対岸の彼女 (文春文庫)

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (334ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167672058

感想・レビュー・書評

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  • 『友達、まだできないの?と訊かれるのがこわかった』

    思えば私たちは生きていて、『友達』『仲間』『同僚』、と何らか人との繋がりを持った集団に属すことを当たり前に感じ、そうでない状態から脱することに追い立てられているような気がします。小学校に入学した時、進級してクラスが変わった時、そして中学校に入学した時、親からまず聞かれるのは『お友だち、できた?』でした。人が人である以上、何かしらの繋がりを求めてしまうのは、人としての本能なのかもしれません。でも、あなたはそんなかつての『友達』と、今どの程度繋がりが続いているでしょうか。

    今年、高校卒業後もずっと続いていた年賀状だけのやり取りだった友達から、年賀状が突然届かなくなりました。思えば、電話番号もわかっているし、メールアドレスも書いてあったのに、実際には年賀状のやり取り以上のことはしなかった『かつての友達』というだけの繋がりだった人たち。繋がりを求め、せっかく繋がったはずなのに、生きていく場所が変わると、それをきっかけに、切れてしまう繋がり。そして、その一方で、今、この瞬間にも生まれていく新たな繋がり。『誰かと親しくなるということはどういうことなのか?』という人と人との繋がり。この作品は三人の女性の繋がりを描く物語です。

    『私って、いったいいつまで私のまんまなんだろう』、子どもの頃からそんな風に考えることの多かった田村小夜子。そんな小夜子は『砂場で遊ぶ娘のあかりに視線を』移すと、『あかりは今日もひとり、砂場の隅で砂を掘りかえしている』のが見えます。『あかりを産んだのは三年前の二月』だったという小夜子は『乳幼児を持つ母親向けの雑誌を熟読し、その雑誌の指示通りの時間帯に、指示通りの格好をして、住んでいるマンションから一番近い公園に』デビューしますが、『微妙に派閥があること』に馴染めず公園探しを繰り返す『公園ジプシー』となっていきます。『大学を出て小夜子が就職したのは映画の配給会社』、『女子社員と契約社員たち』の間の『微妙な対立』に、『ほとほと嫌になってきたころ、交際していた修二からタイミングよく結婚話が出た』、そして『それを承諾したのと、退職届を出したのはほぼ同時だった』という小夜子。『あかりを見ていると、あまりにも自分に似ていて驚く』というその性格。『だれかと遊びたいと思っても、無邪気に仲間に入っていくことができず、片隅でいじいじと声をかけられるのを待っている』という日々、そして『公園ジプシー』に疲れた小夜子は『働きに行こうと思う』と修二に伝え、就職に向けて面接を受けますが不採用の通知ばかり。そんな中、『偶然にも小夜子と同い年で、しかも同じ大学の出身だった』という社長の面接に手応えを感じる小夜子。そして『同い年の女社長から電話がきたのは、夜の八時を過ぎたころだった』という緊張の電話で採用を告げられた小夜子。翌日説明を受けに行くと『大久保にある事務所に着くなり、お昼食べにいこう、と葵は小夜子を外に連れ出した』という『女社長』は『楢橋葵と書かれた名刺』を渡します。そんな社長は『仕事内容ちゃんとわかってる?やってほしいのはお掃除の仕事なの。単純作業サービス業なの。それでもやってもらえる?』と問います。『もちろんです。なんでもい、働きたいんです』と即答した小夜子。『働きたい、ではなくて、働かなきゃならないんだと、心のなかでは言っていた。あかりのために、母親である自分のために』という小夜子と葵との運命的な繋がりが二人の人生を大きく動かしていきます。

