- Amazon.co.jp ・本 (259ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167717735
作品紹介・あらすじ
「バカ組・利口組」に二極化した新しいタイプの階層社会が出現しつつある。そんな格差社会において真に必要な文化資本戦略とは何か?日本の危機を救う「負け犬」論から社内改革の要諦まで、目からウロコの知見を伝授。結婚・離婚・お金・転職の悩み…著者初の人生相談も必見。話題の名著がついに文庫化。
感想・レビュー・書評
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若い世代に向けて書かれたメッセージ。解説本のようである。第3章、街場の常識から現代、日本社会の常識を若者に向けに語っている。常識を説明するのは難しいと思うのだが、本書の内容はよくわかった。
・敬語とは、素の自分をさらさないために、相手をかわすためにある。自分を守るために。
・人間が他の動物とのちがいには、墓を作ることだという。新しい見方である。
・結婚という終わり無き不快。考えてしまう。
・大学について、何のためにあるのか?必要ないかと考えてしまう。社会から求められているものを作らずに、存在意義はあるのか?学生に対するサービスというもの。
・文化資本について考えること。持つものと、持たざるもの。階層が決まっている。それが、金がないためではなく、教養がないことに因を発し。気付いていないとは痛烈。
・随分聞きなれない言い回しが出てくる。一昔前の教養人は、このような表現、常套句を用いたのだろう、自分の不勉強を感じるとともに、良書に触れなければならないことを感じた。
・著者特有の言い回しがあるが受け継がれた思想の表現を変えたものである。
マジョリティ⇔マイノリティ詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
第3回ビブリオバトル発表本
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冒頭の、文化資本の獲得のお話で「ガーン!」と思ってしまった人間の一人です。内田先生のおっしゃることに対して、「むむ、たしかに‥」「そうなのかな?」などなど、色々なことを考えさせてくれる、頭をぐるぐる回転させてくれる一冊です。勝ち負けはわからないけれど、自分を馬鹿と自覚して、私は生きていきます!
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またまた、違った考え方を教えて頂きました。教養って?結婚って?バレンタインって?敬語って?自分が単純に捉えていたものに、スパっと鋭いメスを入れられました。
特にフリーターについては、読んでいてフクザツな気分です。(私自身正社員のみですが)祟りが起こる前に、政治家の皆さんに読んで欲しいと思った部分です。 -
誰もが抱く身近な人生の悩みに内田先生がお答えしますというもの。この人の文章は思いもよらない切り口から論じてるにも関わらず、すんなりと頭に入ってくるというか、腑に落ちる感じがするから好きです。
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「思いもよらない切り口から」
内田センセの本を一杯読んで、モノを見る目を養いたい。違う角度から見るコト、その角度を見つけられるようになるかな...「思いもよらない切り口から」
内田センセの本を一杯読んで、モノを見る目を養いたい。違う角度から見るコト、その角度を見つけられるようになるかなぁ~2012/08/24
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裏っ側も読めるようなヒントたちがあるような。
望んだようになってるんだよって、全部自分のせいで仕舞えるのはいいな。 -
読みやすかったが今ひとつ印象に残らなかった。
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街場シリーズの第一弾。2004年発行。
第一章「文化資本主義の時代」、第二章「勝った負けたと騒ぐんじゃないよ」、第三章「街場の常識」(敬語やお金、転職、結婚、離婚など15のお題に人生相談形式で答える形式)。
本書で特に印象的だったのは、文化資本に関する鋭くも身も蓋もない言説(文化資本の逆説)、そして婚姻制度の根源的意味についての達観。でも異論ありだなぁ。
すなわち、著者は「文化資本を獲得して社会的上昇を遂げようと望む人間が、どれほど禁欲的な努力によって教養やマナーを身につけても、「努力して身につけた」という一点において、その文化資本にははじめから「二流品」というタグが付いてしまっており」、その屈辱を解消するためにこうした「「成り上がり文化貴族」は必ずや勤勉な差別主義者となる」と言う。裏返せば、大人になってからはまった芸事や教養であっても、欲得ずくでなく本当に好きで身につけた教養なら、嫌らしさがないからいいんでしょ!
