故郷忘じがたく候 (文春文庫)

  • 文藝春秋 (2004年10月8日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (240ページ) / ISBN・EAN: 9784167663148

みんなの感想まとめ

歴史の重みと個々の運命が交錯する物語が描かれています。作品では、秀吉の朝鮮遠征によって日本に連れてこられた朝鮮の人々の祖国への思いが深く掘り下げられ、涙を誘う感情が伝わってきます。特に、登場人物たちの...

感想・レビュー・書評

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  •  「ちゃわんやのはなし」という薩摩焼の窯元を題材にしたドキュメンタリー映画を見て思い出して再読しました。
     司馬遼太郎晩年のエッセイ(?)ですが、さすがでした。若いころに読んだ時には気づかなかった作家の眼差しの深さのようなものに気付き直した気がしました。
     あれこれ感想は「ゴジラ老人シマクマ君の日々」というアホブログに書いています。覗いていたければうれしいです(笑)。
     https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202407140000/

  • 秀吉の朝鮮遠征で日本(薩摩)に連れてこられた朝鮮一族の、祖国や日本に対する思いに涙ぐんだ。(HPの日記より)
    ※2008.5.11購入@Book Off調布
     2008.6.3読書開始@学会へ向かう新幹線の中
     2008.6.15読了
     売却済み

  • 2016年3月1日読了。司馬遼太郎のエッセイ・短編時代小説集。官命を受けて奥州に赴き挙兵するよう訴え続けた愚直な志士の末路を描く「惨殺」、細川ガラシャの辿った人生を描く「胡桃と酒」などが印象的。大きな歴史の流れの中で、それぞれの人にそれぞれの使命や悲しみ、やるべきことややれなかったことがあるものだ。

  • 司馬遼太郎著「故郷忘じがたく候」を読みました。

     司馬遼太郎作品は久しぶりで、じっくり読み味わいました。

     3編からなる短編小説で、タイトルの「故郷忘じがたく候」は、16世紀朝鮮の役で日本の薩摩へ陶器の技術を手に入れるために拉致された朝鮮の民の子孫の運命を描いた作品でした。

     彼の作品の中では、現代に生きている人を扱った唯一の作品だそうです。

     ちなみに、この子孫の方は健在で、先日テレビにも出ていて、この本を読むきっかけにもなりました。

     この人の語った次のような言葉が載っています。

     「あなた方が36年をいうなら
      私は370年をいわねばならない」

     この言葉はソウル大学の学生に語った言葉だそうです。

     日本統治下の圧制をいうなら、秀吉の朝鮮出兵のときに日本に連れてこられた自分たちはどうなのかという重い言葉だそうです。

     彼の言葉だからこそ、韓国の若者たちにも届いたのでしょう。

     やはり歴史というものは、学ぶことに意義があるのだと改めて感じました。

  • 読書仲間が鹿児島に帰省した時に読んで、強く感じるものがあったと聞いた。その話に触発されて久し振りに司馬遼太郎の世界に触れることになった。
    若い頃、彼の小説にのめり込んで身につまされながらよく読んだがこの作品は題名が気になりながらもついつい読まずにきたものだ。

    歴史的な紀行文とでもいうのだろうか、翻弄される
    民族精神やナショナリズムについて考えさせる。
    45歳頃の作家として乗りに乗った時期の作品で、
    冴え渡る文章と独特の表現が心のひだを刺激する。

    沈寿官は370年前秀吉の朝鮮出兵で、薩摩軍団に南原城の戦いに敗れて捕虜となり、日本に連れてこられた高麗人陶工の末裔である。彼は集団の代表家系の14代目を務める。
    司馬ははじめて存命の人物を主題に物語を描いた。
    彼らは島津藩から丁重に扱われ、誘われても裏切り者の住む鹿児島城下には住まず、70軒ばかりで苗代川の麓に居付き、陶磁器を作ることで一村をなした。

    当初漂着した漁村の浜で故郷に帰りたさのあまり乗ってきた船に縋りつき海中に浮かべるが、小舟ゆえ風浪に押し返された時の望郷の悲しみ、それを彼らは伝承し家霊として家々に棲みつけた。