    現在の小夜子と葵、そして高校時代の葵とナナコという二つの時代の三人の女性の物語が交互に描かれながら展開していくこの作品。高校時代の葵のイメージが現在の社長・葵と同一人物に感じられない違和感が拭えない展開が続きます。『教科書がなくなり、上履きがなくなり、体操服がなくなり、クラス全員に公然と無視され、しまいには葵の机と椅子だけ、いつも教室の外に出されるようになった』というイジメに苦しむ中学時代の葵。でも葵は『自分がいけないのだ』と考えます。『そう思うしか、理解しようがなかった。自分の何かが人を苛立たせるのだろう。自分の何かが無視されるに値するのだろう』とどこまでも内向きに、あくまでも内向きに考えてゆく葵。母の故郷に移り住んで入学した女子高。そんな葵の前に現れたナナコは、葵が今まで出会ったことのないタイプの女性でした。『きっと、ナナコという子は、きれいなものばかりを見てきたんだろう』。葵はナナコのことをそんな風に考え『汚いこと、醜いこと、ひどいこと、傷つけられるようなことを、だれかが慎重に排した道をきっと歩いてきたんだろう』と考えます。そんな葵はナナコの『あたしなんにもこわくないの。そんなとこにあたしの大切なものはないの』というナナコの潔さに強い憧憬を覚えたのは必然だったのかもしれません。そして、お互いに影響を与え合った二人。でも、それはあることによって突然に終わりを迎えます。でも、その後の人生でも連絡を取ることはできたはずの二人。

    そして、『なんのために私たちは歳を重ねるんだろう』と考え今を生きる葵と小夜子。二人が歩んできたまったく異なる人生が偶然にも交錯する運命の出会い。かつてイジメに悩み、高校でのナナコとの出会い、そして別離を経て今を生きる葵という女性が形作られました。一方で、人間関係に思い悩み、今また、自分と同じように不器用な生き方を見せている娘・あかりにかつての自分を投影する小夜子。そんな二人は偶然にも出会い、今という時間を共にする中で、『なぜ私たちは年齢を重ねるのか』というこの命題に向き合います。そして、今、気づきます。『生活に逃げこんでドアを閉めるためじゃない、また出会うためだ。出会うことを選ぶためだ。選んだ場所に自分の足で歩いていくためだ』。人は生まれて物心ついた時から集団の中で繋がりをもとめ、同時に自分の立ち位置を確かなものにしていく、それを繰り返すのが人生とも言えます。そして、そのそれぞれのステージでの出会いを糧にして、次のステージへと進んでいきます。繋がっては離れ、繋がっては離れの繰り返し。ふと過去を振り返った時、私たちはそんな日常をずっと繰り返してきたことに気づきます。でも、それはそんな時代を生きてきた今だからこそ気づけること。現在進行形だった頃の自分。『バイバイという言葉が、かわらない明日と同義だったころ』、今の繋がりが永遠だと信じて疑わなかったあの頃。『明日また、同じ制服を着た彼女に会える。同じ目線で、同じ言葉で、同じ世界のなかで話すことができる。そう信じていたころ』があった。確かにそんな時代があった。そんな時代を生きてきた。だからこそ、そんな時代を振り返る今、私たちは過去に繋がっていた人とのコンタクトに高いハードルを感じてしまうのかもしれません。連絡を取ろうと思えば幾らでも取れるのに、再び繋がることだってできるかもしれないのに、そこに壁を感じてしまう私たち。過ぎたあの時代を大切に思えば思うほどに、その時繋がっていた相手が、いや、もしかすると自分自身が、変わってしまっていたら、あの頃と違ってしまっていたら…。想像の中の見えない何かに怯えるのは、今を生きる自分。そんな自分自身が、過去の扉を開けるのを躊躇うのは必然なのかもしれません。

    ナナコとの出会いにより前に進む葵。そしてそんな葵との出会いを経て前に進んでいく小夜子。

    人はなぜ、前に進むのか。それでも前に進むのか。

    普段このようなことを深く考えることはないと思います。でも、生きていると人には迷いが生じます。前に進めなくなる、進みたくなくなる時だってあります。でも私たちは一人じゃない。人として生きている限り、出会いはいろんなところに待っている。出会いと別れを繰り返して前に進んでいく私たち。

