黒衣の宰相 (文春文庫 ひ 15-1)

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (767ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167679194

感想・レビュー・書評

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  • 江戸時代を作った悪い人 崇伝の物語。日本のマキァヴェリ政治家として家康のブレーンになった。こういう悪い人が必要なんだ。


     謎の多い崇伝をかなり具体的に描いている。つまり創作が多いのだろうが、人間臭く描写していて面白い。
     紀香との恋、くのいち霞とのケンカ、天海僧正への妬み、キチンと人間として描いている、これが大事なのである。

    ______
    p67 法論
     崇伝は大徳寺の妙空と法論をかわすことになった。法論なんて大したものではないと崇伝は言う。教義や寺の優劣を弁舌で決するのは間違っている。弁舌が巧い方が勝つだけで、本質的な論戦したことにならない。宗教で優劣を決めようとする行為は間違っている。

    p72 紫衣
     紫衣は五山派の天龍寺と五山派別格の南禅寺にのみ許される法衣だった。

    p74 水
     「作麼生、説破」の内容。妙空曰く「世界の雨粒の数を数えよ」崇伝曰く「水は流れるがまま形を変え、千差万別であるのが本来の姿。物事の一つのカタチに囚われないことこそ諸行無常の本質(ドヤ)」

    p77 自由自在
     禅では自由自在が何よりも尊ばれる。心が一つに囚われず、融通無碍であればいかなる状況であっても適切に応じることができる。それが「無心」であり「石火の機」と呼ばれる境地である。

    p81 沢庵
     但馬国出石に生まれ、勝福寺で出家し修業した。のちの大徳寺の住持になり、三代家光の帰依を受けて品川東海寺をひらいた。

    p89 勝重に誘われて
     家康の臣下である板倉勝重に誘われて家康のことを知る。勝重は三河の地で武家に生まれ、若くして出家した。しかし兄弟が戦死し、跡継ぎがいなくなったので還俗し家康の家臣になった。禅寺で修業したことがあるので崇伝と打ち解けられたという設定。

    p104 信心とは…心理学っぽい
     崇伝はという破れ寺に左遷された。中国に密航しようとした罰がここにきて出た。という設定。
     その破れ寺を再興するために崇伝は嘘をついた。「身代わり阿弥陀」という足利尊氏をすくった尊仏が祀られているというふれこみを撒いて、信者を集めようという作戦である。崇伝さん、これは良いんですか?
     崇伝曰く「謀るのではない。救いを求める者にとっては妄言もまた、真実になるということよ。」きっかけは何でもいい。ポジティヴシンキングになって状況を打開できることが大事なのである。そのキッカケが方便でもいいのだ。

    p171 外交
     崇伝は玄圃霊山の下で外交文書のやり取りを整理する役職に就いた。そのおかげで国際外交のノウハウを得た。これはその後のキリスト禁教令に繋がるのだろう。

    p189 三成のようになってはいけない
     頭がキレすぎる男の常として三成は平素から他人を小馬鹿にし、わずかでも落ち度があるとその者を痛烈に批判せずにはいられない質だった。何事においても妥協せず情け容赦がない。そのため三成は敵が多く、秀吉という後ろ盾を失ってしまっては誰も付いてこなかった。
     いつの世もそうである。日本では上司になれるのは人間関係を円滑にできるやつである。実務派は頭にはなれない。

    p203 家康
     家康は三河国岡崎城主:松平広忠の子として1542年に生まれた。家康の生まれた当時、父:広忠は今川義元と織田信秀という強豪に挟まれた三河を治めていた。
     広忠は今川家の後援を受けて三河を治めていたが、妻の於大の方の実家:水野家がなんと織田方についてしまい家康は3歳にして両親が離婚してしまった。
     そして5歳にして今川家への恭順の証として人質に出される。その途中、かどわかしに遭い織田家に売り飛ばされ、織田家の持つ人質になってしまう。その後、父:広忠も家臣の裏切りで暗殺され、実家を今川義元に接収されてしまう。その後、人質交換で今川家へ回収されるも、今川家の三河統治の道具として扱われ、結局故郷に帰れない屈辱的な日々を駿府の地で過ごした。
     元服した家康は変わらず今川家に良いように扱われ、織田家との小競り合いがあるたびに鉄砲玉として危険な役目を押し付けられた。しかし、家康19歳の時、桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると、混乱に乗じて三河岡崎城を奪還した。そして家康は織田信長と手を結んだ。
     このように若いころに辛酸をなめ続けた家康は我慢強い人間に育った。「無暗に怒らぬこと」それができる人間になった。