また、「自分を理解してくれる人間や共感できる人間と愉しく暮らすことを求めるなら、結婚をする必要はない。結婚はそのことのための制度ではない。そうではなくて、理解も共感もできなくても、なお人間は他者と共生できるということを教えるための制度なのである。」と言い切っている。確かに一昔前までの家同士の結婚ならそう言えるのかも知れないけれど、結婚が、理解も共感もできない他人と共生する修行の場だとはなあ! -
著者がいちばん脂の乗っている時期の著作群の一つといえよう。○○とは〜というものである、が冴えていて、今読んでもなるほどが多数。
[more]<blockquote>P34 文化資本を獲得するために努力する、というみぶりそのものが、文化資本の偏在によって階層化された社会では文化的貴族へのドアを閉じてしまうのである。ひどい話だ。「努力したら負け」というのが、このゲームのルールなんだから。
P43 かつてニーチェはこのような「劣等者に対する嫌悪感」のことを「距離のパトス」と呼んだ。「距離のパトス」というのは、「こいつらだけとは一緒にされたくない」という激しい嫌悪感が人間に向上心をもたらすという考え方のことである。
P46 プチ文化資本家は「右手で文化資本をつくり出し左手でそれを拝んでいるのである」
P58 勝ち負けという区分は何の実定的基礎づけもない幻想である。【中略】この勝ち負け幻想は、「私よりいい思いをしている人がいる」という幻想を再生産する。自分の現在の「不幸」を他罰的な文脈で説明してしまう思考、それが「勝ち負け」幻想が再生産し続けるものである。
P83 「敬語」というのは、「自分に災いをもたらすかもしれないもの」権力を持つものと関係しないでは済まされない局面で「身体をよじって」相手からの直接攻撃をやり過ごすための生存戦略のことだ。
P117 知的努力というものは、ワニとアナコンダのどっちがいいかというような不毛な選択に置いて適切な決断を下すためにではなく、「そのような選択にいかにすれば直面しないで済むか」に向けて集中されなければならない。右すればワニ、左すればアナコンダというような分岐点までズルズル引っぱられていく人間というのは、それ以前に置ける重要な決断に置いて繰り返し間違いを犯しており、その精算を迫られているというだけのことである。
P130 「社内改革って可能なんでしょうか」などというのんびりした質問を発しているということは、君にはもう社内改革の主体となる可能性がほとんどないということを意味している。社内改革の運動というものは「もう始まっていて君が既にそれにコミットしておりそれゆえ会社に行くのが大変愉快である」という形でしか存在しない。
P156 恋愛と結婚ではプレイヤーに求められる人間的資質が全く違う。恋愛に必要なのは「快楽を享受し快楽を増進させる能力」であり、結婚に必要なのは「不快に耐え不快を減じる能力」なのである。
P162 死者とだってコミュニケートできる、というのが人間の定義である。【中略】自分を理解してくれる人間や共感できる人間と楽しく暮らすことを求めるなら結婚をする必要はない。結婚はそのようなことのための制度ではない。そうではなくて、理解も共感もできなくても、なお人間は他者と共生できるということを教えるための制度なのである。
P178 男女関係においては、相手の振る舞いに何となく違和感をもたらすような変化を感じた場合に、それをとりあえず「愛情が失われつつあることの予兆」と解釈しておくことのほうが、おそらく人間にとって自然なのである。私たちは愛については、何が起きても穏やかな気持ちでいるより、些細なきっかけで絶望することのほうを好む。とにかく人間というのは「そういうもの」である。
P212 「誰でも資本化」のその時代であるにも関わらず、「資本家」はどうふるまうべきものか、ということについての学的考察だけがずぼっと抜け落ちている。
P216 想像力を発揮するというのは、「奔放な空想を享受すること」ではなく「自分が「奔放な空想」だと思っているものの貧しさと限界を気遣うこと」である。
P223 「倫理的に生きることは長い目で見れば経済合理性に合致している」ということである。共同的に生きていく上で最も合理性の高い生き方を私たちの祖先は「倫理」と名付けた。
P227 マイノリティというのは、言い換えれば「よくわからない人間」のことであり、それを「考慮する」というのは「共感する」でも「理解する」でもなく、よくわからないけれど私はあなたの権利を守るという言葉である。
P231 人間を人間たらしめているのは「世界のすべての人間よりも私は重い責任を負っている」という「有責感の無根拠な過剰」である。
P242 今の若い人たちに欠けているのは「生きる意欲」ではなく実は「死への覚悟」なのである。「生きることの意味」が身にしみないのは「死ぬことの意味」について考える習慣を失ってしまったからである。
</blockquote> -
第9回 他者としての配偶者について
p.162 自分を理解してくれる人間や共感できる人間と愉しく暮らすことを求めるなら、結婚をする必要はない。結婚はそのようなことのための制度ではない。そうではなくて、理解も共感もできなくても、なお人間は他者と共生できるということを教えるための制度なのである。
......「私のことを理解してくれる人たちだけに囲まれて暮らしたい」とあなたはこれでもまだ言い続けるつもりだろうか。それは実は「私は人間を止めたい」「私はサルになりたい」と言っていることに等しいということにまだ気づかないのであろうか。
第15回 想像力と倫理について
p.218 ニーチェによれば、感情移入で基礎づけることができるのは「奴隷道徳」だけである。
それは「他人と同じようにふるまい、同じように感じ、同じように思考し、同じように欲望する」ことがニーチェのいう「畜群」の基本的なマナーだからである。
全員が全員の「身になって考える」ことができる社会とは、言い換えれば、全員がそれぞれの「同類」になっている社会である。みんなのっぺり同じような顔の人間がずらずらと並んでて、おたがいの気持ちが手に取るようにわかる社会。そこならたしかに感情移入は容易であろう。
だが、それをはたして人間が「倫理的に生きている」状態と呼びうるであろうか?
p.223 倫理は合理性の前にあるわけではない。むしろ、倫理にかなった生き方のことを「合理的」と呼ぶのである。......「倫理」とは、「共同体の規範」「人々がともに生きるための条理」のことである。......
...倫理が「非」とするものの中には、「短期的にだけ行われた場合」や「一定数以下の個体しか行わない場合」には、ベネフィットのほうが多いような行動も含まれている。
それゆえ、倫理に対する異議申し立てのほとんどすべては「短期的に見た場合」「自分だけがそれをした場合」には合理性にかなっているから、という論拠に基づいてなされることになる。......
私たちが自分に課すべき倫理的規範はある意味で簡単なものである。
それは社会の全員が「自分みたいな人間」になっても、生きていけるような人間になることである。
p.225 (引用した村上龍のいう)「マイノリティ」というのは、言い換えれば「よく分からない人間」のことであり、それを「考慮する」というのは「共感する」でも「理解する」でもなく、「よく分からない」けれど、「私はあなたの権利を守る」という言葉である。
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