    「対岸の彼女」という書名の絶妙さに驚くその結末。生きていくことの希望が見えるその結末。そして静かにそっと背中を押してくれるような優しいその結末に、あたたかい感情がふっと余韻として残るそんな作品でした。

  • 対岸の彼女 角田光代著 

    0.2020.12.19追加
    対岸の彼女。
    書店に並ぶ風景を目にします。
    タイトルからは、牧歌的な、平和な雰囲気が読み取れます。

    しかし、内容は現実的です。
    放たれるメッセージこそ静かですが、少しずつ、読者の心に楔を打ち込んできます。

    対岸の彼女 という著書から、読者にとって大切なものは何か?を探す物語が始まるのかもしれません。

    1.本書より抜粋
    「ひとりでいるのが怖くなるたくさんの友達よりも、ひとりでいられる大切な何かに出会うことの方が大切かも。」

    「人間なんだから、みんな同じなんて嘘。
    みんな違う。それを受けいれて、初めて出会えているということ。

    2.本書より。共感を呼ぶ風景
    物語の一シーン。
    ①親戚づきあい
    奥様が旦那さんのお母様の誕生日に毎年訪問、慶事をするというもの。
    一方で、旦那は、奥様方のご両親にはそれを為さないというもの。

    ②共働き
    子供が泣く。奥様は料理でてんてこまい。
    旦那は、見ないふりで書斎に籠る、またはテレビを見る。

    このシーンの描写も、読者の共感を誘うのもひとつの材料なのかもしれません。

    3.人間関係への考察
    わけあって、アドラー心理学をこの2年間で読んでいます。
    ①自己と他者の課題を分離する。
    ②他者の課題に介入しない。
    ③自己の行動をコントロールする。
     感情は逃してやる。スペースをつくる。

    自身を保つために、、、

    4.読了して。対岸の彼女の世界観。
    対岸とは、川を挟んだ向こう側です。
    基本的には、こちらとは別の世界。
    割り切って見ないこともできます。

    でも、対岸に大切な何かがあるとき、
    それは、こちら側の世界とつながります。

    大切な何か?
    ひとかもしれません。
    いや、物かもしれません。

  • 小夜子と、少女のころの葵に自分を重ねた。友達付き合いというのは、その時期深く関わっていても、環境が違ってくるとすれ違いも生まれてくる。
    ずっと友達でいたいのに、クラスが違ってしまった親友にも新しい仲間ができ(私にもでき)そうなると、声を掛けるのをためらってしまう。もう私の出番はないと躊躇してしまうのだ。少女から社会人の過程において幾度となくそれを繰り返し、私は(おそらく人は)人と距離をはかることを覚えてきた。そして自分と違う環境にいる人においても付き合い方を図るということを。
    葵とナナコの章はとても生き生き描かれていて、泊まり込みでのバイト、そして、ああこれが、少女が落ちてゆくことかと息をのんだ。お父さんに連れられ、ナナコと会えた葵は、
    「膝に顔をつっぷして葵は涙を流し続けた。ばれてしまったならかまわない、葵は声をあげてないた。」なんか自分も泣けた。昔の友人関係を思って、友人への感謝とか、古傷が痛んだりした。最後は葵と小夜子はまた手を取り合うわけだが、私的には別々の道を歩んでほしかった(勝手な願望)。

  • 偶然なのだけれども、いじめ、孤立に関する人間関係を描いた本が続いて、少し気持ちが下がってしまいました。
    けれど、この本、角田さんの本は人の深層にまで深く切り込んできます。怖いくらい。
    なぜ生きていくのか、なぜ年を重ねるのか。
    家族とはなにか。当たり前だけれども、日々の暮しに追われてあまり考えるゆとりのない私たちに、対岸から語りかけているのでしょうか。

    孤独は怖いな、寂しいな、と改めて感じました。
    最後に、窓から日が差してきます。暗い中に明るさが感じられます。よかったのだけれど、複雑な気持ちも残りました。
    また日を改めて読み直したいと思います。

