本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784167801250
みんなの感想まとめ
映画を通じて現代思想を探求する本書は、ハリウッド映画の解釈を通じて、バルトやラカン、フーコーといった思想家の理論を紹介しています。著者の豊富な知識と鋭い分析は、映画を単なるエンターテインメントとして捉...
感想・レビュー・書評
-
西部劇映画で知るアメリカの分断 | 内田 樹 | 昭和大学リカレントカレッジ
https://recurrent.showa-u.ac.jp/course/detail/83/
文春文庫『ハリウッド映画で学べる現代思想 映画の構造分析』内田樹 | 文庫 - 文藝春秋BOOKS
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167801250詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
映画が、見たくなりました。(実際借りてきました)
分かんない言葉は調べつつ読みました。
(なんとか解ったかもしれません)
自分が普段ほとんどしないことをしたくなった、
という意味でとても面白い本でした。 -
全体を通して内田樹氏の映画に関する豊富な知識に感嘆するのみ。しかし、彼の意見に過ぎないような理論が散見されているようにも感じた。とはいえ、ハリウッド映画に通じた米国の女性嫌悪文化など、映画というレンズを介して見る現代社会の思想はとても興味深かった。
-
解説:鈴木晶
-
"映画を構造的に分析、哲学的な解釈をしているのが本書。難しい部分もあるが、ものの捉え方にはいろいろあることが学べる。アメリカ映画の女性嫌いな視点、トラウマをどうやって言語化して形あるものとして、見つめていくか?などをマイケル・ダグラスの映画や「ゴーストバスターズ」から語ってくれる。
映画作りを目指す人、物語を作りだす人などは、自然と意識せずに構造を構築しているのかもしれない。
素晴らしい映画とそうでない映画の違いも比較している。" -
新書文庫
-
映画の構造分析
内田樹13作目
映画について話す前に、人は物語を作る動物であるということを述べる。あらゆることは物語として語られる。ニュースも物語であり、知るということも自分が納得できるような物語を作ることともいえる。
知るということは今まで今がわからなかったことの意味が分かるということであり、意味が分かるということは、断片的なものがある物語の文脈に収まったということである。物語抜きの知は存在しないのである。
そして、人間が作る物語には一定の構造がある。例えば、良い人を語るには悪い人(心のささやき)を語らなければならないということは構造的に不可避である。よって、人は限られた構造の中でしか思考することができないということである。
映画についてバルトのテクスト論を援用すると、映画とは唯一の意味を発する語の連鎖ではなく、多次元的な無数の文化の発信地からなる引用の織物なのである。つまり、映画とは監督が解釈の正解を持っている固定化されたものではなく、観客の様々な解釈の中で生成されていく活動的なものなのである。解釈という作業の中で、作中で提示される意味は重要である。意味には二種類あり、「明確な意味」と「不明確な意味」がある。「明確な意味」は解釈可能性が低く、監督によって提示される解釈と観客による解釈が一致しやすいもの。「不明確な意味」は解釈可能性が無数にあるとともに、解釈可能性がない。どうも腑に落ちない意味である。文脈から明らかに孤立した意味にたいして、観客はうまく解釈することができないものである。バルトは、この「不明確な意味」の中に、一種の開放性と生産性を見出した。それはエンドマークに向かって直線的に収斂していく中央集権的、中枢的、予定調和的な物語の進行に混ざりこみ、それを挫折させようとする脱―中心的、非中枢的なものである。そして、バルトはむしろこの脱中心的なものに対して映画の本質を見出した。ヒッチコックのマクガフィンというものはそれに近い。マクガフィンとは、映画の中で、それが存在すること、それがなんであるかという同定を忌避することで物語の中枢を占め、物語を支配しているものである。マクガフィンは物語の中心ですべての登場人物を強力にコントロールする種は威力を持ちながら、それがなんであるかはわからない、むしろわかることに意味はないという機能する無意味なのである。まさしく「桐島、部活やめるってよ」の桐島はマクガフィンの典型であり、桐島は登場人物を支配しながら、最後まで姿を現さない中心的な無意味なのである。