    村には沈氏の他に朴氏・金氏・鄭氏や李氏漂着組17姓があり「朝鮮筋目の者」として礼遇された。
    一部例外を除いて帰化して以来姓名を変えていない。地元の学校では朝鮮人差別の暴力洗礼を受けるが耐えることで凌いできた。当然戊辰戦争や西南戦争、太平洋戦争を薩摩人として戦ってきた。
    薩摩の日本人という国籍に人一倍誇りを持つ。
    明治までは一村ことごとく韓語を語ったが維新後はオノリソといわれる祭祀の歌謡や窯仕事の技術語だけに韓語が残った。
    村の鎮守を玉山宮といい、日本の天照(アマテラス)のような朝鮮開国の神祖檀君を祀り、そこから海の彼方の故郷を望み折々に参ることを今も絶やさない。

    島津義弘は朴平意に島津家御用のみの白薩摩を作らせ評判を上げ、黒薩摩は御前黒を除いて民間需要に供した。薩摩焼は薩摩、江戸、明治と日本を代表する重要産業となる。

    沈寿官氏が招待されてソウル大学で講演をした。
    「これは申し上げていいかどうかと前置きして、私には韓国の学生諸君への希望がある、韓国にきてさまざまの若い人にあったが、若い人のたれもが口をそろえて36年間の日本の圧政について語った。最もであり、そのとおりではあるが、それをいいすぎることは若い韓国にとってどうであろう。いうことはよくてもいいすぎるとなると、そのときの心情はすでに後むきである。あたらしい国家は前へ前へと進まなければならないというのに、この心情はどうであろう。‥‥
    あなた方が36年をいうなら、私は370年をいわなければならない。」 聴衆は拍手をせず静まりかえった。
    しかし沈氏に送る友情の気持ちに愛誦青年歌の熱唱で会場を湧き上がらせた。彼は薩摩人らしく振るまおうと涙を抑えて冗談を言おうとしたが、身を震わせて立ち尽すのみであった。

    郷土意識の強い薩摩で日本人になりきった高麗人陶工たちの、長い年月で熟成した民族意識は人間が隔てをなくしてともに生きることの価値を教える。
    歴史の荒波に晒された望郷の思いも司馬遼太郎が語ると爽やかな生きる希望に感じるから不思議である。

  • あなた方が36年を言うなら、私は370年をいわねばならない
    14代沈寿官氏 70余名の陶工たちを薩摩藩が拉致
    1965年頃訪韓し墓参り、朴正熙大統領の前で麦と兵隊を歌う
    その一族朴家から東郷と改氏し東郷茂徳がでた

  • 2025/6/16 読了
     短編3作品、いずれも面白かった。「故郷忘じがたく候」拉致してきた朝鮮の磁器職人を故郷の生活スタイルそのままで住むことを許容した島津義弘の心の深さ、それに答えるように世界の名品として作り上げた白薩摩、沈寿官の物語は胸を打つ。「胡桃に酒」の細川ガラシャ、細川忠興の異常なまでの悋気を見せられてキリスト教に入信するしかない、となった経緯が理解できる。

  • 新品同様で買った古本に高麗博物館の半券が挟められ全く知らない歴史の一端、繋がりというのか・・この本の前の所有者の気持ちを受け取ったような気持ち。    日本に住んでいても、日本人として生まれた時から育ったとしても、どこかよそ者のような感覚から逃れられない。 子どもの頃、引っ越しと転校を体験したたことはここに描かれる人々の故郷への思いや存在しながら「ここ」は「どこ」で「なに」で自分は「だれ」なのかという違和や疎外を分かるとか共感しえたと思うのは考えが甘いだろうか。 

     歴史に疎すぎ全然知らない人物登場の「斬殺」は筋が先にわかってしまうタイトルに作家の妙を感じつつ「胡桃に酒」はタイトル作との歴史の繋がりになるほど感が出た。熱心なクリスチャンであるガラシャ夫人のイメージが一新された。

     初めて読んだ司馬氏の作品に独特の文体、作中に作家が語る部分など面白いと感じた。

  • ドキュメンタリー映画ちゃわんやのはなし-四百年の旅人- 松倉大夏監督をみて、先代14代沈寿官氏のことを司馬遼太郎が想いも熱く書いた短編が表題。
    民族とはなにか、
    民族なんてものはない、ただその土地土地での暮らし方や言葉がありその違いがあるだけだ、と15代いまの当主がソウルで悩んだ時に司馬遼太郎からもらった手紙。
    映画を見てから読んだ。深い洞察、400年にわたる日本での暮らしその薩摩人ぶりと記憶の伝承。
    先代のソウル大学での、日本へのわだかまりを捨てよと諭す講演の最後、あなた方の36年をいうなら私は370年をいわねばならない、という言葉の重み。
    巻末の解説は山内昌之先生。