  • 角田光代氏の「対岸の彼女」を読みました。
    第132回直木賞受賞作品です。
    2人の主人公 小夜子の視点で語られる「現在」と葵の視点で語られる「過去」が交差しながら話が進行していきます。
    どんどん作品に吸い込まれていきます。
    二人の友情、対照的な生き方。

    葵が立ち上げた会社の名前、タイトルのつけ方 等 本当にうまいなぁと思います。

    読後感もよくて、自分もがんばろう っと思えます。
    作品を読むことで、自分も少し大人になれたように思いました。

    角田光代氏の「対岸の彼女」を読みました。
    第132回直木賞受賞作品です。
    2人の主人公 小夜子の視点で語られる「現在」と葵の視点で語られる「過去」が交差しながら話が進行していきます。
    どんどん作品に吸い込まれていきます。
    二人の友情、対照的な生き方。

    葵が立ち上げた会社の名前、タイトルのつけ方 等 本当にうまいなぁと思います。

    読後感もよくて、自分もがんばろう っと思えます。
    作品を読むことで、自分も少し大人になれたように思いました。

  • 読み返すのは約10年ぶり。
    思うようにいかない子育てに悩む主婦の小夜子と、起業してバリバリ働く社長の葵。同年齢かつ同大学出身でありながら真逆のような人生を送ってきた二人の、どちらに感情移入しながら読んだのだったか。
    そもそもストーリーも、結末も、読んでどう感じたのかのも、まだブクログを始める前だったから、今となっては記録も何も残っていなくて思い出せない。

    葵の会社である「プラチナ・プラネット」に入社し、理解のない夫や義母からチクチク文句を言われながらお掃除おばさんとして働き始めた小夜子の章と、片田舎の変わらない日常と学校生活に倦みながら生活する女子高生だった頃の葵の章が、入れ替わりながら話はすすんでいく。
    プラチナ・プラネットでは仕事内容をめぐって社員間同士の対立が起こり、次第に小夜子も葵に反発心を抱くようになる。やがて葵の過去も知ることとなり、そしてようやく二人の女性それぞれの時間と人生が交差し始める。

    電子図書館で借りられたからただなんとなく軽い気持ちで読み返しただけだったんだけど、なんか頭をガツンと殴られたような読後感だった。
    だって、真逆にもみえる小夜子と葵は、ほんとうは二人ともおんなじだったんだよ。同じように悩んで、同じように笑って、同じように時間を過ごしてきた。
    川沿いの道、生い茂る夏草、制服の裾をひるがえし、陽の光に髪を輝かせ、何がおかしいのか腰を折って笑い転げながら、川向こうを歩いていく二人の高校生。見たこともない景色の中で、対岸から小夜子が目にしたアオちんとナナコは、たしかな鮮やかさをもって私にも手を振ってくれている。

    **
    バイバイという言葉が、かわらない明日と同義だったころを小夜子は思う。明日また、同じ制服を着た彼女に会える。同じ目線で、同じ言葉で、同じ世界のなかで話すことができる。そう信じていたころ。
    **

    それにしても何も覚えていなかったとは、あぁ10代の私にはこの小説がまだ響かなかったのか。今の私にはこんなに衝撃を与えるのに。
    でも、そのちがいがおもしろい。端的に、大人になったんだ、と実感する。
    早くここじゃない場所へ行きたいと渇望した高校時代から、高速バスで上京して、恋愛してすぐに妊娠して、生活が苦しくて暗い部屋で妊婦時代を過ごして、友達が自由に遊んでいるのを羨ましく思いながら子育てして。その時間のすべてで私は角田光代さんの小説を貪るように読んできた。
    だから、こうして20代も終わりに近づき、生活が安定してようやく自分の人生に余裕と俯瞰が持てるようになってから読み返すと、昔の自分と、視界がよりクリアになった今の自分とが、同時に相対するのが分かる。10年間が立体感を持って現れるのが分かる。楽しかったことも苦しかったこともあったねと、読後感の差異でなつかしいような気持ちと共に成長を感じることができる。
    角田光代さんの小説は私にとってタイムカプセルのようだ。
    なんか銀の月のレビューでも似たようなこと書いたけど、「対岸の彼女」を読み返して改めてそう思った。ほんとうに、私たちは何のために年齢を重ねるんだろうね。その意味がちょっとずつ分かってきた気がする。

