被差別部落の民俗と芸能 日本民衆文化の原郷 (文春文庫 お 34-2)
- 文藝春秋 (2006年2月10日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (307ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167679750
感想・レビュー・書評
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民衆芸能を通じて、客人としての畏敬と異人としての侮蔑、祝言人としての歓待と乞食人としての賤視
視線は立ち位置によって変わり立ち位置は歴史によって変わる
それを知ったうえで、見で考えることが重要詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
沖浦さんの「視点」、いや「まなざし」が好きだ。
決して鳥瞰的な位置ではなく
ちゃんと実際に暮らしておられる人物(古老)に
きちんと向き合って
(たぶん)一緒にお茶でも飲みながら
とてつもなく 厳しかったであろう話を
それでも 生きて行かなくてはならなかった話を
聞き取り きちんと後世に伝えるべき「学問」
として 遺しておられる
その 仕事には 本当に感服する
以前、しまなみ街道の大三島にある大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に寄ることがあった。
そこにある「国宝館」には源平の戦いのころからの勧進された長刀や鎧や刀が数多く展示されていたのであるが
それを作った「人」のことはどこにも説明がなかった
そのときも「その作り手」のことがずっと気にかかっていた
沖浦さんの著作を読むたびに
そのときの気持ちを思いだしてしまう -
春駒、鵜飼などの伝承芸能へのフィールドワークがただの一度だけでなく、歳月の経過と共に語れて、その分、生生しく、その後に曰く言い難いあわれがこみ上げる。
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古本で購入。
著者は主に近畿から西にある歴史的由緒を持つ被差別部落を訪れ、古老からの聞取りや芸能・技術の見聞によって調査を行ってきた。
その目的は、
①各地方の被差別部落の起源を探ること
②民俗史、産業史、宗教史、芸能史の視座から、その部落形成の根となり、村の生活の基盤となってきたものを明らかにすること
③さまざまの差別と抑圧に苦しみながら、そこに住んできた人たちは、どのような仕事と生活によって、今日まで生き抜いてきたのか
を、自分の目で確かめることだそうだ。
そうした中から、本書では和歌山・湯浅の春駒、鳥取・円通寺のデコ舞わし、広島・三次の鵜飼について、その歴史的背景と今に生きる人々を描く。
読んでいて興味深いのは、老人たちがこれらの芸能を生活の糧を得るために行っていた時代を、「古きよき」というように懐かしげに著者に話す様子だ。
「皆が同じように貧乏をしていたから収入は平等に分けた」
「おめでたいと喜ばれるからこちらもつい勇んでしまう」
苦しかった仕事と生活に、愛着と誇りを持っている。
今よりも社会に露骨な差別があった時代を見るとき、「当時の部落は悲惨だった、暗黒だった」と言うのは、実情を知らない外の人間なんだろう。過酷な差別と貧窮の中でも、人間同士の助け合いと懸命に生きる人々の生があった。
周縁・底辺に置かれながら、新しい何物かを生み出すエネルギーを潜めた被差別民の歴史を、著者は「豊饒な闇」と表現する。
いつの時代においても、産業・交通・民間信仰などの諸領域を下支えしたのは紛れもなく彼ら被差別民であったという視点は、日本の歴史を考える上で必要だ。
80年代生まれで関東生まれの人間には「被差別部落」というのがいまいち実感としてわからない。西日本人とは感覚がだいぶ違うと思う。
ただ、“知らない”だけで、旧被差別部落の土地というのは割とその辺にある。過敏になる必要はないが、まずは“正しく知る”ことが大事なんだろう。
小中学校で行われる、いわゆる「道徳」の同和教育は、情緒的すぎて(あるいはイデオロギー色が強すぎて)逆効果だと僕は思うのだが。
本筋とは関係ない、気になった点。
著者が取材した部落にも、かつてサンカが行商に来たそうだが、ここでも当時を知る古老は「(サンカの)若い娘はみなべっぴんじゃった」と言う。
サンカを知る人々が同じように「サンカの娘は美しかった」というのは何だろう。
遍歴の中で多様な血が入るせいか、あるいは柳田の言った「山人」の血か…
不思議なところだ。 -
賤視されていた職業や芸能についていろいろ書いてあります。