武術的立場 身体を通して時代を読む (文春文庫 う 19-8)

  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (314ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167773984

感想・レビュー・書評

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  • 内田先生と武術研究者の甲野先生の対談

    たがいに褒め合いになるところも多かったけれど、やはり面白い。甲野先生が桑田投手のリハビリに一役買っていたことは知らなかった。

    身体のメカニズムはなかなか深遠だと改めて思う。

  • ・人間の言うことって、たいてい矛盾をはらんでいるもので、その矛盾とどう向き合うか、どう考えるかといったことを教育の過程で教えないといけない。当然のことですが、世の中ではマニュアル的に「こういうときはこうしましょう」と教えられないことがたくさんありますからね。

    ・いまのスポーツコーチやトレーナーの人たちと私が大きく違う点は、今のコーチやトレーナーは、「これがいいですよ」と言ってフォームやトレーニングメニューを出すでしょう。でも私の場合は、稽古法は常に仮のもので、その稽古法自体さらに改良しなければならないと思っているということです。その結果として私にスランプはありません。つまり私にスランプがないのは、私自身、自分のやっていることを「いい」と思っていないからです。これは実感です。私ができることは、常に「まだまし」なことであって、決して「これがいい」とは思えないのです。今までやってきたことよりは効果的というだけです。

    ・そうなんですよ。本を読んで感じ取るものって、そこに書いてある「意味」だけじゃない。むしろ、長い期間にわたって読んだ人の中に残って、その人の骨肉に絡みこんでいくようなものって「フィジカル」なもの、ことばの「響き」というか「肌理」というか「手触り」というか、そういう「感覚的なもの」じゃないかと僕も思うんです。
    それは僕がはじめてエマニュエル・レヴィナスの本を読んだ時に感じたことですけれど、レヴィナス先生の書くものはめちゃめちゃむずかしくて何が書いたあるのか、こっちにはまるでわからない。まるでわからないけれど、レヴィナス先生が「僕を読者に想定して書いている」ということだけははっきりと伝わってくる。
     そういうことって、ありますでしょ?どんなに平明な文章で、噛んで含めるように書いてあって、意味はよく理解できるんだけれども、「その文章の読者に自分は含まれていない」という感じがすることって。そういう時の言葉は全部耳を通り過ぎていってしまう。

    ・現代ではそういう理不尽なことがいっぱいある。国をあげて人間の経験による感覚というものを軽視して、なんでも数値化しようとして、その結果、昔では考えられなかった事故や事件に対して「人心が荒廃した」とかいっているわけです。自分たちが人間の感覚を軽視し、人間とは信じるに足りないものだ、という風潮をかそくさせているというバカなことをやっているのだということに気づかないんでしょうね。

    ・若い人たちの着こなしに、「ゆるゆるファッション」ってあるじゃないですか。ズボンをずり下げて、パンツみせて。あれはやってる本人はかなり気持ちが悪いと思うのです。そういう着方をするためにデザインされた服じゃないんですから。でも、気持ちが悪いけれどあえて裾をずるずるひきずって歩いているのは、自分の身体的不快を記号的に道具的に利用して、ある種の社会的メッセージ、不平なり居心地の悪さなり生きづらさなりを表現しているからだと思うんです。自分の身体がこの社会にうまく馴染んでいないということを、ああいうふうにアピールしているんじゃないかな。見苦しいし、本人にとってもかなり不快な身体運用をあえて行うことで社会的な不満を表現する。その「気分の悪さ」は他人にちゃんと伝わるから、その身体の記号的使用はそれなりに有効なわけですよね。「ああ、これで自分の言いたいことは伝わる」と思ったら、それが固着する。身体の自然な構造を壊して、奇妙なしぐさをしたら人々が自分の「生きづらさ」に気づいてくれた。だから、そういう身体運用からもう離れられない。

    ・先日、阪神淡路大震災10年目だったので久しぶりに震災の時のことを思い出しました。まず思い出したのは「そのときの記憶がない」ということです。僕はわりとクールで、天変地異に遭遇しても、あまり動じない方なんですが、地震の翌日、大学に行って自分の部屋を片付けた瞬間に記憶が止まっているんです。それから10日くらいの記憶がごそっと欠落している。たぶん、被災状況を見て、あまりのスケールの大きさに記憶が「仮死状態」になったんじゃないかと思うんです。こんなひどい状況、自分一人ではどうにもならない。うちの大学の被災は、結果的に復興までに50億円、三年半かかったくらいですから、20人や30人の教職員で同行できるような状態じゃなかったのです。それで、どうしたかというと、たぶん僕は被災状況の全体を見るのをやめてしまったんですね。とりあえず足元だけ見て、そこにある瓦礫やガラスのかけらを拾う。そういうことでしか身体が動かないんです。被害の全体を俯瞰すると、自分のやっている仕事が秩序を回復するまでの道程の何憶分の一にしかすぎないことがわかってしまう。それほど無意味な仕事は引き受けられないんですね。
    無力感でへたりこんでしまう。だから、全体を見ることを停止してしまったんです。

