ・四世紀以後、インドに行って仏典を持ち帰った中国仏教者たちは、シナ・シナシタンを前に相当する言葉がかったた、め、音訳の方法をとり、支那、至邦、脂邦などをあてた。
    ・明の時代には、中国の仏教者が書いた仏教書には”支那撰述”の言葉があるらしい。
    ・日本に支那の字が入ってきたのは平安時代。空海の詩に書かれているのが現存するもので最古のものらしい。
    ・一八世紀はじめ、日本に潜入して捉えられたイタリア人宣教師シドッチを尋問して、新井白石は西洋紀聞を書いた。白石はシドッチの言う”チーナ”が仏典にある支那にあたることに気づいたようだ。
    ・以後また百年ほど用例は見つからず、一部の高級知識人以外はほとんど知られていなかったようだ。
    ・一九三〇年五月、中華民国政府は中華民国という国号を称することを求め、支那の文字を使用した公式文書の受け取りを拒絶すると日本政府に通告。
    ・これは中国から日本に来た留学生が支那に対する強い反撥を受けたものと思われる。当時の日本の一般大衆は中国人に対する軽侮の念が普遍的であり、その呼称に問題があると考えたようだ。もし別の呼び方をしてれば、同じことに成ったであろう。
    ・留学生たちは日本に来るまで支那という言葉を見たことも聞いたこともなく、漢字を使った中国語の一変種であると認識したであろうこと、更に支那という知らない言葉で自分たちを呼び、少なからぬ日本人が軽侮している・もしくは相応の敬意を払わないこと等から、その言葉に問題があると考えたのは自然の成り行きだろう。
    ・戦後、中華民国より再度厳しい要求があり、外務省から国内に通達があり、支那という言葉は外交上は使わないことになった。
    ・その通達を後ろ盾として新聞や出版界が無制限に範囲を拡大し、支那という言葉が徹底的に排除され、戦前の文学作品ですら書き換えるようになった。
    ・現在中華人民共和国で出ている大きな辞書には、支那は出ている。
    ・中国とは古い言葉で、もともと俺たちのいる場所程度の意味である。特定の地域や特定の人種の固有名詞ではなく、「中央なるわが国」という普通名詞である。
    ・中の者が「中国」と言えば自尊の意の「我が国」、外の者が中に向かって「中国」と言えば自卑と強い敬意をこめた「貴国」である。
    ・その「中国」の範囲は、時代とともに伸縮自在であった。
    ・支那の文字が不可ないといふのなら上述のごとくそれ自体に軽侮の意味はない。結局、従来日本人に軽侮の念を以てシナの語を使つたものがあつだからというふことになるが、それではその心持が改まらなければ中国でも民国でも、はたらま中華民国でも不可ないということになるかもしれぬ。(戦前上海に三十年生活した小竹文夫氏:支那の自然と文化 昭和二二年)
    ・支那はいけないという人は言葉の問題にすり替えており、実は用いる者の心持ち如何の問題である。

    P.79
    人はよく気軽に中国文化の恩恵などと言うが、わたしは必ずしも、日本が中国の隣に位置したのが幸せだったとは思わない。日本文化は中国文化より誕生がおそいのだから、同時期の中国にくらべて言語が押さなかったのはやむを得ない。もし中国の言語・文字の侵入を受けなければ、日本語は完全に成熟して、いずれみずからの性質に最も適当した表記体系を生み出すにいたったであろう。それが、まったく性格の異なる言語およびその表記手段の侵入によって発育を阻止され、音が言葉の実態、という言葉の本質をなかば喪失したのである。