    p245 リーフデ号
     リーフデ号が漂着した際に、崇伝は外交官として船長のウィリアム=アダムズと謁見した。

    p247 ヤン=ヨーステン
     リーフデ号に乗船していた砲術師ヤン=ヨーステンは日本の砲術指南役になった。彼は関ヶ原にも従軍した。彼の屋敷は現在の八重洲の地にあった。八重洲は彼の名前から来ている。

    p248 直江状
     会津の上杉景勝の家臣:直江兼続が家康に対して出した宣戦布告状。ここから関ヶ原の戦いへつながる。

    p260 雲はみな
     「雲はみな 払い果てたる 秋風を 松に残して 月を見るかな」家康が関ヶ原の合戦後の処置について歌った歌。晴れ渡る空に浮かぶ月を見るよりも、少し暗い雲がある方が月見には趣がある。もし雲が払われてしまったなら、松の枝越しに眺めるのが良い。
     つまり、敵をすべていなくしてしまうのはかえって危険である。豊臣秀頼を廃絶するのは新たな火種になりうるから、そうべきでないということである。

    p291 高虎
     伊予今治城主の藤堂高虎を家康は迎え入れた。そして伊賀の国を与えた。伊賀の国を与えたというのが彼に対して何を期待しているかが見える。伊賀と言えば忍者だ。

    p313 関白封じ
     関ヶ原後の処置として、家康は豊臣家が関白職を得られないように工作した。一条兼孝を関白に据え、その後は関白職は五摂家持ち回りにした。そのようにして豊臣家の朝廷に対する力を削りに行った。

    p330 崇伝は心からの仏教徒ではない
     え!?崇伝は生きる手立てとして禅門に身を置き、建前上戒律をまもっていた。だから人々が戒律を犯すことに対してそれほど関心はなく、寛容さがあった。
     宗教家でありながら、現実的であったからこそ政治に向いていたのであろう。理想と現実のはざまにいる、それこそ政治家である。

    p336 紫色
     かつて、紫色という色は西洋ではムレックス貝のパープル線から抽出して染色していた。ごく少量しか取れない染料だったため非常に高価だった。紫色が日本にも伝わったが、日本にはパープル線を持つ貝が居なかったので、紫草の根で色を抽出した。植物による染色は何度も染め付ける手間があり、やはりものすごい高価なものだった。
     つまり、紫衣は贅沢の象徴でもあったのだ。

    p341 無駄遣い
     崇伝の本拠である南禅寺は本堂を豊臣家に再建してもらった。これは板倉勝重が崇伝に豊臣家の財力を削るための方策として献言した策である。
     このほかにも、家康は豊臣家に方広寺(秀吉が大仏殿を創建した寺、例の梵鐘の銘文の寺である)の大仏殿再建をすすめた。それもこれも、豊臣家に蔵してある莫大な財宝をすこしでも削るための無駄遣いである。

    p365 乱世こそ悪
     乱世が人を不幸にする。戦う者同士がいかなる大義名分をかざしても、戦で人が傷つき、死んでいくのは動かしがたい事実である。世の中に、賄賂が横行し金まみれの世の中になったとしても、罪なき者が苦しみ死んでいく世の中よりずっといい。