上記のことが印象に残った。 -
「まえがき」によると、本書はハリウッド映画の解釈を通して、バルトやラカン、フーコーの現代フランス思想を解説した本ということですが、個人的には、精神分析的な観点からの映画の解釈として捉えています。
これまでに読んだ著者の他の著作のなかで語られていた話題とかさなるものも多かったのですが、とくに退屈だとは感じませんでした。むしろ、著者の分析の鋭さの秘訣は、分析道具の豊富さによるのではなく、どちらかといえばすくない道具を自在にあやつるところにあるということに気づかせてくれたという意味で、おもしろく読めました。 -
-
作品批評と言うより、作品を具体例に用いた現代思想学入門書といった様相。
-
本著で取り上げた映画をもう一度観てから、また読んでみたいと思いました。
ほとんど観たことはあったが内容を覚えていないものも多かったので。
■この本を知ったきっかけ
著者のブログで見て。
■読もうと思ったわけ
本屋で見つけて面白そうだったので。 -
日本の平安時代の物語には、殺人がひとつもないんです。【…】殺人なしで物語を構成するというのは大変なことですよ。
-
内田ファンですが、構造主義とかレヴィナスとかは、私には歯が立ちそうもないので手に取ったことはない。でも、この本はもしかしたら、と思って読んでみた。一口、二口ぐらいは噛めたけれど、咀嚼して飲み込む事はできなかった。残念。
興味深く印象に残ったのは(他の歯が立つ本でも読んだ記憶があるが)、アメリカの男はアメリカの女が嫌い、ハリウッド映画は女性嫌悪(ミソジニー)にドライブされている、という指摘。
こういう理屈です。
西部開拓時代の最前線には女性の数が少なかった。男数百に対して女性一人というような集団もあった(レディ・ファーストの起源)。フロンティアの男たちのほとんどは、生涯に娼婦しか知らずに死んだ。フロンティアの死者たちはアメリカ建国の礎を築いた人々で、アメリカは彼らに安らかに眠ってもらわなくてはならない。というのは、人類学が教える事実として、死者を安らかに眠らせるのは生者の重大な仕事であり、死者が「それを聞くと心安らぐような弔いのための物語」を語り継ぐことは、死者が蘇って、生者の世界に災禍をもたらすことを防ぐための人類学的コストだから。「女なんてろくなものじゃない」。これは、生涯ついに女に選ばれることなく死んだ無数の開拓者の墓に向かって、アメリカ人が語り続けている弔辞である。
うなずける理屈ですが、私には、それ以前に、アメリカ映画が女性嫌悪、という部分が、そうなの?という感じ。でも、面白い。なので一応テイク・ノート。 -
サンプルとして取り上げた映画それぞれに主題を見出し、その構造を解説する手法がおもしろい。制作者が意図するとせざるとに関わらず「そう読み解ける」というもの、つまり漠然と感じたことを歴史的背景やジェンダー論、現代思想などで具体的に教示されるのは溜飲の下がるような気分がしてとても爽快。
-
思想理論の「実践」として映画を分析するという趣向のもの。なので単純な映画批評ではなく、理論そのものの説明でもない。そのへんを間違えると「なんだ?」という感じになるのかもしれないが、僕はまさに思想理論の「実践」に関する本を読みたかったので、そういう意味では大当たりだった。
内容としては本書で挙げられているような映画を僕がまったく観ていないということもあって、クリティカルヒットというほどではなく。とはいえ、自分自身が「実践」をするにあたり、参考になることは間違いない。
当たり前の話ではあるが、この本のような分析を見て「いやいや、著者はそんなこと考えていないよwww」とか突っ込むのは方向性を誤っている。肝心なのは、その映画が「そう受け取ることが出来る」という構造をとっているということであり、これは文化に根付く「無意識」を解体しようとする一つの試みなのだろう。それはただ一つの「遊び」にしか過ぎないような気もするのだけど、解釈においていかにその「遊び」がうまく行っているかということは重要なのだ。 -
12/05/29。文庫も。
-
能弁な人がうらやましい。
著者プロフィール
内田樹の作品
本棚登録 :
感想 :