    ・もちろん主観的には善意だと思うのですけれど、患者が治ることよりも治らないことからより多くの利益を得る職業であるということは自覚していた方がいいと思うのです。医者も同じですよね。医者は病人が治らないことからより多くの利益を得る。警察も同じで、犯罪者が増えることでその社会的有用性が高まる。どんな職業にも、自分が治癒し解決すべき問題が解決しないことからかえって利益を得るという側面があるんです。

  • 思想家の内田樹と、古武術家の甲野善紀の対談です。

    サブタイトルに「武術的立場」とあるように、武術そのものについて語られているというよりも、武術において最大限に発揮されるような、精神と身体が一体となったしなやかな知性に基づいて、教育や政治などさまざまなテーマについて語られています。

    内田樹や養老孟司といった論者は、これまで多くの著書を通して、悟性的な知の支配に対して、身体知という突破口からの批判をおこなっており、私自身もそこから多くのことを学んできました。しかし、身体知が単なる批判原理にとどまらず、身体知から帰結する思想の具体的内容がベタに語られているのを見ると、どことなく危うさを感じてしまいます。

  • 武術と並行的に仕事・教育・勉学・暮らしについて論及していく対談本。

    内田先生の著作はけっこう好きでして、単著・鼎談モノ含め数冊読んでいます。
    本書は本当に面白い。武道・武術に通じた両氏が対談をする。その構図だけでもうわくわくしますね。

    本の「帯」に“ふたりの達人から人生の基本を学ぶ”と銘打たれています。このお二人からのメッセージは、基本なんて無いに等しいですよということ。本当にそれって基本なのかな?と一旦疑うこと、その知的態度こそが基本なのかもしれない。月並みな表現を使えば「鵜呑みはやめましょうね」ってことだろうか。
    武術・武道なるものがなぜ生まれ、なぜ営まれるかについても感じ取ることができた気がするなあ。体感・体得するには実践しないとならないのだろうけど。

    規矩を見直す。常識だと信じ切っているその自分の常識を疑う。そういうことって、本当に利口な人の習慣なんじゃないかな。周囲にもそういう尊敬すべき人がいますなあ。そして、凡人には思い描くことすらできないことを考えそして、実践している人が達人だったり、更にその上の人(そういう人をどのように表現するか分からないが)なのだろうなあ。

  • 甲野氏との対談での内田氏がいつも以上の鋭い切り口が見られ、対談相手によって響きが変わってくるのが顕著に見られた.
    甲野氏の武術のみにとらわれない愚直な探求の姿勢には驚かされる.
    甲野氏の話を聞いていると、武術が世界に繋がっておりどのような分野のことでも突き詰めれば世界を語る普遍性を見いだせるのだなと思った.(同じ事は本書で甲野氏も述べている)

  • 武術家ふたりによる対談だが、その内容は武道に留まらない。

    「武道家の身体感覚を通してみた世界のありよう」について語っている。なかでも武術とは、「矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う」事、という甲野氏の言葉は深い。武術を極めたものは敏感でありながら驚かない。敏感であるから常にいろいろなことに驚いている。だから新しいことに対して「驚き慣れている」から動じないで受け止められる。

    論は生きのびる力、教育論から社会制度まで幅広く広がるが、身体に染み入るようにその内容を味わうことが出来る。

  • 頭で記憶するだけでなく、身体を使う、単純に考えてみる、疑問に思う感覚が大切だとあらためて考えさせられました。どちらかの二者択一ではなく、両方のバランス感覚をうまく使うことが実は自然だったり、と考えています。

  • 頭をもみほぐした感じ。

    学ぶとは別人になること、
    体を使って考えることの大切さは、私は養老孟司先生から学んだが、
    同じ考え方が随分書かれていた。
    体で学ぶことや、体に耳を傾けることが何なのかについてのヒントが
    散りばめられていて、また次のステップのキッカケになるだろう本。

    これからも続いていく過程の本だったなぁ。

  • 身体で考える2人の興味深い対談。

  • 2010.12月読了。

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著者プロフィール

1949年、東京生まれ。
20代はじめに「人間にとっての自然とは何か」を探究するために武の道へ。
1978年、松聲館道場を設立。
以来、日本古来の武術を伝書と技の両面から独自に研究し、2000年頃から、その成果がスポーツや音楽、介護、ロボット工学などの分野からも関心を持たれるようになり、海外からも指導を依頼されている。
2007年から3年間、神戸女学院大学で客員教授も務めた。
2009年、独立数学者の森田真生氏と「この日の学校」を開講。
現在、夜間飛行からメールマガジン『風の先・風の跡』を発行している。
おもな著書に、『剣の精神誌』(ちくま学芸文庫)、『できない理由は、その頑張りと努力にあった』(聞き手・平尾文氏/PHP研究所)、『ヒモトレ革命』(小関勲氏共著/日貿出版社)、『古の武術に学ぶ無意識のちから』(前野隆司氏共著/ワニブックス)などがある。

「2020年 『巧拙無二 近代職人の道徳と美意識』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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