  • 司馬遼太郎が、薩摩焼14代沈壽官を取材して書き上げた短編。秀吉による朝鮮の役で日本へ連れてこられた陶工たちの、歴史に翻弄されながらも、誇り高く生きる姿が描かれている。薩摩藩の心意気と司馬遼太郎の沈氏に向ける尊敬の眼差しも感じ、心温まる物語である。

  • 司馬遼太郎さんの言葉は古びることなく生き生きと今ここで語りかけているように届く。
    1976年に刊行された文庫の新装版。
    16世紀末の朝鮮の役で日本に連れてこられた陶工たち、そのまま鹿児島で生き続ける子孫たちとの出会いと交流。
    幕末の世情に翻弄され奥州遠征した一人の長州藩の男の最期。
    細川ガラシャの生涯。
    歴史を語りながら、多くのことを考えさせてくれます。

  • 沈寿官、世良修蔵、細川ガラシャの司馬先生の講義。聴いているようで楽しかった。沈寿官、世良修蔵は知らなかったがとても興味深く、細川ガラシャと細川忠興の関係が思っていたのとは全く違う新解釈、司馬先生が正しい気がする。はちょっと驚く。

  • 故郷忘じがたく候

    著者:司馬遼太郎
    発行:2004年10月10日
    文春文庫
    *1976年文庫の新装
    短編小説3編『故郷忘じがたく候』『斬殺』『胡桃に酒』

    有名な小説だけど、読んでいなかった。鹿児島県日置市の苗代川焼(苗代川は川の名ではなく地名)の有名陶芸家、沈寿官のお話。現在の当主は第15代だが、4年前に他界した14代はマスメディアでも見かけ、知っている人も多い。2008年放送の「鶴瓶の家族に乾杯」では、たまたま鶴瓶がトイレを借りに入った家が沈寿官氏の窯で、14代が出てきて驚いた。ただ、番組上は〝たまたま〟としているが怪しい。

    14代は著者、司馬遼太郎ともこの作品をきっかけに(?)交流があったという。

    その沈寿官(先祖)が、秀吉の朝鮮出兵により日本に連れてこられ、今日に至った話を、14代の人生を中心に本人からのオーラルヒストリーで展開している小説が、最初の一編。さすが、至極の逸編だった。


    『故郷忘じがたく候』

    1948年ごろ、京都のあるお寺で、住持(住職)から紹介された男(大工ふうで骨董商と紹介されたが著者は疑っている)が、住持の渡した陶器の欠片を見て絶賛。薩摩焼で朝鮮の匂いがする、と言う。やがて、沈寿官のことを知る著者。それから20年後のある時、鹿児島の空港で飛行機に乗るまであと4時間となり、そのことを思い出してどうしても会いたくなった。車を飛ばして会いに行く。これが2人の交流の始まりだったようだ。

    秀吉による朝鮮侵略は、文禄・慶長の役(朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱と言う)だが、2度目の慶長の役(1597~98)中の秀吉の死により、和議が成立して撤兵、その時に陶工たちが連れてこられたとされているが、誰がどのように連れてきたのかが分からないという。薩摩の伝説では、帰りの兵糧船が空で、浮きを押さえるために乗せられたとのことだが、それなら博多に着くはず。しかし、彼らがたどり着いたのは薩摩半島の西岸。串木野の漁村の南にある、無人の浜だった。もっとも困難な東シナ海を経由してきている。日本人船頭が操船した形跡もない。しかも、着いたのは翌年、一体、彼らはどこでなにをしていたのだろう。

    (以下、ネタ割れ。個人的メモにつき注意)

    この間、日本では関ヶ原の乱があり、徳川の世になった。

    彼らは砂浜で死んだ人の碑(今も石碑あり)を建て、あたりを見回して見つけた丘のかげに小屋を築いて住み着いた。彼らに出来ることは陶磁を焼くことだけ。窯を作り、土を探して焼いた。今はもうその窯はないが、地名に「旧壺屋(もとつぼや)」が残る。

    3年ほど生活。朝鮮風に轆轤を足で蹴りながら回す。地元の人たちは珍しがって見に来る、その内、無断で触って焼き物を壊してしまう。止めろと行っても言葉が通じない。怒ると徒党を組んで小屋を壊しに来る。

    島津家役人は同情し、「留帳」に書き留める。1603年のことのようである。韓人たちはそこを離れざるを得ず、鹿児島の府城で泣訴することに。しかし、2里ほど行くと故山に似たところがあり、そこが苗代川(なえしろがわ)で、薩人は「ノシロコ」と言っていた。川がないのになぜ川がつくのかは不明。