  • 子供を保育園に預けて、数年ぶりに働きに出た小夜子。
    苦境の旅行業界で、家事代行の新事業を立ち上げる経営者・葵。
    立場も守るものも違う二人の女性が交わる現在と
    葵の高校時代の記憶が交互に現れる。

    それぞれが苦しい。
    拙い光を頼りに、暗闇を進むしかない。
    そんな時に向けられたほんの小さな棘に気持ちが波立ってしょうがない。
    そんな焦燥感がずっとあって、先を急ぐように一気読み。

    ◉問題はそこなのか感

    文庫後ろのあらすじに
    「結婚する女・しない女・子供を持つ女・もたない女。それだけのことで、なぜ女どうし分かり合えなくなるんだろう」とある。

    これは小夜子と葵という正反対の女性が、最初は信頼関係で結ばれていたはずなのに、それが徐々に崩れていくストーリーを指していると思うんだけど、それって環境の違いが問題なのかとも思う。

    同じように子供を持ち、家庭を支えているママ友グループの信頼関係は強いものであるはず。しかしそうではない。
    物語の中にはママ友同士の陰口のシーンもバッチリ描かれている。

    環境の違いはあくまで一要因でしかない。
    やっぱりどんな人と付き合うか、というところに落ち着くのでは。

    ◉他人と私の間にあるひとつの宇宙

    小夜子と葵について言えば、お互いの考えを話し合っていない事が原因かなぁとぼんやり考える。
    少し違和感を感じた事、思い切りカチンときた事、踏み込んで聞いてみたい事…
    それらをぐっと飲み込んで、嫌味を一言。
    なんだか終盤はそんなやり取りだった気がする。
    物語は小夜子が勇気を見せ、明るい終わりでよかった。

    こういう多視点の小説を読むといつも思うこと。
    私と話しているこの人との間には見えない宇宙が広がっている。それほどに他人とは遠い存在なんだと。

    その一言、その行動に至るまでの
    相手が考える無数のこと
    理由、根拠、経験、記憶
    そのひとつだって、私は知る事ができない
    相手から開示されない限り
    開示されたとして、その言葉を真に理解したかどうか、それすら確かめようがない

    だからこそ、少しでも分かり合えたと感じる時、途方もなく嬉しくなる。
    それがただの一瞬の繋がりだったとしても
    また繋がりたくて誰かを求める。

    そう思える誰かって、そうそう出会えない。
    だから、環境の違いはあれど、そこはコミュニケーションで限界まで頑張ろうよ、という気持ち。

    私は今あなたと分かり合えそうな気がしているので、お互いの違いや嬉しい事、嫌な事はできる限り晒しあって、やっていかない?

    勇気を出して、そう言えたらな。
    あの二人も、これからそうあって欲しいな。



    最後にもやもやポイントです
    ごめんなさい

    この物語を読んで女という性に嫌気がさした。
    まじでこんな陰口とか無視とかハブみたいなことを小学校から高校大学社会人、ママになっても忙しくやっている人たち
    こんな人ばっかりじゃないからねっ!!と通りすがりの誰かにでも掴みかかりたい気分。

    物語のどこにでもそういう人たちがいて、常にチクチクと…読後の明るさより、そっちの嫌な印象の方が強かった。

    あとナナコはもう辛い結末しか予感できず、もうしんどい。これ絶対あかんやつやん、と出会いの直後からずっとずっとしんどい。
    結局真相が何も分からずモヤる。
    葵も、もっと色々つっこんで聞いてほしかった…

    • naonaonao16gさん
      こんにちはー!

      こっち系は探すと結構キリがないくらいあるんだよね~
      わたしまだまだ摂取できる!(笑)

      読んだらまたアップします!
      こんにちはー!