     って崇伝が言ってた。

    p369 駿府
     駿河国の国府(ミヤコ)だから駿府という。温暖な気候で、晩年の家康はここに居を置いた。

    p374 中間地点の駿府
     江戸から京へは12日はかかる。それが駿府なら7日で行ける。家康は実権を譲り、自分が西国に睨みを利かせる存在になったのだ。

    p422 ハニートラップ
     朝廷のドスケベどもを利用して、幕府が朝廷よりも上に立つことを演出した。崇伝は朝廷内の貴族が、しかも天皇の后までもが夜な夜な淫行に更けるという噂を聞いた。媚薬(アヘン)を飲ませたりしてそれに拍車をかけるように仕組んだ。それが後陽成帝の耳に入り、帝は激怒した。当事者はみな打ち首にする勢いだったが、家康がそこで仲介に入った。昔から貴族の下半身事情はひどくて、この度の事件も歴史的に見れば極刑にするほどでもないということにした。
     この計らいに事件の当事者は当然喜び、貴族全体として家康に従う流れができた。それほど貴族は陰奔が横行していたのだろう。それを公に許してくれる家康に感謝しないわけがない。そして天皇はメンツをつぶされてしまった。結果、家康は朝廷の実質的な主導権を得たも同然になった。

    p498 大久保vs本多
     大久保と本多は幕府の重鎮として主導権を争っていた。それに終止符を打ったのは、家康だった。本多の策謀で大久保忠隣に謀反の疑いがあるとして、配流の刑に処した。豊臣家との争いも佳境に入り、自軍の中で重鎮級で抗争があっては一枚岩になって政争に挑めない。それゆえに大久保家を切り捨てたのだ。

    p506 方広寺
     豊臣家の菩提寺の方広寺。ここにはいまでも「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が入った梵鐘がある。見に行こう。

    p528 片桐且元かわいそう
     徳川家に方広寺の梵鐘事件の弁明に来た全権大使の片桐且元は、不憫。
     実質的に徳川が支配する世の中になって、豊臣家がお家取り潰しにならずに生き抜くには徳川家に降るしかない。しかし、淀殿など頑なな派閥もいて、恭順派の且元は苦しい思いをしていた。
     江戸に来た且元はやはり豊臣家を潰さないように譲歩してもらうべく協議に来た。その結果、①大阪城明け渡し②淀殿を人質として差出し③秀頼の江戸参内いずれかを満たせば許すという譲歩案を得られた。
     しかし、これを持ち帰った且元は徳川方に豊臣家を売ったという謂れをつけられてしまった。
     本当に現実が見えていたが故の結果だったのに、裏切り者の汚名を着せられて、不憫である。
     まぁ、いつの世もそういうもんだよね。頭の良いものや、正義の者が報われないのはしょうがない。そういう時は、その場を離れる以外に仕様が無い。

    p552 即行和睦
     大坂冬の陣はもとから大阪城を落とすことに主眼は置かれていなかった。家康の目的はあくまで豊臣家を潰すこと。もし大阪城を落して一度で豊臣家を潰そうものなら時間がかかりすぎる。そのうちに西の毛利、島津、東の上杉など未だ爪を隠している戦国の猛者が隙を狙って攻め込んでくるとも限らない。
     まずは電光石火のごとく攻め込み、相手にすぐ和睦を申し入れる。豊臣家に「家康は本気で御家を潰す気はないカモ…」という隙を作る。だが、この戦いで東西の力の差は歴然になり、次なる戦いでは豊臣家を裏切る者が増えるだろう。外堀をきちんと埋めてから、豊臣家を潰す、家康らしい我慢強さ。

    p568 大筒
     当時の大型砲火は2種類ある。百匁筒(口径40ミリ)までが大筒で、それよりも大きいのが石火矢という。もののけ姫に出たのは石火矢衆だったな。

    p586 家康亡き後
     世の中一番危ういのは、カリスマが没した直後である。秀吉の死後、まさにそうであろう。
     今度は家康である。家康の死後、豊臣家も滅ぼし対外的な敵を失った徳川政権は、内なる戦いが始まる…。

