- Amazon.co.jp ・本 (420ページ)
- / ISBN・EAN: 9784167764012
感想・レビュー・書評
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当時学生だった著者が大学のゼミの課題として埴谷雄高に縁のある27人をインタビューして纏めたもの。中には辛辣に否定している人もいる。後年論争を繰り広げた吉本隆明の埴谷像が印象的。肯定し思い入れがあるからこそ批判も生まれる。愛情のようなものを感じた。にわか信者の私のイメージは「崇高で無様なひとだなあ」といったもの。信念を貫き通せば無様にもなる。その無様さこそかっこいいと感じる所以である。次々と同志を失い最後ひとり残された寂寥感はどれほど大きかったことか。(著者同様)私も埴谷雄高の生き方が大好きだ。
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高円寺の古本屋にて、積み上げられた文庫本のなかで目が合ってしまった一冊。木村俊介さんのファンになりました。埴谷雄高さんの本は読了できていないので人柄だけを愉しみつつ。
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作家・埴谷雄高の実像を27名の縁ある人へのインタビューを通して迫った快作。
これだけのものを当時一介の大学生がゼミでやってしまったというところにまず驚いてしまった(勿論指導教官である立花隆のコネもあったのだろうけど)。
埴谷雄高はその作風から気難しい人だと思っていたが、証言によると非常に明るく、若者へも分け隔てなく接していたようだ。
これは意外だった。
「死霊」の解釈もそれぞれ違っており、著書としてバランスが取れていると思った。
小島信夫の距離を置いた立場からの視点が個人的にはベスト。
また近所の人(やもめになった晩年の埴谷氏を介護し、氏から後妻としてプロポーズされた方)が、思想とはいえ奥さんに何度も堕胎させたのは人間として許せなかった、と語っていて、それが何だか思想云々を超えたところにあるような気がした。
生活に密着した身近な人がこのような直截的な言葉を発したことに強烈な印象を受けた。
生誕100周年ということで、今年に入ってから埴谷雄高に関連する著作が次々と出ており、再評価・再検証する気運というは高まっているように感じられる。
このインタビュー集はそのいい掴みではないかと思う。 -
図書館から借りて読んだ鶴見俊輔からの繋がりである。鶴見俊輔はカスタネダ(ちくま)からの繋がり。うん。だんだん分かってきた。この辺の関係が。いいじゃんこっち系も。
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埴谷さんと近代文学創刊の頃からの盟友である本多秋五さんら埴谷さんゆかりの方への著者自身のインタビュー集。
大の甘党の埴谷さんとか寒がりの埴谷さんとか様々な埴谷さんの姿が垣間見ることができる本です。
それから著者である木村さんの人柄なのか、井の頭公園の珈琲屋の店主とのインタビューなどでも、埴谷さんのエピソードを交えながら、珈琲についての店主のこだわりなども紹介されていて思わぬ脱線(?)がまた読ませるんですねぇ。 -
『死霊』は10ページくらいでさじを投げてしまったが、もう一回読んでみようかな、という気にさせられる。そういう意味では下手な批評よりも、読む気にさせるという点では機能していると思う。
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真実は藪の中。さまざまな人が、埴谷豊について語っている。語り手自身がどういう人であるのかをインタビューしているのもおもしろい。自同律の不快を避けるために子を持たない。というのは知っていたけれど、そのために妻を何度も中絶させていたということは知らなかった。それこそそ不快。いよいよ『死霊』を通読してみようかと思った。
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2009年3月21日購入
インタビュー形式のものとしては白眉な本。
埴谷雄高は作品のイメージと人物のイメージが
うまく合っているようないないような
不思議な人である。
冒頭、立花隆の紹介文をうるせえなあ、と思いながら読んだが
紹介文以上の素晴らしい出来である。
インタビュアーがかなりいろいろな話を引き出している。
話そのものについていっていること自体が
すごいなあとおもうことがしばしば。
ちょこちょこっと面白そうな作品名が出てきて
好奇心をくすぐられる。 -
2009/3/10購入?
2009/
序・形而下と形而上のプロフィール(立花隆):
「般若豊」の生活:
なんか笑っちゃう(武田花):
持続(高梨豊):
ウエヤオダカ(松本昌次):
あんな第説教者(笑)になろうとは……(本多秋五):
病気と死(小川国夫):
二重人格(鶴見俊輔):
ドン・キホーテの世代(秋山駿):
観念(瀬戸内寂聴):
動き(島田雅彦):
十代(三田雅彦):
手触り(標交紀):
コンディション(中村真一郎):
最晩年(吉澤和子):
複層(中村明一):
時間の差(黒井千秋):
贅沢(宮田・栄):
自由度(坂本龍一):読了
【感想】
埴谷雄高さんの英訳は出ていないのか。それはなぜなのだろう。僕たちは埴谷雄高という桁外れに変わった人物が日本にいたという事を言いたくてしょうがない、という文には賛成です。十九世紀から二十世紀初頭くらいのドストエフスキー的な課題をひきずって終わりまできちゃった人なんて世界的に見てもいないので、評価されるべきです。
死霊の構成技術は稚拙であるのか。バッハやドストエフスキーみたいに難しい問題を扱っていても一般の人でも鑑賞できてしまうのに対して、埴谷さんは『死霊』を読むとわかると思いますが、読者を楽しませようと思っていないでしょう。だから、技術的に稚拙であると思わせるところがあるのではないか。三島由紀夫は読者に対して、ここでショックを与えようとか、人間をドラマチックに描くところがあるでしょう。しかし、埴谷雄高にはそれがない。
私は子供を他者だと思っているんです、という坂本隆一さんの言葉に私は賛成である。子供は大人の領域に暴力的に入ってくるでしょう。いきなり、ワーッと泣きだす。それにどうつきあっていくか。言葉の通じない他者というもの、これはたとえば人間の外円にある、自然というものを考えてみるとわかりやすい。自然は小さい子供と同じように言葉でコミュニケーションをとることができない。こういうことを埴谷さんは否定的にとらえていたのではないか。
何かを評価する際の基準はなんですか、という質問に坂本隆一は精神の自由度の度数であると答えている。属す共同体からいかに離れるかが大きい。私もこれには賛成です。
大ホラ吹き(笑)ですよね……(飯田善國):
制度内で優れている(山口泉):
詭弁(島尾伸三):
固定(小島信夫):
子供と自然(大庭みなこ):
欠けた部分(司修):
年齢を超えて(中村雄二郎):
特殊(吉本隆明):