    島津の当主が聞き及び、同情して、鹿児島城下に屋敷も与え保護も加えるので住むようにいうが、長老はそれを拒否した。理由は二つ、一つは島津が攻めて来た時に裏切って道案内をした韓人が鹿児島にいるため、もう一つは、「故郷、哀シク候」だった。丘に登れば自分たちが来た東シナ海が見えるところから離れない。

    島津は苗代川を藩立工場にし、白薩摩は島津家以外には焼くことを禁じ、一般には黒薩摩のみ供せられることを認めた。幕末、12代沈寿官を主任とし、コーヒー茶碗や洋食器などを白薩摩で焼かせ、長崎経由で輸出して巨利を得た。

    流れ着いた韓人たちは、苗代川の村に住み着き、17の姓を変えずに朝鮮風で通した。明治以降は多少の例外があり、名家とされる朴は東郷と変え、大日本帝国最後の外務大臣である東郷茂徳(しげのり)を輩出した。

    14代沈寿官は、中学に入ると呼び出され、朝鮮人だとして気絶しそうなぐらいに殴られた。言うまでもなく明治になり戸籍が出来る前から日本で暮らす日本人であり、日本国籍に違いなく、自らが朝鮮人だと思うことなど微塵もなかった。しかし、父親である13代に諭され、喧嘩に負けないように鍛えた。彼は早稲田大へと進学したが、美術を学びたいと父親に言った時、お前は生まれた時から窯を継ぐと決められた人間だから、せめて自由にできる大学時代ぐらいは別のことをやれと言われた。その父親(13代)は京都大学に学んでいる。

    黒薩摩は民間に供されていたが、その中でも、ごく一部の上質なものは「御前黒」といわれ、白薩摩と同様に島津家御用となっていた。秘法は一子相伝。ただ、12代は13代に口伝を与えることなしに死亡したため、途絶えていた。14代が復活させることに。彼はその土が取れると聞いた山の地主のところに出かけたが、相手にされなかった。しかし、通いつづけるうち、ついに土を永代無償提供されることになった。条件は、お猪口でもいいから焼いたものを一つだけくれること。最初のうちはダメだしばかりだったが、ある時、やっと気に入ってもらえ、受け取ってもらえた。ここに、御前黒が復活した。


    『斬殺』

    戊辰(慶応4、明治元年)3月10日、奥羽二州(会津を筆頭に30余藩)を獲るため、京の新政府が大阪の天保山から船を出した。しかし、僅か4隻、薩長兵200人。4隻といっても筑前福岡藩と仙台藩の船が1隻ずつまざっている。数万から10万の兵を出すべき戦だった。

    首座は、従一位・九条道孝(29)。添役(そえやく)が従三位・沢為量(ためかず)(50)、従四位・醍醐忠敬(19)。2人の参謀がつき、薩摩の大山格之助(綱良)と長州の世良修蔵。仙台藩領内に入り、九条道孝の名代に近い役割をしながら、なかなか動こうとしない仙台藩にいらだつ世良修蔵。彼が最後に仙台藩らに斬殺されるまでを描く。

    京から錦旗を持ち帰った仙台藩。新政府側のはずだが、幹部連中は本音では保守的、佐幕派が多い。秀吉についたり、徳川についたり。権力者の顔色を見て立場を変えてきたのが伊達家の歴史。二十九代慶邦も同じ。九条道孝は黙ったままで、横から道孝の言葉として上からものを言う世良修蔵。修蔵は武家ではなく漁夫の家柄だということもあり、慶邦は我慢がならない。

    なかなか動かない仙台藩。たった200の兵なので、仙台藩の兵力を使う以外に方法はない。苛立つ修蔵。本命の会津藩どころか、庄内藩をうちにいくも手こずる。その間に、仙台藩を含めて奥州のいく藩が世良に対する憎しみを募らせ、宴会をやってはもりあがり、彼を斬ろうと決める。


    『胡桃に酒』

    細川忠興のもとへ嫁いだ、明智光秀の娘、たま(細川伽羅奢)の話。細川家は丹後国を与えられていたが、長子の忠興は、京の南郊(長岡京市)にある勝竜寺城で仕えていた。丹後から嫁いだたまは、勝竜寺へ。忠興の父親である細川幽斎は忠興に家督を譲り、宮津へ。