    p621 死者の多い合戦
     大坂夏の陣は日本史上最も多い死者を出した合戦と言われる。大坂方一万七千、徳川方七~八千、両者合わせて二万を優に超える、関ヶ原の戦いをはるかにしのぐ。
     というのも、この合戦は西国大名にとって本当に背水の陣だった。この戦で敗れたら、生き残っても江戸幕府では生きていけない。多くの大名にとって、死に場所になったのである。

    p642 禁中
     公家諸法度の二年後に制定された「禁中並び公家諸法度」は以前の法案に天皇家も適用範囲に加えた。同時に「諸宗諸本山法度」も制定したが、これにより古来から幕府が手を焼いてきた朝廷と寺社、ともに統制下に収めたことになる。
     秀吉の頃は彼の人の好さによってどちらも従えてきたが、徳川の世になって法の下に従えた。
     世の中全体を法治主義に治めたこと、これが家康の大事業の結晶である。
     
    p644 消えた崇伝
     1615年、崇伝は二条城と伏見城で3つの法令(武家諸法度、禁中並び公家諸法度、諸宗諸本山法度)を発してから忽然と姿を消している。崇伝の日記『本光国師日記』もこの頃の記述が抜けている。
     ここでは崇伝が女のもとに走ったとしている。紀香さんのもとへ。

    p655 本多vs土井
     大御所派の本多正信と将軍派の土井利勝の主導権争い。これから始まる、家康の後の内なる戦い。

    p659 天海が鐘銘の犯人
     天海が梵鐘の文字を作ったという噂。鐘銘を考えた清韓上人は事前に天海に完成品を観てもらった。もとは「国家安泰」だったが「国家安康」に変えたという。
     噂だよ、噂。まさか天海が仕組んだなんてね。

    p678 後藤庄三郎
     徳川家の金庫番であった後藤庄三郎は40代で引退した。金に絡む者は嫌疑を受けやすく、大久保長安もそうだし、この時も庄三郎が秀忠から不正蓄財を疑われて、子の広世に代替わりした。
     庄三郎の子の広世は家康の隠し種である。家康から賜った愛妾の大橋の局は嫁いだころにはすでに孕んでいた。大橋の局は側室:阿茶の連れ子で、つまり家康は血縁はないが、義娘を孕ませたのだ。それを隠すためである。これは暗黙の事実であったらしい。
     徳川の血を引くものを造幣番の跡継ぎに据えれば、自分も助かると踏んだのである。
     家康の時代の終わりの一面。

    p690 上杉謙信大明神
     上杉謙信は、死後謙信の意思により甲冑をつけたまま大きな甕に入れられて居城の春日山城に埋葬された。死してなお、守護神として上杉家を護っていくためである。この遺骨は上杉家の国替えの時も持っていかれて、米沢城に埋められている。
     家康や秀吉はこれに倣ったのだろう。戦国大名は死してなお一門の繁栄の象徴になろうとした。
     戦乱の世に生きたからこそ、象徴という物の必要性、重要性を理解していたのだろう。

    p692 吉田神道
     吉田神道を革新的なものにしたのが室町時代の吉田兼倶という人である。
     足利義政の時代、日野富子に近づいて「天皇家には伊勢神宮という氏神があるが、足利将軍家には氏神が無い。幕府繁栄のために吉田神社を氏神にしては」と取り入った。兼倶は天照大神や八幡神を「大元尊神」として唯一神に集約し「吉田神社の大元尊神を拝めばすべての神を詣でたのと同じだけの霊験がある。」と喧伝した。
     この画期的な宗教は人気を集め、幕府も氏神にちょうど良いとして日野富子は将軍義政に氏神として認めさせた。ここから始まり、吉田神道は武家の神様として、豊臣秀吉の時代まで慣例的に崇められてきた。
     それゆえに秀吉は死後、大明神になった。
     これに倣って家康も吉田神道で葬儀を行うようになったが、これに異を唱えたのが僧正天海であった。天海は家康を、比叡山の守護神の日吉山王権現と同様の山王一実神道によって祀るのが本当の遺言だと主張した。
     結果、家康は秀吉同様の大明神でなく、大権現として神になった。