      こっち系は探すと結構キリがないくらいあるんだよね~
      わたしまだまだ摂取できる!(笑)

      読んだらまたアップします!
      2021/09/16
    • ミオナさん
      うん、キリがないね笑笑
      あっちもそっちも…
      人間の悩みってほんと人間同士のあれこれに尽きるよね…

      まだ摂取できるんだ笑笑
      さすが!!
      うん、キリがないね笑笑
      あっちもそっちも…
      人間の悩みってほんと人間同士のあれこれに尽きるよね…

      まだ摂取できるんだ笑笑
      さすが!!
      2021/09/16
    • naonaonao16gさん
      読んでる途中に人間関係のストレス重なると地獄だから、その辺は賭け(笑)
      メンタル元気な時じゃないとしんどいけど、メンタル落ちてる時の方が共感...
      読んでる途中に人間関係のストレス重なると地獄だから、その辺は賭け(笑)
      メンタル元気な時じゃないとしんどいけど、メンタル落ちてる時の方が共感できるってとこがムズいね~
      2021/09/16
  • なぜ私たちは年齢を重ねるのか。
    その問いかけにこの本がすべて答えてくれている。
    何かを抱え込んだり、孤独に失望したりしても、扉だけは閉めちゃいけないなぁと実感させてくれる。

  •  「そんなところにあたしの大切なものはないし。」とナナコは言う。「100人の友達を作るよりも一人でいても大丈夫だと思える何かを見つける方が大切」と葵は言う。もちろんひとりになるのが怖いからと、気を遣いながら一緒にいる必要はないと思う。でもその「大切なもの」「一人でいても大丈夫だと思える何か」を一緒に見つめて川岸を一緒に歩いてくれる人は、もちろん多く出なくていいけれど、いてほしいと思う。小夜子と葵の関係がそうなっていくのではないかと思わせる。
     ナナコに会わせてくれたお父さんが背を向けて立っている姿に、ジーンときた。

  • 何のために生きるのか、何に向かって生きるのか。
    いつの時代でも青春とは迷い患う物。
    多くの場合はそれが青春という一時期のものとして経験という名に変わるのだけれどその一時期に何かしらの大きな外圧がかかるとその後の人生が大きく、大抵の場合はマイナスの力が加った方向に変化してしまうのかもしれない。
    不登校となって転校した主人公と彼女のために引っ越しを余儀なくされた親。
    子供の世界に親が入り込みすぎてはいけないという問題に加えて子供のせいで苦境に立たされてしまったと思う親の存在は子供にとってつらい。
    そんな時に人の目など気にせず伸びやかに生きている同級生と出会い救われるがその友人も実は苦しい環境にある事で2人は強く繋がりながらもそれぞれの道を歩んでいく。そこにはやはり大人の目、世間の目、他人の目、それらは子供にとって大きな外圧なのだが、があったのだ。
    この作品を読んで、最近まで放映していたNHKの夜ドラ「わたしの一番最悪なともだち」を連想した。
    自分のありたい人間像を友達に見出し、けれどもそうなれない自分にヤキモキしながら一方では世間に自分をよく見せてうまく世渡りしている自分に嫌気もさすというような話だった。

著者プロフィール

1967年神奈川県生まれ。早稲田大学第一文学部文芸科卒業。90年『幸福な遊戯』で「海燕新人文学賞」を受賞し、デビュー。96年『まどろむ夜のUFO』で、「野間文芸新人賞」、2003年『空中庭園』で「婦人公論文芸賞」、05年『対岸の彼女』で「直木賞」、07年『八日目の蝉』で「中央公論文芸賞」、11年『ツリーハウス』で「伊藤整文学賞」、12年『かなたの子』で「泉鏡花文学賞」、『紙の月』で「柴田錬三郎賞」、14年『私のなかの彼女』で「河合隼雄物語賞」、21年『源氏物語』の完全新訳で「読売文学賞」を受賞する。他の著書に、『月と雷』『坂の途中の家』『銀の夜』『タラント』、エッセイ集『世界は終わりそうにない』『月夜の散歩』等がある。

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