    たまは、比類無き美貌。忠興は2発被弾しても怯まず進む勇猛、優れた武将であったが、感情が高ぶると何をするか分からず、周囲から恐れられていた。悋気(やきもち)のため、たまを奥から一切出さず、誰の目にも触れさせなかった。父の幽斎が嫁を褒めるだけでも誤解したほどだった。

    ある時、庭師が仕事をしていると、たまが廁から出て手を洗いながら庭師に「寒いなあ」と声をかけた。思いも寄らず高貴な人から声をかけられて戸惑った庭師が、平伏することも忘れ、焦って声を出して返事をしてしまうと、忠興が飛んできて首をはねた。しかし、たまは平然と手を洗い続けていた。

    また、忠興とたまが食事中、屋根を張り替えていた職人が落ちてしまった。たまを自らの視界に入れたことで忠興が激怒し、首をはねた。その生首を膳の上にのせたが、やはりたまは平然と食事を続けた。

    勝竜寺の南隣、摂津高槻城主・高山右近と親しかった忠興は、切支丹の教えをよく聞いた。それをたまに話すと、たまは非常に喜んだ。彼女は明智家でみっちり儒教を学んでいた身ではあったが。

    たまは、やがて大阪にある細川の玉造屋敷に移る。秀吉の朝鮮ノ役により、博多へ下ると、銀の胡桃割と葡萄酒を送ってきた。胡桃は前田利家からもらうものが美味しく、たまは大好物だった。胡桃と葡萄酒をたしなんでいると、腹痛になった。医師は、胡桃と葡萄酒は食い合わせだと説明した(その後、胡桃と酒が食い合わせだと長く信じられた迷信)。たまは、食い合わせは、忠興と自分であると側近に言う。

    秀吉が死に、今度は関ヶ原の戦いへと出る。たまは、石田三成から人質として大阪城に入れと言われるが、それを拒否して自害する。

  • 久々の司馬短篇集。

    書名になる第一編は誰の言葉かと思いを巡らすものの全くの想像力の埒外であった…。豊臣外征期にかの半島から連れ去られた一族があり、その彼らを乗せた船は漂流の結果本来の連行地であったはずの島津家薩摩の地にたどり着いたのは関ヶ原の役の直後、すっかり忘れ去られた状態の中、漂着した浜で当てもなく自活を始める。その後島津家の耳に入るまで更に三年が経過する中、本能的に彼らが始めた作業はそれこそが彼らが連れ去られた理由であるところの彼らの生業、土をみつけ、回して造形し、そして焼くことであった。「薩摩焼」と呼ばれるものが生まれる道のりについてたどるこの物語、哀惜に満ちている。

    資格あるべくものが吐いて初めて真の意味が伝わることがあるとするなら、この物語で語られることばが真っ先に思い浮かぶことになるであろう、少なくとも今しばらくの間は。

    「これは申し上げていいかどうか」
    「あなた方が三十六年をいうなら」
    「私は三百七十年をいわねばならない」

    司馬氏を通して鍛えられている巨視的日本観、巨視的アジア観がここにもまた美しく慈愛に満ちた形で表現されていた。

    二編目「惨殺」は「花神」の後だけに余計な解説が不要でスラスラ読めた。益次郎は文字通り一度しか出てこない。そのあたりが彼の性分を見事に表現しているようでもあり、幾分おかしくもあった。戊辰戦争の過程において虚しく散っていった者たちの物語であることに反して。

    最終話「胡桃に酒」。悔しいことに読んでいる最中はこの言葉が物語の題となっていることをすっかり忘れていた。それ故にこれこそが当の二人のことであったと気付かされた時の驚きが半減してしまったようにも思う。松本清張版のこの二人、細川忠興とその妻ガラシャ、には同じく短編集である「軍師の境遇」に含まれる「逃亡者」で触れていたのであるが、「脚本」のうまさでは司馬版に軍配が上がるのではないかと。今手元にないのが残念であるがもう一度読み返して比べてみたい、またいつの日か。

  • 短編集。
    「故郷忘じがたく候」。鹿児島の陶工沈寿官の歴史。秀吉の朝鮮出兵の際に拉致されてきた朝鮮人の末裔と、司馬遼太郎との交流が描かれている。鹿児島の隠れ里にこそ残る古代朝鮮の文化であったり、沈寿官の目を通して「日本像・薩摩像」が描かれていて日本再発見的な要素もある。島津藩がどういう藩だったのか、対幕府政策、外交政策、文化振興策という多様な視点で語られていたのも面白かった。