    p719 かま風呂
     洛北 八瀬の里の名物かま風呂。古く壬申の乱で矢傷を受けた大海人皇子もここで傷を癒したという。へぇ。

    p740 沢庵の喧嘩の振り方
     崇伝も認める沢庵の喧嘩のふっかけ方。
     紫衣事件で沢庵は公然と幕府に反旗を翻した。ただ、沢庵は個人的な喧嘩はしない。パフォーマンスによって世論を獲得してから勝負を挑む。
     個人で権力に挑んでも事実が公に出る前に握り唾される。しかし、世間を味方に付ければ権力者も簡単に隠蔽ができなくなる。この時、沢庵は「紫衣の権剥奪」について抗議はせず、ためらいなく紫衣を頂戴して堂々と規則違反をして見せた。事態を大問題にすることで、世論を巻き込んだのである。世論は常にどこか政権に反感がある。それをうまく煽れば、政権もすべて思い通りというわけにはいかなくなる。
     
     ここで学ぶ喧嘩のふっかけ方、正義を作る、喧嘩は自分一人の者ではなく世論ということにする。責任の希釈と、敵を社会悪に仕立てることがポイントである。
     あれ?これってよく女の子がやるやーつ??

    p755 崇伝の目指した国家
     「戦無き法治国家」これが目指したものであろう。
     大きなことを成すには悪者が必要である。崇伝はまさに江戸幕府を作った悪者である。
    ______



     天海が悪く書いてある。たしかに天海は加持祈祷を扱う胡散臭い人という評価もある。しかし、本気で胡散臭い人間はいないと思う。
     何らかの理由があって仮面をかぶるのが人間である。天海は…。
     堀和久さんの天海の小説を読む限りでは、あの人はいい人だった。崇伝がリアルの人間なら、天海がアイディアルの人間である。崇伝とは逆にあくまで宗教家としてのスタンスを貫いたのが天海である。物事は中庸が大事である。家康はそれがわかっていた。
     仕事のできる崇伝一人に任せていては、確かなシステムを作るだろうが、敵をたくさん作ってしまうだろう。バランスを取るために家康は天海を用意したのだろう。そうだとしたら家康の計算高さは本当にすごい。

  • 歴史小説は初めて読んだけどロマンを感じた。

  • 黒衣の宰相と呼ばれた金地院崇伝。名門一色氏の血筋を引きながらも、室町幕府衰退もあり南禅寺に入らざるを得なかった。
    僧侶でありながらも、政治に深くかかわり、天満外道と言われる。悪名を一手に引き受け、徳川家康の天下を万全なものにした手腕は見事であり、ある意味大変魅力的である。

  • 2016/10/30完讀

    一直很喜歡金地院這間寺廟因而借了這本書來看。寫崇傳是一色家後裔,自小懷抱著學問出世的野望想渡唐失敗(但因此認識了一生的愛,紀香),但是因為在末寺經營(打廣告)出色,升為西堂,之後隨長老參加外交國事被拔擢為南禪寺住持,建立塔頭金地院。關原戰後,協助德川家斡旋大內以便受封將軍,進而成為家康重要幕僚,與天海並立為黑衣宰相;為了建立太平之世這個目標,不惜讓自己沾黑雙手,也失去好友六彌太。然而在方廣寺鐘銘、豐家滅亡,諸法度也制定完畢,才願意面對自己和紀香之間的情感,與紀香一起度過她最後的日子(雖然和紀香這一段故事虛構感很強烈,但是看到這一段我要成為你的眼的日子還是很感動....)。後來雖然在家康下葬儀式中和天海爭鬥敗北,但之後又重新站起來,回到政治舞台。

