- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167654016
作品紹介・あらすじ
「私」はアパートの一室でモツを串に刺し続けた。向いの部屋に住む女の背中一面には、迦陵頻伽の刺青があった。ある日、女は私の部屋の戸を開けた。「うちを連れて逃げてッ」-。圧倒的な小説作りの巧みさと見事な文章で、底辺に住む人々の情念を描き切る。直木賞受賞で文壇を騒然とさせた話題作。
感想・レビュー・書評
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普通の(…と思っている)生活を送っている毎日だが、何かをきっかけに暮らしが一変してしまう危うさは常に感じている。
車谷長吉さんの私小説なのかな?と思えるこのお話。
主人公は自ら選んで暮らし始めた場所、しかしそこでしか生きられなかった人達がいた。
これは日本が経済成長期の時代。
(一億総中流)意識が高まった時代だが、いわゆる底辺の暮らしをせざるを得ない人々はいた。
資本主義社会であるから必ず底辺層の人々は存在する。
そこで暮らす人々の隠しきれない感情、吐息がこの作品からひしひしと感じた。
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2015年最後に読んだ本。著者の車谷長吉さんが2015年に亡くなったから年内に、と思って。(誤嚥性の窒息が死因だったとかでけっこうショッキングだった)
直木賞受賞作。この映画で寺島しのぶが賞を総なめしたイメージが強い。
33歳の生島は、歩んでいたエリート街道を外れて底辺の生活へと身を落とす。尼崎にあるアパートの一室で、病気で死んだ牛や豚の臓物を串に刺し続けるという仕事にありつく。
向かいの部屋からは彫眉という男が女たちに刺青を彫る苦痛の声が漏れてくる。
階下の部屋には彫眉の情婦で妙に艶かしい女・アヤ子が住み、生島は密かに心惹かれていたのだが、ある日アヤ子が突然部屋を訪れたことから、事態は動き出す。
日本が舞台の物語なのに、退廃的すぎてもはや寓話の域とも言うべきか。
日がな一日臓物を串に刺し続ける生島と、雇い主のセイ子。毎日無言で臓物を届けに訪れるさいちゃん。彫眉にアヤ子。元々がエリートである生島以外はいわゆる底辺で生きる人々で、彼らを取り巻く人間たちもまた同じく底辺にいる。
生島も自ら選んで堕ちた道に来たものの、他の道を選ぶことが出来ずに運命的にその場所にいる周りの人間から見ると、生島はやはり異質なものに見えてしまう。みな生島のことは嫌いではないけれど、住むべき世界が違うと感じて、遠回しに元の世界に戻るよう促したりする。その周りの人間の優しさが痛々しくて哀しくて不器用で、そしてとても愛おしく感じた。
ヤクザ、刺青、コンクリ詰め、兄の借金の肩代わりに売られていく女…物騒で個人的には全く縁のない世界が描かれていて、人間臭く、恐ろしく、性の匂いも強く、雑然とした町の匂いとか、アパートの部屋に染み付く臓物の匂いまでが読んでいて感じられるような気がするほどなのに、一本芯に不思議な美しさが消えずに存在するように思えた。
アヤ子の揺れる心情と最後に見せた強さが哀しく、読後の変な空虚間がしばらく消えなかった。 -
病死した牛や豚の臓物を切り刻み、串に刺す手にねばりつく脂。
隣室の老娼婦が慰めを求めてとなえる、絶望的な呪文の声。
骨を噛むような呻き声をあげ、刺青を入れる人たち。
どん底の狭い世界で生きる、アウトローな人々。
動物のように本能のままに、ただ口を糊するために生きている。
その泥沼の底に見た、蓮の花のような女。
彼女はより一層の地獄へ堕ちるため、
命さえ投げ出してくれるほどの、誰かの愛が欲しかった。
心中未遂を経て、男はまた人間らしい生活に戻る。
男にとっては、ただの行きずりの出来事だったのだろう。
男達の業を絡めとり全てその身に抱えた女は、二度と浮かび上がれない。
しかし、自分に命を賭した男がいたという事実は、
生命の奥底の温かい灯となり、彼女を救うのだ。
哀しいまでに潔い、女の覚悟が胸を衝く。 -