    P.89
    投書の一つに、「教科書に東郷元帥、中国国民の思いは・・・」という見出しをつけたものがあった。(中略)こういう投書を採用し、こういう見出しをつけて掲載する編集者というのは、いったいどういう人なんだろう。(中略)日本国内の議論に外国人の心情を、それも勝手に憶測してお涙頂戴的に援用するというのは、事実上外国の権力に媚びを売るものでしか無い。(中略)「東郷元帥」にせよ、あるいは「靖国参拝」にせよ「進出」にせよ、それが中国で報道されるのは、権力が政治的元手として利用できると判断した時だ。そして、すべての政治的ないしは外交的事象に対して人びとがどういう「思い」を持つべきかを決めるのは、「中国国民」自身ではなくて中国の権力なのである。日本などとは根本的に国柄が違うのだ。
    もう一つ、(中略)我が国は中国と「真の友人」にならねばならない、というのがあった。天真爛漫な夢想、と言うべきだろう。これが中国の個人と日本の個人ならば、真の友人になることはいくらでも可能である。しかし、国家と国家、という段になると、上に述べたような歴史敬意と経済格差に由来するアンビバレンスがある限り、まず不可能だろう。もし将来中国が日本の経済・生活水準が同程度になったとしたら、中国の歴史的優越感のみが残る。中国と日本とが国家動詞真の友人になる条件が整うことは、さしあたり考えられない。

    P.96(養老孟司氏:カミとヒトの解剖学より)
    「先生は霊界があると思いますか。そう尋ねる人が多い。そういう時には、『もちろんある』と胸を張って答える。そもそも『ない』ものについて語ることは不可能である。それなら、どこにありますか。頭の中にある。」

  • ・1/17、再読。

  • 語句の意味に鋭敏な点と新聞批判は良。が、書評は駄目。特に長谷川真理子氏著作へのそれは失笑。また「支那論」も手垢のついた論の焼直し。「支那」は元来蔑称でないのは著者解説のとおりだが、日本も中華も、ある意味自国尊称の事実を忘れてないか。他方「国号日本」の要請に尊称強制の意図はなく、仮に意図があっても抗議されるいわれはない。対等とはそういうことではないか。もちろん「倭人」表記に、使用したマスコミ・国への抗議は当然(抗議しないなら問題だが、当該政権の問題)だが、逆に「中国」表記を日本の謙りと殊更言立てる要はない。
    このように筆が滑りすぎの感がある(「支那」の意味論に止めておけば、説得力があったのに…)一方、漢詩に関する論考は、こちらの知識不足・興味関心外であるため、楽しめなかった。しかし、別稿で描かれる、著者の取調べ経験とそこから導き出した教訓は、ある意味、実地の迫力があり、一読に如くはない。

  • 言葉についての薀蓄を語ったエッセイのほか、「支那」という言葉の来歴を詳しく検証した「「支那」はわるいことばだろうか」、李白と杜甫の交流とそれぞれの人物を活写した「ネアカ李白とネクラ杜甫」、京都帝国大学の学長を務め内藤湖南の招聘に尽力した奇人・狩野亨吉の人物を紹介した「回や其の楽を改めず」などを収めています。

    勉強になっておもしろい、お得な本です。呉智英の本を読んだときにも同じような感想を抱きましたが、ルサンチマンをぶちまけるエネルギーに満ち溢れた呉の本に比べると、こちらの方がやや格調の高いエッセイという感じがします。

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著者プロフィール

高島 俊男(たかしま・としお):1937年生れ、兵庫県相生市出身。東京大学大学院修了。中国文学専攻。『本が好き、悪口言うのはもっと好き』で第11回講談社エッセイ賞受賞。長年にわたり「週刊文春」で「お言葉ですが…」を連載。主な著書に『中国の大盗賊・完全版』『漢字雑談』『漢字と日本語』(講談社現代新書)、『お言葉ですが…』シリーズ(文春文庫、連合出版)、『水滸伝の世界』『三国志きらめく群像』『漱石の夏やすみ』『水滸伝と日本人』『しくじった皇帝たち』(ちくま文庫)等がある。2021年、没。

「2023年 『「最後の」お言葉ですが・・・』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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