    舞台在麵包之都,洛陽大寺一一登場果然是真的很有臨場感,紫衣事件描繪出五山派和林下大德寺、妙心寺派的衝突,還有終身的對手澤庵(最後露出真面目:不用弄髒自己,也有賺取名利的方式),這一切的描寫相當符合我的期待。另外崇傳的人物像寫得相當貫徹一致,並無任何違和感,造型的安定性讓這本書相當有說服力,比起澤庵,反而崇傳的悲劇性更令人有共鳴。作者個人虛構的部分雖然還是感覺得出來,但是最後陪伴紀香那一段寫得很令人動容。家康在夏之陣後引退後的耄耋,這倒是第一次看到這樣的內容,天海僧正好像真的是光秀(希望是)。

    一本規規矩矩,但其實細看內容寫得相當有說服力的大部頭傳記小說,如此安定成熟的寫作感,顯然是上一本加藤氏所缺乏的感覺吧。

  • 兵乱の世を終わらせ民に安寧をもたらすためには強固な統一政権をうち立てねばならない、秀吉無き後、それができるのは家康を置いて他は無い。
    徳川の世を盤石にすることがすなわち国全体の平和につながる。この大目標の為にはあらゆる誹謗中傷も厭わない。
    崇伝の生きざまはいわゆるお坊さんのイメージとは真逆のもので、真のエリートという印象。
    好き嫌いはともかく、徳川270年の平和は天海による江戸の呪術的防御などではなく、崇伝が実務的に深くかかわり築いた幕府の政権基盤の強固さによるものなんだろう。。
    長編だが、だれるところなく面白く読み進められた。

  • 名門一色氏の血を引きながら、僧侶として、徳川家康の下で、外交に政治に活躍した以心崇伝(金地院崇伝)が主人公です。

    崇伝は僧侶でありながら、家康の参謀として、政治に参画したことから、南光坊天海とともに、黒衣の宰相と呼ばれました。

    この本では崇伝が南禅寺で修行しているころから、崇伝が死ぬまでを描いており、時代的には豊臣秀吉時代の末期から、徳川秀忠の死後あたりまでとなっている。

    崇伝については、方広寺の国家安康の言いがかりをつけたぐらいしか知りませんでしたが、この本を通して、外国との外交文書の策定などの外交面での活躍と、武家諸法度や禁中並公家諸法度などの法令を作った政治面での活躍があったことがわかりました。

    一方で、単に家康の参謀としての活躍、ということだけでなく、争いのない国家を作るために、自分が悪者になっても構わない、俗世に身を寄せるからこそ、多くの人が救われる、という強い信念を持って、自ら修羅の道を選んで歩き進んだ様子がすさまじいものがありました。

    ↓ ブログも書いています。
    http://fuji2000.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-d12a.html

  • 徳川家康の右腕となり、黒衣の宰相と呼ばれた金地院崇伝の物語である。崇伝は京都の名刹、瑞竜山南禅寺の禅僧であった。崇伝は武門有数の名家に生まれた。室町幕府で四職と呼ばれた名門、赤松、一色、京極、山名のうち、一色の血を引いている。しかし、室町幕府の衰退に伴い、名門一色氏も昔の力を失った。崇伝の父、一色秀勝は、室町幕府の最後の将軍、足利義昭に仕えていたが、義昭が織田信長と対立し、京を追われて室町幕府は滅び、崇伝の父、秀勝もまた、京から逃亡した。崇伝は、当時5歳であり、南禅寺に入ったのはこの時である。

    いかに名家であっても、過去の権威にすがっていては、厳しい戦国の世を生き抜くことは出来ない。崇伝の青春期、世の中は、信長から秀吉に移り、覇業は固まりつつあった。これからの世の中で、力とはすなわち智恵だ。日本一の学生となり、学をもって世に出る、それが若き崇伝の志であった。

    崇伝は、その志を胸に、学に打ち込み、学識が高く買われて、若くして南禅寺の中枢にのし上がってくる。当時の南禅寺の長老に玄圃霊三がいたが、その下で海外の国々との文書のやり取りに携わるようになる。そんな中で、秀吉の外交を知り、遠からず豊臣政権は潰れるのではないかと読んだ。将来への展望の無い外征を行い、いたずらに国力を浪費する政権に未来は無い。