    倒幕間もない頃の奥州各藩の微妙な機微を描いた「斬殺」。この時代は薩長土肥にばかり目が行きがちで、会津はまだしも、仙台藩・米沢藩の様子は想像すらしたことがなかったので、色々新鮮だった。伊達政宗はまさに末代までの誇りなんだなぁと思ったり。仙台藩の倒幕運動への感度の低さを「僻地だから」の一言で片付けているのは粗い整理な気はしたけど、短編ならこのくらいの簡明さがちょうど良いのかも。

    細川ガラシャと忠興の烈情に駆られた人生が語られた「胡桃と酒」。ちょっと2人の変人気質が極端に過ぎないかと終始違和感があったけど、「牛頭」が徐々に本当の牛頭らしい役割を果たすようになっていく様は面白かった。

  • 主人公である十四代沈寿官氏は、秀吉の朝鮮出兵で全羅道南原に攻め込んだ島津兵が撤退する際に、一緒に薩摩まで連れてこられた一族の末裔。
    島津家は移民たちが定住した苗代川を藩立工場にし、薩摩焼の希少性を保つために、白薩摩を島津家御用以外では焼くことを禁じ、黒薩摩も御前黒は一般に流通することを禁じた。御前黒は、黄金の梨地が沈んだような玄妙な黒もので一子相伝の口伝とされていた。十四代沈寿官氏が御前黒の釉薬を探す話に触れられているが、山奥の人を訪ねて何度も足を運び、老齢のその人を背負って山へ登り貴重なその土を掘り当てるという、金脈を掘り当てるようなロマン溢れるエピソードだった。

  • 読書会の宿題
    初の司馬遼太郎です
    松山の坂の上の雲博物館に行った事があるのに笑

    深い事なんてわかんないシロートの感想で言うと
    歴史にそったノンフィクションのようなエッセイ
    という印象
    内容は日韓の複雑な歴史だけど
    中心人物に焦点を合わせることによって
    同じ人間のルーツのノスタルジーがじんわり感動を呼びます
    今度陶芸美術館に出かけたら韓国と薩摩の歴史を感じてみたいです

  • 斬殺を読んだ。世良修蔵、哀れだが少し胸がすいた…

  • 『故郷忘じがたく候』
    私が焼物が好きだからと母がこの本を勧めてくれた。薩摩焼が薩摩藩によって拉致された朝鮮人によるものとは知らなかった。パリ万博に幕府とは別に出展した薩摩ブースに展示されたあれもそうだったとは。自分には知らぬ事ばかり、と思う事しきり。本を読むとは、果てしなく面白い。
    『胡桃に酒』
    細川ガラシャについては色々知っているつもりでしたが、夫細川忠興の悋気(嫉妬心)の狂気たるや、凄まじい。たま(ガラシャ)が自らの容姿を罪という様に、忠興の狂気に触れ殺される罪もない人々も痛ましい。秀吉の『女房狩』も初めて知ったがおぞましい。
    戦国の世に生まれた人たちは男も女も、身分の高低に関わらずその悲劇は数え切れない。その個々の人生を思うと、今の世が決して手放しで平和であると断定できないものの、『平和ボケ』と言う言葉を思い浮かべずにないられない。

  • 鹿児島では有名な沈壽官の先祖のお話。朝鮮から連れてこられ帰国が叶わないまま異国の地で生涯を終えなければならなかった悲哀を司馬遼太郎氏が著した。
    「胡桃に酒」は「麒麟がくる」にも登場した細川ガラシャの生涯。司馬遼太郎は「関ヶ原」や「功名が辻」等意外とガラシャについてよく書いている印象。「胡桃に酒」は特にガラシャの生涯について深く掘り下げて書いていた。細川ガラシャについてもっとよく知りたい人にはおすすめ。

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著者プロフィール

司馬遼太郎(1923-1996)小説家。作家。評論家。大阪市生れ。大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960(昭和35)年、『梟の城』で直木賞受賞。以後、歴史小説を次々に発表。1966年に『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞受賞。ほかの受賞作も多数。1993(平成5)年に文化勲章受章。“司馬史観”とよばれ独自の歴史の見方が大きな影響を及ぼした。『街道をゆく』の連載半ばで急逝。享年72。『司馬遼太郎全集』(全68巻)がある。

「2020年 『シベリア記 遙かなる旅の原点』 で使われていた紹介文から引用しています。」

司馬遼太郎の作品

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