壮絶。圧倒されて読みました。
底辺に堕ちたと主人公の生島は思っていたけど、アマに住む他の人たちは「あんたはここにいる人とちがう」と、最後まで仲間みたいなものには入れなかったな生島のこと…それは希望みたいなものかもしれないと思いました。ここに馴染ませてはいけない、と。中には陥れようとする人もいるし危ない事にも関わってしまうけど、それでも助けてくれる人もいるし。
こんな世界は表からは見えていないだけで、まだあるんだろうなと思わせられる現実感がありました。アヤちゃんみたいになる人もいるんだろう。。迦陵頻伽の入墨って凄い。
晋平ちゃんも幼いながらに(これは言葉にしてはいけない)を弁えてて悲しくなりました。そうしなければ生きていけないんだな。
噎せ返るほどの情念。心中未遂…哀しい。 -
異質な作品。
作者は暗くある種陰惨な私小説をキャリアとしていて、本作品もベースは世捨て人の作者自身を投影した様な一人称視点。
にも関わらず、本作品の直木賞受賞には納得をしてしまう寓話性があり、作品が締まった瞬間物語の世界から弾き出された様な寂しさを感じた。
特に女性とのさもしい縺れた恋情を描くのが巧すぎる。 -
日常を虚で湿った目線でかすめる言葉たちとなにかの起きていることはわかるがなにが起きているのかはわからない感覚とがまじりあって神話的な雰囲気を醸成している。ただ二十四節で終わってほしかった。釣れない釣りを続けるひとたち好きだった。
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先日、某新聞にこの作家の名前が出ていたので再読。
直木賞ですよね、確か。でも出だしとか芥川賞の間違いですか?と思いました。
その後は多少は直木賞っぽくなりましたが、全体観としては大衆受けは考えず、焦点が極めて小さい、濃厚な心象風景をどうとでも取ってください、的な感じを受けました。
寺島しのぶが映画でやったとか聞きました。本当なのか知りませんが、そう言われるとさもありなんと思います。こっちの方が、感覚は伝わりますかね? -
友人からのお勧め本。図書館に蔵書されていたものの、職員さん以外は入れない所に…禁書か?
著者が車谷長吉で装丁とタイトルも古風。初見ではとっつきにくそうだが、いざ読み始めると何とも言えない翳りの雰囲気に引き込まれた。関西色が強くて全体的に湿っぽい中、迦陵頻伽が艶っぽくて魅力的で逆に薄気味悪さを醸し出している。西村賢太を思い出す部分も。
主人公の生き様に共感する所が多々あった。破滅願望って誰にでもあるものなのか。妙に潔く、かっこよく見えたりする。他の作品も読んでみたい。やはり人のお勧めは自分の殻を破るので面白い。 -
古本で購入。
一読して絶望した。
小説の巧みさとは別に確固として存在する作者の曝け出したナマの部分、おそらくそれは人の心を何かしら抉る力をもっているはずだが。
心中は「未遂」に終わった。
結局のところ、「私」にとっては尼崎における何もかもが「未遂」だった。
尼崎を離れて数年後、再び訪れたその街には「私」が関わった人々はどこにもいなかった。作中の“物語”は、「私」が尼崎に存在しようがしていまいが起きた。
その人々にとって「私」は何ももたらさないマレビトにすぎなかったのだ。
「そろそろこの街を離れようか」と“思える”「私」と、“思えない”人々との間の断絶は深く暗い。所詮は破滅志向を行動に移したにすぎないインテリと、そこに生きざるを得ない人間とは交わることができない。
再び東京で会社勤めを始め、小説家としても再デビューし、文学の世界で成功をおさめた「私」こと車谷長吉が「心中未遂」したのは、ただ女ひとりではなく、自分が身を置こうとしてついにはできなかった「温度のない街」尼崎、そこに横たわる社会、あるいは世間だ。
それは一人称の文体をとりながら、どこか三人称的・鳥瞰的な、冷静な語り方からも感じられる。
自分を含めたすべてに対して観察者になっている人間が、“そこで”生きていると言えるのだろうか。
無痛の痛みのような揺らぎを心に生じさせる作家だと思った。
これから他の作品も、おそらく淵の底を窺うように読んでしまうのだろう。