    そのような折、徳川家康の側近の板倉勝重に見初められ、家康配下に誘いが来るが、今は自分の能力を高める時期だと考え、その誘いを拒み、一心に外交について学ぶ。

    しかし、秀吉が他界するに伴い、外交も家康が差配するようになり、玄圃も家康に仕えようとするが、老齢ということもあり、崇伝にその役が回ってきた。世に出るまたとないチャンスを活かし、満を持して崇伝は登場する。

    崇伝はその後、オランダ国籍のリーフデ号の漂着の処理をしたり、徳川幕府の開設のため、京の公家に働きかけをしたり、その才を如何なく発揮する。それが認められ、崇伝は若干37歳という若さで、南禅寺の住職となり、自分の塔頭として金地院を持つことになった。

    その後も、崇伝は家康を陰で支え、影がゆえに、世の中からは陰口をたたかれた。それは、京での公家への締め付けや、切支丹禁教令や伴天連追放令の発布も大きく影響しているだろう。大名の生き死には崇伝の胸三寸にあるとまで言われた。

    崇伝が悪と言われることに、豊臣を葬ったことがあげられるだろう。例の、方広寺の梵鐘事件がそれである。国家安康、君臣豊楽の文字を家康という文字を分断し、豊臣楽しむとあると解釈し、豊臣の呪詛・謀反を言い立て、わざと戦がはじまるように仕向けたことだ。ただ、それは単に豊臣を葬るだけの目的ではなく、崇伝は大きな志があった。泰平の世を築くため、戦になる不安の種は根絶やしにし、天下のおおもととなる規範を作ることだ。武家の有りようを定める、武家諸法度、天皇・公家の行動規範を記した禁中並公家諸法度により公家の政治介入を阻止しいたずらな世の混乱を避け、諸宗諸本山法度により諸宗の本山の上に幕府の寺社奉行が君臨し、その命令が末寺まで及ぶようにし、寺社勢力の台頭による世の乱れを阻止した。これにより、信長でさえ手を焼いた中世以来の権威である、朝廷、寺社は完全に幕府の統制下におかれた。秀吉のカリスマ性に頼った豊臣政権の失敗に学び、個人のカリスマ性ではなく、”法”によって統制される法治国家作りをめざした。定まった法があることにより秩序が保たれ、国は国として成り立ってゆく。崇伝は、一つの国の形を作り上げたといってよい。

    著書の中では、ところどころで沢庵との絡みがある。崇伝は沢庵のような人の欲望を忌避するのは違うと主張する。そもそも人というものは善と悪のないまぜによって成り立っている。この世の中も、善と悪が交じり合いながら進んでゆくものだ。何かを成そうと思えば必ず手は汚れる。汚れねば何も成せぬ。それを修羅の道と呼ぶならそれでよく、自分はその道を歩み、天下に争いの無い世を築くのだと。常に泥水をかぶらぬ所に身をおいてきた沢庵のような男に負けるわけにはいかないと、会うたびに感じるのであった。内乱の世に再び逆戻りさせぬように、幕府の法が絶対であることを天下万民に示すため、自分は一切の情を押し殺し、天下の秩序を築くのだと。そんな崇伝は徳川300年の泰平の世を築き、65歳で亡くなった。近年では、そんな徳川300年の泰平の世を、パクス・トクガワーナ(徳川の平和)と称され、海外の研究者の間で評価が高まっている。

  • 家康の知恵袋の一人である金地院崇伝が主人公の本です。
    徳川家康が、天下取りに動いていく中で、自らの野望のために冷酷になっていく男の生き方が書かれています。
    方広寺鐘銘事件で有名な人物ですが、一色家の出だとは初めて知りました。

  • 最初にあとがきの金地院の木像の話を読んで興味が湧き、購入。謎の多い人物をフィクションを混ぜながら爽やかに描いている。また著者の家康の描き方も相変わらずうまい。

  • 野心のあるオトコは魅力的である。

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著者プロフィール

作家

「2017年 『左近(下)』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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